「……何よ、あんなに仲良くなっちゃって」
一歩離れて後ろを歩く曹操にも聞こえないくらい小さく、私はそう呟いた。
苛立ちか、あるいはたぶん嫉妬のようなこの感情が向いているのは、曹操よりもさらに後方。観光客の人波を隔てて三十メートルほどの距離にいる、ピトーたちの一行だ。特に九重に対する比率が高い。
嫌でも察知してしまうからだ。白音捜索のために広げた仙術の目には、範囲内の気配が半ば無差別的に飛び込んでくる。となれば当然、ピトーと九重が何やら楽しそうにけん玉で遊んでいる光景も把握できるし、追随する彼女らのそれを延々見せつけられ、思うところが口にまで登り詰めることも、何らおかしくはないことである。
「私にはちょっとよそよそしいくせに」
八つ当たりに近いことは重々承知している。おまけにその原因すらも、自分がうじうじと思い悩んでいたせいであり、二人に非は一切ない。
とはいえしかし、腹立たしいものは腹立たしいのだ。自分はこんなにも苦悶しているのに、という逆恨みめいたそれ。そんなものをピトーと、年端もいかぬ幼女に向ける自分が情けなくもあるが、この飢餓感のような焦りは如何ともしがたい。
肩を落とし、ずり落ちてきた伊達眼鏡を押し上げる私は、ピトーの『気』と光景との相乗効果でペースを上げる精神力の摩耗を感じながら、努めて機械的に両の脚を動かしていた。
吐いても尚燻る想いを噛み殺していると、不意に曹操が私の前に躍り出た。進行的にも仙術的にも邪魔くさいそいつに白い目を向ければ、間もなく顔だけ振り向き、その飄然とした表情を露にした。
「おいウタ、『纏』が乱れているぞ。仙術のほうは大丈夫なのか?」
「……別に、問題ないわよ」
本当のことを言えば、少しだけ心臓が跳ねた。
『念』と仙術は別物の技術であるとはいえ、似通っていることは事実だ。特に精神力が重要であることは共に同様であり、それが乱れれば両方の行使に影響が出る。
つまり『纏』の乱れは仙術の乱れでもあるのだ。
弱みを見せたくない相手の上位に入る曹操に、自分の失態を指摘された形。そう易々と認められるわけがない。
故に私は目を背けそうになる疚しさの心を毅然と振り払い、鼻持ちならぬ奴の顔をキッと睨みつけてやった。
「これでもこの一年は真面目に修行してきたんだから。ピトーの『纏』くらいで、すぐさまどうにかなったりなんてしないわ」
隠せるところは隠しつつ、威厳を込めて言う。
が、私ではその硬度もたかが知れていたようだ。
「いや、どうだろうな。お前、どうやら機嫌が悪そうじゃないか。ついさっきまで半笑いでニヤついていたのに――」
「にっ、ニヤついてなんかないわよ!!」
その言葉は、変化が解けて耳と尻尾が飛び出しそうになるほどの激しい動揺を、私の精神にもたらした。
思わず反応してしまった手前もはや無意味だろうが、ニヤついてるのはあんたでしょ、という内心での罵倒と共に、飄然を崩した曹操へ怒りの眼光を照射する。多少の照れが残留しているのは、この際仕方ないだろう。
まあ当然、そのように中途半端な視線攻撃は通用せず、平然とニヤニヤ笑いを深める奴に、逆にこちらが羞恥を増幅させられながら、私はもう負け惜しみにしかならない呟きをごく小さな声で口にした。
「だって……はじめてだったんだもん」
『黒歌』が庇われたことは。
わかりきってはいたことだが、討伐された私は悪魔社会で極悪人の名をほしいままにしているらしい。実際それに値することをした自覚はあるので、そのことに対しては、『黒歌』としても言い逃れをする気はない。元バカマスターの所業は知られず、私が純粋な悪と化していることにも、『ウタ』は言葉を発するべきではないだろう。
しかしそのような理屈は別にして、感情の面では悔しさや悲しみ、数多の負が存在することは否定できない。
いくら自分は悪人であるとわかっていても、一切の余地なく敷き詰められた邪悪の事実をひたすら黙って受け止めなければならないとなれば、そんな思いだって生じるだろう。
だからこそ、ピトーがあの上級悪魔に言い返してくれたことは嬉しかったのだ。
私のやったことは悪だったとしても、間違ってはいないと、そう認めてもらえたような心地だった。
そんなことは生まれて初めてだ。
あの時の嬉しさは、そのあまりに気恥ずかしさすら生み出し、数十分で過度の羞恥に変わっていった。
故に私は、リアス・グレモリーの情報提供――という割にピトーのせいで委縮しきった彼女は八坂の問いに対して首を縦か横に振るばかりだったが――ともかくそれも終え、いざ捜索開始という頃にはその羞恥をピトーの傍にいるだけで息が詰まりそうな思いをするまでに悪化させ、それらしい理由を引き合いに出してこの二分の状況を作り出すに至ったわけなのだ。
そしてその結果、幼女への嫉妬で自縄自縛に陥っているのだが、少なくともそんなことは、曹操にとって手心を加える理由にはならなかったようだ。
奴は遠い後方、つまりはピトーと九重を一瞥して、その口元に弧を描かせながら、私の感傷をわざわざ真正面からぶち破ってきた。
「……ああ、そうだな。お前はニヤついてなどいなかった。俺の気のせいだったな。そういうことにしておこう。これ以上は余計に効率が落ちそうだ」
「あんた……!ホントに……ッ!」
喉からすべり出そうになる罵声をなんとか堪えた。
癪だが図星を突かれている今、何を言い返してもそれは恥を上乗せするだけの愚行であり、精神を荒らす動揺に他ならない。おまけにその愚行で、目的である白音の捜索すら滞る始末だ。怒りと羞恥とでごちゃごちゃになった頭に、私は必死の思いで深呼吸に集中し、平定を試みる。
そうやって苦心する私をあざ笑うかのようにして、曹操はあっという間に常態へと舞い戻った。
「ま、冗談はさておきだな」
「どんだけ人の気を逆なですれば気が済むのよ!」
忍耐を決壊させる私に向けて肩をすくめるという不遜極まりない仕草を見せながら、曹操は飄々と周囲の人ごみを見回した。
「これだけ大勢の観光客がそこらじゅうを闊歩しているわけだが、本当にターゲットを見分けられるのか?ウタは白音の気配など知らないだろう?ここでは妖怪など珍しくもない存在だ。だから、その広さの中から……あー、探知の範囲はどれくらいあるんだったか」
「……半径一キロとちょっと」
込み上げる反抗心をねじ伏せ、不承不承に答える。せめてもと露骨に嫌そうな顔をしてやったがやはり動じた様子もなく、奴はいつも通りの調子で「ほう、そんなに広いのか」とわざとらしい驚嘆を口にし、僅かに顎を引いて黙り込んだ。
その頭の中でどんな思索を巡らせているのかなど、知ったことではない。ただ私は、一旦閉ざされたその口が再び嫌味な語調を吐き出す前に、嫌がらせも兼ねてそれを妨害することを決意した。
「といってもその程度よ。私からすれば訳ないわ、そんな範囲。
それに、期限切れの許可証も、ただの紙切れになるわけじゃないんでしょ?気脈の『気』から身を守るって機能、期限切れと同時に動作は止まるらしいけど……『気』に干渉するわけだから、『念』が絡んでいるわけじゃない?なら機能停止はしても、込められた『念』そのものは消えないはずよ。わざわざそんなことする必要もないし」
機密に当たるであろうその仕組みを聞くことはできなかったが、たぶん間違ってはいないだろう。
京都に滞在する間、外から訪れた人外の者は常に携帯せねばならない件の許可証。発信機的な機能こそついていないものの、防護を含めていくつかの機能が詰め込まれているそれが『念』を基としている場合、到底大量生産に向かない代物となっている可能性は極めて高い。
そもそもからして、物に『念』を込めることは難しいのだ。それに対する強い思い入れか、それとも特殊な条件でもあれば幾らかはマシだろうが、許可証を製作しているであろう京妖怪が、自分が使うわけでもないそれに本心からの執着などを抱けるとは考え難く、『特殊な条件』も、安く済むとは思えない。
つまり許可証は、量産が利かない貴重品であるはずなのだ。そんな貴重品を、一回使っただけですぐ廃棄するなんてことはたぶんあり得ない。尽きた『気』を補充するなりなんなりして再利用するようなエコロジーで運用されているのだろう。
白音が所持しているであろう許可証も、そうであることは間違いない。期限が切れ、いわば電池切れのような状態になろうとも、込められた『念』のプログラム自体は、決して消えてはいないのだ。
それだけあれば、私にとっては十分だ。
「許可証に込められた『気』の気配は、八坂様に見せてもらったので覚えたわ。妖怪の女の子じゃなくって、要はそっちを探せばいいのよ。もし許可証が捨てられてたら、そこからはハンターらしく跡追いでもするしかないけど……でもそれで大丈夫でしょ?」
外向きの理由は、という、私と曹操と、それからピトーにのみ通じる暗喩を視線に起こし、受け止められると即座にまた眼を逸らす。
「まあ、跡追い範囲が京都全域ってなるなら話は変わるけど、幸い白音がそう遠くに行っていないことは確認が取れてるんだから、問題も何もないわよね」
八坂によると、彼女が治める京都一帯には、そこら中に結界の術式が張り巡らされているらしい。
たぶん、料亭に向かう時に潜り抜けた、水の膜のようなアレもその一種だったのだろう。遊園地の入場ゲート、もしくは駅の改札機のように、許可証なくして踏み込む者を阻むために仕掛けられているそれには、少なくとも今日一日の間、引っ掛かった侵入者はいないという。白音の許可証が期限切れになったのは、彼女が失踪して一時間ほど経過した時点であるはずなので、その間は結界もスルーパスできただろうが、それでも観光客に紛れながらの移動ではそう遠くには行けないはずだ。
ついでに私たち以外に転移の反応もなかったらしく、双方からもたらされた情報を合わせ考えれば、白音はこの周囲数キロ圏内のどこかに隠れているに違いないのだ。
「二時間もあればエリアの全部を回れるわ。そのくらいなら集中力も余裕で持つし。そうすれば、まあ……容易く解決よ」
「……ふ、一キロの探知を、余裕、か」
憂思に言葉を詰まらせたせいで、曹操の呟きが独壇場に覆いかぶさった。
奴は夕日に向かって苦笑して、口ごもる私に少しだけ陰の落ちたにやけ顔を向ける。
「実に便利だ。羨ましくすらあるな。俺もそんな能力が欲しいものだ」
「あんたね、今ここにいるのが私じゃなかったら、たぶんぶん殴られてるわよ」
ノブあたりなら半殺しまでは行っていたかもしれない。曹操の
過去に三回出くわして、その三回とも怯えた眼をして即座に逃げ去っていった彼のことを思い出しつつ、私は羨望染みた視線にでかでかと嘆息をした。
「羨ましいって言うんなら、私だってそうよ。まったく……
しかもこいつが宿しているのは
宿主の想いと願いで
加えて本人の才幹。今は私から見ても未熟だが、一年近くもピト―に挑み続ける根性と武の上達ぶりは、天才と言って差し支えない。
端的に評してチートな性能を誇る【
こいつはそのことをどう思っているのか。腹立たしさのまま、私は少し歩調を速めた。
「それに仙術だって万能じゃないわ。第一、気配探知なら『念』でも同じことができるでしょ。ほら、『
ピトーが使ったアレだ。自身の『纏』を広げ、それによって範囲内の状況を肌で知覚する技術。
『念』の基礎たる『四大行』、そこから派生する応用技で『円』と呼ばれるそれは、いわば伸ばした手による触覚でモノを探知する技だ。仙術の探知とは根本的に原理が異なるため、比較すれば範囲も狭いが、一方でその情報量は仙術を凌ぐ。
自身の『気』で『触れる』ので、生物の所在はもちろん、無機物や地形、『絶』で『気』を消そうが関係なく、範囲内のすべてを、誇張なく完全に把握することができるのだ。
しかし仙術はそうもいかない。
『円』が『手を伸ばして物体に触れる技』であるのなら、仙術は『漂ってくる『気』を感じとる技』だ。能動的な『円』に対して、受動的な仙術。と言い換えてもいいだろう。
水蒸気を想像すれば、いくらかはわかりやすいはずだ。『念』を使えようが使えまいが、この世に生ける生物たちは皆、その身体に『気』を湛えている。普段は垂れ流しの状態にあるそれは、ちょうどやかんから噴き出す蒸気のように立ち上り、やがて空気に溶けてしまう。
通常、『念』で見ることができるのはその間。蒸気で言う白い部分のみだ。
ただもちろん、蒸発、あるいは揮発した『気』は、消えてしまったわけではない。見えないほど小さく、自然の『気』として一体化してしまうだけだ。見えずとも、確かにそこに存在する。
念能力者でも見ることができないその粒子を感じることができるのが、私のような仙術使いだ。
放出され、宙を漂う微小な『気』。それを取り込むことによって、距離や背格好、強さに種族までもを把握できる。『円』のように『手』を伸ばす必要もなく、ただ『精孔』を開くだけ済むのだ。
が、だからこそ、無機物や『絶』には対応できない。
『気』が発せられていなければ、『精孔』を開いていても何ら情報は入らない。ただ悪戯に邪気ばかりが溜まっていくだろう。
そのこともあって乱用できない分、『円』のほうが使い勝手がいいと私は思うのだが、どうやら曹操にとっては違うらしい。
自身の恵まれた才能すら慰めにはならず、奴はなおも力なく肩を落とし、呟くように口にした。
「……しかし一キロという範囲は魅力だ。おまけに『円』とは違って隠密性もあるんだろう?」
「あんたもしつこいわね……根本的なこと言っていい?そもそもどれだけ憧れようが、仙術を使う素質からしてあんたにはないのよ。期待させちゃったみたいで悪いけど、悩むだけ時間の無駄なのよね」
身も蓋もない宣言。しかしそれでも曹操の羨望は消えなかった。
呆れと不審を半々にした眼で見つめると、奴は言い辛そうに口をもごもごとさせた後、俯いたまま自嘲のようにそれを歪めた。
「……使えないんだ」
「……?だからそう言ってるじゃない」
奴は仙術を使えない。先天的な資質が必要である以上、どれだけ頑張ろうが不可能だ。そしてそのことは奴自身も理解しているはず――
という不審で首が傾き始め、それが十五度ほど進んだ頃、ようやく私は気が付いた。『使えないんだ』のイントネーション。落胆や未練がましさのそれではなく、告白のようにか細い口調。
奴はばっと顔を上げ、夕日が添加されたその顔色を私に向けた。そこから飛び出した台詞は、直前のか細さが嘘のように荒んだものだった。
「言わせないでくれ……!俺は、『円』が、使えないんだよ!」
「……………え?」
言葉の意味を理解するのに、凡そ五秒はかかった。
私たちの間に会話が途切れ、代わりに観光客と客引きの喧騒が割って入る。鼓膜を滑る音に呆然としながらも歩き続け、経過の後に脳味噌が始動。
ピトーに中二病の黒歴史を暴露された時以上の赤面を、その端正な顔に被る少年は、ものの見事に私から驚愕を引き出してしまった。
制御を失い、そのまま口に出るほどに。
「え!?嘘でしょ!?できないの!?いつだったかうちに来た時、あれだけ自信満々に『念を教えてやる』とか言ってたくせに!?言ったはいいけどフェルの精度が思いのほかよくて指導する必要を見つけられず、結局ずっと座禅の組み方にケチ付けてたくせに!?それでキレたフェルに『気』だけでぼっこにされた自称英雄の末裔なくせに!?」
悪気はない、と嘯くのはさすがに無謀だろうか。
すれ違った幾人かに生暖かい眼を向けられ、妄想癖のあるそういったお年頃の男の子扱いをされた曹操は、私の生き生きとした顔を憎々しげにしかめた瞳に映し、肩を震わせ拳を握った。
「自称ってお前……本当に……お前たちは二人とも、心の傷というものを甘く見ていないか?そこまでされるほど、悪事を働いた覚えはないんだがな。
……大体、『円』は『念』の力量とは比例しないものだろう?どれだけ熟達した能力者でもできない者はできないし、逆に雑魚でもできる者はできる。得意不得意が顕著な技だと、その時確かに言ってやったよな?」
「うーんと、そうだったかしら?あんまりためにならなかったから、覚えてないわ」
「言ったとも!不本意だが俺は思い出したぞ!それを覚えてないと?ためにならなかったと?……そこまで言うならウタ、お前はできるんだろうな?仙術にかまけて『円』を疎かにするなど、仮にも念能力者を名乗る身の上で――」
「最長で半径七十メートル」
「畜生!どいつもこいつも何故使えるんだ!不公平だ!」
握った拳を空に振り下ろす。トマトを通り越して太陽ばりの熱気すら放つ赤さを得た曹操は半ば涙目だ。爆発して消沈した奴に、お前が不公平を言うか、と心の中で反撃しながら、私はにっこりと肩を叩いてやった。
さらなる悪戯心、と言うには些か度が過ぎているようにも思えるが、そんな私の追加攻撃に奴は抗する気力もない。弱々しく虚空に呟く。
「……同期のあいつらも、後輩も先達も、知人は皆例外なく使えるんだ。しかも全員達人以上、五十メートルを超える。そんな中でただ一人、全く使えない俺の気持ちがお前にわかるか?わからないだろうな。もういっそのこと『円』の代わりになる『発』でも作ろうかと、最近は真剣に思い悩むくらいなんだ……おまけに――」
どんより濁った瞳で私を仰ぎ見て、次いで斜め下を見やる。
たぶんピトーにも怨嗟を向けようとして、中途半端なところで力尽きたのだろう。そのまま視線を引きずって、曹操はそっぽを向いた。
「お前は七十メートルで、フェルのやつに至っては二キロだろう?加えて通常の円形ではなく、アメーバのように不定形で一方向に伸ばせるんだとか……」
「おおむね正しい情報だけど、ちょっと違うわね。フェルの『円』は二キロじゃなくて三キロよ。一年間の修行の成果」
親切に付け足してやると、奴は擦れた声で、ハ、ハ、と笑った。
「仙術の三倍か。ますますもって化け物染みているな。その『オーラ』の性質も、何もかも……。はあ……どうしてなんだろうな。どうして俺は、よりにもよってこうも異常な奴に挑みかかってしまったんだか……いや、プライドのためにも、今更やめるわけにはいかないが……」
「……化け物とか異常とか、フェルのすごさを理解しているようで結構だけど、称賛するならもうちょっと敬意を込めなさいよ」
十秒も持たなかった親切心を根元から撤回したい気持ちになりながら、私は曹操を睨みつける。
奴は視線に気付くとドロドロと緩慢な動きで振り返り、全く同じ調子ながらも色味を百八十度反転させた声で、再度冷笑を口にした。
「敬意だろう?込めてるとも。俺が言う『化け物』だぞ?他には会長とミルたんにしか使わない」
「その二人と同列じゃあ、いろんな意味でダメだっての!片やクソッタレのクサレジジイで、もう片方なんか……アレ、人間どころか生物かどうかすら怪しいじゃない!」
「……まあ、俺としてもミルたんの『訳のわからなさ』は認めるところだが……生物扱いされていないのは、さすがに同情するな。ついでに会長にも」
「人の心配もいいけどね、怨みの度合いならあんたもそんなに変わらないわよ?あの時のこと、たぶん一生忘れられないから」
「ほう……一生忘れられない、か。口説き文句としては及第点だな。精々俺の彼女目指して頑張ってくれ」
「あん、たッ!まだそれを言う!?……いつまでもネチネチ同じことを蒸し返すなんて、全くもって男らしくないわね!」
「男女平等の時代だぞ?そんなことでは時の流れに置いて行かれてしまうな。そろそろその古臭い脳味噌を新しくしたらどうだ?」
「この二枚舌!減らず口!ちょっと優しくしてやったらあっという間に調子取り戻しちゃって……どんだけ意地悪いのよ!」
「不思議だな。ああ言っているが、俺にはあいつらに優しくされた覚えがないぞ。しかし大丈夫だ。この一年で、口の面でもみっちり鍛えられたからな」
「私たちこそあんたに鍛えられてるわよ!口と性格の悪さ世界チャンピョンのくせに!」
という、一転してストレスの溜まるやり取りを続けた結果、比例して曹操の気力が漲ってしまう。忌々しい奴の笑みは、もうすっかり常態となったにやけ顔に戻っており、おかげで私の精神状況は乱れに乱れていた。
失態だ。私も奴も、互いへの思いやりというものを持ち合わせてはいない。つまりやられたらそのまま、自ら反攻に転じない限りやられっぱなし。
やはりこいつには何があっても手心を加えるべきではないな、と敵愾心に似た思いで眉を寄せる。それでも発散しきれない苛立ちが自然に私の歩みも速め、曹操を置き去りに、三人分ほどの間隔を空けた。
その間で流れを取り戻すつもりだった。選んだのが反攻ではなく、嵐の通過を待つ神風主義であることは正直負けた気がしないでもないが、もう手遅れだ。とにかくなんとか平静を取り戻し、きちんと役目を果たさなくてはいけない。
ついでに曹操へ痛撃を与えるためにも。うん、ついでだ。主目的ではなく。そうに違いない。
だが、それらの思考と目的が遂行されることはなかった。
揶揄いの最初の一言を頭に浮かべ、振り返って吐きかけようと口を開いた時、乱れた仙術の再起動で近辺を強く意識して、おかげでその薄い『気』に気付いたのだ。
元より赴くつもりであった目的地の一つだが、感じ取ったその瞬間、私はそれを凝視して、立ち止まってしまうほどの衝撃に襲われた。訝しげな周りの視線にも気付かず、呆然とそこに足を向ける。
夢見心地のような、どこか現実味のなかった感覚を、曹操が呼び戻した。
「ん?ああ、ここか。ターゲットが失踪したという土産物屋は」
周囲の風景によくなじむ平屋だ。ぽっかりと口を開けた店先では、キーホルダーやポストカード、ある意味で定番な木刀などのグッズ類と、箱入り干菓子の数々が夕日に晒されている。生菓子は店の中なのだろう。
全体的にちぐはぐというかなんというか、古き良き『和』と昭和あたりの現代建築が変な具合に入り混じった内装。古都好きとミーハーな観光客の両方取りを目指して失敗し、今日まで引きずってきたような店だ。外にあれだけ人がいるというのに店内には客の一人もおらず、レジ前で雑誌を読む店員は入店せんとする私に見向きもしない。
見てくれだけは、一見さんお断りの穴場のよう。リアス・グレモリーの琴線に触れたのは、たぶんそんな雰囲気なのだろう。
つまりは――
「………」
何やらごそごそとやっている曹操の気配を背後に感じながら、私は店内に足を踏み入れた。
天井から空調の冷気。和風洋菓子とでも言うべき、こってりした甘い匂い。それらすべてを素通りし、私はそこにたどり着く。
店の隅、老舗銘菓のお饅頭。私の意識を絡めとった
そういえば、と思い出す。
あの子は和菓子が好きだった。
なぜだかはわからないが、何がいいかと聞けば決まってそれをリクエストするくらいの執着。よく人間界まで買いに赴いたものだ。
その嗜好は、今でも変わっていないらしい。端っこに追いやられた饅頭も、あの子にとっては吟味に値するお土産だったのだろう。
おかげであの子の気配は掻き消されずに残留し、私はそれに気付くことができた。
「しろね……」
私の知らないところで、ここに来ていたのだという、その印。それは心にしまい込んだ後悔を、あっけなく表層に押し上げてしまう。
リアス・グレモリーの言う通りだ。
あの時、白音を捨てて立ち去ってからずっと、私はあの子と僅かでも干渉することを恐れ、何一つそのための行動をしなかった。
互いのためにならないとか、合わせる顔がないとか、そんな言い訳を用いて、取り残された白音が悪魔たちにどう扱われるか、想像することすら避けていたのだ。
魔王に保護され、我が儘そうだが正しく白音を想っているリアス・グレモリーに気に入られているからいいものの、そうでなかったらと思うとぞっとする。もしも元バカマスターのような奴に拾われていれば、私は白音の危機を知ることすらできなかっただろう。人知れず、あの子は闇に消えていた。
そんなことを、私は今まで良しとしていたのだ。あの時の決断、白音を置いて冥界を脱出したことが正しかったのだとしても、それが白音を傷つけているのだとしたら、それは間違いでしかない。
私は、私が最も恐れ、最も嫌う行為を、他でもない白音に働いていた。
絶対に、見つけなければならない。でなければ、私は本当に白音の姉ではなくなってしまう。
償おうとは思わない。ただせめて、ほんの少しでもそこに残っていたかった。
「まあ当然だが、足跡などとても読めないな。店員のほうも、消えた女児など知らないそうだ。あのお嬢様が何かやらかしたのかね、睨まれてしまったよ。そっちはどうだ?」
だから私は、背中に曹操の声を受けた時、負の感情を呑みこんで、食いしばった奥歯をこじ開け言った。
「ダメね、なんにも残ってないわ。手掛かりなしよ。やっぱり地道に探すしかないわね」
振り返ると、曹操は何とも微妙な表情で私を見ていた。
いつものにやけ顔に混入した、憂いのような色。あまり見ることのない雰囲気を纏いながら、奴は生菓子の棚を見回し、「ふむ」と顎に手を当てた。
「全くか?痕跡も『気』も、何もかも?」
「そう。全く、これっぽっちも。大体、白音の『気』は知らないんだってば」
「……ああ、そうだったな」
と視線をタイルの地面に落とし、曹操は動かなくなる。まさか意図が伝わっていないのかと、私の中に生じた呆れは、しかしすぐさま立ち消えた。どうにもそのような感じではない。
不思議に思うも、とはいえここにもう用はなく、私は棒立ちする奴の横をすり抜けようとした。心痛に少しばかり時間を持っていかれ、もうそろそろピトーたちが追い付いてしまう頃だろうと、通路のど真ん中に陣取る奴を押しのける。
だがどういうわけか、奴は私の気まずさに反抗を仕掛けてきた。押しても引いても殴っても、一向にそこからどこうとしない。
体幹がしっかりしていると、嫌味でも言ってやるべきだろう。仕舞いには、僅かとはいえ『気』も込めたパンチを背に浴びようが意思を曲げなかった奴に、私はそれを嫌がらせだと断定した。結局それかと歯噛みして、罵倒を吐くべく息を吸う。
が、それは発射されることなく、肺の底に送り返されることとなった。妙な表情を真面目に引き締めた奴がくるりと半身で振り向き、二撃目の『念』パンチを片手に受け止めると、言ったのだ。
「ウタ。確か白音は、『念』を使えないはずだな?」
無視して鳩尾に三撃目をぶち込むのも一興かと思ったが、真摯が見える今の奴に対してそれはあまりにも無法だろうと思い直し、睨み返しながら答えも返す。
「そりゃあ、そうでしょ。身内が使えたら、リアス・グレモリーだってもう少し『念』の知識もあったわよ。……何?またいつもの憎まれ口なら、ほどほどにしないと本気でぶん殴りかねないんだけど」
「いや違うとも。ただ……いよいよもって不可思議だと、思っただけだ」
数瞬思考で眼を閉ざすと、奴は再び私と視線を合わせ、続けた。
「そうじゃないか?店内はそこまで広くなく、どうやら繁盛店というわけでもないらしい。それに沖田総司だって居合わせたんだ。悪魔界最強の眷属が一人だぞ?そんな奴を……言い方は悪いが、白音ごときが出し抜けると思うか?一応、この依頼は捜索ということになってはいるが……しかし――」
「わかってるわよ」
ようやく、曹操の言わんとすることを理解した。一人分増えた気まずさで、今度は私が眼を逸らす。
「覚悟は……してる」
今日ずっと、曹操がうざったらしく絡んできた理由。確かに、誤魔化したままでいるのもそろそろリミットだ。
完璧でなかった上、こんな奴にそれを言うのは非常に癪だが、最後まで責任を持とうとしたその姿勢には、報わなければならないだろう。励まされたことに違いはなく、それが心を固める一助になったのも確かだからだ。
今度こそは、白音を救ってみせる。
「……ありがと」
小さく言い捨て、私は今度こそ曹操の身体を押しのけた。
くすん、という鼻で笑ったような音。恐らくたぶん嘲笑の類ではないだろうが、いかんせん悪い意味に聞こえてしまう内の羞恥から、私は逃げるように大股で店を出た。
夕日を浴び、顔に熱を感じながら、大きく深呼吸を一つする。
「さて!」
と、それなりの声量で転換を宣言し、周囲を見回した。どうやらピトーたちとの距離は思ったよりも開いていたらしく、その特徴的な一団の姿は視認できない。
白音の『気』に意識を取られ、近辺に集中された今。それでも『円』と同じくらいの範囲は見えているはずなのに、いつの間にそれほど離れてしまったのか。
何かあったのだろうか?不思議に思いながらも私は再度息を吐き、仙術の焦点を広げていった。
じりじりと量を増す『気』の情報。やがて捉えたピトーと九重、そして八坂の気配は、ここよりおよそ百五十メートルも離れた地点に立ち止まっていた。
仔細が伝わり、眉間に勝手にしわが寄る。ピトーに抱っこされている九重にまたしても嫉妬心と情けなさを覚え、なぜか乱れているピトーの『纏』をダシに、せめてもと内心で糾弾して平静を保つ。
そうしてなんとか一キロ圏内を自身の感覚に収め直すと、中断してしまった間の分を取り戻すべく、私は新たに増えた気配を検分し始めた。ピトーとの距離が適当に縮まるのを待ちつつ、遠いものから順に眼を通す。
「……あれ?」
精神的な疲労を押しての行使だった。
平気だと見栄を張ったが、確実に無理は来ていた。限界はまだまだ先とはいえ、例えば好調時には一瞬で終わる気配探知の起動に、少しとはいえ手間取ったり、気配の正体なんかは、一度に確認できなかったり、といった具合に。
邪気も入り、感覚が鈍っていたことも起因するだろう。ほんの一瞬、感覚に掠ったそれは、余韻だけを残して手の中をすり抜けた。
正体は知れなかった。だが、胸の表面に残された『嫌な予感』は、運のいいことに私の警戒心にまで手を伸ばすことに成功したのだ。
「リアス・グレモリー……?」
「あの我が儘姫がどうか――あ!おい!」
曹操の言葉に疑問符がつく前に、私は通りを走り始めた。
逆走。次々感じる驚きの視線を横切り、人々の間隙を通り抜け、ピトーたちに向かって疾駆する。
百五十メートルの距離はすぐに尽きた。周囲と同様に目を見張る九重と八坂。その中で一人眼を泳がせて、挙動不審に私を迎えたピトーが無理矢理作った笑顔で言った。
「あ、ああ、うーんと……い、一時間ぶり?お久しぶりだね、ク……じゃなくて、ウタ?」
悪化する『纏』の乱れもそうだが、体調でも悪いのだろうか。
そっちに逸れそうになる思考を寸でのところで押し留め、止まりかけた脚にさらなる疾走を強要する。
早くしなければ、このうっすらとした余韻すらも見失ってしまうだろう。その可能性が『嫌な予感』に直結しているのだと強い確信を持つ私は、やむ得ずピトーに我慢してもらうことにして、中途半端に掲げられた彼女の手を素通りし、追い抜き際に叫んだ。
「わかんないけど、とにかく来て!」
背後の喧騒に困惑と理解の気配を感じ取ると、私は邪魔な雑多から逃れるように通りから外れ、人通りのない路地に飛び込んだ。
際限なく入ってくる数多の『気』のノイズが消え、ようやくそれがはっきりと認識に落ちてくる。
一瞬だけ感じた気配は、やはりあの赤髪の悪魔、リアス・グレモリーのものだった。
仙術で感知できるギリギリの距離。ふらふらと歩くその周辺は目抜き通りから遠く外れた路地の奥底であるようで、他に気配が少なく際立って見える。
同時に、その奇妙もよく見えた。
それは、有効な許可証を持たないはずの彼女が京都にいること、ではない。
その身を覆う見覚えのない『気』の存在だった。
許可証のそれではないし、もちろんリアス・グレモリーが『念』に目覚めたわけでもない。知りえる誰の気配とも一致しない、第三者の『気』。どのような状況なのかは想像するしかないが、少なくとも、私が感じた予感が間違っていなかったことは確かなようだ。
仙術の『絶』擬きで自身の気配を隠しつつ、人ごみに抑制されていた全速力を存分に発揮して、私は音もなく路地を駆け抜けた。
感知範囲の端、つまり直線距離でも一キロ以上ある距離だが、一切速度を緩めずにひた走れば数分でそこまでたどり着いた。
観光のために整備された地帯を外れ、ひとけと日本家屋に代わって台頭するコンクリ建築の密林。角を曲がればそれが開け、舗装された小川が私の眼に飛び込んだ。
河原もなければ土手もない。ほとんど水路のようにちゃぷちゃぷと流れる水筋を隔て、向こう側に彼女はいた。
そしてもう一人、第三者も。
(――やばッ!)
慌てて建物の陰に身を隠す。こっそりと覗き見れば、今度こそはっきりその姿を視認した。
ぼんやりと夢うつつの表情でふらふら歩くリアス・グレモリーと、彼女の前でおいでおいでと手招きをする第三者。そいつは、妖怪の青年の姿をしていた。
京都ではよく見る妖狐。明るい色の狐耳と狐尻尾を携え、にっこりと微笑んでいる。
いっそ不気味に思えるほどの不自然さに、私はすぐ、それに気付いた。
妖狐に妖力をほとんど感じない。代わりにあの未知なる『気』が存分に放射されていて、リアス・グレモリーの身体を包み込んでいる。
仙術でなくとも捉えられるほど濃い気配は、まるで妖狐自身が『気』の塊であるかのように、剥き身のままでそこに在った。
(あれは……妖怪じゃない?)
息を潜めてじっとそいつを――いや、それを凝視する。
生物ですらない。『念』によって作り出された『念』の獣、『
もはや疑う余地もない。あれが、あれを生み出した念能力者の何者かが、白音を攫った下手人なのだ。
となれば、と考える。
やはりここは様子を見るべきだろうか。
どうやらリアス・グレモリーをどこかに連れて行こうとしているあの『念獣』。普通に考えれば、その『どこか』は下手人の下である可能性が高い。白音も当然そこにいるだろう。
下手人が複数人であった場合も、そこでまとめて一掃できるかもしれない。私とピトーもいるのだから、取り逃がす心配も無いに等しい。
尾行に成功すれば、あらゆる問題が一気に、かつ確実に解決できる。できるなら、それがベスト。
(決まりね)
方針を定め、私はするりと建物の陰を出た。思考の間に離れてしまった彼我の距離。緩やかな曲がりで隠れてしまった彼女とあれを追い、次なる隠れ処に目星をつけて、そこに滑り込む。
が、そうする前に、さっそく問題が起きた。
ふわりと、まるで重さを感じさせない動作で、妖狐の『念獣』が浮き上がったのだ。
催眠状態か何かに陥っているリアス・グレモリーは呆けたまま、上昇するそれを目で追って、見上げている。
問題はその足元。コンクリートの地面を突き破り、今まさに大口を開けた頭を出さんとしている、何か大きな生き物の存在だった。
悟った私は迷うことなく地を蹴った。
一足飛びで水路を飛び越え、突き上げられて体勢を崩したリアス・グレモリーめがけて手を伸ばす。
人一人を容易く丸呑みにできそうなほど、大きく開かれた口の中。彼女の身がそこに落ちる手前、ギリギリのところで間に合った。
品のいいボレロの襟首を引っ掴み、思い切り引き上げた。びっしりと生え揃った無数の歯から救い出すと、反動でその顎を蹴り飛ばし、がちんと空を裁断させてやる。
のけぞり、後傾、あるいは前傾に倒れこむそれ。片手に掴んだ邪魔者を放り、宙返りで着地した私は、そこでようやく、その大きな生き物の全貌を目にした。
一言で言えば、どでかいチョウチンアンコウ。少なくとも魚類であることは疑いようがない。
平たく潰れた顔面としゃくれ気味な下顎。胸びれ背びれに尾びれまでがへばりつき、最大の特徴たるチョウチンの部分からは『気』の線が伸びていて、よくよく見れば浮遊する妖狐に繋がっている。あれは云わば、リアス・グレモリーをこの場所におびき出すための疑似餌だったのだろう。
そして本体のサイズだ。軽自動車くらいはあろうその巨体。もうそれだけで普通ではないことがわかるが、極めつけはその登場方法だった。
「やっぱり……ッ!」
アンコウが飛び出してきた、ちょうどその地点を一瞥し、私は薄く舌打ちをする。
あれほどの巨体が出てきたにもかかわらず、そこには穴の一つも開いていなかった。
多少小石が乱れたような跡があるが、それだけだ。たぶん、アンコウは地面を水面のように見立て、泳ぐことができる能力を持っているのだろう。妖狐の疑似餌も同じく、『念』によって具現化されたものであるのなら、そういった特殊能力を持っていてもおかしくはない。
そうであるのなら、尾行など端から不可能だ。
地中深くの気配を探ることは、仙術にも『円』にもできない。ならばもう、やることは一つだけ。
墜落するアンコウを視界に収め、私は身を乗り出した。
瞬きの間で距離を詰め、踏み込み、のたうつアンコウに掌底を叩き込む。ぶにっとした手応え。それが大した威力を持たなかったためか、私を睥睨するアンコウの眼はニタリと笑ったようにも見えた。
だがそれも一瞬のこと。すぐにその全身が硬直した。
スウっと、溶けるようにして巨大魚の身体が消えていく。掌底が命中した腹からそれは広がり、胴体、背中、頭と尻尾と順に、一秒もせぬうちに完全に消滅した。
仙術の、相手の『気』をかき乱す術の応用。ネテロの使う【
ふう、と息を吐く。消滅を見届け、夕焼け空を仰いで痛くなった首を下げる。
ともかく完了だ。そして早く次の行動を起こさねばならない。
尾行という確実な手段を失い、しかも生み出された『念獣』――いや魚なのだから『
「……うう、いたた……どうして身体が……あら……?私、いつの間にこんなところに……」
背後でキーの高い声。リアス・グレモリーが目を覚ましたらしい。
「ほんと、はた迷惑なお姫様だこと」
そうはいっても、あれほど巨大な『念魚』を具現化できるような念能力者が掛けた催眠だ。悪魔とはいえ幼い彼女に、抵抗しろと言うのは酷だろう。
故に織り交ぜての軽口的調子を口にしたが、それでも彼女にとっては過ぎた悪罵だったらしい。
びくりと飛び上がり、顔を青くする。そんな光景がありありと浮かぶほどの気配を発する彼女。実際に目にしてやろうと、私はゆっくり振り返った。
その横目を、銀の光が横切った。
「……ッ!」
弾かれるようにして視線を向ける。アンコウが消えた地面で瞬いたそれは、あっという間にその場を飛び出し、すさまじい速さで路地を転がっていった。
だがほんの一瞬、眼にした形から、私はその名称に思い当たる。水路に沿って走り、やがてわき道に逸れた光跡を唖然と眺めながら、呟いた。
「……釣り針?」
「たぶん、そうじゃにゃい?」
あっけに取られて振り向くと、そこにピトーの顔があった。
全く知覚できない気配が、虚ろな存在感で、前触れもなくそこに在る。
たっぷり数秒後、全身が総毛だった。
「おっひゃあ!!」
妙ちくりんな悲鳴を上げてひっくり返り、バランスを崩して一歩二歩と後退った挙句、尻もちをつく。
とぼけた表情でその痴態を眺めたピトーは、途端噴き出し、声をあげて笑った。
「にゃははは!ごめんごめん、『絶』したままだったね。でも、その方が集中できるかと思ってさ」
「……も、もう終わったわよ!ていうか、わかってやったんでしょ!?心臓止まるかと思ったじゃない!」
「そんなことないよ。ほら、油断大敵って言うじゃない?それに実際、あんまり状況が飲み込めてないんだけどさ――」
と、不意に笑みを消し、ピトーの眼が横を向く。
「まず、なんでコイツがこんなとこにいるの?」
底冷えするほど冷たい視線が、リアス・グレモリーに向けられていた。
哀れなお姫様はガクガク震え、死人のように血の気が引いた顔で打ち上げられた魚みたいに喘いでいる。今にも気絶してしまいそうな顔色だが、ピトーの迫力に当てられそれさえも叶わないのだろう。
生き地獄めいた仕打ちに同情しないわけでもないが、どうやら私が何かするまでもなく、救いの手が到着したようだった。
水路の対岸に八坂たちが姿を見せた。九重を腕に抱き、認めたリアス・グレモリーに眉を顰める。
「それは妾もぜひ聞きたいの、姫君。何故ここにおる。許可証無くしての京への侵入は、即時の拘束、尋問対象となる。極論、侵略とみなされ殺されることもあり得るのだと、あれほど説明したというのに……」
「ち、違うんです!!八坂様!!私はその……狐の妖怪の方に連れてきてもらって……ええっと……あれ?」
言葉に詰まり、眼が周囲を彷徨い始める。件の妖狐を探しているのだろうが、その末路など知りようがない彼女に、これ以上中身のある話ができるはずもない。
それに――
「あっ!それ!それよ、フェル!」
パニックに陥りかけたリアス・グレモリーを見ているうち、比例して落ち着きを取り戻した私は、それを思い出し声を上げた。
今は一刻を争う事態なのだ。
「『円』!フェル、『円』であの釣り針を追って!あなたのならまだ間に合うわ!」
飛びつくようにして立ち上がり、叫ぶと、威圧を続けるピトーは私の言うことを察したようで、はっと顔を上げて表情を引き締めた。
互いに頷き合い、それぞれ備える。だがそれを発動する前、曹操からの横槍が入った。
「おいおい、いきなり走り出したと思ったら今度は『円』だって?フェルの『気』の性質、まさか忘れたわけじゃないだろう?大パニックが起こるぞ。せめてまともな説明をだな」
「『念獣』だったのよ!リアス・グレモリーが言う妖狐は!」
怒り半分で怒鳴り、顔のにやけを消す曹操にぶつける。
「厳密に言えば『念魚』で、しかもそれが作り出した疑似餌!それで見事に誘い出されたお姫様を今助けてたの!けどその時、本体から消し飛ばしちゃったから、残った手掛かりはそっちに飛んでった釣り針しかないのよ!」
路地の先を指さすと、八坂も事態を理解したようだった。わかっていないのは九重と、それからリアス・グレモリーだけだろう。
どうなってるのと狼狽える赤髪の姫を尻目に、八坂が言った。
「つまり念能力者。悪意ある何者かが妾の膝元におるということか」
「ええ。だから八坂様、九重様と、ついでにリアス・グレモリーも一緒に、どこか安全な場所に退避してください。ここから先は……危険すぎます」
戦闘はもう避けられない。そうなった時、この三人を守り切って、かつ白音を救出できると断言できるほど、私は自惚れてはいなかった。
『念魚』の他にどんな能力を持っているのか、敵は何人いるのか。もしかすればその中には人間以外も混ざっているかもしれない。
前情報のない戦いで油断などできようもなく、荷を背負うこともごめん被る。ネテロとの戦いで、それらは嫌というほど身に染みた。
だが、
「いや、妾も共に行こう」
八坂は毅然と否を言った。
何故、と口を開く私に先んじて、妖怪の頭目の顔をした彼女は言い放つ。
「京に曲者がおるというのなら、それを排除するのは妾の務めじゃ。お三方に任せきりにするわけにはいくまい。依頼はあくまで白音の捜索なのじゃからな。……故に、妾らを案ずる必要はない。時間がないと言うのなら、姫君のこともどうにか言い訳を考えよう。じゃから皆様方、構わずやっておくれ」
そう言われてしまえば、もう食い下がる理由もない。
まっすぐ見つめる八坂の眼に苦々しく頷き、次いで曹操に目配せする。わかったよと首をすくめる奴を見届け、私はピト―から一歩離れた。
「……じゃあ、いくよ」
ちらりと九重を見やり、呟くピトー。
次の瞬間、彼女の禍々しい『気』が、辺り一面に広がった。
ふわふわしてた仙術の設定をちょっとだけしっかりさせてみました。とはいえやっぱりふわふわしているので、おかしな点があったらご連絡ください。ご愛敬と言い張ります。
あとご感想もください。