対局が終わり将棋会館を出たのは午後8時。
完勝した日の夜は目に移る全ての物が美しく光り輝いて見える。
今なら桜ノ宮でイチャイチャしているカップルも幸せな気持ちで見守ることができるに違いない。
俺は充実感と幸福感に満たされて軽やかな足取りで階段を下っていく。
あぁ将棋って素敵っ!!
「お疲れ様。」
将棋会館を出るとそこには絶世の美人(完勝補正無しでも美人)がいた。
普段の俺ならコミュ障を発揮して黙り込むところだが生憎今の俺には完勝補正がかかっている。
今の俺にできないことはないっ!
「清滝桂香さんでしたよね。お久しぶりです。」
「そんなにかしこまらなくていいよ。私たち同い年なんだし、普通に呼んでくれていいよ。」
普段の俺ならry
「じゃあ……久しぶり、清滝さん。」
「うん。それにしても凄かったね。研修会のみんなと見てたんだけどみんなビックリして歓声あげてたよ。」
「そんなに言われたら照れちゃうよ。たまたま攻めが上手く行っただけだから。それに……俺の欲しい答えは得られなかった。」
意識してしまうことで今まで無理して上げていたテンションが下がってしまう。
桂香はその雰囲気を悟ったのか女神みたいな優しい笑顔になった。
「あんな将棋が指せても君も人間なんだね。ちょっと安心した。」
「安心?」
「角井くんってあんまり他の棋士たちといる姿見ないし、将棋マシーンみたいな人かなって思ってたから。」
将棋マシーン、本当にそんなものになれるのなら今すぐにでもなりたい。
そうすればあの幻影に悩まされることもないはず。
「そんな良いもんじゃないよ。ただコミュ障なだけだよ。」
「そういう人間っぽいところがある方が私は好きだな~。」
体の前で手を重ねてそう笑う桂香さんにドキッとしてしまう。
アカン、この人マジで可愛すぎる。
これ以上桂香さんを見るのは心が危険だと判断した俺はわざとらしく咳き込みながら慌てて目をそらす。
「と、ところで桂香さんは何でここにいるの?もしかして八一くんを待ってる?」
「違うわよ。帰る途中……たまたま角井くんを見つけたから待ってたの。」
普段から対局者の息遣いなどを観察して戦う俺は桂香さんの一瞬の変化に目ざとく気づいてしまった。
桂香さんは何かを隠した。
こういう人の変化に気付けてしまうのはもはや職業病のようなものである。
気付いたところでそれを追求するような度胸は俺にはない。
大体桂香さんも気持ち悪いだろ、大して仲良くもない男に『本音で話して下さい』なんて言っても。
「途中まででも一緒に帰りましょっ。」
桂香さんは話題を変えるように少しトーンを上げた。
「……そうだね。」
俺と桂香さんは横に並んで駅を目指して歩き出した。
しかしここでお互いに重要なことを思い出して立ち止まる。
「そう言えば角井さんってどこに住んでるの?」
「京都の今出川だよ。」
関西将棋会館のあるJR福島駅から桂香さんや八一たちの住んでいる駅に行くには反時計回りの線に乗らなければならない。
一方の俺は時計回りの線に乗って京都に戻る必要がある。
つまり俺たちは……
「……私たち駅までしか一緒じゃないわね。」
「そうだね……。」
会話は途切れ途切れながらも何となく続いていた。
「角井くんは京都の人だったの。どうりで将棋会館で会わないわけね。」
「まぁ京都って言っても万智の住んでる公家の屋敷みたいなところには住んでないから大阪と変わらないよ。」
「そうかなぁ、京都の人からしてみたら大阪なんて泥臭いイメージじゃない?」
「まぁ、それは否定しきれないけど……。」
事実万智は重要な対局に負けた後に帰り道で大阪を通ると、あのはんなりとした声で背筋も凍るような強烈な毒舌を披露する。
「角井くんも対局の時は八一くんとかにはない気品みたいなものが漂ってるしね。」
「気品!?」
「あれ、気付いてなかったの?」
「そりゃ、自分の対局姿勢なんて指してる時は分からないし自分の対局を見返すこともあんまりしないから。」
「お父さんとかもそうなんだけどプロ棋士の人ってみんな終盤戦が白熱してくると駒を強く打ちつけるじゃない。でも角井くんはいつも静かに指してる印象があるよ。」
「確かに言われてみればそうかな……。でも、銀子ちゃんとかもあんまり感情を出さないし、落ち着いた子な印象があるよ。」
俺のその言葉を聞くと桂香さんは突然吹き出した。
そんなにおかしい事言った!?
「ウフフッ。銀子ちゃんが落ち着いた子って……アハハッ。」
桂香さんは腹を抱えて笑い転げている。
その顔はいつもの上品な大人の雰囲気とはかけ離れた無邪気さがあって可愛いと思ってしまう。
「確かによそ行きの銀子ちゃんはそう思うかもしれないけど、実際はそんな事ないわよ。」
「そうなの!?」
あの銀子ちゃんが俺の前で猫をかぶってたと言うのか……信じられない!?
「そうよ。とっても人見知りで天邪鬼でわがままでそして……どうしようもなく一途な子よ。」
そう語る桂香さんの顔は娘を見るように暖かくなっている。
またさっきの無邪気な笑顔とは正反対の姿だ。
将棋会館前で会ってからたった数分の間で色んな顔が見せてくれた桂香さんに心を奪われてしまう。
「どうしたの?」
「い、いや何でもないよ。」
慌てて視線を外す。
桂香さんは不思議そうに頭を傾げたがやがて元に戻って2人で並んで歩いた。
それから程なくして福島駅へと到着した。
「あっ、そうだ。これあげるね。」
桂香さんは小さな紙を俺の手に握らせてくる。
その中には携帯のアドレスらしき文字の羅列が書かれていた。
まさかこれって……。
「私のアドレスだから、後で角井くんのも教えてね。」
「う、うん。わかったよ。」
こ、こんな美人のメールアドレスをゲットできるなんてこんなラッキーな事あって良いのか!?
「また今度会おうね。」
桂香さんは耳元でそう囁くと驚いて固まっている俺を悪戯っぽい笑顔で俺から離れて行った。
本当に今日はいろんな桂香さんを見た気がする……。
4月の夜はまだ予想通りまだ少し肌寒かったが俺の心は不思議と暖かった。
それは将棋に勝てたおかげなのかそれとも隣にいる人のおかげなのかはわからない。
取り敢えず一章は次回で終わりになります。