おかしい…何かがあったに、違いない…
耳鳴りが遠ざかると共に、白光する視界を
何がどうなったのか。それを知る前に感覚が飛んだためよくわからないが、そんな事態に陥っているということはつまり、私はしくじったのだろう。
飛び出していったリアス・グレモリーを追い、戦場に出てみればいきなりのアレ。対決する気満々であったピトーのフォローに回りはしたが、あまり意味のある行動ではなかったのかもしれない。
そうであれば、
悔恨の念に駆られる。彼女のお荷物にはなりたくないと、改めて強く念じたそんな思いが少しは助けになったのか、私の五感は緩やかに回復に向かい始めた。
白一色に薄闇が侵食し、段々と色味が戻っていく。妙に緑っぽい視界の外では爆音の名残にコンクリートの石礫が零れ落ち、もやとなった砂塵がさらさらと地面に降り積もっている。
やがて明瞭が増していくと、目の前にあった緑の正体にも気が付いた。
カーキのキャスケット帽だった。私がピトーに選んだそれが、抱きしめたピトーの頭に引っ掛かるようにして乗っている。
耳が露にされなかったのは単に運だろう。半ば無意識的にそれを直してやりながら、私は囁くようにそれを口にした。
「フェル、どこか怪我、した……?」
帽子の中でぴょこんと動き、次いでその顔がこちらを向く。
ほんのり憂い気に、ピトーは笑った。
「ううん、どこも。……お尻で挟んじゃったのが一番痛いくらいだにゃ」
二人折り重なるようにして尻もちをついている状態。内腿に、その『挟んじゃったもの』の蠢きを感じた。
(……うん、そうよね……しっぽは、痛いわよね……)
ピトーの言動にも『気』にも、負傷の跡は見られない。ようやく安堵に足るだけの確信を得た私は、そのあまりに気が抜けて、彼女の背中にもたれかかった。全身の重みを預けても微動だにしない安心感に息を吐き、抱擁のまま肩口に頬を寄せる。
胴に巻きつけた腕にも温もりが重ねられ、ますますもって身が解ける。和みの極致と言っても過言ではないこの心地。しかしその極楽は、奴の憎たらしい声色で終わりを迎えた。
「おい!フェル、ウタ!無事……なようだな、どうやら。全く、逃げろと言っただろう」
「……うん、まあね」
無視を決め込むつもりだったが、ピトーが反応したためやむなく一緒に振り向いた。
相変わらずの嫌味な姿。その腕の中にはまたしてもリアス・グレモリーがお姫様抱っこされていて、こんな状況でもやっぱり頬を色付かせていた。
そしてその周囲、辺りを取り巻く砂煙をよくよく見れば、シルバとの初対面時に目にしたあの黒い炎が紛れている。
呪いのように不吉な気配を発するそれは、不思議に思っているうちに薄闇へ消えていった。少し首を捻って、なるほどあれでリアス・グレモリーを守ったのかと納得し、しかしそれにしてはやけに範囲が広かったなと思い直す。
解けきって未だに締まらない頭だが、なんとかそれを悟る程度の思考能力は残されていた。
「……もしかして、あんたがあの炎で守ってくれたの?」
だからピトーにも私にも、大した怪我がなかったのか。
ぼんやり尋ねると、そんな緩みを正面からひっぱたくようないつも通りの飄然が返ってきた。
「お前がもう少し威力を削いでいたら、俺も使わずに済んだんだがな。ほら、怪我はないんだろう?ならこれ以上手間をかけさせないでくれ。姫君ならともかく、お前たちを担げるだけの気力なんぞ残っていない」
そう笑って、リアス・グレモリーを下ろす曹操。見てくれだけは好青年な奴に王子様的な憧れでも抱いているのか、お子様は残念そうに眉を下げている。
そのうちピトーの存在を思い出し、また面相を変えるのだろう。愉快だろうが、その程度では到底諸々の憂さ晴らしに足りないし、そもそも曹操への反撃にはなりえない。
それに一応は奴の言う通り、正論でもある。ピトーも、私の意を汲んでくれたのか何も言わず、私はそのちょっぴりの惨めさを鼻を鳴らして誤魔化して、減らず口に返してやった。
そうして名残惜しくもピトーの背から離れ、お尻の汚れをはたきながら、変化していくリアス・グレモリーの顔色を鑑賞していると、不意に主道路の真ん中を妖力の風が吹き抜けた。もやが一息に払われ、周囲に薄暗い倉庫街が戻る。
その奥から、白音を預けた八坂が、九重と共に姿を現した。
「皆、怪我などしておらぬな?何よりじゃ。肝が冷える思いじゃったぞ。あれほどの威力、もし凶刃に倒れたらと……おっと」
「フェル、フェル!」
八坂の傍を飛び出した九重がピトーに突撃した。屈んで受け止め、抱き上げる彼女の腕や頬をペタペタ触りながら、涙目に鼻をすする。
「フェル……へいき?どこも、いたくない?」
「……うん、平気。何ともないよ」
頭を撫でられると、それで九重の涙腺は決壊した。胸に顔を押し付けわんわん泣き始め、せっかくのロングジャケットを水浸しにしてしまう。
もやっとするも捨て置けず、私はハンカチを取り出して彼女の顔を拭った。おとなしくされるがままに世話をされる幼女。
少しは落ち着いたかと思われたその直後に、ようやく、ピ、という小さな電子音が鳴った。
「話は付きましたか、シルバ氏」
曹操の静かな声と共に、私たちもそちらへ視線を向ける。
その意義が取り消される間際になって、あの強力無比な『念』を放った男、シルバ=ゾルディック。その戦意をいったいどこにやったのか、まるっきり殺気を失った奴が、電源を落とした携帯電話を懐にしまい込む。
その雰囲気に流されぬよう、緩く警戒心を保ち続ける私たちを一瞥してから、奴は言った。
「ああ、ターゲットに変更があった。引き続き、そいつらを殺せとの依頼だ。……それに――」
怯えるリアス・グレモリーと白音に眼を向ける。
「攫われた二人を安全に連れ帰れ、ともな」
「ははは、それは何とも……暗殺者にする依頼内容じゃないですね」
笑う曹操。そのにやけ顔に浮いた汗が増したのは、気のせいではないだろう。
私はシルバをじっと睨め付け、数段増した警戒心で敵意を吐いた。
「リアス・グレモリーはともかく、白音の救助は私たちにされた依頼よ。横取りしようっていうなら、黙ってる気はないけど」
シルバの冷たい眼が私を見た。その眼差しと滾らせる『気』の迫力に背筋が冷えるも、そんなもので引く気は全くない。
『ともかく』扱いされたリアス・グレモリーに恨みがましい視線を送られながら睨みあいを続けていると、不意にそれが隣へ逸れた。
感情の読めない無表情。ごく自然体で受け流すピトーの姿をその目に映し、ゆっくりと瞬きをすると、呟くように言う。
「無傷か」
その平淡な声色と同じく、ピトーが無感動に短く返す。
「まあね」
二人の間の寒々しさは、数秒もの間続いた。なんとなく手出しの憚られる空気感。やがてそれは、シルバによって破られた。
「一応、礼を言っておこう。後味の悪い殺しをせずに済んだ」
「……暗殺者のクセに、後味とか気にするんだ。意外だね」
ちらりと曹操を一瞥する。
「恩人、だからな。依頼があれば殺すが、手を出したくないと思う相手もいる。オレたちは快楽殺人者ではない」
「真面目顔でよくそんなこと言えるわね。最後の攻撃、あんた携帯鳴ってるのに撃ったでしょ。どう考えても殺す気だったじゃない」
我慢できずに言ってやると、またあの威圧が私に向いた。
魁偉がじっと、私を見ている。八坂から奴の正体と遠回しの理由を知り、納得しはしたが、こんな冷酷な眼光を向けられればそんな気も薄れてしまう。
味方でないことは確かだ。ただ、敵というわけでもない。中途半端な奴の立ち位置。それが無言の圧力によって、私の警戒心を敵意のそれに傾け始めた。
いつの間にか干上がっていた喉に唾を送り込み、緊張によって憤りの上澄みだけが眼差しに注がれる。
威嚇の応酬。少なくとも私にとってはそうだった睨み合いは、九重の涙が止まるまで続いた。しゃくりあげる声が聞こえなくなったころ、唐突にシルバは私たちに背を向け、やはり何も言わずに歩み去っていった。誘導灯の灯りを潜り、暗闇の倉庫街に消えていく。
私はようやく、詰めていた息を吐き出した。とにかく、白音は守り切った。ほとんどピトーと、それから曹操のおかげだろうが、横取りは諦めてくれたらしい。
安堵で気が抜けた私は、張り詰めさせていた神経を解きながら白音のほうに眼をやった。その身は八坂の腕の中。変わらずぐったりと臥せっている。
だが、きちんと私の手の中だ。私は今度こそ、あの子を守れたのだ。
実感が意識まで上ってくる。表情筋が緩む。
その時、対照的に一際厳しい警戒をシルバに向けていた八坂が、らしくない慌てた調子で「あっ」と前に歩み出た。
「ま、待たれいシルバ=ゾルディック!お主、先ほど『ターゲットに変更があった』と……まさか妾が捕らえた三人を殺す気か!?いくらなんでもそれは看過できぬぞ!この京で無法な人切りなど……これ!聞いておるのか!?」
聞いていないのだろう。立ち止まる様子もまるでなく、悠々とした歩みはもう大分離れてしまっている。その足取りは間違いなく、八坂の危惧した通りの方向を向いていた。
あの職人気質な殺し屋なら、たぶん本当にやるだろう。悟った八坂は九重と奴との間で眼を右往左往させた後、白音を私に抱かせると、決心を口にした。
「よいか九重、妾は少々やることができた。フェル殿の言うことをよく聞いて、皆と一緒に先にばあやの所に戻っていておくれ。わかったな?」
「……はい、ははうえ」
目を腫らす九重に「いい子じゃ」と頭を撫で、ピトーに申し訳なさそうな顔をする。
「すまぬフェル殿。頼む」
「いいよ。文句はあの腐れ悪魔に言っとくから」
肯定とも否定ともつかない微妙な顔で頷くと、八坂は踵を返した。シルバと一緒にわき道へ消えていくその姿を見送って、私は白音を抱きなおす。
「さて」
と、曹操が嫌に明るい声色で切り出した。
「それじゃあ、俺たちも行こうか。いい加減体力も限界だ。さっさと屋根の下で休みたい」
「……あんた、それに関してはほとんど自業自得でしょ。八坂様に聞いたけど、あれくらいなら走りながらでも言えたんじゃないの」
「無茶を言うな、疲れてたんだよ。俺の
「……ふーん」
かなり胡散臭い理由を返す曹操。まだ色々と隠し事がありそうだが、さすがにここでそれを丸裸にするほど、私は外道でも常識外れでもない。下手に刺激して、仕返しに私の秘密をばらせれてはたまらないと――いやさすがにそこまでするほど曹操も愚かではないだろうが――シルバたちとは逆方向に歩き出した奴に続こうとした。
だが、その一歩目を、聞きなれないピトーの声色が押し留めた。
「――そんなに心配しなくても、大丈夫だよ、九重」
心臓が跳ねた。波動が私の顔を引っ張り、その音と同じく優しげな微笑を目撃する。
どうやら九重が、母親と離されることに不安を覚えたらしい。しょんぼりと眉尻を下げ、ピトーの肩口から、八坂が消えた角道を見つめている。ピトーはそれを慰めたのだ。
今までで一番、あの狐娘が羨ましく思えた。
だが同時にいつも通り、そんな嫉妬はみっともないと恥ずかしくもなる。結果的に私は、二人のその様子にただ茫然と見入ることとなった。
「あの……ウタ。私、白音を――」
だから遠慮がちに小さく話しかけてくるリアス・グレモリーに気付けなかったし、そのささやきを捉えた九重が暗い眼を彼女に向けた理由も、即座に察することができなかった。
「ぜんぶ、おまえたちのせいじゃ……」
憎悪のこもった声。とはいえ幼子の癇癪程度のものでしかなかったが、リアス・グレモリーはその背をびくりと跳ねさせた。ますます顔を青くしながら、恐る恐るに九重の恨み節をその眼に受ける。
「やしきのみんなも、いっておった。あくまはやっかいごとしかもちこまぬ、それどころか、どうほうをつぎつぎさらっているのじゃと……!」
双方の眦に雫が溜まる。そこに含まれる感情は正反対であろうが、どちらも本物だ。
「おまえが……おまえたちがこなければ、フェルもははうえも、ウタもそうそうも……あぶないめにあわずにすんだのじゃ!そこのしろねだって、どうせさらってきたのじゃろう!……あくまなんて、フェルとウタのいうとおり、みんなわるいやつばっかり……だいっきらいじゃ!!」
「あー……まあまあ二人とも――というか九重嬢、どうぞそこらへんに」
リアス・グレモリーの身が縮こまっていく様が、さすがに不憫に思えたのだろう。曹操が二人の間に割って入り、頭を掻くと笑みで誤魔化した。
「気持ちはわかるが、今はとにかく急がないといけない。日が暮れれば、この電灯のない通りだ。人間の俺たちでは夜目にも限界がある。そうなったらリアス殿、頼りは貴女しかいないんだ」
微笑みかけられ、ほんのり血の気を取り戻したリアス・グレモリーがこくりと頷く。一方で不満そうな九重にも、奴はその微笑を向けた。
「それに八坂殿も、こんなところで喧嘩することなど望んでいないさ。言われたろう?『ばあやの所に戻っていておくれ』と。早く帰れば、その分八坂殿も安心だ」
「……まあでも、戻ったら戻ったらでまた難癖付けられそうだけどね」
八方美人の結果、子供二人の間を取り持つことには成功した。が、代わりにピトーの機嫌を少しばかり損ねてしまったようだ。沖田を想起してしまった彼女の、悪念と配慮が合わさったぶっきらぼうな言葉。
心情を別にしても、そうなる予感がするのは私も同様で、故に私もつい批判がましいそれが口に出た。
「ね。あいつ、あれだけやらかしたのに、私たちを信用する気は欠片もないし。顔合わせた途端に、シルバじゃなくなぜ貴様らが二人を連れてくるのだー、とか言いそうじゃない?」
「言うね、間違いなく。それでボクたちを誘拐犯扱いにして、京都の外に出たら襲撃とかしてくるんだよ。全く、どうしてこうも敵視されるのかにゃあ」
「……いや、九割以上はお前のせいだろう」
的確なツッコミ。やれやれと首を振り、曹操は私たちに背を向ける。
「それにだ。そうなったとしても、また説得すればいいだけのことだろう?リアス殿が俺たちを守ってくれるさ」
「……まあ、そうかもしれないけど……」
そっぽを向いたピトーに代わって呟いた。彼女ほどではないにしろ不満の滲んだその調子に、曹操が顔だけの揶揄いで振り向く。
「なんだ、まだ白音がペット扱いだって怒ってるのか?……トラウマは知っているが、リアス殿の愛情が本物であることくらい、もうお前にもわかっているだろう?」
「……わかってるわよ」
でも――
「……嫌いなものは、嫌いなんだもん」
今更、悪魔を好きなれるはずもない。
仮にそう思える時が来たとしても、そうはならない。決して。
「別に、悪感情を消せとは言っていないさ。ただ、これ以上リアス殿の前でさらけ出すなというだけで……ふむ、そうだ。考えてみれば差し引きゼロなんじゃないか?沖田殿が引き起こした失態だが、ほとんどリアス殿の活躍で解決したようなものだ。いなければ、本当に血を見る騒ぎになっていただろう?」
「血なんてオマエの身体に山ほど付いてるけどね」
「……こんなものは掠り傷だ。『血を見る騒ぎ』には入らないさ」
ピトーの野暮で迷惑そうに表情を歪め、滴った汗を拭う。一撫でで微笑を回復させ、またその取って付けたような屁理屈を口にした。
「だからあれだ。怪我の功名、というやつだな。リアス殿が正義に基づく良い悪魔であることは、証明されたわけじゃないか。……悪魔が正義に基づいて
もはや話の大筋も見失っているようだ。しかしそれでもかまわないのだろう。曹操の言い分は、最初から一つだけだ。
リアス・グレモリーを虐めすぎるな。
奴がここまで必死にご機嫌取りをする理由は理解できている。私たちにそれを言い聞かせる理由もだ。
だがどうしても、そのもやっとした気持ちは抑えられない。存在自体には気付けても、生じた過程の推測が少しばかり足りないのだ。だから奴の理解と労力も表面をひっかくのみで、私は彼らの事情に妥協をすることもできなかった。
早々に満足の閾値を下げたピトーにも気付けるはずはない。共有する、悪魔を嫌うその理由。それ以外に、リアス・グレモリー個人を嫌う感情があることを。
「信用?今日会ったばかりのお貴族様の何を信用しろって?」
「それを言うなら心底まで嫌う理由もないだろう。もう少し考えて、大人の対応をしろと――」
む……、と。思うよりも先に『気』が溢れる。
私のその、愚かでお門違いな嫉妬を理解しろとは言わない。だが、私たちが悪魔を嫌っていること、それだけでもきちんと意識しているのなら、
「もう!あんたどっちの味方なのよ!」
曹操はリアス・グレモリーではなく、もっとこっちを鑑みるべきなのだ。
べしんと軽い、平手打ち。
なんとなくムカつくという抽象的な理由を被せ、奴の後頭部をはたいてやった。
イライラを誘発する奴の台詞を止める。それ以上の威力など、その茶々には込めていない。お土産屋でのパンチと同じか、それ以下の力だ。
だが、
「黙っておくべきだってことくらい、私にもわかってるわよ。でも……あれ……?」
ふと気付けば、どうにもその手ごたえが妙だった。
例えるならまるで、硬い壁を殴ったつもりが、色付けされた発布スチロールだったようなあっけなさ。
『纏』を貫き、無防備な肉体を直接叩いてしまったかのような――
出た手に首を捻る頭を持ち上げれば、その正体が眼に入った。
前傾に傾く曹操の姿。あ、と自覚した時にはもう遅く、意思が途切れたその身は無造作に宙を掻き、倒れこんだ。
客観的には運悪く、本人的にはたぶん運よく曹操の下敷きになったリアス・グレモリーの悲鳴とうめき声を唖然としたまま耳に入れ、しばしの間、脳味噌がフリーズする。
我に返ったのは数秒後、ピトーが曹操の襟首をつかんで引っ張り上げたその時で、同時に九重の涙の主成分に信じられないものを見たような恐怖を見つけた私は、慌てて首をぶんぶん振った。
「ち、ちがっ……わざとじゃないの!……じゃなくて!全く殺す気なんかなくて、ちょっと小突いただけというか――」
「うん、気絶してるだけだね、これ」
革手袋越しに脈を計りながら言うピトーの診断に、皆の糾弾と私の懺悔が途切れ、集まった。注目される彼女は手袋に付いた汗を嫌そうに漢服で拭い、しかめっ面のまま肩に担いだ。
「疲れて『纏』も脆くなってたんじゃない?どうせ元はただの疲労だし、帰り着くころには起きてるにゃ。もし駄目でもボクが直せばいいし」
いかにもどうでもよさそうに言うと、右腕に九重、左肩に曹操を抱えたピトーはすたすたと歩きだしてしまう。
責任を取って房中術の治療をせねばならないかもしれない、などという錯乱もその背に払われ、代わりにピトーの献身へ驚きが生まれるも、次に横顔に悪い笑みが浮かべられることによって霧散する。
あれはたぶん、治療費と称してカツアゲするときの眼だ。ずっと昔に一度、試合で深手を負った曹操に対して十億くらいをぼったくっていた。当時彼女はお金に様々な種類があることを知らず、通貨を指定しなかったばっかりに、日本円換算で小数点が七桁ほども必要な、一円にも満たない価値の通貨を支払われて懲りたものと思っていたのだが、どうやら満を持してリベンジするらしい。
世界中の通貨名どころか法律まで覚えてしまった今の彼女に、未来の英雄殿はいかなる抵抗をするのだろう。あの時の底意地の悪さには、私も少なからず思うところがある。もしそうなれば、今度は私も参戦する腹積もりだ。
パニックの残滓でとりとめもなくそんなこと考えながら、負債を抱えて涙目になる奴の顔を夢想した。
胸のもやもやがそれに乗じて溶け出していくようで、白音の重みを再度意識した私は気分良く、九重の導きに従い前を行くピトーに続いた。
だが、すぐにその好調は妨げられた。
数歩目で追い抜いたリアス・グレモリーが、その際に私の服をくいと引くと、潜めた声でおどおどと言った。
「ウタ……あの……」
「……何?そういえばさっきも何か言いかけてたけど」
急かしても尚視線を泳がせ躊躇する彼女。そうしているうちにもピトーは離れていくので元からの嫌忌が増していく。
実に数秒を要してようやく決心を固めたらしく、彼女はそのじれったい態度から勢い任せに顔を上げ、震えた瞳で訴えた。
「私に白音を任せてほしいの。曹操も倒れてしまって、二人とも大変だと思うから……力になりたくて……」
反射的に『嫌だ』と答えようとして、その寸前で踏み止まった。開きかけた口を閉ざし、歯を噛みしめ呑み下す。
そうしたくないという想いはあれど、私はわかっているのだ。
リアス・グレモリーの罪悪感は九重の非難を受けて限界を超えているのだろうし、任せた方が安全だという理性の冷静もある。その、貴族悪魔らしくない善性は、好ましいと思っているし、今の境遇に同情もできる。
道理はなかった。だから私は、想いに己個人の身勝手だと蓋をして押し留め、改めて息を吸った。
「……この子、あんたには重いわよ。ちゃんと支えられる?」
少しだけ不思議そうに眉を顰め、リアス・グレモリーはまっすぐに私を見る。
「大丈夫よ。私はまだ子供だけど、あなたたちと違って悪魔だもの!」
しっかりと地を踏み、許可に喜びを見せた彼女には、臆した様子は見られない。
数秒の間、目に雫が残る彼女を見つめ続けた私は、諦めに小さく息を吐き出し、ゆっくりと瞬きをした。
「落っことしたりするんじゃないわよ?あと、遅れないように」
「ええ……!わかってるわ!」
目を擦って水気を払い、赤くしながらリアス・グレモリーは頷く。半ば空元気気味に声を張り、差し出される彼女の両腕。私はしゃがみ込むと、己が抱く白音に眼を落した。
またしても時間を浪費するも決心を定め、その成長途中の細腕に白音を託す。
離れていく重さと温かさに胸を締め付けられる思いを味合わされる中、白音の身体が、私の腕からリアス・グレモリーのそれに渡った。
それまでの葛藤をまとめて吹き飛ばされたのは、ちょうどその瞬間だった。
――何の前触れもなく、白音が消えた。
「――え……?」
私とリアス・グレモリー、どちらかの口から呆然の音が漏れる。
つい今しがた白音を受け取り、抱き上げようとしていたリアス・グレモリーの腕が、そのまま空気を優しく抱く。白音がいたはずのその空間を、感情の止まった瞳で凝視していた。
あまりに唐突。理解など、追いつきようがない。
懸念通り落っことしたとか、横合いからひったくりの如く攫われたとか、そういった物理的な事態ではない。パッと、本当に一瞬のことで、まるで初めから誰もそこにいなかったかのように忽然と、白音の姿は消えてしまっていた。
目を離してはいなかった。もちろん『念魚』も警戒していた。にもかかわらず、そのどれもは欺かれた。
驚愕と動揺に、我知らず呟く。
「……なに、が――」
起こったのか。と続いた唇には、しかし声帯が震えなかった。
ふと、そのにおいを嗅いだのだ。
『念魚』が通った後のような、強いものではない。だが、ごくわずかながらも感覚に引っ掛かった、『気』の残り香。
――知らないにおい。新手?いや違う。知らないが、知っている気配。
言うなれば、他人の器に自分の『気』を流し込み、無理矢理埋めて動かしているような――
「……わたしの、せいだわ……」
鼓膜を撫でる陰鬱。震えた自棄が、私の意識を思考の表層に引き上げた。
見ると、リアス・グレモリーはどろりとした重い涙を双眸から零した。
「わたし……わたしが、いるから……また白音が……――!」
何事だと思う間もなく、一変するリアス・グレモリーの意思。絶望の表情を上げると、その先に見えたのだろう何が、虚ろな瞳に光を戻した。
それに導かれるようにして、彼女はおぼつかないながらも足を向ける。一歩二歩と進むうち、その光が元の力強さを、愛情を思い出していく。その『歩み』が『走り』に変わった時、ようやく私も我に返った。
「ま、待ちなさいッ!」
ピトーとは反対方向。追いかけると同時、リアス・グレモリーが何を見たのかにも気付き、小さく舌打ちをする。
残り香など無くてもわかりきったことじゃないか。今この時に白音が消えるなんて、奴らの仕業以外ありえない。
仙術で探せばすぐにわかった。すぐ近く、通りに伸びる十字路の角。行き交う車の音も聞こえるそこへ駆けていくリアス・グレモリーの手を、間合いに差し掛かるギリギリのところで掴み、引き寄せた。
邪魔をされ、攻めるような眼を私に向ける、考えなしのお姫様。罵倒したくなる気持ちを抑え、戦意を研いだ。
三人の対処は八坂の仕事だと、気を抜いてはいけなかったのだ。
角から姿を現したそいつの手には、あの時とは違う妙なつくりのナイフと、白音が抱えられていた。
「その反応……やはりか。素晴らしい索敵能力だ」
八坂が捕らえたはずの誘拐団。その一人、リーダーの青年が、悠然とそこに立っていた。
リアス・グレモリーの短い悲鳴を聞きながら、ますますもっての苦々しさに歯噛みする。
白音の首筋に、そこを易々切り裂ける凶器を突き付けられた今、もう下手には動けない。私が白音を奪還するよりも早く、奴のナイフが閃くのは間違いがないからだ。
あの時はピトーの『円』で虚を突けたからそんな状況を回避できたが、今回はもうどうしようもない。不遜な笑みに作り物の不適を返してやる以外なかった。
「……ああ、誰かと思ったらさっきのキミかぁ。何の用?ていうか、八坂に捕まったんじゃなかったっけ?」
背を向けていたとはいえ、さすがに異常には気付いたのだろう。追いついたピトーは気絶中の曹操と九重をリアス・グレモリーの傍に下ろすと、涼しい顔で私の前に出た。
かなりの致命的状況にもかかわらず、一かけらの動揺も無く言ってのける彼女。見事なまでに危機感を見せないその物言いにもたらされ、九重は脚に隠れながら声高に奴を指さした。
「そ、そうじゃ!きさまはははうえがたいじしたはず……はっ!わかったのじゃ!さてはあのとき、そうそうがシルバにふいたほのおにまぎれて、あくまどもにたすけられたのじゃろう!きさまらは、ぐ、ぐる?だったのじゃな!」
唐突な超展開で悪魔が悪者にされたが、それを気にしたのはリアス・グレモリーだけだったようだ。イケメン青年は様になった仕草で苦笑する。
「……確かに、あれは中々愉快な出来事だったな。まさかゾルディック家が加勢してくれるとは、思ってもみなかったよ。おかげで――」
白音を抱いている方の手が、懐から器用に何かを引き抜き、それを落とした。
「これは無駄になってしまったがな。術破りのそれは見事だったから、一時的に妖怪の五感を狂わせるというそっちも試してみたかったんだが」
ひらひらと舞い、コンクリートに落ちる長方形の紙片。お札だった。
しかもそこいらにあるような紙切れ同然のものではない。感じる強力な退魔の力は間違いなく一級品、いや、それ以上だろう。
妖怪退治のハンターにも、入手できるとは思えない。世に出回るようなものではないのだ。
それこそ、日本古来からの異能集団である五大宗家の才ある人間が、幾年もの年月をかけてようやく作り出せるくらいの、すさまじい力を秘めた逸品。
「……何よあんた、誘拐だけじゃ飽き足らず、泥棒までやってるの」
「泥棒じゃなく盗賊と言ってくれ。というか、そっちのほうが本業だな。普段は物を狙うのが主だが、たまには趣向を変えることもある」
本当に盗み出したのだとすれば、やはりこの連中、実力だけでなく相当に気も狂っている。白音に加えてリアス・グレモリーを狙ったこともそうだが、そんなに次々と敵を作って恐ろしくはないのだろうか。
「にゃるほど。やっぱり端から観念なんてしてなかったってわけだ」
ピトーは鼻で笑い、やれやれと首を傾ける。
「それにしても……幸運に欲が出たの?バカだねぇ、わざわざ死にに来るなんて。せっかく見逃してあげるって言ったのに」
「それを信用できないから
ナイフの腹で白音の首を撫でた奴が、緊張を多大に受けた私を見て微かな笑みを浮かべる。
どこか昂然とした顔。上から見透かされているような心地に圧倒され、ほとんど生身にその言葉を浴びた。
「そっちの女。お前は仙術使いなんだろう?」
それも策略、最終確認だったのだろう。息を詰めた私に、奴の笑みは深くなる。
「聞くに仙術は『円』とは比べ物にならないほどの探知範囲を持ち、しかもそれを対象者に気取られないという。仮にあのまま逃げたとしても、お前たちはオレたちに気付かれることなく長距離から追跡することができる。そうなれば対処は困難だ」
知識には偏りがあるようだが、それを指摘したところでどうにもならないだろう。なにせ、『信用していない』のだから。
となればつまり、奴の目的とは、
「ふん。ならキミ、シロネを人質に何を要求する気?」
「決まっているだろう。言葉では足りない」
懸念の要たる私の、根本的排除に他ならない。
「そこの仙術使いの
視線に、たじろがざるを得なかった。
奴とリアス・グレモリーと、それから自分自身の視線。一瞬、考えてしまったのだ。
ここで命を投げ出し、白音を救うことは、あの時果たせなかった償いなのではないか、という想い。
今度こそ、と、そんな逡巡が頭を横切った。だがすぐに彼方へ流れ去る。瞬間にピトーが、爆発の如き勢いで大笑いしたからだ。
「にゃはははは!やっぱりとてつもないおバカだよ、キミ!そりゃあボクたちはシロネを助けるためにあれこれしたけどね、所詮は依頼なんだよ?他人のために死んでやるわけないじゃない!そうなったらなったで死体を持っていくだけにゃ」
大胆なブラフだった。
だが実際、その通り。『ウタ』がここにいるのは単に仕事のためでしかないのだから、命など支払えるはずもない。報酬が多くとも、死んでしまっては意味がないのだ。
そう、これは単なる仕事。他の何でもなく、お金を得るためだけに私はリアス・グレモリーと出会い、仙術で街中を探し、念能力者と戦った。白音を助けるのは、要するにただそれだけの理由。それが事実。
私とピトーは一心同体。だから『ウタ』は、私は、もう白音とは――それでいい。
そうでなくてはならない。
「全くよね。報酬額減っちゃうのはそりゃあ嫌だけど、かといってそんな要求、呑むと思ってるの?あんたのお仲間も言ってたじゃない、命あっての物種って。それにその子の飼い主って悪魔だし、いざとなったら
嘲笑に顔を歪めた。
その先で青年は悪い微笑を残したまま、品定めするような眼をピトーに向ける。顔に止まると、いかにもわざとらしく驚いたふうを叫んで見せた。
「おや、そうなのか?これは予想外だな。まさかこの娘に人質の価値がなかったとは」
今までで一番の邪悪が、その見目の良い顔に乗る。ピトーの余裕綽々とした立ち振る舞いがぴたりと固まり、僅かに身がたわんだ。
直後、
「なら、もうこいつは邪魔だな」
青年が白音を宙に抛り、ピトーはそれを受け止めるため脚のバネを解き放つ。
気付くのが一瞬遅れた私の身体は動くことなく、眼だけが本能的に軌跡を追っていた。
脱力した白音の身体。ふわりと浮いて、頭の高さを超える。見上げたその位置は存外高く、気絶している白音がそのまま落下すれば、不幸な事故が起きないとも限らない。
瞬きの間に、それらのことを認めた。コンマ一秒経っているかもわからないほど短い時間。それだけの間でピトーは、己と白音の彼我の距離、青年のそれと比べて三倍もあった間隔のほとんどを消し飛ばしていた。
ピトーの動きを見慣れている私をして、ようやく追視できるほどの神速。『フェル』の範疇を越えた『ピトー』の瞬発力がすさまじいまでの初速を生み出し、投げ出された白音の元へ向かっている。
したり顔だった青年も、さすがにこれほどの速さが来るとは予想だにしていなかったのだろう。その顔からは笑みが消えていた。
だが憎たらしくも、その動きは止まらなかった。虚を突き、表面に動揺を引き出せはしたが、それでも奴のその手は半自動的に持ち上がる。淀みなく独りでに構え、息つく間もなく閃いた。
撃たれ、飛んだのは、白音の肌を舐めたあの妙なナイフ。魚の骨のようにスカスカの刀身を『気』で煌めかせ、白音めがけて上っていく。寸分違わず首を狙うその切っ先は、このままいけば彼女の頸椎をも容易く切り裂き、胴から落としてしまうだろう。
白音に迫る死の瞬き。しかしピトーの視線がそれを捉えていることを理解すれば、もはやさしたる恐怖も感じなかった。
飛ぶように進む足が一際強く地面を掴み、僅かな溜めからの跳躍。ピトーの後出しだが、それをあっけなく覆せるほど、二人の瞬発力には隔絶した差があった。
矢のように迫るナイフに対し、ピトーの跳躍はまるで瞬間移動のよう。とろいナイフをよそに空中で白音を抱きとめた頃にはもう、その勢いのままに蹴りが飛び出していた。
ぎゃりん
ブーツの爪先がナイフの腹を叩き、二人の『気』が光芒を巻き散らす。肉体から直接集った『気』と、肉体から切り離された『気』。当然勝負にもならない。質量的にも劣るナイフは接触の瞬間競り合いに負け、高速回転しながら弾き返される。
銀の円盤と化したそれ。もはや白音の危険は消えた。ピトーも私も、そのために隙を晒してはいない。
危機を煽り、救出の可能性をにおわせ、慌てて突っ込んできたところを打ち取るつもりだったのだろう。『フェル』と『ウタ』にとって人質は、生きていれば儲けもの、といった程度の価値しかない。ならばこのまま長々と交渉するよりも、囮に使って一時の可能性に賭けるべきだと、そう考えたのであろう青年の判断は、ごく自然な成り行きで、唯一の選択肢だったのかもしれない。
が、それもピトーの全力によって無意味となった。奴はピトーの実力を甘く見るべきではなかったのだ。
ある種の誇らしさで胸の奥を温めながら、私は、加速した思考の名残でゆっくりと落下するピトーと白音を見守っていた。
ほっと息をつき、心と脳に一時の余暇を得たのだ。思考と視線を、緊張のそれから離すことが叶った。
奴の行動を思い返し、いくら何でも力量と手札を過信しすぎだろうと笑う。私を殺したいのなら、何故たった一人で来たのか。要求を拒まれ、ピトーと私の二人を相手にしなければならない。今のような事態を考えなかったのだろうか、と。
――そうだ。
私でも気付くことに、何故リーダーの奴が気付かない。
天啓というにはあまりにも安っぽい、しかし私にとっては鮮烈なひらめきが身を貫く。
奔った電流は眼の筋肉を振るえさせ、移った途端に理解に及んだ。
白音の服の隙間から、ポロリと零れた薄ピンクのゴルフボール大。それがピトーの身に触れ、微塵に砕ける。
瞬間、私は叫んだ。
「フェルッ!!」
ほぼ同時に、地面のコンクリートを水面のように突き破り、あの時のチョウチンアンコウが姿を現した。
前書きの通りなのでまたしても中途半端なところで終了です。次話への影響は軽微だったので助かった。ただしサンペーくんの念能力紹介は持ち越し。
感想ください。