主なきノラネコたちの家   作:もちごめさん

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厳密に言えばオリキャラではありませんが、情報がなさ過ぎて九割九分九厘を捏造した結果生まれたオリキャラが登場します。ご注意。
主要キャラじゃないからゆるして。

8/13 本文を修正しました。


十話

「ねえ、さま……」

 

 この響きを、何度口にしたことだろう。

 

 物心ついた時からずっと、黒歌姉さまは私の傍にいてくれた。優しい声で白音と呼ばれ、頭を撫でられるのが好きだった。

 

 私と姉さまには両親がいない。父さまも母さまも、私が小さいころに死んでしまったそうだ。ただ朧げに、抱かれた腕の感触を覚えているばかり。

 

 私にとっての家族は姉さまだけだった。けれど寂しいとも悲しいとも思ったことはない。いつだって傍には姉さまがいてくれたから、小さな家族にそんな思いを抱く余地もなく、私は毎日幸せで、辛い生活にも耐えられた。

 

 姉さまが主さまの眷属になり、今までが比べ物にならないほどの豊かさを手に入れてからは、その辛さだって消え去った。泥水を啜る必要も、硬い地面で眠る必要もない。そんな幸せだけで満たされた日々に、不満などあるはずもない。

 

 優しい姉さまと二人、手に入れた安住の地。希望を持って明日を迎えられる暮らし。

 この幸福は永遠に続くものだと思っていた。

 

 だが違った。幻想は、唐突に崩れ落ちた。

 

「ねえ……さま……」

 

 あの時のことは今でも眼に焼き付いている。

 

 忘れたくても忘れられないあの衝撃。どんな時でも優しかった姉さまが、全身を血で真っ赤に染め、残虐な笑みに顔を歪ませ、燃える主さまを見ながら哄笑している。

 

 あの時、私が感じた激烈な動揺。言葉で表すにはあまりに強く、複雑すぎるが、それでも明らかな変化は内心に渦巻いている。

 

 アレは、姉さまではない(・・・・・・・)。そう思った。

 

 優しい姉さまがあんなことを、あんな顔をするはずがない。私の姉さまが、あんな恐ろしいモノであるはずがない。

 

 目にすることすら苦痛だった。姉さまの姿をした、姉さまではない何か。私の姉さまを乏しめるそれ。どうして姉さまはあんなにも悍ましいものに変わってしまったのだろう。

 

 リアスさまが教えてくれた。それは仙術のせいである、と。

 

 仙術。主さまに仕える眷属の中で姉さまが最も強く、最上級悪魔クラスの強さを持つと言われた所以の一つ。強力な力だ。

 

 姉さまは、他を圧倒する強力なその力に溺れるあまり、呑まれてしまったらしい。暴力に酔い、血に酔い、衝動のまま幾人もの悪魔を屠り続け、そして――

 

 死んでしまったそうだ。

 

 それは当時私に向けられていた数多の批難よりも、よほど強い衝撃だった。

 

 リアスさまにそう聞かされても、まるで現実感が湧かなかった。今までずっと一緒にいてくれた姉さまが、もうこの世に存在しない。唯一の肉親が死に、自分が天涯孤独の身となってしまったことが信じられなかった。

 

 ただ、何か大切なものが壊れたような虚無感と飢餓感を、私は延々と感じていた。

 

「――ぇ……さま……」

 

 空っぽの胸の内で疼く恐怖。頼りなく揺れる地面を踏みしめる不安。

 

 そして何より、すべての元凶たる仙術への絶望が、私の中の現実を埋めていた。

 

 姉さまを悍ましい何かに変え、挙句殺した力。私からすべてを奪い去った仙術が、恐ろしくて仕方がなかった。

 恐ろしくて仕方なくて、自分の中にその恐ろしい力が眠っていることに、絶望がなだれ込んだ。

 

 姉さまと同じ血が流れる私にも、仙術を扱う才が備わっている。かつて主さまに教えられ、抱いた誇らしさはもう欠片も残っていない。あの優しかった姉さまを殺した『力』など、どうして誇れよう。

 

 いずれ私も、この『力』に呑まれてしまうのかもしれない。姉さまのように、恩人であるリアスさまもサーゼクスさまをも裏切って、変わって(死んで)しまうのかもしれない。

 

 一年と少しを経て確立したその危惧は、今や絶え間なく私の心を締め上げ、押し潰そうと圧力を増している。

 苦しくて辛い思い。逃れたいと強く思うも、それができないことはわかりきっていた。姉さまは、もうどこにもいないのだから。

 

 生きている間、永久にこんな思いをせねばならない。気付けばもう、心は折れていた。私に耐えられるはずがない。耐えられたとしても、そうまでして生きる意味もない。

 

 そうなるくらいなら、いっそのこと消えてしまいたかった。ずっと昔に見た流れ星のように、痕も残さず、美しい夜空に吸い込まれてしまいたい。

 

 姉さまと同じように、私も一緒に、その煤けた暗闇の中に――

 

「ねえさま……」

 

 ――どうして私を置いていったの

 

 まつ毛の格子から汚れた暗がりをぼんやり眺め、私は自分の口が馴染んだ形に動くのを感じていた。

 

「――あら、目が覚めたの?」

 

 声のほうにのろのろと視線が移ろった。

 

 ぼやけた輪郭が徐々に形を取り戻し、視界に一対の瞳、次いで顔を捉える。

 

 私を見下ろす誰かは、優しく微笑んだ。

 

「ごめんなさいね、あたしはあなたのお姉さんじゃないの」

 

 少しハスキーな、女の人の声だった。

 

 知らない人だ。少なくとも姉さまではない。ふわふわとおぼつかない意識がようやく認めた顔立ちも、そうであると告げている。

 

 ならこの人は誰なのだろう。疑問に思うも、思考はそれ以上先に進まない。熱に侵されて全身が熱く、頼りない心地がした。

 

 そうやって、ただぼうっと優しげな女の人の顔を見つめていると、緩やかに回復を続ける五感に新たな情報がするりと入り込んだ。今度は男の人の声だった。

 

「――だーからよぅ、どんだけ言われようが、こいつをくれてやる気ぁねえってんだよぉ」

 

 身体は怠いが、それよりも好奇心が勝った。首を傾け、そっちを見やる。

 

 大きなシルエット。麦わら帽子らしきつばの広い帽子と提げた釣竿は、いかにも釣り人然とした雰囲気だ。小さな水たまりすらない中で釣り糸を垂らす格好は珍妙であるが、不思議に思う余力が戻る前に、その隣に腰かけるもう一人の男に気が付いた。

 

「そう言うな。何種もいるうちのたった一種だろう?盗んでも大した問題はないはずだ」

 

 周囲の暗がりに溶け込む黒ずくめ。釣り人と違って格好の特徴はないが、雰囲気がすごかった。言葉では例えにくい感覚的な圧力だ。背筋が寒くなるような、冷たく鋭い悪寒が脳裏をよぎる。

 

「お前の能力はオレの能力と相性がいい。考えてみろ、自在に具現化できるんだぞ?便利な『念魚』はオレのほうで扱ったほうがいいに決まってる」

 

「そーいう問題じゃぁねぇんだよぉ。おいらのオキニなんだってばぁ、【密室游魚(インドアフィッシュ)】ちゃんはぁ。こんだけかわいらしい子は他におらんってのぉ。……大体、『盗んでも』って何だよぉ。もーちょっと態度考えろってんだよなぁ」

 

 焦点が合い始めた視界に、その姿が横切った。

 

 大きな白い魚だった。話している男たちの頭上をのんびり泳いで通り過ぎ、私のほうに向かってくる。

 

 本能的に目で追って、夢中になるうちつぶらな瞳は目の前まで迫っていた。が、瞬間、何か嫌なものでも見つけたかのように突然身をひるがえし、引き返していく。

 

 ふりふり動いて去っていく魅惑の尾びれをやはり追いかけ、口の中に湧いた唾を呑むと、ふとどこからかやってきた生暖かい風が(獲物)を包み、私の顔を叩いた。

 

 おいしそうな匂いが全身に染みわたる。染みて、気付いた。

 

(これ……どこかで……)

 

 感じたことがあるような――

 

「……ッひ!!」

 

 唐突に記憶が蘇り、意識が一気にクリアになった。平衡感覚も取り戻して自分が横になっていることを自覚するや否や、反射的にその場から逃げ出そう立ち上がり――その一歩目も踏み出せずに倒れこんだ。柔らかなクッション、いや、どうやら膝枕をされていたらしく、足がもつれて女の人のそれから滑り落ちるだけに終わる。

 

 固い地面を転がり、巻き上がった埃に咳き込むと、その拍子に、己の全身を蝕む倦怠感に気が付いた。身体が酷く頼りなく、ほとんど力が入らない。

 それにどうやら拘束されてもいるようだ。己の身体を見下ろせば、腕もろとも戒め、お腹に食い込む銀の鎖が眼に入った。

 

 背筋が冷える。思い出したのだ。

 

 お土産屋さんでお饅頭を物色していた時。前触れもない落下感と直後の痛みに、声を上げる間もなく意識を落としたあの時だ。薄れる意識の狭間で感じたあの匂いによく似ている。

 

 そんな異常事態に紛れる明らかな悪意の存在が、私の恐怖に蘇っていた。

 

「うーん?パクノダぁ、ちび助起きたのかぁ?」

 

 咽喉がきゅうっとすぼまった。

 

「ええ、ついさっきね」

 

「想定よりずいぶん進行が遅いな……未覚醒でも特性は健在ということか?ふむ、興味深い」

 

 座っていた何かの機械から飛び降りると、黒ずくめの男はこちらに近寄ってきた。双眸が暗く煌めいている。

 

 倒れこんだ衝撃でくらくらする頭に加え、初めて味わう類の震えが私の意識に絡みつく。死の恐怖、とでも言うべき本能的な恐れは彼我の距離に比例して強まり、歩みを見つめるしかない私の精神を、今にも呑み込んでしまいそうなほど強く圧迫していた。

 

 けれどギリギリのところで踏み止まれたのは、こういう場合に言うべきこととして、その台詞をリアスさまに教え込まれていたからだった。

 

 慄く声帯を無理矢理軌道に乗せて、私はか細い声を押し出した。

 

「わ、私、白音は、魔王サーゼクス・ルシファーさまにその身の安全を、ほ、保障されています。私に手を出すということは、魔王さまの決定に反する、反逆と同義、です。い、いの、命が、惜しくば……」

 

 しかし、威を借りた虚勢はそこで限界を迎えた。

 

 私のか細い警告など、耳にも入っていないらしい。男はよどみない足取りで目の前までたどり着き、その長身から私をじっと見下ろした。

 

 底まで響くテノールで小さく笑う。

 

「威勢のいいお嬢さんだな。だが生憎、オレたちは冥界の出ではなくてな、畏れてはやれないんだ」

 

「ふふ、そうね、あたしたち人間だから」

 

「そうじゃぁなくても知ったこっちゃねーけどなぁ」

 

 笑声。和んだ雰囲気を醸し出す三人とは裏腹に、私の心身は震えあがっていた。唯一のよすがを失い、混乱が頭の中を席捲する。

 

 なら、私を疎む悪魔たちではないのなら、

 

「だれ、なんですか」

 

 黒ずくめの男がにやりと笑った。

 

「『蜘蛛(クモ)』、さ」

 

「……く、も?」

 

 呆然と音をなぞる。

 

「『幻影旅団(げんえいりょだん)』っちゅー盗賊だよぉ。通称が『蜘蛛』なのさぁ。んでなぁ、それだけでわかるだろーってふんぞり返ってるそれが、団長のクロロでぇ、ねーちゃんのほうがパクノダ、おいらはサンペーだよぉ。短い間だけども、よろしくなぁ、ちび助よぉ」

 

「……名前まで教えてやることはないだろう」

 

「構いやぁしねぇだろぉ?目覚めちまったからにゃぁ、どーせ記憶は消さなきゃなんねぇんだしぃ」

 

「少なくとも、あんたが言っていいセリフじゃないわね」

 

「なんだよぉ、しょうがねぇだろぉ?団長の言うとーりぃ、特性ってーのがあったんだからぁ」

 

「だとしても、よ。実際に苦労するのはあたしなのよ?無駄な面倒をかけないでほしいわ。ねぇ、白音ちゃん」

 

 同時に身体を持ち上げられ、全身が恐怖で凍り付く。

 

 抵抗もできずに女の人、パクノダの膝の上に戻された私は、防衛本能が呼び起こしたなけなしの勇気に縋って口を開いた。

 

「ひ、人の盗賊が、なら、な、なんで、私は、どうして、こんなことに……」

 

 恐怖からの逃避にどもり、困惑を叫んだ私の悲鳴は、どうやら黒ずくめのクロロからその興味を引き出し、刺激することに成功したようだった。

 

 彼は近くに転がっていたドラム缶に腰を下ろし、あの暗い煌めきで私を見つめて言った。

 

「知らないわけはないだろう。お前が猫魈だからだ」

 

「……っ」

 

 喉の奥で、掠れた空気の音がした。

 気付くことなく、クロロは続ける。

 

「妖怪、猫又。その中でも特に希少で、かつ仙術という特異な力を扱うことができる種族。レアの二重奏だ。身体の一パーツでもすさまじい価値が付くだろう。そんなお宝は、コレクターにとって垂涎の的。生きていればなおのことだ」

 

 つまり、私は――

 

「売られる、の……?」

 

 自身が誘拐されたことをようやく認識して、足元からじわじわと、何か不穏なものが上ってくる。どこか見覚えのある煌めきも含めて妙な既視感に意識を持っていかれそうで、私は震えてクロロから眼を逸らした。

 

 その先で、運の悪いことに今度は釣り人、サンペーと視線が繋がった。

 

「おまけに器量もいいからなぁ。猫又ってやつぁ、毎年の競りでも五指に入る人気商品なんよぉ。ちび助の顔なら、愛玩用でもいい値が付くだろうなぁ。群がってくるぜぇ、人じゃぁ満足できねぇ変態共がうじゃうじゃとぉ。そういうんは普段発散できない分、ぜぇんぶまとめてぶつけんだぁ。イカれるまで弄ばれて、手加減も気遣いも一切なしよぉ」

 

 そう言って知識に疎くとも、それが怖いことなのだという実感の迫力は、十分すぎるほど私の精神に恐怖を与えていた。許容量は限界寸前で、絶え間ない悪意が縁をぐいぐい押している。

 

 決壊しかけのそれに、再び悪念が注がれた。

 

「……なぁ、耐えきれずに気が触れた奴らぁ、どーなると思う?」

 

 口ひげを撫ぜ、ゆったりとした語調をそのままに、低く悪く笑う。

 

「大半はバラされるなぁ。妖怪の身体はどこもかしこも人気があっからぁ。ほらぁ、妖怪の肉を喰えば不老不死になるとかよぉ、あるだろぉ?そういうの、信じてる輩も結構おるんよぉ。

 んでぇ、もう一つ。本物の変態に限るんだけどもぉ……一回でかい屋敷に盗みに入った時、おいら見ちったんだよねぇ」

 

 これ見よがしに息を吸い、開けた間が、有無を言わさず私の意識を縛り付ける。

 

 まるでそれは、十字架に磔にされているかのようで、

 

「廊下にずらぁっと並んでんのよぉ。どこ見てるかもわからねぇ笑顔でぇ、素っ裸の剥製が――」

 

 目に見えた槍に、私はとうとう、明確な末路を悟ってしまった。

 

「や、やだ……やだああぁぁ!!」

 

 軋む身体が跳ね飛んだ。パクノダの腕と、身を戒める鎖を解けず、身を捩って半狂乱に暴れる。

 

 リアスさまのお屋敷にある鹿の剥製。記憶の中のそれが、私の姿に変わっていた。生気のない眼で身動き一つせず反対の壁を見つめ続ける己の姿は自身の根幹が融解していくかのような強烈な恐怖で、耐えることなどできなかった。

 

 だれもいない暗闇めがけて独り、恥も外聞も捨てて泣き叫ぶ。

 

「たすけっ……たすけてぇ!!リアスさま!!サーゼクスさま!!たすけて……」

 

 ――。

 

 脳裏に浮かぶ人影に向けて、精一杯手を伸ばす。届くはずがないとわかっていても、やめられない。その姿が段々白んでいっても、やめることができない。

 

 早くも声が枯れ、同時に脱力感も耐えがたいものとなり始めた頃、いつの間にか寄ってきていたサンペーが、竿を片手に私の痴態を笑った。

 

「あーはははぁ!そう大声出すなよぉ、耳がキンキンすらぁ。そう無駄に心配せんともぉ、どんだけ泣き叫ぼうが届きゃぁしねぇよぉ」

 

「サンペー、それくらいにしなさい。さすがに悪趣味だわ」

 

 パクノダが諫める。だが反省の様子もなく、サンペーは変わらず同じ調子で嘲笑する。

 

「あぁ、悪ぃ悪ぃ。詫びに一個教えてやるよぉ、ちび助。そーいう変態共は総じて恋愛の経験がねぇからなぁ、媚び売ったら案外コロッと堕ちるかもしんねぇぜぇ?逃げ出せりゃあ、その『サーゼクス様』とやらにも見つけてもらえるだろうよぉ。まぁ、リアスのほうはぁ……ぐふふふぅ」

 

「サンペー!はあ、全く……」

 

 響いた批難の声が頭の中をぐるりと回る。脳天からつま先までがじぃんと痺れ、末端は溶けてしまったかのように感覚がおぼろげだ。

 

 精神に続いて肉体も限界を迎えたのだろう。しかし当然どうしようもなく、少しずつ暗転に向かう意識は純粋な恐怖のみを生み出し続ける。無慈悲に心へ注がれるそれを、私は黙って受け入れ、見守ることしかできない。

 

 抵抗らしい抵抗もできなくなって、身体がパクノダの膝に沈みこんだ。

 

「あら、そろそろ『オーラ』も限界かしら。疲れたならいいわよ、寝ちゃっても」

 

「おぉ?さっきあんだけ言っとったんにぃ、アレは後回しでいーんかぁ?なぁ、団長?」

 

「……お前次第だ。どうだ、調子は」

 

 すぐ近くから動いていないのに、遠ざかる声。頭と五感が上手く働かなくなってきたのだろう。意識が朦朧としている。

 

 最悪の結末が確定しつつあるにもかかわらず、力尽きた心身は呼吸をするだけで精いっぱいで、もはや助けも叫べなかった。

 

 このまま意識が落ちれば、次に目に映るのはサンペーが言った通りの悪夢だろう。リアスさま、サーゼクスさま、優しくしてくれた屋敷の皆にも二度と会えず、弄ばれ、いつか剥製にされてしまう。

 

 姉さまのように消えることもできず、永遠にそこに囚われてしまう。

 

 それは単なる死よりもよほど恐ろしく思えた。想像が転じ、自傷の妄想ばかりを繰り返す悪循環。逃げることも立ち向かうこともできない八方塞がりの状況は、僅かに残った気力すら根こそぎ奪い去っていった。

 

 そんな中、悪意に満ちた場の雰囲気が、不意に崩れた。

 

「ちょーど今まさに、さぁ。ちゃぁんと連れ込めたみたいだしなぁ、すぐにぱくっとぉ……うぅん?」

 

「……どうした」

 

 クロロが顔を上げ、眼を向けた。引っ張られるようにして、半ば抜け殻と化した私も追随する。

 

 サンペーは打って変わった真顔を作り、構える竿に向けたしばしの凝視の後、リールを巻き始めた。

 

「針がぁ……外れたなぁ」

 

 信じられない、というふうな呟きに二人も不穏を感じ取り、息を呑む。

 

「正確にゃぁ、おいらの【箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】ちゃんが倒された、ってーわけだけどもぉ……」

 

「倒された?なんでそうなる前に言わないのよ」

 

「いやいやぁ、そうじゃぁなくてぇ……たった今ぁ、一瞬でやられちまったんだよぉ。……糸が切れてからほーんの少しで手ごたえが消えたんだってばぁ」

 

「……それこそ意味がわからないわ。ウボォーの【超破壊拳(ビックバンインパクト)】にも耐えた硬さでしょう?たとえ妖怪か悪魔の仕業だとしても、お守の連中じゃあ到底……。つまり、お姫様への暗示が何かの拍子に外れて、消滅の魔力を使われたってことなの?でも――」

 

「あぁ、そりゃぁねぇなぁ。いくら防御力を無視するっつーてもぉ、【箱車誘魚(ハイエースフィッシュ)】ちゃんの体積を一瞬ってーのはちっとばっかし無理があんだろぉ。そーなる前に腹ん中だろーしぃ……それにぃ、そんだけの『力』があんならそもそも誘導自体が成功しねぇよぉ。おいらは『操作系』じゃあねぇかんなぁ……うぅん……」

 

 意味は右から左へ抜けていくが、身の竦む圧力が逸れたことは私にもわかった。各々黙り込む中、恐る恐るで周囲をうかがい、見回す。

 

 その瞬間、図ったかのようにクロロが腰を上げ、椅子代わりのドラム缶が転がって反響した騒音が鳴り響く。私の心臓はまた縮み上がった。

 

「パク、今すぐアレをやれ。処理のほうはその後でいい。サンペーは戻る準備だ。急げ」

 

「……あいよー、団長」

 

「了解」

 

 短く言い合うと、三人とも一斉に動き出した。何事かと身を硬くする私はパクノダに軽々抱き上げられ、取り残されたドラム缶の上に座らせられる。

 

 元より逃げるという発想すらもう頭にはなかったが、私の髪を梳くように撫でつつ佇む彼女を前にしてしまえばあらゆる方面で逃げ場はなく、真正面から向けられる眼差しにも、それを真っ向から返す以外の選択肢は存在しなかった。

 

 恐怖心を押し殺して彼女を眼に映し、その口の動きを、審判を待つ罪人のような心地で辿る。

 

「ごめんなさいね、白音ちゃん。今からあなたに質問するから、正直に答えて。すぐに終わるわ」

 

 深い瞳で私を捉え、言った。

 

「あなたは仙術について、どれくらいのことを知ってるの?」

 

 ずるり、と、

 

 頭に置かれた手を伝って、得体の知れぬ何かが脳にねじ込まれたような感覚がした。反応する間もなく身を貫いた不快感が、奥底目指してじりじりと進んでいく。なぜだかはわからないが、それが良くないものだと本能的に理解した私は、必死になってその侵入に逆らった。

 

 眼前で眉を顰めるパクノダにも気付かないくらい、集中力をかき集めての決死。しかし、進行を止めるには至らなかった。

 

 時間にして何分か。あるいはもっと掛かったのかもしれないが、結果、私の抵抗は破られた。耳朶にまた、あのハスキーな声色が響く。

 

「……もう一度訊くわ。白音ちゃん、あなたはどこまで仙術を知ってるの?」

 

 何かが、記憶が浚われ、表層に顔を見せた。

 

 私にとっての仙術(絶望)。瞬く間に幸福の記憶が流れ去った後、ことさら粘ついた黒がそこだけを緩慢に、瞭然たる光景を蘇らせる。

 

 破壊されたお屋敷を舐めるように広がる炎。息が詰まりそうなほど濃い血の臭い。あちこち転がる無残な死体。真っ黒になって気持ちの悪い臭気を放つ主さま。

 

 そして――

 

「や……いやぁ!!」

 

 止まらない。何度も何度も繰り返し思い出し、その度にもう見たくないと奥底に押し込めたそれが、どうやっても忘れることができなかったそれが、拒絶を無視して無理矢理引きずり出されていく。

 

 私の感覚野を引っ掻き回して通り抜け、掬い上げられる。瞼のない記憶の世界は、その浮上から決して目を背けられない。

 

 思い出してしまう。姉さまの、変わり果てた(邪悪な)姿が――

 

 ―――

 

(――え?)

 

 焼き付いた再生であるはずの記憶に、一筋、知らない光が零れ落ちた。

 

(ねえさま)

 

 炎の中に消えるそれを手繰り寄せ、私は初めて、頭を押し下げる記憶の圧に抗う。

 

 ノイズに隠れる姉さまの心に

 

 ――どうして、泣いてるの?

 

 声もなく、呟いた。

 

 ―――。

 

「はぁ、はぁ、ひゅう……」

 

 いつの間にか、追憶は終わっていた。その間呼吸が滞っていたことに今更のように気付き、必死に肺を伸縮させる。元からの疲労も合わさって、今すぐに意識が飛びそうなほどの息苦しさ。

 

 そんな破滅を目前にして、私は未だに追憶を見つめていた。

 

 あれはいったい、何だったのか。

 

 私の記憶であるはずだ。あの時の、最も忌まわしい記憶。私の姉さまが、遠くに行ってしまった時の光景だ。

 

 でも違う。私は、あんな姉さまを知らない。私の知っている姉さまには、あんな涙を流すような弱さはない。

 

 刹那的で短絡的で悪戯好きで、色々世話が焼けるけど、産まれた時からずっと私を守ってくれた優しい姉さま。眷属の誰よりも強く、いつも笑顔で私を気遣ってくれた強い姉さま。

 

 あの人のあんな涙、暗い嘆きを、私は知らない。

 

 あれもまた、仙術によって変わってしまった姉さまだったのだろうか。

 

 そうは思えない。私が恐れた仙術はあんなものでは、胸を締め付けられるような痛みに喘ぐものではないはずだ。

 

 私の瞳に、悲しみの涙を溢れさせるものではないはずだ。

 

「……可哀そうね、あなたのお姉さんも、あなた自身も」

 

 頬を伝う滂沱の雫が滴り落ち、鏡面にパクノダの憐れみが映る。服の上に消えたそれに遅れ、私はぎこちなく顔を上げた。

 

 額に、冷たい銀が付きつけられた。

 

「その記憶、あたしが消してあげようか?」

 

 焦点を絞る。滲んだ視界でも、その銀が拳銃であることがわかった。

 

 金属の温度と同じく冷やかに、しかしどこか穏やかな声色で、パクノダが言う。

 

「もうどうしようもない、辛いだけの記憶。この先平穏に暮らすには、邪魔な記憶。忘れたいのなら餞別に一つだけ、後悔を消してあげる」

 

 ――さあ、どうするの?

 

 指がトリガーに掛かり、撃鉄が起こされる。ゆっくりと引き絞られ、弾倉が淡く輝くと共にキリキリと回り出す。

 

 制限時間が迫っていることを意識しつつも、私の頭は真っ白だった。パクノダの言葉を理解し、判断を下すだけの余力は存在していない。

 

 しかし薄く開いた私の口は、最初から答えを決めていた。

 

 溢れんばかりの感情が、その形にゆるゆると動く。

 

 それを認めて、パクノダが微かに微笑んだ。その直後だった。

 

「――ッッッ!!!」

 

 濁流。

 

 あらゆる負を一纏めにしたかのような禍々しい気配が、突如として周囲一帯に溢れかえった。

 

 三人から受けた悪意がそよ風に思えるほどの、すさまじい圧力。死さえ生ぬるい激烈な戦慄は、瀬戸際にあった私の意識を容易く呑み込み、沈める。何かを叫ぶサンペーたちの声もはるか遠くのもので、たちまち闇に落ちゆく私は、無意識に天を仰いだ。

 

 心を占める感情。口にしたその想いを、果てしない姉への恋しさと愛しさを、その瞬間、天を貫いた夕闇と人影に掲げた。

 

 今度こそ、届くことを願って。

 

 黒歌姉さま――

 

 私の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 

「――白音ッ!!」

 

 反射的にぶち抜いた天井の奥にいたのは、間違いなく、白音だった。

 

 ピトーの報告通り、その身体からは『気』がごっそりと抜け落ちている。『精孔』の一部が開いてしまっているところを見るに、それは悪意によるものではなく気脈の影響なのだろうが、それにしても一年ぶりに眼にした彼女の姿は痛々しいものだった。

 

 気を失った瞳は薄いまつ毛に伏せられピクリとも動かず、全身は力を失い垂れ下がる。その拍子に見えた首元は骨ばっていて、記憶より背が伸びているにもかかわらず、ずっとやせ細っているように見えた。

 

 栄養不足。しかし、食べ物を得られなかった、というわけではないだろう。なにせあの子はリアス・グレモリーに気に入られている。あの貴族悪魔の住む屋敷では、私が供せるものよりも数段等級の高い料理がいくらでも出てくるだろう。

 

 つまり、私の罪だ。

 

 込み上げる衝動に拳を握る。罪悪感と後悔に胸を突かれ、だからこそ私はその痛みのすべてを拳の中に押し込んだ。

 

 波板の鉄片と木くずが舞い散る中、眼中に開けた奴らの驚愕顔に意識を向け、己が眼でピトーからの情報と照合する。それこそが贖罪だと衝動に言い聞かせ、加速した思考の内に捉えた。

 

 ほとんどピトーが言った通りだ。数は四。男が二人に女が一人、おまけに『念魚』。彼女の『円』に晒され、直後突然の襲撃に見舞われたにもかかわらず、人間三人の『気』は乱れない力強さを保っている。たぶん、全員が高レベルの念能力者だ。

 

 とはいえ、そんな奴らでもピトーの『気』が生み出す激甚なる戦慄を完璧に御することはできなかったらしい。

 

 理性は平常であろうとも、本能は竦み上がる。当然だ。引き起こされた身体の硬直はわずかの間だが、それによって私の狙いは標的に絞られた。

 

 男二人は間に合わぬ位置。白音に銃口を向ける、女の元へ。

 

「ッ!パク!!下がれ!!」

 

 やたらと顔のいい青年から飛ぶ指示は、しかしどう考えても遅すぎる。白音を抱えて飛び退るその前に、確実に私の一撃が刺さるだろう。

 

 確信を抱き、自由落下が終わりを迎える。パクと呼ばれた女の引きつった恐怖まで、凡そ二歩分の距離。衝動任せの拳を振りかぶった、ちょうどその時、

 

 釣り人風の男が、私めがけて何かを放り投げた。

 

 薄ピンクの、ゴルフボール大の塊。矢のように迫るそれに『気』が込められていることを見破って、私はやむなくもう片方の手を伸ばす。

 

 接触。そして破裂。生臭い臭いが広がるも、防御した手の平にダメージはない。

 

 訝る間もなく、次なる矢が飛んできた。

 

 宙に浮く白い魚、いや『念魚』だ。なるほど薄ピンクはマーキングか何かなのかと疑念をなだめ、都合よく手の平を目指すそれを迎え撃つ。横目に見たその姿はなぜかすでにボロボロで、所々が消えかかっていたが、原因は放置して仙術を行使する。

 

 虫の息であった魚は、開いた口先が私の皮膚に触れた瞬間に崩壊した。淀んだ空気を切り裂き、消えた障害の残滓を払って、私は一歩を踏みしめる。

 

 その時、左耳でビィンと何かが震える音がした。開いた天井の暗い夕で煌めく、一本の極々細い光線。

 

 背後に伸びる釣り糸に気付き、振り返ると同時、

 

「来いやぁ!!【一本気魚(ストーカーフィッシュ)】ゥ!!」

 

 古びたコンクリートの地面から、魚が釣り上がった。

 

 カジキマグロのような鋭いツノとヒレ。しかしあれよりはずっと丸っこく、サイズも小さく鰹くらい。しかし色はけばけばしいショッキングピンクで、色彩の薄いこの空間ではすさまじく浮いていた。

 

 そんな奇抜極まった『念魚』と、たぶんその時眼が合った。

 

「――なッ!!」

 

 途端に『念魚』は、その姿が霞むほどの速さで突撃を開始した。狙いはもちろん私。そしてその直線状には女と、白音。

 

 まさか味方ごと――ッ!!

 

 きちんと避けるのかもしれないが、それを試す気にはとてもなれない。何よりこのままでは私も危険だ。身で受けるとしても、あの速さでは仙術も間に合わず、『念』だけで防御しきれるとも思えない。

 

 歯を食いしばり、私は反転した。残ったダッシュの勢いで地面を滑りながら拳を解き、突っ込んでくる『念魚』と対峙する。

 

 正面から見ればゴマ粒のように小さいツノ。このピンクの閃光を捌き損ねれば、下手をすれば心臓を貫かれるだろう。死に至るかもしれない可能性に冷や汗が浮く。

 

 だが、そんな恐れは宙の埃と一緒に吹き飛んだ。

 

 ピトーだ。

 

 目にも止まらぬ速さで突き進む『念魚』を、それ以上の速度を以って捕らえたのだ。

 

 銃を突き付けられた白音の危機に気が急いた私と違い、トタン屋根の上で至極冷静に機を伺っていた彼女は、天井を蹴ってその速度を得たのだろう。たちまちの轟音と土煙、撒き散らされる石礫に私は少しだけ口角を上げ、再度の反転をした。

 

 すると正面、敵の動きにそれを見る。

 

 結果的に隙と時間を与えてしまうこととなった一回転だが、しかしそれによって私にも得るものがあったらしい。

 

 いつの間に寄ってきていたのか、女の前に出てナイフを突き出す青年。私が『念魚』の相手をしているうちに背を刺し貫こうと、策を講じたその表情には驚嘆の色。

 

 不意を突こうとした奴らの、さらに不意を突けた恰好。実際、肘まで伸び切った突きを躱すのは容易だった。

 

 するりと抜けて懐に入り、去り際で突き飛ばす。開けた直線。先には白音を抱える女。

 

 今度こそ――

 

 一跳びで詰め寄り、正拳突きを打ち放つ。

 

 が、またしてもそれは阻まれた。

 

 ――パシ

 

 想像以上に軽い音。驚愕で顔を上げると、釣り人の男が片手に私の一撃を受け止め、嘲りの笑みを口にしていた。

 

「なんだぁ、すげーパンチだなぁ、ねーちゃんよぉ」

 

 響きに一瞬息が詰まる。故に、男が突然頭を横にずらした時、思惑を理解するのにコンマ数秒の遅れが生じた。

 

 奴の肩越しに眩い閃光と、発砲音。女の拳銃が火を噴き、唸りを上げて鉛玉が飛来する。

 

 瞬時に冷えた頭で身を反り、眉間を狙う凶弾を紙一重に避ける。しかし後傾して崩れた体勢はすぐには戻らず、当然、続く攻撃への対処も叶わなかった。

 

「そらァ!!」

 

「――っくぁ!!」

 

 顎に衝撃が突き刺さる。脳が揺れ、平衡感覚が消え去った。『気』の防御で失神は防いだものの、前後不覚の状態は仙術でも即座には回復しない。少なくとも一秒はかかるだろう。

 

 たかが一秒、されど一秒。高速戦闘の真っ只中では気の遠くなるほどの長い時間だ。それだけの間、私はピトーの負担になってしまう。

 

 唇を噛み、地を掴んだ足を踏ん張る力技で吹き飛ぶ身体に制動をかけながら、入れ替わりに突撃するピトーの背を見送った。

 

 だが戦況はめまぐるしく、またしても事態が変化する。

 

 後方からの観察で、今度は間違いなくその揺らぎを捉えた。

 

 後ろ手にした釣竿がしなり、男の背後の地中から大きな『気』の塊が顔を出す。あの時のチョウチンアンコウや消えかけだった白い魚、ピトーが潰したピンクよりも数段強力な気配を発する『念魚』は、釣り上げられると同時に私に照準を絞った。

 

「大当たりィ!!やれぇ、【双頭爆発鮫(ファンタスティックシャーク)】ちゃぁん!!」

 

 鮫だ。しかも二股に分かれて頭が二つある。人一人を簡単に丸呑みにできそうなサイズが大口を開けて迫ってくる光景は恐怖と同時にチープな二流映画を想起させられるが、どちらにせよ、私もピトーもその食道に消えるような事態には陥らない。

 

 腕力と格闘センスに於いて私など足元にも及ばない能力を有するピトーは、私に向かってくる鮫にすれ違いの際、横合いからの裏拳を叩き込んだ。

 

 ようやく静止した私にも届くほど激しい打撃の衝撃。いかに強力な『念魚』であろうとも、その威力の前にはひとたまりもなく倒れ伏すだろうと確信する。

 

 その想像は当たっていた。だが、同時に外れてもいた。

 

 拳が鮫の肉に食い込み、やがて破って穴を穿つ。その瞬間、変質した鮫の『気』に、私は強烈な悪寒を感じ取った。

 

「――ッ!!フェル!!」

 

 叫ぶと同時、揺れる地面に歯向かい飛び出した。振り返った横顔に浮かぶピトーの動揺を認め、一層の気力を振り絞る。

 

 ドクン、と鮫が脈動した。そこでピトーも不穏に気付き、突き込んだ拳を引き抜こうとする。しかし肉が吸い付くように絡みつき、取れない。

 

 最も単純な方法の試行。それだけの時間で、離脱のチャンスは潰えた。

 

 覚悟を決め、精神集中に意識を向ける。だがそのあまり、元より不確かだった脚がもつれた。諦め、今度は残った全力を以って跳躍する。ほとんど脇腹へのタックルだが、おかげで二度目の脈動に間に合った。

 

 ドクン

 

 鮫の肉体が膨れる。同時にピトーに抱き着いた私の手が、ザラザラとしたその皮膚に触れた。

 

 火事場の馬鹿力、というやつだろう。鮫の膨張は瞬時に止まり、石のように固まった。片腕で私を受け止めたピトーに支えられながら、『念魚』を解し、空気に散らしていく。

 

「ごめんねウタ、ボクが迂闊だった。……頭は平気?」

 

「大丈夫、もう治ったわ。元は私が先走ったせいだから、気にしないで。それよりも――」

 

 頭を一振りして重心の不安定を吹き飛ばし、しっかりと二本足で立ってそっちを見やる。鮫を完全に消し去ったことで膠着が生まれた戦局で、釣り人の男が不敵に笑っていた。

 

「なるほどなぁ……変だと思ってたんだぁ。リアス・グレモリーを助けたの、あんただろぉ?眼鏡のねーちゃんよぉ」

 

 一瞬、『眼鏡のねーちゃん』って誰だと訝しむ。すぐに鼻の上に乗った伊達眼鏡の存在を思い出すと、ボロが出ないうちに挑発を返した。

 

「……さあね、どうかしら。こんなにあっさり倒せるなら、別に私じゃなくても誰にだって退治できるんじゃない?まさか触っただけで死んじゃうなんて思わなかったわよ。随分ひ弱なお魚ね」

 

「……ねーちゃん、案外と抜けてんのかぁ?そうでなくともわかりきってんよぉ。ねーちゃんが念能力者で、おいらの『念魚』ちゃんを消し去ってるってこたぁ。しかもあんなにあっさりとぉ……いったいどんな仕掛けなのかぁ、ぜひとも知りたいねぇ」

 

 どうやら私が仙術使いだということには気付いていないらしい。まあ当然というべきか、私のそれが何らかの『発』であると誤解している。超希少な仙術の使い手がこの場にいるなど、奴らは考えもしなかったのだろう。

 

「ふん。それこそ敵に教える義理なんてないわ。勝手に頭でも何でも捻ってなさいよ」

 

 ほくそ笑む内心を押し隠し、仏頂面で悔しげに言ってやる。騙せてるかなと睨んだ男の顔は、迫力の笑みをさらに深めた。

 

「おいらの【双頭爆発鮫(ファンタスティックシャーク)】ちゃんはよぉ、倒されると爆発して分裂するはずなんだぁ。実際、そうなりかけてたろぉ?なのに何も起こらず消滅してる、ってぇことがそもそも普通じゃねぇんだよぉ。……まあ、そーいう意味では――」

 

 ピトーに向かって目を眇める。

 

「そっちのエロいねーちゃんも大概やべーけどなぁ。さっきの『円』は不覚にもビビっちまったしぃ、パワーもどうやらウボォーギン並みだぁ。……ふぅむ、参ったねぇ。『念魚』ちゃんは消されるしぃ、力勝負も勝てそうにねぇなぁ」

 

「そう思うんなら、さっさと諦めてくれる?」

 

 ピトーは男が背後に庇う女とその腕の中の白音を一瞥し、

 

「ボクたちの目的はそこの白音の救出なんだよね。彼女が手に入れば、後はどうだっていい。今なら見逃してあげてもいいよ。ねえ、そっちの」

 

 次いで横、私が突き飛ばした青年を静かに見やって宣告した。

 

「オマエがリーダーでしょ?ほら、さっさと決めないと、今度こそ殺すよ?」

 

 なんと、あのイケメンがリーダーだったのか。

 ピトーの慧眼に敬服を禁じ得ない。心の中で拍手をしつつ、私も焦点を下げ、そいつの姿を視界に入れた。

 

「……来るなら、悪魔か妖怪だと思っていたんだがな」

 

 自然体に構える青年が、やけに落ち着いた調子でそんなことを言う。

 

 対してピトーは余裕綽々に肩をすくめ、苦笑した。

 

「色々ごたごたがあったんだよ。仲違いしちゃったらしくてさ、ボクたちみたいなのにお鉢が回ってきたってわけ。おかげさまですごく有意義な仕事だったにゃ」

 

「なるほど、それはよかった。全く、オレたちも運がないな」

 

「ほんとにね。報酬のお金、分けてあげたいくらいだよ」

 

 場違いに和やかな会話が二人の間に膨らむ。こういった含みだらけの話を苦手とするのはどうやら私だけではなかったらしく、釣り人の男は痺れを切らし、呆れ眼で前に出た。

 

「んでぇ、どーすんだよぉ団長。やるんかやらんのかぁ」

 

 大仰な身振り手振りで嘯く奴に青年は数秒黙考して、ため息混じりに女に言う。

 

「パク、ガキをサンペーに渡せ。ご厚意に甘えようじゃないか」

 

「……わかったわ」

 

「まぁ、しゃーねーわなぁ」

 

 なんともあっさりとした決着だった。誰が反対するわけでもなく、滞りなく白音の身柄が釣り人の男に渡る。奴はそのひげ面に似合わぬお姫様抱っこで白音を運び、対峙する私たちの中間に横たえると、何もせずに下がってしまった。

 

 ……こんなにも簡単に、事が進んでしまっていいのだろうか。

 あっけなさ過ぎて何か大事なことを見落としている気さえする。しかしどれだけ目を凝らせど体外体内共に『絶』状態以外の不審は見つからず、ピトーに目配せされるまま、私は釈然としない感覚と共に、二年近くぶりに白音の身を己が腕に抱くことが叶ったのだった。

 

 久しぶりの抱っこは、やはりその痩せ身のために大した重さを感じなかった。成長しているのに、体重は据え置き。下り始める気持ちを、まだ作戦の最中だと振り払い、私はピトーに頷いた。

 

「……うん、よかった。これで依頼完了だね」

 

「……ね」

 

 腕の中の白い頬を撫で、呟く。

 

 そうだ。どうであれ、白音を助けることはできたのだ。その他に何が必要だろう。奴らに何の思惑があろうが、どうでもいい。

 

 後は、八坂様の領域なのだから。

 

「確認は済んだかぁ?ならぁ、おいらたちももう失礼するぜぇ。手ぶらってのは癪だけどもぉ、命あっての物種だしぃ……あれぇ?」

 

 男は自身を見下ろし、首を捻る。

 

「なんかぁ、身体が動かねぇんだけどぉ……」

 

 ギ、ギ、ギ、と、私たちの後方で、錆びた鉄扉が引っ掛かりながら滑りだした。

 独りでに空いた一人分の隙間から、沈みゆく日の斜光を背に彼女が姿を現す。

 

 辺りを妖力の薄膜で包み、それをじりじりとバレないようにゆっくり敵へ伸ばしていた八坂が、今まさにそれを完遂して、宣言した。

 

「年貢の納め時じゃ、曲者ども。妾の治める京を荒らし、ただで帰れると思うたか?その傲慢と罪、我ら妖怪が正してやろう」

 

「なぁ!おぃおぃ、フェルさんにウタさんよぉ、見逃してくれるんじゃねぇのかよぉ!」

 

 喚く男を振り返りもせず、白音に眼を落したままピトーが答える。

 

「ボクたちは見逃すよ?ボクとウタはオマエたちに手を出さない。八坂はどうか知らないけど」

 

「なんだそりゃぁ!ちくしょー騙しやがったなぁ!鬼ぃ!悪魔ぁ!人でなしぃ!」

 

 九尾の妖力に締め付けられながら地団駄を踏み、しかし間延びした語調で吐かれる気の抜けた罵声。割と事実だが聞き流し、ついでに不気味なほどおとなしい他二人を一瞥してから、私は奴らに背を向けた。

 

 そのため目にした八坂の顔は忌々しげ、あるいは不安げに歪み、それらを押し隠す強い調子で言い放った。

 

「……元気なのは結構じゃが、そのような調子では持たんぞ。日頃人を襲えずに鬱憤が溜まっているような血の気の多い者も、我らの中には少なくないのじゃからな」

 

「うっせーやぃ!そんなことより自分のことを顧みやがれってんだよぉ!大妖怪が人相手にこんな騙し討ちみてぇなマネ、恥ずかしくねぇのかぁ!」

 

「人攫いに対する仁義など、ありはせん。口が止まらぬなら、せめて神妙にしておれ。どれだけ暴れようが、念能力者ではそれは解けんぞ――っと……」

 

 苦虫でも噛み潰したような顔。捕らえた三人を睨んでいた彼女はその内心のおかげで今更私たちの退散に気付き、すれ違う直前、辛うじてそれを引き留めた。

 

 ちょいちょいと、同じ顔のまま無言で手招きをし、至近距離まで顔を近づけささやいた。

 

「のう、フェル殿、ウタ殿。言ってしまった手前憚られるのじゃが、応援の者たちが来るまで、妾と共に見張りをお願いできぬか。奴らの態度がどうにも不自然で気にかかる」

 

「えー……やだよ見張りにゃんてつまらないこと。……九尾なんだし、転移術くらい使えるでしょ?不安ならさっさと飛ばしちゃえば?」

 

「きちんと手順を踏まねば裏京都には入れんのじゃ。そうつれないことを言うでないよ。我らはママ友ではないか」

 

「関係ないでしょ、それ。ただ働きをする気はないにゃ。ねえ、ウタ?」

 

「……え?ああ、うん、そうね」

 

 微妙にむず痒い単語に反応が遅れ、口の中で咳払いをしてから内輪に続ける。

 

「白音も、ちゃんとしたところで寝かせたほうがいいわ。『気』が空っぽな上、フェルの『円』にも当てられちゃったみたいだし」

 

「……ああ、何で気絶してるのかと思ったら、ボクのせいだったの。これ、どうにかならないかにゃあ。九重にも怖がられちゃうし……」

 

「………」

 

 また一単語。今度は眉間にしわが寄り、独りでに喉が鳴った。

 

 誰にも聞かれなかった小さな不満はもちろん考慮されず、八坂からさらなる鋭利となって発せられ、私を波立たせる。

 

「そうじゃ!ならば報酬は裏京都にて受け渡すこととしよう。来ざるを得んじゃろう?居るのは妖怪ばかりなうえ、その案内がなければ入れぬ場所じゃ」

 

「あれ、支払方法は口座振り込みって言ってたと思うんだけど。封筒なんかには入らない額だし、小切手でもくれるの?陰険だにゃあ」

 

「『打ち上げ』というやつもやろうではないか!妾おすすめの京料理を用意しよう。九重も喜ぶぞ?」

 

「……まあ、絶対に嫌ってわけじゃないんだけどさ」

 

 波立ち、そんでもっての彼女の陥落に、割とすぐ堰を越えた。

 

「そーいえば街歩いてた時もだったけど、フェルってばあの狐っ娘と随分仲良くなったのね。よかったわね。『気』が改善して怖がられなくなるといいわね」

 

「そ、そうだけど……ウタ、どうしたの?」

 

「別に。どうも」

 

 八坂から笑い声が漏れる。何笑ってんのよあんたの娘の話でしょと不敬が口を突きかけ、寸でのところで踏み止まった。

 

 そんな私たちの密談に焦れたのか、釣り人の男も再度騒ぎ出す。「何ごちゃごちゃやってんだぁ!」というやかましさで戦いの余韻は完全に崩れ去り、ジェラシー一色の心にも生じた安堵が表情筋まで伝播した。

 

 警戒を解いてしまったわけではないが、幾分か気が抜けてしまったのだ。普通であれば仙術によって、私が真っ先に気付いているべきことだった。

 

 次の瞬間、轟く爆音と共に建物の壁が吹き飛んだ。




プロットは破壊するものだと開き直ったので中途半端なところで終了です。オリジナル念能力の解説は次回か次々回にするのでもう少し待たれよ。
あと何時かにハンターハンターキャラのオリジナル念能力はもう作らないとか言った覚えがありますが、サンペーくんは前書きの通りの生い立ちなのでセーフだと思う。ゆるして。
感想ください。
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