主なきノラネコたちの家   作:もちごめさん

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Happy New 令和


五話

 私は、ピトーが傷つく姿を見たくなかったのだ。

 

 何度も何度もネテロに立ち向かい、何度も何度も吹き飛ばされる。顔を歪め、取り乱すほどに追いつめられるその姿を、見ていられなくなった。心が痛んだ。

 

 私のことを脆い玉のように捉えている節があるピトーにとって、私という存在は何としてでも、何をしてでも守らねばならない絶対であり、自身よりも遥かに高い優先度を持つ至上だ。

 

 害されるなどもってのほか。僅かでも怪我を負わせることは疎か、手を煩わせることすら許容できない。彼女の中の私は、何もわからない生まれたての赤子そのものなのだろう。

 

 私はそれが嫌だった。そうであると、他ならぬピトー自身が定めてしまった事こそが、私には受け入れがたいものだったのだ。

 

 ピトーの中の私が無力であるために、当のピトーが苦しんでいる。『私のせい』という自己嫌悪の罪悪感。そんなことを考えたくなかった。

 

 魔力だの遠距離戦だの、迂遠に言い続けたのはそのためだ。とにかくピトーを助けたかった。その身を私の盾にしてほしくなかった。

 

 その時々の心痛を誤魔化すために己の浅ましい性根をひた隠し、私はきれいな字面を取り繕っていた。

 

 『今』を切り抜けるためだけの場当たり的その行為は、つまるところ『逃げ』だ。親切心の裏側から顔を覗かせる『恐れ』を嫌い、しかしどうにもできないから目を逸らすしかない。原因である私自身を認められないのだから当然だろう。

 

 ピトーの苦痛の正体が自分であると思いたくない。その心理の結果が『力』の暴発だ。

 

 たぶん私は、ピト―がネテロに『念』の連撃を浴びせられていたあの時、氷像の行動に啓発されるまでもなく、辺り一面を吹き飛ばすその戦法に気付いていた。

 

 うまくやれば、ピトーが受けるダメージをいくらか減らすことができただろう。暴発させる必要もなく、威力と爆風を制御して効果的にピトーをサポートできたはずだ。

 

 なのに恐れがその発想を掣肘した。ほんの少しのダメージでも、自らの意思でピトーを攻撃することを拒絶した。逃げ出したのだ。私がやらねばピトーが一層のダメージを負ってしまうと、気付いていたはずなのに。

 

 ピトーにとって害でしかない私は、それ故に見捨てられる絶望に怯えた。だから知らぬふりをした。それが献身であると思い込み、目に見える傷害だけを避けたのだ。

 

 そして結果、私はピト―を殺そうとした。

 

 ピトーの命より心の平穏を取った私には、それを否定するに足る根拠などあるはずもない。白音の時も、私は自分自身を選んで他を捨てた。本当に白音を救いたければ引きずってでも一緒に連れ出し、何年掛かろうがわかり合わなければならなかったのだ。

 

 救うために己を殺す勇気を、私は持つことができなかったのだ。

 

 自分自身を守るために周囲を傷つけ、あげくに何もかもすべてを壊してしまう愚か者。『もうクロカを一人にしない』と言ったピトーすら信じず、素知らぬ顔で愛を搾取する裏切者。

 

 繰り返される自己中心的衝動の根本とはつまり、どれだけ自分が害悪であろうと、ピトーとの縁を断ち切るという発想が出てこない、私の内心そのものだ。

 

 そんな奴にピトーの愛を受け取る資格はない。何より私自身がそう思う。今の私がピトーの隣にあることを、私は決して認めない。

 

 ネテロの光線は、そんな私への罰のように思えた。それを為したのは私の意志ではなく位置関係でしかなかったが、ピトーよりも先んじて光線に呑まれることこそが、その時の私には真っ当な贖罪に見えた。

 

 しかし、それもまた、ただの自慰行為だ。

 

 どこまで行っても変わらない愚者は、それでもピトーの隣に居たがった。ならば、もうこれ以上逃げてはいけない。ピトーを裏切ってはいけない。それがピトーの害となるなら、私の心など切り捨てねばならない。

 

 ――たとえその結果、ピトーを愛することができなくなったとしても、それがピト―に愛されるための、最低条件なのだから。

 

 ―――。

 

 

 

 

 

 

「――うっ……ぐう……」

 

 全身を痛みが苛んでいる。肺の収縮で筋がずれ、違和感に私は目を覚ました。

 

 腕を踏ん張り、苦労してなんとかうつぶせの身体を持ち上げる。重労働に息をつき、顔を上げると、不明瞭な頭に顔をしかめつつ呟いた。

 

「……どこよ、ここ」

 

 そもそも何をしていたんだっけ、と左右を見回し、首を捻る。

 

 どうやらここは建物の中であるようだった。天井、壁、床に至るまで一面同一の白タイルが敷かれている。ピトーの生家の大広間くらいの広さはありそうだが、視界内に家具の類は一つもなく、のっぺりとした壁にポツンと鉄扉があるばかり。タイル自体が淡く発光しているのか、照明がないのに辺りは明るく、窓や明り取りすら存在しないことも相俟って、実に落ち着かない無機質な雰囲気を醸し出していた。

 

 こんなところに進んで忍び込み、寝こけるなんてことがあるだろうか。そこまで無警戒でいられるほど、私たちの立場は穏やかなものではなかったはずだ。

 

 寝起きでボケているのかふわふわとした意識には、このヒリつく痛みの覚えもなく、どこか釈然としない。正体不明の疑問に翻弄されながら地べたに腰を下ろすと、私は習慣から無意識に脚を畳んでいた。

 

 正座すれば、自然と両手は膝の上に向かう。ぼーっと呆けて鉄扉を眺めていた私は、手にひんやりとした水気を感じるまで、その臭いにすら気付いていなかった。

 

「あれ?……これ……」

 

 目の前に持ってきた手は、青い液体に濡れていた。わずかな粘性と、鼻に付く金臭さ。認識した瞬間に頭の中で何かが合致し、埋もれた記憶から引っ張り出した。

 

「ピトーの――」

 

 皮切りに、濁流のようにして記憶が蘇った。頭の浮遊感が吹き飛ぶ。気絶する直前、私の前に飛び出したピトーが絶望の光に呑みこまれる光景を思い出し、私は反射的に背後を振り向いた。

 

 果たしてそこにピトーはいた。目にしたと同時、記憶の中の絶望的戦慄すらも継承する。激増する悪寒は一時的な不随に陥るほどで、気持ちとは裏腹に、私はのろのろと、倒れ伏すピトーの下へ這い寄った。

 

 仰向けの身体は所々が焼け爛れていた。辛うじて繋がってはいる左腕も、原形を留めぬほどに捻じれ、折れ曲がっている。そして何より、青い血だまりの中に浮く彼女より感じる『気』は、消えかけのろうそくのように弱々しいものだった。

 

 よくよく見なければ死んでいるようにしか思えない惨状に、私は歯の根が合わぬほどの悪寒と、恐怖と、絶望を、無抵抗な精神に受けてしまったのだ。

 

 がたがた震える手を伸ばし、ピトーの頬に触れる。冷え切った自分の指先をしても冷たい肌には血の気がまるでなく、代わりに薄く開いた口からはゆるい青色が流れ続けていた。

 

 かきあげた髪の奥では瞼が静かに閉ざされ、してみればただ眠っているだけのようにも見える。しかし、そんなわけがないのだ。直接触れれば一層よくわかる。彼女の生命は紛れもなく、死の淵を漂っていた。

 

「――ッ!!!」

 

 私はピト―の身体を抱きすくめた。服の前を引き裂き、覆いかぶさるようにして素肌を付ける。

 

 房中術に類される仙術の技の一つ。他人の『気』を操る場合、特に、複雑であり精密さが求められる治療を試みるならば、彼我の距離は近ければ近いほどいい。ピトーの【人形修理者(ドクターブライス)】のように、短時間での完全治癒とはいかないが、『生命の源泉』等の根本を癒すことはできるだろう。

 

 ただ、これは本来男女間でこそ真価を発揮するものであり、私とピトーでどれほどの効果が望めるかはわからない。いや、たぶん私は理性の底ではわかっているのだろう。この行為は焼け石に水でしかないと。

 

 内面はともかく、肉体は自然治癒力を活性化させたところでどうにかなるような状態ではない。自分の能力の限界を理解できているからこそ、私の目からは滂沱の涙が溢れ出ているのだ。

 

「いや……いやよ、ぴとー……」

 

 負の感情に心を壊滅的なまでに揺さぶられ、両腕の力加減すら見誤ってしまいそうな動揺が私の中で丸くなる。たわみ、その度に心を折らんと襲い掛かる絶望を、私は堪えられずに泣いていた。

 

「おねがいだから、ひとりにしないで……おいていかないでよお……」

 

 首筋の脈動はか細くなる一方だった。もう、いつ止まってもおかしくはない。

 

 ピトーが死に向かって行く様をただ見ていることしかできないという現実は、いともたやすく私の冷静を剥ぎ取ってしまう。『死ぬかもしれない』ではなく『死ぬのだ』というそれは、今までの絶望の比ではなく、我を失っても尚受け止められるものではなかった。

 

 底のない暗い穴に、永遠と落ち続けているような感覚。希望など露ほどもない。ピトーの身体の感触だけがよすがであり、私はそれだけを腕の中に感じて震えていた。

 

 絶望しかない闇の中でぐるぐると想いが巡り、蝕まれた心はもうそれ以外の何も映してはいない。

 

 だから私は、突如として悲嘆の悲鳴に加わった靴音に気付かなかったし、その三人が悠々と接近してくることにも意識が向かなかった。そんな余裕など、あるはずもなかったのだ。

 

 それでも私がそいつらの存在に気付いたのは、何か冷たいものに顎を持ち上げられ、無理矢理視線を合わせられたからだった。

 

「ふむ、間違いないようだ。うまく転送できたみたいだねえ、ノブさん。お疲れ様」

 

 漢服の男、少年と言って差し支えないくらいの背格好が、私に槍を向けていた。喉元を押している穂先は、もう少し力を入れるだけで皮膚を貫くだろう。

 

 しかし私はそれに危機感を覚えることなく、むしろ胸をなでおろしていた。

 

 ピトーのいない世界なんて、生きていたって仕方がない。殺してくれるなら願ったりだ。

 

 ハンターなのであろう漢服が、ネテロと同様私たちを仕留めるつもりであることは間違いない。加えて他二人のうちの一人、なぜか魔法少女のようなコスチュームを纏う魁偉な巨漢は、いかにも強者然としたプレッシャーを放っており、その通りの力量であるなら、聖剣無くとも私を殺すことは容易であるように思えた。

 

 もう片方の黒スーツをぴしりと着こなした眼鏡、ノブも、そのような強者と共にいるのだから木っ端であるはずはないだろう。漢服も同様だ。

 

 私は彼らのやり取りを、なす術なく呆然と見つめていた。

 

「……曹操、全くお前は……まあ、合図通りに能力を発動させるだけだったからな。ゲオルグが表に回ってくれたおかげで下準備も楽だった。とはいえ、会長の【零乃掌(ゼロのて)】の合間を縫って入り口を開けるのは肝が冷える思いだったが」

 

「そうだろうとも。しかし、そうしなければあっけなく悪魔側に看破されていただろう?いくら奴らが『念』を知らないとはいえ、いきなり地面に黒い穴が開いたりなんてしたら、いやでもこちらの思惑に気付くさ」

 

 ノブの声に込められた感情など知りもせず、漢服、曹操は槍を動かさずに器用に肩をすくめてみせた。

 

「ネテロ会長に加えて、神器システム最悪のバグとまで称される【絶霧(ディメンション・ロスト)】を前にすれば、ただの『念能力者』なんて目に入らないだろう。特に悪魔たちは神器(セイクリッド・ギア)が大好きだからな。戦力的な意味もあるが、ここ最近はコレクションとしても人気が高いらしい。忌々しい限りだがね」

 

「それを解決するための第一歩がこの作戦だろう。『ハンター』だなんだの余計な口を叩く前に、さっさと任務を遂行して見せたらどうだ」

 

「ごもっともだ。ではさっそく……と行きたいところなんだけどな」

 

 私を見下げていた眼が移ろい、ピトーに向く。雰囲気は相変わらず昂然としていたが、その内部には確かに哀惜があった。悲しんでいるというよりは残念に思っている程度の僅かな変化でしかなかったが、それでも悼んでいるには違いない。故に私は直後ようやく暗い穴の縁に手を伸ばし、言葉の内容を理解するだけの理性を取り戻したのだった。

 

「計画では生け捕りにする予定なんだろう?死なぬうちにとは言うが、こいつは既に死んでいるようにしか見えないな。どうする?聖杯でも使って生き返らせるのか?」

 

(……生き返、らせる……?)

 

 頭の中で言葉が繰り返され、私の目を覚ました。奴らの目的がゆっくりと理解に昇華されていく。

 

 残ったもう一人、魔法少女の巨漢が言った。

 

「曹操くん、修行不足じゃないのかにょ?キメラアントさんがまだ亡くなってないことくらい、ちゃんと『(ギョウ)』ができていればすぐわかるはずにょ。それに元々、彼女たちを生かすことに決めたのはネテロ会長にょ。自分で定めた条件を守れない、すなわちハントし損ねるほど、会長は弱くないし、下手でもないにょ」

 

 途端にぶすっとした表情に変わった曹操は、首を曲げて、背後に佇む巨漢を見やる。

 

「……けどね、ミルたん。あの戦いを貴方も見ただろう?ならば会長の本気具合もわかったはずだ。あの威力で手加減していたとは、俺にはとても思えないがね」

 

「手加減していたにょ。もしネテロ会長が本気で殺す気だったなら、最初の一撃で終わらせることもできたし、【零乃掌(ゼロのて)】も本来は防御が間に合うほど遅くないにょ」

 

「あれで、遅い……?にわかには信じがたいな。まあ、噂というのは尾ひれがつくものだから――」

 

「噂じゃないにょ。ミルたんがこの目で見て、身体で受けた実体験にょ」

 

 厳つい相貌でよどみなく言ってのけるその様子に、曹操がますます不貞腐れる。

 

 ある種の威厳を剥がされた彼からは年相応の幼さすら感じられ、消失した威圧感は、復活しかけの私の精神を委縮させることもなかった。昇華は着々と進み、心の中に火が灯る。

 

 虚勢を張った曹操の顔が、プイッと私に向いた。

 

「どちらにせよ、ゆっくりはしていられない。手早く済ませようか、はぐれ悪魔の黒歌。そのキメラアントを治療する。身柄を渡してもらおう」

 

 その単語が決め手となった。絶望の中に現れた一筋の希望が目の前の陰りを消し去り、理性を現実に呼び戻したのだ。

 

 たまらず、私はその希望を声に出していた。

 

「治療……ピトーを、助けてくれるの……?」

 

「これだけ近くで話していて、聞こえなかったわけはないだろう?俺たちにとって、そのキメラアント、ピトーというのか?そいつと、ついでにお前はハントのターゲットだ。死なれて条件不達成じゃあ都合が悪いから、医療設備がある部屋に運ぶのさ」

 

 槍の存在など、もう意識からは無くなっていた。希望に急いて僅かに身を乗り出した私は、その喉から滴る血に曹操が狼狽していることにも気付かない。

 

「曹操くん、槍を下げるにょ」

 

 その中で微動だにしないミルたんの冷静な声も、曹操に届くよりも早く、私の嘆願が遮った。

 

「なら……ならピトーは、私が運ぶわ。あんたたちが本当にピトーを助けるつもりなら、仙術使いの私は居たほうがいいでしょう?だから、私も連れて行って……!」

 

「……駄目だ。悪魔を、特にお前のように危険で強大な奴を、医師たちに引き合わせるわけにはいかない。ピトーはともかくお前は、まだ十分に力が残っているようだからな」

 

 喉を鳴らすと、曹操は表情を引き締めて言い放った。わずかに揺れた槍と、また少し迫った私で傷口が広がり、零れた血の一滴が床に落ちる。ピトーのそれと混ざり合い、紫に変わるその様子が、見張られた曹操の瞳に映っていた。

 

 私はそれに薄い陶酔のような感覚を覚えながら、それでも変わらず必死に言い募った。

 

「あんたたちに、全部を任せるわけにはいかない!私は!……私が狼藉を働くと思うなら、支障のない範囲で私を壊して構わないわ。どんな要求でも応える、なんでも、言うことを聞くから、どうか――」

 

 まっすぐと曹操の目を見つめながら、言った。

 

「――お願い」

 

 曹操が、弾かれるようにして槍を引いた。

 

 一瞬硬直してから驚愕の面持ちで離れた穂先を凝視し、それが自分の行為であることを認めた曹操は、歯を食いしばると、喉の奥から底ごもった重い唸りを上げた。

 

「『SS級はぐれ悪魔』黒歌。お前は、自分の立場がわかっていないようだな」

 

「曹操くん!」

 

 もはやミルたんの声も届いていないようだった。

 

 曹操は槍を手元に引き戻し、その石突で床を叩いた。キン、と清涼な金属音が鳴り、次の瞬間、槍が強烈な光に輝いた。

 

 それが及ぼしたのは本能的な恐怖に留まらなかった。焼けるような痛み。とっさにピトーを庇って受けたその気配は、多分に覚えのある光力よりもずっと恐ろしいものだった。

 

 直接向けられているわけではない、ただの余波だけで消滅を意識してしまうほどの悪寒。聖剣どころでは済まされない、もっと強力な聖なるもの。聖遺物(レリック)が放つような光力は、常時であれば私の精神にももっと甚大な変調をもたらしていただろう。

 

 しかし私は、見開かれた曹操の目を見つめ続けていた。

 

 奴らが条件を満たすためには、ピトーの命さえあればいい。つまり生きてさえいれば、意識も自由も、無くてかまわないのだ。ここで目を離せば、本当にそうなってしまうような気がした。

 

「おい!曹操!」

 

 肩を掴んだノブの手を、曹操は忌々しげに振り払った。

 

「ミルたんも貴方も、何故止めるんだ!俺たちの目的は任務を果たすことじゃないのか!?このままゆっくり話し合いなんてしていたら作戦が台無しになる!さっさと任務を遂行しろと言ったのは貴方だろう!」

 

「確かにそうだ!だが――」

 

「俺は作戦通りに事を進めているだけ。誹りを受けるいわれはない!ここは無理矢理にでも言うことを聞かせるのが最善だ!違うか!」

 

 聞く耳も持たず吐き捨てる曹操はとうとう立てた槍を振り、私を睨めつけて掲げてみせる。呼応するように光力を増すそれが、私の素肌に白煙を付け始めた。

 

「これは聖槍。最強の神滅具(ロンギヌス)たる【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】だ。俺がその気になれば、お前を一瞬で殺すこともできる。最悪、ピトーさえ手に入れば、お前を滅しても作戦には問題がない」

 

 青白く輝く穂先が、ゆっくりと私めがけて移動する。少しの間隔をあけて眼前に据えられ、殺気を帯びると同時だった。

 

「だからさっさと――」

 

 がいん

 

 槍が跳ねあがり、曹操の身体が吹き飛ばされた。部屋の端まで飛んだ奴が壁にぶつかって、目を丸くしたまま床に倒れこむ。

 

 けれど私はそれに目を向けることなく、彼女に慄いていた。

 

「ピトー!!」

 

 突如として目覚め、腕の中から抜け出したピトーは、聖槍にその手を掛けていた。

 

 その身からはあの特徴的な『気』がとめどなく溢れ出している。まるで制御弁が外れてしまったかのような怒涛の勢いは聖槍の光すら覆い隠し、もはや痛みや悪寒は感じない。

 

 しかし直に触れているピトーはそうではないはずだ。曹操の言葉を信じるのなら、それは【聖剣創造(ブレード・ブラックスミス)】の比にならないほど強い光力、聖なる力だ。並の悪魔であれば威光だけで祓われてしまうような大敵の『力』が、今ピトーを蝕んでいる。

 

 ピトーが息を吹き返したことによる安堵など、端からあるはずもない。半死半生の彼女が、そんな凶器を握り締めているのだ。

 

 私は恐ろしくてたまらなかった。

 

「手負いの獣ほど恐ろしいものはないにょ、曹操くん。ミルたんが止めなかったら、弾けてミンチになっていたにょ」

 

 頭上でミルたんの声がした。声色はずっと一定に落ち着いていて、その手は聖槍の上部を掴んでいる。聖槍が曹操と一緒に飛んでいかなかったのは、奴が防いだからだったのだろう。

 

 私の中に『恐れ』がなければ、まずミルたんの異常さに意識が行っていた。ピトーの死力を片手で防いでしまったそのことに恐怖し、ネテロと対峙した時の己の未熟を思い出したはずだ。

 

 けれど私はこの時、たぶん混乱していたのだろう。自分が何をすべきなのか、訳がわからなくなっていた。

 

 ピトーのことも聖槍もミルたんも、一気に理性に飛び込んできた情報たちの衝撃があまりにも大きく、私はそのいずれも受け止めることができなかった。

 

 ピトーを止めるでもなく、共に戦うでもなく、私は震えながら、指に絡んだ服の裾をつまんだ。

 

 そんな私を一瞥してから、ミルたんの眼はピト―に向いた。

 

「……曹操くんの行為はお詫びするにょ。その上で、信じてもらえないかもしれないけど、ミルたんたちにはピトーさんと黒歌さんに敵対する意思はないにょ。むしろ助けてあげたいんだにょ――」

 

 言葉の間隙に、ばしゃりと血の塊が落ちた。ピトーの口からだ。しぶきが膝の色に溶け、奥の素肌にぬるい温度を伝える。

 

 喉がカラカラに乾いていた。麻痺した意思に反して独りでに手が伸び、そしてピトーの腕に触れる寸前で固まった。

 

「だから、聖槍を離してほしいにょ。いくらピトーさんの『念』がすごくても、そんな身体で聖遺物(レリック)の『力』を受け続けたら本当に死んじゃうにょ」

 

 事実だ。ただでさえ重篤なピトーの生命は、今までにない早さで減り続けている。

 

「魔法少女ミルキーに誓って、もう黒歌さんに刃を向けることはないにょ。ミルたんを信じてほしいんだにょ」

 

 ピトーは手を離さない。聖槍と接触している肌が、文字通り泡立ち、波打っている。

 

 私は膝立ちになり、ピトーの横顔を見た。血走った眼は見開かれていた。口元のみならず顔全体に青色が付着し、狂気じみたその相貌から発せられているのは尋常ではない圧力。強固という言葉ではとても足りないくらい固い、常軌を逸した意志力が、そこには満ちていた。

 

 でも、それではどうにもならない。

 

 比例して、絶望が増していく。ピトーが、死んでしまう。

 

 万力で心臓をゆっくり押しつぶされているような痛みがあった。身体が内側から爆ぜてしまいそうだ。苦しい。苦しくて、息ができない。

 

 何もしない自分。遠くで説得を続けるミルたんの声が聞こえる。

 

(私は……私は、ピトーの――)

 

 その時、ぼやけた耳朶を、やたらと目立つにやけ声が貫いた。

 

「やあーーお待たせ!本っ当に申し訳ない!」

 

 歪んだ視界に暖色の人影が見えた。そいつは場の空気などお構いなしに革靴を鳴らし、近寄ってくる。

 

 ノブが呆然と呟いた。

 

「パリストン、お前……」

 

「あれ?ノブさん、顔色悪いですよ?一応まだ作戦中なんだけど、大丈夫ですか?」

 

 前後不覚の私には、そのパリストンなる人物の姿をまともに見るための余力が存在しない。しないのだが、胡散臭い口調も相俟ってか、不思議と警戒心は湧くことがなく、気付いたころにはもうすぐ近くまで接近を許してしまっていた。

 

 拍子抜けするほど簡単にミルたんの隣までたどり着いたパリストンは、「うん」と頷くと聖槍に触れた。

 

「ピトーさんも、もう目覚めていらしたんですね。ちょうどいい!曹操くん、この槍邪魔なんで消してもらえます?」

 

「あ、ああ……」

 

 見覚えのある腕が伸びてきて、聖槍を掴んだ。すると一瞬にしてそれが消え、四人分の手が宙を掻く。

 

 ぐらりと、ピトーの身体が傾いた。はっとして抱きかかえ、支えると、脱力特有の粘っこい重さが両腕に伝わる。もはや顔を上げる力も残っていないようだった。発せられていた『気』も途切れ、薄く上下する胸と、ひゅうひゅう漏れる呼吸音だけが生きている実感を与えてくれている。

 

 だが同時に、それはピトーの衰弱をも示していた。仙術の使い手として、嫌でもわかってしまう。

 

 間近に迫る、死。

 

 ――間違っていたのだろうか。ピトーに生きてもらいたいなどと思わず、おとなしく奴らに任せるべきだったのだろうか。

 

 もう、何もわからなかった。

 

「やめるにょ、パリストンくん。それ以上近づくとミルたんはきみを守れなくなるにょ」

 

「危ないことなんて一つもありません!それに、直接、目を見て話さなければ、心は伝わらないんですよ!」

 

 ミルたんとパリストンが何か話し合っている。頭も心も、すでに真っ黒だ。他には何もない。何も聞こえないし、何も見えない。すべてが奈落に落ちていく。

 

 感覚に何が触ろうとも、認識されることはなかった。ただ一つ、希望を除いて。

 

 目線の高さに胡散臭い笑顔が来て、それを差し出した。視覚が捉えた赤色の小瓶は以前にも見たことがあるもので、その既視感は、言葉によって滑らかに脳髄へ届けられた。

 

「初めまして、黒歌さん。ボクはパリストン=ヒルという者です。これ、お近づきのしるしに」

 

 表情が、人のよさそうなそれに歪められる。

 

「フェニックスの涙です」

 

 私は迷うことなくそれを奪い取った。ピトーを仰向けに抱えなおすと、口で咥えて栓を開け、中身を彼女の喉に流し込む。

 

 フェニックスの涙。いかなる傷もたちどころに癒してしまう秘薬は、間違いなく効果を及ぼしたようだった。

 

 ピトーが顔をしかめて飲み下すと、目に見えるほどの癒しの力が全身に広がった。ぐずぐずに焼き溶かされた手のひらがゆっくりと元の肌色に戻っていく。飲用させて外傷にこれだけの効果があるのなら、内臓も正しく治癒されているだろう

 

 絶望感が吹き飛んだ。歓喜と安堵と、えもいわれぬ情動とで喉が詰まる。

 

「ぴ、とぉー……」

 

 涙声でそれだけを捻り出した。ピトーの瞳が私を認め、安らかに微笑むその表情は、涙で歪んではっきりとは見えなかった。

 

「……フェニックスの涙はもう残っていないって聞いていたにょ?」

 

 今まで決して感情を表にしなかったミルたんが、初めて人間らしい訝しげな声色を発した。対してパリストンは、やはり変わらぬ胡散臭さを返す。

 

「はい。この作戦のために準備できた涙は、会長が持ち出した一つだけです。ですので!自腹で入手してきました!ピトーさんを助けるために、外科手術の準備だけでは不安だったので。実際、結構危なかったでしょ?」

 

 黙り込むミルたん。確かに、パリストンの言う通りではある。聖槍の影響も併せて考えれば、あの時点で普通の手段ではたぶん間に合わなかった。彼は私たちの恩人とも言えるだろう。

 

 だが、

 

「それにしては、ずいぶんと間がいいね……今言ったことが本当なら、こいつらにも、話を通しておくはずじゃない?」

 

 私の腕の中から上半身を起こしつつ、ピトーが言った。傷は治癒しても、血も『気』も体力もまるで回復していないため、重心がゆらゆら揺れている。頭もあまりうまく働いていないだろう。それでも感づいてしまうくらい、彼の物言いはあからさまだった。

 

「オマエ、何を企んでいる……?」

 

 顔にへばりつけた笑みからして胡散臭いのだ。裏があるようにしか思えない。感情がぐちゃぐちゃに大暴走している私でさえ、都合よく唐突にフェニックスの涙を渡すその行為には多大な不信感を感じた。

 

 彼がいくら人畜無害そうに見えても、この疑念だけは捨て置けない。それが消えない限り、恩人とはいえ静観以上の態度はとれなかった。

 

 そんな私たちの心情はパリストンにも伝わったようで、彼は芝居がかった調子で頷き、微笑むと、高級そうなスーツをためらいなくピトーの血に濡らし、床に膝を折ってみせた。

 

「疑問はごもっともです。ボクも最善の行動をとれたわけではありませんから……わかりました!一刻を争う必要なくなりましたし、作戦のことも含めてボクからご説明いたしましょう!」

 

「パリストンくん、それは――」

 

「大丈夫ですよ!何か問題が発生したら、すべてボクが責任を負いますから!」

 

 ミルたんの抑止も場に似合わぬ明るい声色で振り払い、パリストンは私たちに向き直ると、口を開いた。

 

「まずは根本のところからお話ししましょう。この作戦の目的、討伐依頼が出ているお二人を、悪魔の目をかいくぐって手中に収めんとしたその理由、ですね」

 

 ピトーが何か言おうと口を開いて、そして閉じた。彼女にしてみれば、それは最も知りたい疑問の一つだったのだろう。なにせネテロに敗れて気絶して、目覚めてみたら目の前に【黄昏の聖槍(トゥルー・ロンギヌス)】などという超級にヤバいものを向けられ、かと思えば戦闘の意思はないと薬まで差し出されたのだ。

 

 何が起きているのかまるでわからない現状。教えてくれるというのなら、まずはそれを聞いてからでいい。ピトーがそう考えるのも当然だ。

 

 一方の私は、恥ずかしながらその不自然さをまるで気にしていなかった。

 

 魔法少女の恰好をしていない最初の方の巨漢、いやたぶん大女が言っていた通り、『ハンター協会』が悪魔からの依頼で襲いかかってきたのだとすれば、そもそも私たち生かしておくわけがないのだ。思いつくメリットはない。悪魔側にバレた時、ネテロやパリストンたちを含め、協会の立場がよくないことになるくらいだろう。

 

 ノブや曹操の言によれば、そのデメリットしかない行為は作戦通りであるらしい。絶望とパニックも合わさって、私は矛盾に気付けなかったのだ。たぶん……頭が足りないとかではないはず……

 

 ともかく、一度気付いてしまえばだんだんとまた不安が湧いてくる。ようやく涙の止まった瞳がじんわりと潤み始めた。

 

「簡単に言えば、『人類のため』です。悪魔などの理外の生物、力、法則が跋扈するこの世界で、それらに脅かされずに生きるための権利を確保すること。それが我々、ひいては人類の目的なんです」

 

 なんともスケールの大きな話。大きすぎて私はいまいち理解できないが、ピトーは言わんとすることの糸口か何かを見つけたようだった。不信感あらわに眇められていた目が少しだけ緩んだ。

 

「生存権、ね……キミらの世界は間違いなく発展してると思うけど。少なくともニューヨークは断然立派だし、脅かされているようには見えない」

 

 パリストンが笑みを深め、首を振る。

 

「いえ、それは単に、彼らが事後処理を行っているからです。魔力などの超常の力を以てして破壊したものを元に戻したり、そもそも結界で防いだり、あるいは……もっと簡単に、人々の記憶を操作したり」

 

 これ見よがしに間を取って、最後の一言が吐き出された。彼の言葉が事実であることは私が一番よく知っている。元バカマスターの下にいたころは当事者だったのだ。

 

 故に私は、己の動揺に気分転換をさせる意味でも、その問答に参加することにした。

 

「後始末ができてるなら、問題無いじゃない……人死には、どうしようもないけれど、世界中の死人の数からみれば微々たる数字だわ」

 

「そうですね、その通りです。幸いなことに勢力を統率する立場の方々は皆、人間界への過度な干渉を避ける方針を示していますし、それでも尚人を殺める存在、例えばはぐれ悪魔などには我々で対処することができます――でもですね、そんなものは氷山の一角に過ぎないんですよ」

 

 思いのほか力強い瞳が私を捉えた。息を呑む。

 

「確かに殺害行為は抑制されているのだと思います。しかしそれ以外は違う。物品の窃盗、土地の不法占拠、銃刀類の不法所持、諸々の軽犯罪などなど、超常の力を使ってやりたい放題している者が少なからずいるのです。明確かつ重大な喪失が発生しない限り、小事は記憶操作すれば証拠なんて残りませんからね。

 その中でも悪魔は特に酷い。悪魔の駒(イーヴィル・ピース)で眷属化するため神器(セイクリッド・ギア)所持者を誘拐するケースが多いのですが、組織ぐるみで近辺の隠蔽工作を行うため、改変の範囲がすさまじく広いのです。攫われたものは人間社会での存在を『なかった』ことにされ、実にその九割が二度と帰りません。ちなみに残りの一割ははぐれ悪魔になります。そうですよね!曹操君!」

 

「あ、ああ、そうだな……」

 

 突然話を振られた曹操が驚きに背を伸ばし、苦々しげに応える。同じく苦々しげな瞳は私とピトーを睨んでいて、何やら言いたげな様子だったが、パリストンは気にせずに続けた。

 

「しかし我々はこういった件にほとんど口を出せません。はぐれ悪魔と同様に討伐しようとすると、必ず勢力の上層部、魔王なんかから掣肘が入るからです。『我が同胞に危害を与えようとするなら、実力行使に出るぞ!』といった具合に。

 彼らの法では人間に対する無法は罪にならず、また、それらが罪となる人間の法を守ることもない。これ、なんでだと思います?」

 

 尋ねはしたが答えを求めているわけではないらしく、私たちの表情を一瞥すると、一際明るい調子で言った。

 

「ナメられちゃってるんですよ!人間に我らを裁く力などないと!そして実際、口惜しくはありますがその通りなんです。『ハンター会員』およそ五百名、その七割ほどは下級悪魔を相手にするまでが精々でして、残りの三割もほとんどが中級止まり。上級悪魔や最上級悪魔、強力な人外を相手取れる実力者はほんの一握りです。ネテロ会長やミルたんさん、将来的には曹操君にゲオルグ君も可能性がありますね。

 でもそれでは全く足りていません!悪魔の横暴に物申し、人類の平和を守るためにも、我々にはさらなる戦力が必要なのです!」

 

 なるほど、と思った。人間を下等と断じる気風が強い悪魔には、確かに人の世の法を守ろうとする輩は少ない。というか私は見たことがない。それを止めるための戦力が無いというのも、まあ当然だろう。ネテロやミルたんのような常識外がそう何人もいるはずがないのだ。

 

 つまりは、

 

「私たちを操って、『ハンター協会』の先兵にでもするつもり?だとしたら残念だけど、私もピトーも『念』で操作なんてされないわよ……!」

 

 抵抗したところで勝機などないだろうが、黙ってそれを受け入れるつもりもない。死んでもごめんだという決意の下、口にした宣言であったが、しかし放った殺気は至極簡単にいなされた。

 

「いえいえとんでもない!そんな非道なマネはしませんよ!それに、たった二人戦力が増えたくらいで状況は何も変わりません。必要なのは少数の強者よりも、ほどほどの力を持った集団。四百名を人外と渡り合えるほどに強化することが肝要なのです」

 

「……なら、なおのことボクたちに用なんて無いはずだ。その四百名にボクらの加護を与えろ、なんて話じゃないんだろう?」

 

「ええ、もちろん」

 

 ピトーの疑わしげな視線などものともせず、パリストンは微笑みながらも息を吐き、膝元に眼を落した。逡巡の気配を醸すと、次いで彼は決心したかのようにふと顔を上げ、私たちの瞳を直視しし言った。

 

「『魔人化(カオス・ブレイク)』、という薬が存在します。これは使用者の肉体を変質させ、超常の存在に近づけることができるのですが、副作用が強い上に、原料の関係上、神器(セイクリッド・ギア)所持者にしか効果を及ぼしません。正直に言って失敗作です。しかしその発想は正しい。脆弱な人の肉体に強靭な種族の能力を加えるという仕組みはつまり、長年魔法使いたちが造り続けている合成獣、キメラのそれです」

 

 おわかりでしょう?と言わんばかり笑みを深めるパリストンに、ピトーは口を引き結んだままだった。

 

「あなたたちが小さな蟻であった頃から、参考資料の一つとして上がっていました。捕食した種の特徴を次世代に受け継ぐその特性。ピトーさんの場合は恐らく突然変異か何かでしょうが、しかし人型生物を取り込んでも何ら不具合が起こらない。これはもう何としてでも身体データを入手して、『魔人化(カオス・ブレイク)』ならぬ『キメラ化(オーダー・ブレイク)』の開発を進めねば、ということになったんですね。

 つまるところ、我々が欲したのはピトーさんの肉体であって、ピトーさん自身ではない。当初は生存に重点を置いていなかったんです。標本さえあれば、後は何とでもなりますからね」

 

「ッ!!あんた、やっぱり――」

 

 と、蘇った危機感で腰を浮かせた私を、

 

「ただ、」

 

 というパリストンの一声が制した。胡散臭いくせによく通る波長は、ミルたんや曹操のざわめきも鎮め、辺りをしんと静まり返らせる。その中を悠々歩むパリストンの言葉は、その胡散臭さに似ても似つかぬ妙な誠意を帯びていた。

 

「それって、あまりにも非道じゃないですか」

 

 間が開く。

 

「もし『キメラ化(オーダー・ブレイク)』が実用化されたとしたら、その寄与は人類の英雄と呼ぶにふさわしいものだと思いません?その英雄を、データだけ取って殺してしまう、ボクはどうしてもそんなことになってほしくなかった……いや、そうですね、ボクは人の道を外れたくなかったんです。ピトーさんと黒歌さんには生きる権利も、自由である権利もある。それを侵せば、ボクはあの悪逆な悪魔たちと同じになってしまう。そう考えて、ボクは作戦にない行動をとってしまったのでしょう。まあ、説明としましてはそんなところですかね」

 

 ふう、と、パリストンが息をついた。達成感に満ち満ちたため息は誰の発言も許さず、そこに一時の静寂が訪れる。

 

 私は唾を呑み、思考に意識を傾けた。

 

 未だ混乱治まらぬ私には理解しきれてはいないだろうが、彼が長々と語った壮大なる作戦とその目的に関しては、たぶん事実なのだろうと思う。『魔人化(カオス・ブレイク)』なるドーピング剤のことは聞いたことがないが、ピトーの身を欲した理由には、とりあえず納得するとしよう。

 

 しかし、完全に信用できるかというと、それは否と言わざるを得ない。

 

 その動機がただの倫理感であることが、彼の雰囲気と相俟ってたまらなく胡散臭いのだ。

 

 しつこくこびりつく印象を拭いきれないのはピトーも同様だったのだろう。思索の跡を残す彼女の口元は、一度固く引き結ばれた後、ためらいがちにゆっくりと開かれた。

 

「それを、信じられると思う?憐憫なんかでボクたちを助けたって?ボクが自分の意志でオマエに協力すると、本気でそんなことを思ってるわけじゃないだろう。さっさと本当の目的を言ってよ。つまらない冗談に付き合えるほど、今ボクは余裕ないんだよね」

 

 苦肉の挑発。しかしパリストンは私の時と同じく、軽やかにそれを受け流した。

 

「あははは!やっぱり信じられませんか?でも――」

 

 笑顔の仮面で笑い、次いですっと素面に戻る。

 

「それで構いません。協力も、しなくて結構です」

 

 その微笑は、ピトーよりも『ハンター』たちに動揺をもたらしたようだった。「は?」と絶句する曹操に、呆然とするノブ。ミルたんさえも衝撃に閉口し、続く言葉をおとなしく聞いていた。

 

「上にも承諾は取り付けました。ぶっちゃけ血液さえあればDNAデータはとれますし、それを完全に解析するにもかなりの時間がかかります。身体データを一緒に取っても、残念ながら研究者の人数からして少ないので、持て余しちゃうんですよね」

 

 足元に広がる血の海を見て、パリストンが言う。つられて私も視線を落とし、唖然としながら目を瞬かせた。

 

 いったい彼は何を考えているのだろうか。というか、今まで垂れ流したご高説はなんのためだったのだろう。あらゆる理由を建前に堕としたその宣言。あの空気感で冗談を重ねる人間には見えないが、本気で述べた言葉だとして、果たしてそれにはいかな意味があるのだろう。

 

 正直、もう私の脳味噌は限界だった。ここまで滅茶苦茶になってしまえば、彼の目的も真意も、なにもかも見当がつかない。

 

 もしかしたら、倫理が理由だという告白は冗談ではないのかもしれない。そんな錯覚さえ覚えてしまうような私には、もう正常な判断など下せるはずもなく、オーバーヒートした頭はすべてを諦め、ピトーにすべての行く末を委ねることにした。

 

 気付いたピトーは思い詰めた表情を一瞬困ったような笑みに変え、息を吐くと、鹿爪らしくパリストンを見据えて言った。

 

「だからさっさと条件を言ってよ。ボクたちが『生きる権利』と『自由である権利』を手にするために必要な対価。もったいぶる必要なんてないでしょ……どうせ、他に道はないんだから」

 

 パリストンがにっこりと微笑んだ。代わり映えのしない胡散臭い笑みは、何も言わずにスーツの懐から何かを取り出し、私たちに差し出した。

 

 今度のそれは小さな矩形の紙だった。二枚ある。縁取りには両方とも同じようなデザインの幾何学模様が描かれていて、真ん中には空白と、別々の模様が書いてあった。

 

 なんだかそれは、出来損ないの名刺のように見えた。

 

「これ、ボクの能力、【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】って言うんです」

 

 名刺に『気』が宿った。不意のことに身構える私。しかしピトーは何やら合点がいったふうに呟いた。

 

「……にゃるほど」

 

 私たちがそれに手を伸ばすまで、あまり時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 ――なんてことがあってから、もう一年と少しが経った。

 

 その間、危惧したことは何も起こっていない。『権利』を守ると言ったパリストンの言葉は嘘ではなく、あの無機質な部屋(ノブの『発』による念空間だったらしい)から解放されて以降、ピトーを研究材料にせんとする輩は一人も現れることがなかった。

 

 それどころか、予想に反して束縛も監視すらなく、相変わらず私はピトーと一緒に居る。ただ、環境だけが拍子抜けするほど平穏なものに変わっていた。

 

 第一に、私たちはパリストンに人間としての身分(・・・・・・・・)を与えられた。

 

 もちろん偽造だ。『流星街(りゅうせいがい)』、詳細は省くが個人情報の存在しない者たちが住む街の出身であり、名前は、ピトーが『フェル』で私が『ウタ』。

 パリストンに腕を買われて、彼の私設部隊に雇われたことになっているが、まあそんな気は全くないのでそれはどうでもいいだろう。

 

 さすがの彼でも、『SS級はぐれ悪魔』の黒歌(・・)と『変異キメラアント』のピトー(・・・)を助けるわけにはいかなかった、ということだ。思うところがないわけではないが、しかしどうなるわけでもない。公式では、私たちはネテロの【零乃掌(ゼロのて)】で死んだことになっている。

 

 私にしつこい不信を募らせた【ありきたりな微笑(ビジネスライク)】も、そのためのものだった。『神字(しんじ)』という、『念』を補助する模様が書かれた名刺は、パリストン曰く、持ち主の印象(・・)を変える能力だという。つまりそれは、私たちが人間になるための小道具だったのだ。

 

 ピトーがそれを持っている限り、彼女は『色気たっぷりの気だるげなお姉さん』であるように見える。好奇心旺盛で賑やかな普段の彼女とは似ても似つかない雰囲気。

 

 別に姿が変わっているわけではない。単に、無意識的にそのような人物なのだろうと思ってしまうだけだ。

 

 ただ、無意識に作用するため、その効力はかなり強い。真ん中の空白に自分の名前を書くと発動する能力なのだが、初めて使った時、私は一瞬、目の前のピトーをピトーだとわからなかった。

 同じ状況の彼女と一緒にお互いを警戒し合い、次いで愕然としてしまったくらいだ。忌むべき出来事だったが、たぶんこの状態で眼鏡でもかけ、服装も変えてしまえば、私を黒歌と気付く者は誰もいないだろう。

 

 『フェル』と『ウタ』という身分、姿を手に入れた今、私たちが人間社会で大手を振って暮らしていても、それは人間にも悪魔にも、誰にも咎められることがないというわけだ。

 

 ちなみにピト―によれば、名刺を持っている私は『理知的で厳しそうなキツめのお姉さん』に見えるそうだ。キツめってなんだ。理知的が似ても似つかないってなんだ。

 

 文句はともかく、パリストンは私たちに、恋焦がれた安寧をもたらしたのだ。追手に気を張る必要も、隠れ潜む必要もなく、文化的な生活を送れる幸福。

 

 物事は、限りなく良い方向に進んでいる。しかし、だからこそ、やっぱりパリストンの思惑がわからない。

 

 私たちの都合に良い一年と少しに、彼が得をするようなことがあっただろうか。作戦を無視し、高価なフェニックスの涙を消費するだけの価値、リスクに見合ったリターンがあるようには思えない。

 

 そもそも身分を貰ってから今まで、彼との接触すら皆無なのだ。お金のために仕事を斡旋してもらったことは多々あるが、それだってハンター協会を通してのものであり、懐柔されたなどとは言えないはず。だって私にもピトーにも、なんら不幸は訪れていないのだ。

 

 ……いや、しいて言えば曹操だろうか。奴は私たちがマンションの一室に居を構えたころ、ふらりと現れ付きまとうようになった。

 

 とはいえ問答無用に襲ってくるわけではない。来る度ピトーにお金を叩きつけ、試合を申し込んでくるのだ。

 

 理由を尋ねてもぼかしてむっつり黙り込むばかりだったが、あれはたぶんリベンジしに来ているのだと思う。奴からすればあの時、虫の息であったピトーに一撃で戦意を喪失させられてしまった事が、悔しくてたまらなかったのだろう。へし折られたプライドを取り戻すために、奴は彼女に挑み続けている。

 

 ピトーが害されるかもという点については、たぶん曹操が今最も危険視されるべき存在なのだ。

 

 つまり危険はないということ。何故なら奴の目的は未だ達成されることなく、今日もまた、盛大にボコられているからだ。

 

 横っ面を殴られ、くるくる錐もみ回転しながら白木の床に転がる曹操に失笑しながら、私は懸念にそう結論付けた。

 

「はい、これで三十二回目のダウン。大丈夫?今日はもうこれくらいにしといた方がいいんじゃにゃい?」

 

 息の一つも乱れていないピトーが左手に奴の槍を持ち、ため息混じりにそう言った。言の通り、大の字に倒れこんだ奴は返事もせず、満身創痍といったふうに荒く呼吸を繰り返している。街の道場での立ち合い故、槍は光力を放っておらず、ピトーも全く本気ではなかったが、二人の力量差は明らかだった。

 

(別にあいつも、弱いわけじゃないんだけどな)

 

 まあ、全快のピトーが相手ではそうもなるだろう。まだまだ奴は若い、というより幼い。やったことはないが、たぶん私でも負けることはないと思う。『念』もだが、基本的な能力値からしてまだまだ発展途上なのだ。唯一勝っていたのは戦闘経験くらいだったろうが、その差もこの一年できれいさっぱり消え去った。さすがさいのう。

 

「……ま、まだ、だ……俺は、まだ……もう、一戦……」

 

「ああはいはい、わかったわかった。お金も貰ってるしね、キミが満足するまで付き合うにゃ」

 

 息も絶え絶えに伸ばされた曹操の手が、槍の石突を掴んで訴える。呆れたように眉尻を下げたピトーは奴の腕を掴んで引き起こし、ふらつく身体に肩を貸していた。

 

 ピトーもまた、私と同じく曹操に危険を感じてはいないのだろう。最初の頃こそ息が詰まるくらいに怒り、警戒し、今以上にぼっこぼこにしていたが、もはやそれもない。随分と仲良くなったものだ。

 

 はあ、と心情のままにため息をつくと、突然それが鳴り出した。

 

 ピリリリリリリ!

 

 携帯の着信音。私のすぐ隣、壁際にまとめられた曹操の荷物から鳴り響いている。躊躇いなく発掘すると、木の枝でつつかれているような視線と共に、小さな嗄れ声が耳に届いた。

 

「……おい、ウタ……勝手に、出るなよ……?」

 

 私の手の中の端末に向けられた言葉。が、私はにんまり微笑むと、クワガタ型のそれの通話ボタンをポチっと押しこみ、曹操抗議の断末魔をBGMにしながら耳に当てた。

 

 持ち主は思春期のお年頃だ。誰だと聞かれたら彼女ですとでも言ってやろう。

 

 日ごろの恨みも込めて、私は揶揄う気満々でそれを待った。猫なで声で、「はぁ~い。こちら曹操くんのケータイでぇ~す」と告げてやり、誰かは知らぬが奴の知り合いが驚愕し、曹操自身が顔を真っ赤に憤激するさまを夢想した。

 

 だが、それを期待する好色な笑みは、通話相手の言葉を聞くうち、あっという間に崩れ落ちた。

 

 頭が真っ白になり、だんだん音が遠ざかっていく。私は呆然と、その言葉を繰り返した。

 

「白音が……攫われた……?」

 

 無音の中、私はピト―が端末を取り上げるまでそのままの恰好で固まっていた。




オリジナル念能力

ありきたりな微笑(ビジネスライク)】 使用者;パリストン=ヒル
・操作系能力
・神字と共に名刺等の名前が書かれた紙片に刻むことにより、名前の人物がそれを所持する限り、その人物が他者に与える印象を変える能力。
名刺を持つ人物を眼にした第三者の無意識を操作する能力であるため違和感を与えにくいが、半面、操作は絶対的なものではないため見破ること自体は可能。
名刺が破損すれば効力は消滅する。

展開的にも念能力的にも力技感が否めませんが、ここら辺が私の限界です。ハンターハンターキャラのオリジナル念能力はたぶんこれで最後なので許してください何でもしまかぜ。
次回、ようやく原作主人公勢(一部)との邂逅。感想ください。
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