時系列的には三部と四部の間くらいです。
「……へぇ? 眷属女子みんな赤龍帝ちんの家で暮らしてるの? そんな大人数で狭くないのかにゃん?」
「いえ、みんなで住むって決まった時に、魔王様が家を増築してくださったんです。お城みたいにすっごく大きくなったんですよ」
私と並走しながら、白音はほんの少し上気した顔で気分よさげにそう答えた。
「そうなの」と私の口から出る相槌にも、意識せずともごきげん感が滲み出る。私たちはお互いに、ようやく取り戻した姉妹の間の平穏に感じ入っていた。
照りつける朝の日差しは私たちの中の悪魔の血を焼くけれど、その気怠さすら気にならないほど幸福だ。何年もの間失われていたたわいのない会話は交わせば交わすほど心の渇きが癒えるようで、白音と家族に戻ってはや数日が経っても尚やめる気など欠片も起きず、私たちはランニングの最中ですらひたすらしゃべり続けている。
その過程で飛び出た同棲の話題。驚きと心配がごちゃっと混ざって相槌の後に舌が鈍る。そこに、私たちの一歩後ろを遅れて走るゼノヴィアが、立てた指先に【気】で順に数字を作るという修行をしながら短く息を吐き言った。
「魔王が確か、最近の戦いで眷族同士のスキンシップの重要性に気付いた、だとか言っていたな。特にイッセーの能力アップには重要だから、女子は全員強制的に、と……」
「赤龍帝ちんのためのハーレムってわけ。ハブられた木場とギャスパーはかわいそうねぇ。……でも、自分の妹を下級悪魔のハーレム要員にするなんて、魔王ってば中々いい趣味してるにゃん」
「確かに、部長もあんまり納得はしてなさそうでしたけど……でも一緒に暮らすこと自体はあんまり不満じゃないみたいなんですよね。元々ホームステイって形でアーシア先輩と一緒にイッセー先輩の家で暮らしていましたし。どっちかっていうと、気にしてるのは朱乃さんの存在だと思います。イッセー先輩とのデートがあって以来、朱乃さん、見せつけるみたいにアピールするようになりましたから」
「デート? いつの間にかそんなことまでしてたの? 思春期だにゃん。……まあ、あの娘も結構性欲強そうだし、おかしな話じゃないかしら。赤龍帝ちんは言うまでもないし」
けどデート一回で即恋人。若いからでもあるのだろうけど、さすがにちょっとチョロすぎだ。デート中にそれほど出来事があったのだとしても、主が狙っている男にアピールとは恐れ入る。
とんだ下克上。私が同じ立場なら、とてもそんな真似はできないだろう。
(……いや、わかんないけど)
そういえば、私に恋愛の経験はなかった。猫又の女としてどうせなら強いオスの子供を産みたいという欲求がなくはないけれど、ピトーと出会う前まではとてもそんなことにかまける余裕はなかったし、出会った後も、ピトーの強さを見慣れ過ぎて眼鏡にかなう相手がいなかった。
大抵の男はピトー以下。数少ない例外も、ジジイだったりキワモノだったりで全く興味を引かれない。願わくば、適齢期を過ぎる前にピトー並みに強い男が現れるのを祈るばかりだ。
と、そんな現れるかもわからない相手を夢想しつつ、少なくとも今は理解し難い朱乃の感情を忘れ去った私は、頬に風を感じながらちらりと後ろを振り返った。
【気】の操作をしくじったのか悔しそうに肩を落とすゼノヴィアと、そのさらに後ろ、車二、三台分も空けてヘロヘロになりながら必死に私たちを追いかけて来る赤龍帝を見やりながら、私は呆れ半分の息を吐いた。
「それで、あんなザマでリアス・グレモリーと朱乃の修羅場を治められてるの? 赤龍帝ちんは」
「……ああ、うん。できてはいないな。今朝も寝室で喧嘩している声がしていた。でもイッセー、部長に副部長にアーシアにと、一緒に寝ているんだろう?」
「はぁ、はぁ……え? な、なんだよ、ゼノヴィア。何か言ったか……?」
声が聞こえはしても言ってることは聞き取れなかったらしい。赤龍帝が汗まみれの疲れ切った顔を上げ、聞き返す。親切にもゼノヴィアはスピードを落とし、彼の下まで下がるともう一度同じことを告げたようで、途端に赤龍帝が反応を示した。
気持ちの悪い笑みと一緒に「うへへへ」とだらしなく鼻の下が伸びたのを見るに、彼にとってそれは随分幸せな時間だったようだ。
「……三人もなんて、けだもの」
「へへ……はっ! ち、違うぞ白音ちゃん! いや違わねぇけど……部長たちと一緒に寝たわけじゃないんだよ! 両方の意味で! ……朝起きたら朱乃さんが俺のベッドに入ってきてて、それを、俺を起こしに来てくれた部長とアーシアに見つかったっていうのが実際のあらましで……」
「でもいい思いしてたんでしょ?」
「まあ、そりゃあ……」
白音の軽蔑に下心をしまい込んで訴えたと思いきや、私の一言ですぐに戻ってしまう。馬鹿は死んでも治らない、なんて言うが、彼のスケベも死んだって治らないんだろう。というか実際治らなかったからこうなっているんだけども。
改めてこんなのを好きになってしまったリアス・グレモリーたち三人が悪趣味に思えてくる。こっそり、白音に耳打ちした。
「……白音、あなたは間違ってもあんな性欲魔人に惚れちゃ駄目よ? 経験上、ああいうハーレム志望のヘンタイは女の子を幸せになんてしてくれないんだから。食べ飽きたらすぐに新しいのを仕入れてポイしちゃうのにゃん」
「……食べて、ポイ……。ということは、部長たちも……」
「いやしねぇよそんなこと!! 俺ってそんなに信用ないかなぁ白音ちゃん!?」
「……あるわけないです」
かつてのハンターの仕事で見聞きした出来事を思い出す私の言葉には、それなりの真実味が混ざり込んでいたんだろう。赤龍帝は必死な様子で否定して、一方白音は求められた弁護をばっさり切り捨てる。
肩を落として項垂れる赤龍帝。否定の時の彼の汗が飛んだのか、ゼノヴィアがその傍で嫌そうな顔をした。
「……信用があると思っていたことが驚きだ。私には愛だの恋だのはよくわからんが、しかしそれでもお前が節操なしだということは理解できるぞ? 【
「そ、そんなこと言ったって……だって、男の
「……やはり、私には君の言っていることがさっぱりわからん。信仰のことなら人よりは理解できる自信があったんだが……」
「ただのヘンタイの戯言にゃん。無視無視」
首を正面に戻す。見れば周囲の風景は、いつの間にかゴールの近くのそれになっていた。つまり赤龍帝の家に近い。ようやく覚え始めたこの街の地図からして、このままの速度で行けばあと数分で今朝のランニングは終了といったところか。
スパートをかける頃合い。私は白音に目配せし、走る脚をさらに早めた。
いや、早める直前だった。赤龍帝がキャンキャン吠えた。
「ヘンタイとかじゃねぇから! 普通だから、男っていうかそもそも人間として! なんだよウタ、自分だけすまし顔しやがって……」
遅れて私の台詞に反応して、恨めしげ、というよりは羨ましげな声色。詰られるむしゃくしゃを発散するその口から、ため息と一緒に呟きがポロリと零れた。
「ウタだって、フェルさんと一緒に暮らしてるんだろ? あのエッチな身体を毎日好き放題なんて……それこそヘンタイの所業だろ……」
「………」
脚は速度を変えずに走り続ける。四人分の走る足音とどこからか鳥の鳴き声だけが場を満たして、しばらく言葉は発せられなかった。
代わりに白音が困ったように苦笑いする。その顔を見て、困惑のあまりに固まった私の脳味噌も、軋みながらも遅れて活動を再開した。
「……えっ?」
ただし出てきたのはそんな疑問符が一つ。赤龍帝の捨て台詞を翻訳し、理解するのには時間が必要だった。
曰く、彼はつまり要するに、私がピトーと
「えっ? な、なんでそうなるのよ!?」
「な、なんでってなんだよ? だってあんたら、五年近く前からずっと一緒にいるって話だし、それにどう見たって仕事仲間とか友達とかのレベルじゃないくらいに仲がいいじゃんか。毎夜ゆりゆりしてるんだろ?」
「うむ、近頃は同性のカップルというのも珍しくないからな。カトリック教徒的には祝福すべきかどうかわからないが……あ、今は悪魔だし、どのみちいいのか。今更だが、おめでとうウタさん」
慌てて再び振り返ると、まるでそれが一般常識か何かであると言わんばかりの顔で、私の驚愕と困惑に、赤龍帝は目をぱちくりさせる。さらにはゼノヴィアも難し気にしていた顔を頓珍漢なことを言ってほころばせ、微笑んできた。
どうやらその風聞はゼノヴィアの中でも信じられているものらしい。そして白音の反応から察するに、この二人の間だけでの認識ではなさそうだ。
どうしてそんなことになっているんだろうか。
まず第一、私とピトーは全くそんな関係ではない。彼女と私は家族の関係でありたいと思ってはいるが、それは別に恋人なんていう浮ついたものではないのだ。私自身、そういう眼で彼女を見たことも、想いを抱いたことも今までなく、そしてそれは彼女もそうだろう。恋人なんて、ピトーにとっては家族よりも理解が難しい概念であるはずだ。
にも拘らず、いつの間にか形成されて広まっていたその認識。しかも“毎夜ゆりゆり”って……私がピトーと、ベッドの上でそういう甘ったるい行為を繰り返していたと――
「いやない! ないから私とピ……フェルにはそういうの! 別に恋人とかじゃないったら!」
顔が真っ赤に熱くなるのが自覚できた。とめどなく昇っていくのは羞恥の感情だ。それだけだ。心臓がうるさいのだってびっくりしただけ。
「……そうなのか?」
「いやいや、照れ隠しってやつだろ。けど……残念だったなウタ、もう遅い! お前も俺と同じ、エロ魔人と呼ばれるまでに堕ちて――ほぐぅっ!?」
全く違う。照れ隠しでも、ヘンタイブーメランが怖いのでもない。すべからくが間違いだ。
だけどそれはそれとして手が出てしまった。一瞬で反転した身体が赤龍帝のお腹に掌底を食らわすと、仙術を以てしてその意識を刈り取った。倒れ込むその身体を肩に担ぎ、ついでに眼をやったゼノヴィアには彼女の両手で口を塞がせる。
何も言わないと、こくこく頷かせた私は踵を返し、赤龍帝がいない分、今までの三割増しの速度で道を駆けていった。
するとほどなく、ゴール地点の赤龍帝の家が見えてくる。それは白音の言う通り、ほとんど城に等しい大きさだ。立ち退きやら何やらが合法的に行われたことを願わずにはいられないほどの土地を使い、日照権の侵害で訴えられるんじゃないかと危惧しそうなほどの、住宅街には似つかわしくない建造物。
あわせて広いその庭の出入り口に、赤龍帝の母親の姿が見えていた。彼女は少し遅れて私たちの存在に気付き、次いで私が背負う赤龍帝にも気付いて、お帰りなさいと振りかけた手で口を覆い、あらあらと苦笑する。私はそれに頬の熱を残したまま会釈で返し、そしてやがて、その元までたどり着いて脚を止めた。
「ああもうこの子ったら……またトレーニングの途中でへばっちゃったの? ごめんなさいね、ええっと……ウタさん、でいいのよね? フェルさんと一緒にうちの子たちの部の外部顧問をしてくださってるっていう……」
「あー……うん、そう。ちょっと飛ばし過ぎちゃって、ダウンしちゃったの」
少し遅れて到着した白音とゼノヴィアに眼で改めて釘を刺しつつ、私は赤龍帝を彼女に任せた。ついでに仙術で軽く気付けし、おかげで僅かに意識を取り戻した赤龍帝は母親の肩を借りて立つ。
とにかく、超常の世界とは無関係の彼女にとって、私とピトーはただの指導員。ヘンなものを見せるわけにはいかない。回復させざるを得なかったことについてはその理屈で手を打って、私は次いで、外部顧問らしく後ろの二人に振り返って告げた。
「それじゃ、今朝はここまでね。残りは放課後、いつもの時間に」
「あ、そのことなんだけど――」
と、返ってくる返事。それは白音のものでもゼノヴィアのものでもなかった。
視線を戻すと赤龍帝の家の側、その庭を、こっちに向かって歩いてくるピトーの姿がそこにあった。
ドクン。と、振り払ったはずのさっきの羞恥心が蘇ってきた。不埒な想像が頭をよぎる。思わず眼を逸らしてしまったけど、鋭いピトーにしては珍しいことに気付かれることはなかったようで、変わらずいつも通りに、世間話をするようなトーンが続いた。
「今日の修行、休みにしない? ちょっと他にやりたいことがあるんだよね」
「や、やりたいこと……?」
妙なことを考えてしまっていることがバレないうちにと、なんとか視線を持ち上げて言う。けれど目にしたピトーの眼は、もうすでに白音とゼノヴィアに向いていた。
求めた同意は二人に少しの疑念を与えたが、しかし連ねた事実に問題なく二人は頷く。
「赤髪にはもう言っておいたよ。ついでにハンゾーにも。だから、いい?」
「まあ我が儘を言える立場でもないし、私は構わないが……」
「……私も、大丈夫です」
白音は少し残念そうだったが、額の汗をぬぐいつつ了承した。対してゼノヴィア、好奇心が続けて問う。
「で……どういう用事なんだ? フェルさんがそんなことを言うなんて、今までなかっただろう?」
「……つい今さっき、決めたからにゃ」
僅かに躊躇うような間があった。ピトーの眉が少しだけ下がる。
だが反対に、その時偶然私が眼にした赤龍帝の母親の顔には、にやにやと生暖かい笑みが浮かんでいた。
「ねえ、ウタ」
ピトーが私を見る。何かを決意したような真剣な眼差し。
そして、言った。
「デート、してみにゃい?」
「……えっ?」
さっきよりも、私の頭が正気を取り戻すのは遅かった。
薄暗い館内、正面の大きなスクリーンではムーディーなBGMをバックに、今人気だという恋愛映画が佳境に差し掛かっている。大人向けという触れ込みの通り、ねちっこくて少しエッチなキスシーンだ。
まあ言うまでもなく、そんな直接的な表現は、ピトーに連れられるままこの映画館の席に座らせられた私の心に盛大な感情の嵐を吹き荒れさせてしまっていた。
(え、きす、でーと、わたしが、ピトーと……?)
画面の中の主人公たちにはそれなりのストーリーと紆余曲折があったはずだけど、正直全く頭に入ってきていない。代わりに繰り返し明滅しているのは、ずっと変わらずあの時のピトーの台詞とその表情。『デート、してみにゃい?』と言った彼女の真摯な様子だけだ。
一緒に聞かされた白音やゼノヴィアは何やら悟り、湧き上がっていたようだったけど、彼女らは赤龍帝共々彼の母親が連れて行ってしまって、挙句その母親が「しっかりね」とサムズアップ。一人置き去りにされた私は何が何やら受け止め切れないままピトー曰くの“デート”に連れ出されて今に至るわけなのだが、その言葉によりもたらされた混乱は映画一本分の時間をおいても尚、収まる様子を見せない。副次効果の妄想で、顔の温度はむしろ上昇する一方だ。
ピトーの言った“デート”とは、いったいどういう意味なんだろう。ピトーは私に“そういう”想いを抱いていたということなのか。
けど、今までそんな気配を感じたことは全くない。なら“デート”とは、私の認識している“デート”とは別の概念であるはずだ。でもでも赤龍帝の母親のあの顔はまるで初々しい初心者カップルを見守るようなものだったし、それにわざわざ一緒に恋愛映画を見るなんていかにもそれっぽい。ピトーには、恋愛映画どころか映画そのものを見る趣味がないはずなのだ。
だからつまり、ピトーが今こうして私と一緒に映画を見ているのは自分ではなく私のため、もっと言えば“デート”のためで、その“デート”とは恋愛映画を見るに適した行為というわけで……。
(あれ……でもそれってやっぱり恋人同士の――いやいやそんなわけが――)
と、思考が終わりのないループに嵌ったまま抜け出せず、私は結局エンドロールが流れるまで、買ったポップコーンにすら手を付けることなく、途方もない宇宙でも見つめているような呆然で、ただただ席に座っていたのだった。
映画が終わり、明るくなった館内で、他の客たちがちらほらと席を立ち始める。私とピトーも半ば機械的にその流れに乗って外に出た。ゴミとして出したポップコーンのおかげで係員に怪訝な顔をされつつ、外の喧騒と空気を吸い込む。
とはいえ今日は平日。人通りはあまりなく、喧騒というほどの騒がしさはない。故に聞こえた。
「……ああいうのが、“恋人”……」
「えっ!?」
そしてピンク色に混乱する頭がつい反応し、声を出してしまう。ピトーも私に言ったつもりではなかったんだろう。キョトンと私を見てくる彼女に、私は若干パニックとなってまくしたてた。
「あっいやまぁ、ひひ、人それぞれだしねああいうのは! 私はどっちかっていうとうじうじするよりさっさとヤってから考えればいいと思――じゃなくて! あの……い、いい映画、だったわね!?」
わけもわからずしゃべったために妙なことまで口走ってしまった。慌てて誤魔化したけど手遅れ感が否めない。
刹那的な快楽主義者であることは自覚があるけれど、何だって自ら喧伝してしまうのか。いやらしい女だと思われてしまったらどうしよう……ではなく! ……いや、ほんとに。そうではなくて……。
内心の感情がぐちゃぐちゃにこんがらがって、それ以上の言い訳が思いつかない。かといって開き直ることもできず、何に怯えているのかすらわからなくなりながら、私は恐る恐るにピトーの様子を伺った。その顔に軽蔑なんかが浮かんではいないかと。
(あ……)
だが目にした彼女の顔には、軽蔑どころか“負”の感情も“正”の感情も存在していなかった。
それを言い表すのなら、無関心。自らが主導しているデートなのに、それ自体に興味が持てないといった表情。
それは浮かれまくった私をあざ笑われたかのように感じてしまい、吹き込んだ冷たい風が頭の熱をふっと奪い去っていった。
「そう。じゃあ次は……ショッピングかにゃ? クロカ、何か欲しいものとかある?」
「……え、えっと……そうね、コカビエルとの戦いでだめになっちゃったし、新しい服が欲しいかにゃん」
聞き届け、ピトーはすぐに映画館に背を向け歩き始めた。いいのか悪いのか、冷静を取り戻した私も黙ってその後に続く。
それからデパートで望み通り服を買い、昼食を食べた後は、私の趣味に合わせてくれたのかゲームセンターで少し遊んだ。映画も併せて、やっぱりそれは私の知るデートだったように思う。けど一旦頭が冷却されれば、さっきまでのむず痒い胸の高鳴りが起こることはなかった。
ピトーに連れられ遊び歩いたそれらはどこか、事務的な作業のようだった。今、買った服やゲームの景品の入った紙袋を提げて歩いているのも、ただの買い物帰りであるように感じてしまう。
淡々とタスクをこなすように巡られるデートコースは、楽しいとは、正直思えない。ピトーはなぜこんなことをしているんだろうという最初の疑問が、冷静な頭に再び浮かんだ。
「……ねえピトー、これって――」
楽しいのかと、前を歩く彼女の背中を見つめたまま呟きかけた。
しかし突然その背が止まる。ぶつかりそうになって、言葉も途中で喉の奥に転げ落ちた。
彼女の隣に出て避けて、どうしたのかと彼女の顔を伺った。
「どうしたの? ピト――」
「静かに」
顔を覗き込もうとした私の身体がピトーの腕に制せられた。その眼はまっすぐ前に警戒心を向けている。それを辿り、私も前に視線をやった。
いつの間にかたどり着いていた繁華街。空に赤みが増し始めて人通りも増えてきた通りの先。
曲がり角から一人、長いひげを生やしたみすぼらしい格好の隻眼のおじいさんが、杖を突いて現れた。彼は、たぶん警戒するピトーに気付いたんだろう。こっちを見やり、次いで好色そうににやりと唇の端を持ち上げた。
「ほぉ、中々のべっぴんが二人も。……そんなに熱烈に見つめられると参ってしまうのう。どうじゃ? 今夜一発、儂と一緒にパーティーせんか?」
どこにでもいるスケベジジイのへたくそなナンパ。そう感じた。別に珍しいことじゃない。私と、特にピトーはパリストンの念能力によって男の目を引きやすく、同じように声をかけられたことも一度や二度じゃない。
だからいまさら目くじらを立てることでもない。はずなのに、
「ぴ……フェル……?」
ピトーはスケベジジイを、本気の【気】で威嚇していた。
私を庇う腕からも伝わってくる。全身に彼女の不気味な【気】が滾り、それは明らかに一般人に向けるべきでない殺気。
なんでそんなことをしているのか、そう思った瞬間、さらにもう一人、人影が角から飛び出してきた。
「オーディン様ッ!!」
長身の銀髪女性。何やら叫んで現れた、と思ったのもつかの間、彼女のその手に魔法陣が現れ、たちまち広がり私たちの周囲を囲った。
その時になって、ようやく私は彼女が人間ではないことに気が付いた。術式からして恐らく北欧、英雄の魂をヴァルハラへと導くという
その身は人ではなく、半神だ。なんでそんな奴が
そして反応する間も身構える間もなかったが、彼女が発動させた魔法陣は人避けの類のものだったようで、周囲を覆って双方の殺気と存在を一般人から隠す。戦う気満々のそれ。ピトーはいよいよ枷を外していつもの不気味な【気】を纏い始め、そしてスケベジジイの前に出て奴を庇うヴァルキリーは、今度こその手に攻撃用の魔法陣を構え、悲愴な表情でピトーを捉えた。
「っ……何者です、あなたたち……!」
「そっちこそ、誰?」
ヴァルキリーのその眼は明らかな恐怖があったが、同時に、例え死ぬとしても命を懸けて背後のスケベジジイを守るという決意があった。
その固い決意は、スケベジジイが彼女が見据えた導くべき英雄だからなのだろうか。とてもそうは見えないけど、しかしともあれやる気であるなら抵抗しないわけにもいかない。ピトーに続いて私も【念】を練り上げた。
やがて、続くにらみ合いに焦ったのか、歯噛みした銀髪女性は魔力を使った。一瞬のうちにさらなる魔法陣を組み立て、自身の背後にそれぞれ展開する。その種類は属性も術式も多種多様。一斉に放てばかなりの威力になるだろう攻撃の、前動作。
それを前にしてようやく私もまともな危機感を抱くに至り、放たれる攻撃を防ぐためにピトーの前に出ようとした。
その直前に、ヴァルキリーに守られていたスケベジジイが、するりと彼女の背を抜け出して、頭にこつんと軽い拳骨を落とした。
「これこれ、やめんかバカモン。全く、喧嘩っ早いやつじゃのう」
「あいたっ! お、オーディン様!? 何をなさるんです!?」
驚きのために集中力が切れたんだろう。展開されていた魔法陣の全てが一瞬にして崩れて消える。彼女は目をぱちくりさせてスケベジジイ、“オーディン様”のほうに振り向き、無防備だった。
ならまた攻撃される前にさっさと無力化を……と、考えたところで、酷く遅くも、私は気が付いた。
(……あれ? オーディンって言って……?)
そういえば、最初にヴァルキリーが現れた時もその名を叫んでいたような気がする。そしてその名の主は私でも知っていた。
北欧神話体系の主神、魔術の神。すなわち、かなり強くて偉いやつ。
顔を見て数秒も経たないうちにナンパしてくるジジイが、神様で、しかも主神?
「……え? ほんとに?」
「本当じゃとも。儂がオーディン、アースガルズで主神をやっとるジジイじゃ。得意分野は魔法魔力にその他術式や結界術。趣味は夜の風呂屋巡り。よろしくの」
ピトーが真に警戒したのは銀髪女性ではなくこっちだったのだ。ネテロを思わせる飄々とした振る舞いは、しかしピトーの殺気を向けられているというのに小動もせず、挙句に握手の手を差し出しこちらに歩み寄り始めた。
ピトーの【気】の圧が大きくなる。私ですら息苦しさを感じるほどのもの。ヴァルキリーはオーディンの態度にあっけに取られていたが、我に返ると慌てて間に割って入って接近を止めた。
邪悪な【気】をより近くで浴びることになり、顔面蒼白だ。
「お、おお、オーディン様っ! 本当に駄目ですこれ以上は! お守りすることができなくなってしまいますっ!」
「守る? 誰が儂を襲うんじゃ? ……ロスヴァイセ、そう心配せんとも、彼女らは敵ではない。ネテロの小僧の周りの者らじゃ。のう、ハンターのフェルとウタよ」
『ネテロの小僧』、神様らしい物言いに奇妙な違和感を抱く。
真っ青なヴァルキリー、ロスヴァイセが私たちをちらりと見て、気を奮い立たせて警戒心を継続した。
「は、ハンター……。し、しかしこの者たちはオーディン様に殺気を向けて――」
だがそれはすぐ、完全に消え去った。
「ああそれは……ホレ、特にこっちのフェルなど色香の塊が如きじゃろ? これほどの女子を前にして口説かんのはむしろ失礼じゃと、こう思っての」
「そっ……それは、つまりいつものオーディン様の女性好きが……。ま、またですか!?」
あっさりと、神にあるまじき行為があったことを信じたロスヴァイセ。自白とはいえ、神様が出合い頭にナンパなんてするはずがない、とはならなかったらしい。前科があるんだろう。それも一度や二度でなく。
彼女は直前までとは別の意味で顔を青くして、弾かれたようにバッと私たちに身体を向けると、そのまま腰を九十度直覚に折り、頭を下げた。
「も、申し訳ありません! こ、ここは我々の勢力圏から外れた悪魔の町ですから、てっきりオーディン様を狙う刺客が現れたのだと……。あの、本当に申し訳ありませんっ!」
「……ふぅん? まあ、戦う気がないっていうなら別にいいにゃ。結局睨み合っただけだしね」
心なし残念そうに呟くピトー。「ほんとに……よかったです……」と胸をなでおろして苦笑いするロスヴァイセは心底の安堵を噛みしめる。
そこに、またオーディンが茶々を入れるように躍り出た。そして、私をニヤニヤと見つめて言った。
「うむ、ではこれで手打ちじゃな。儂も謝っておこう。……連れ合いとの逢引き中にナンパなんぞしてすまなんだな」
連れ合い、“恋人”。逢引き、“デート”。
ピトーの姿を見やる。冷えたはずの頭の中で、またピンク色の熱が爆発した。
「な……!? お……あ……!?」
「……うん?」
ピトーが私を見つめ返して首をかしげている。ぼふっと一瞬で赤熱した私に向ける不思議そうな顔は、私と違ってオーディンの言葉をあっけらかんと受け入れていることの証。
だからピトーにとってもこれは“デート”で、私は“恋人”で――
と、またしても思考が無限ループに陥りそうなことを察知し、私は慌てて首を振ってそれを壊す。乱された頭の中で残った羞恥心がすぐさま私をピトーの顔から逃れさせ、当てつけのようにオーディンに叫ばせた。
「そ、そそそんなことよりっ!! そもそもなんで他所の神がこんなところにいるのよ!? 刺客の心配するくらいなら自分の世界に引きこもってたほうがいいと思うんだけど!!」
「っ! そう、そうなんですハンターさん! 私もそう……思うんですけど、オーディン様が……」
「いやぁ、日本の風呂屋を体験したくなってしまってのう。日本の神々や悪魔陣営との談合、という体を作ってな。ちょっとした旅行よ」
詰問はどうせドキドキうるさい心臓の身代わり。だから別に彼がこの町を訪れた目的なんかに興味はなかったけど、それにしてもな動機。さっきも言っていた風呂屋も、銭湯とかではない方の意なんだろう。そんな目的のために振り回されるロスヴァイセ。不憫だ。おかげで湧く憐れみが、私の中のピンク色を薄れさせてくれる。
ただ、さすがは初対面にセクハラとナンパを繰り出してきたスケベ神。疲れ切った様子で深々ため息を吐くロスヴァイセなど気にもせず、その顔はまた厭らしく、私とピトーに向けられた。
「そういうわけでな、ここらの風呂屋やホテルについては下調べも済んでおる故、儂、ちと詳しいのよ。……もうすぐ夜もふけるじゃろう? もしも逢引きのお楽しみに迷っておるようなら、儂が良い店を教えてやらんでもないぞ?」
銭湯と同様に、ホテルもそのままの意味でないことは明らか。ここまでブレないセクハラの連打には、さすがに羞恥だけに留まらず怒りを通り越した呆れを覚える。
「う……もう、これ、本当にあんたたちの神様なのよね? 北欧神話って大丈夫なの?」
「……お恥ずかしいです」
熱い顔をあおぎながら、ため息と一緒に眉間に寄るしわを取る。ロスヴァイセが、いわば自身の主への誹謗だというのに一切のフォローをせず、項垂れるように顔を覆った。
もう奴は、アーガルズの主神オーディンではなくただのセクハラジジイと捉えるべきなんだろう。少なくともロスヴァイセはそうしているらしい。だから私も、私たちの反応をニヤニヤと待っている奴を前にして、真面目に答える気はきれいさっぱり失せてしまった。
普通、誰しもそういう気になるだろう。ピトーも同様。そう思っていたのだけど。
「案内はいらないにゃ」
いやに真剣に、彼女は首を横に振っていた。硬い表情からセクハラジジイに、そして真に迫った声で言う。
「最後に行くホテルはもう決めてるから」
それは最初に私をデートに誘ってくれた時と同じくらい真剣で、冗談に思える余地はなくて、故に再び、私の思考はどこかに吹っ飛んだ。
「ほぉ……」
「ひゃあ……え、ええと……お、お二人って、本当にそういうご関係だったんですね……!」
ホテルとは、つまるところラブホテル。カップルがエッチな行為をするためのホテルだ。ピトーはどうやら最初から、デートの最後に私をそこに連れ込むつもりだった様子。つまり、彼女はとっくに私と
“デート”とか“恋人”とかでうんうん頭を悩ませていた私の葛藤など、周回遅れも甚だしい。告白やキスなんかもすっ飛ばし、ピトーは――
「は……ふぁ……」
「おっと……ウタ? 大丈夫?」
感情が追い付かなさ過ぎて腰が抜けて、ピトーに支えられた。私の腰、隠した尻尾の付け根近くに触れられて、ゾクゾクと身体の奥底からむず痒い震えが来る。心臓は身体がはち切れるんじゃないかと思うくらいの速さで全身の血液を巡らせて、もうピトーの顔が顎の線すらまともに見られない。
だってもう、そんなの愛の告白みたいじゃないか。
「ほうほうほう……。こりゃあ本格的に儂らはお邪魔じゃな。さっさと退散するぞ、ロスヴァイセ」
「は、はい! ……あの、が、頑張ってくださいっ!」
頑張る……本当にこれから
ピトーを見る目とか女同士だとか、そういうことが噴火の如く頭の中に溢れかえって、そのどれもを処理できないまま、初めての告白に慄く私は、去るオーディンたちに背を向けたピトーの手に引っ張られてデートの続きに連れて行かれた。