電光の薄いオレンジに瞬く鋭形が、ほとんど平行になるまで開かれた大口の上に載っている。見覚えのある不細工な横顔は開口のおかげで見るに堪えないほどに潰れて歪み、暗闇と相俟ってもはやホラー映画の一幕だ。
画面越しなら純粋に怖がって楽しめただろう。だがこの光景は現実。ボックスカーサイズの『念魚』が上空のピトーと白音を喰らおうとしている、という事実を眼にしてしまえば、呑気に喜べるはずもない。
あの時ナイフを投げた青年の、本当の狙いはこれだったのだ。白音を餌に、まずはピトーを排除する。そうすればほぼ一対一。私の抹殺も格段に成功しやすくなるだろう。倒した後は白音とリアス・グレモリーと、ついでに九重も攫い、悠々と逃げるのみ。
奴はそう考えているのだ。だが――
ごしゃっ
と、痛撃を浴びたのは『念魚』のほうだった。
順当なる帰結。元々、地面からの不意打ちを仕掛けてくるチョウチンアンコウは最優先での警戒対象だ。初見の能力でもないし、気構えもできている。ピトーの身体能力的にもそれに不都合はなく、そしてもしかすれば私の警告も一助となったかもしれない。
つまり、ナイフへ放った蹴りの勢いのまま身を捻り、迫りくる無数の歯から逃れると共に側面へ鉄槌打ちをすることは、ピトーにとってさしたる困難ではなかったのだ。
打ち払われ、横向きにのけぞる『念魚』。かなり丈夫らしく、へこみはしたものの、撃破までには至っていないようだ。が、初撃の不意打ちさえ防げれば何ら怖いことはない。いくら堅かろうが、私であれば仙術で一発なのだ。
一番の憂慮も凌いだ今、再び地面に潜ってしまう前にチョウチンアンコウを自然の『気』に還してやらねばならない。否応なしの不安を安堵に変えながら、私は身体を前傾に倒した。
その時ふと、『気』の揺らぎを感じた。
感覚に導かれるまま、それを見る。青年の手の中。『念』で具現化されたらしい、手のひらサイズの『本』。
奴の念能力なのだろう。だが、それにしては違和感が大きい。外側と内側で中身が一致していない、そんな奇妙。
一瞬の後に思い出した。
「――ッ!!フェル!!まだ終わってないッ!!」
白音に起こった転移と同じ入り混じった気配が、今度はピトーの身に引き起こされた。
空中から、一瞬にしてピトーの姿が掻き消える。白音の身体だけが取り残され、力なく浮遊する。
眼に映しながら、私は身を震わすほどの焦燥感のまま、『念魚』を目指して地を蹴っていた。『気』を探ればすぐにわかる。ピトーの転移先は、その半開きになった口の中だ。
気配の通り、隙間から彼女の革手袋がちらりと見えた。閉じかけた口の中に直接放り込まれたのだ。故に確認できたのは一瞬。彼女の存在は、すぐに閉ざされ見えなくなる。背に冷たいものが走り、心臓が凍り付くも、私はなんとか理性を保ち続けた。
たとえ胃に押し込められようが即死はしないはず。なら今あの『念魚』を倒してしまえば、ピトーは救助できるはずだ。
ぐっ、と息を呑みこみ、落とし込んで手を伸ばした。その距離およそ十メートル。果てしなく遠く感じるその間隔に、触れなければ『念』を消せない、という能力の限界を恨めしく思う。
そんな無念で歯を食いしばり、また一歩を蹴り飛ばしたその瞬間、
三度目の転移が発動した。
目の前が突如白に満たされる。白音だ。視界を塞ぐように転移してきた彼女にダッシュの勢いがぶつかり、動揺からブレーキを踏む。伸ばした手で反射的に抱きとめ、胸元に下げると、本を片手にもう一方で、弾かれて宙に飛んだナイフの柄を掴む青年と眼が合った。
その奥では、ピトーをその口に収めた『念魚』がジャンプによる上昇を終え、ゆっくりと下降を始めている。
一瞬の思考停止。揺れる息を噛み潰すと、叫ぶと同時に白音を投げた。
「――リアス!!」
手放せば、もう後ろを振り返る暇もなかった。青年に一歩遅れて、私も全力で走り出す。
距離は瞬く間に詰められた。青年の腕がぶれ、ナイフが袈裟斬りに振るわれる。いやに大振りな攻撃。カウンターするには絶好のチャンスだろう。
だが素通りする。前傾姿勢をさらに倒し、剣尖を頭上に通過させる。
髪の毛を一房ほど持っていかれるも、やはり私の目的はピトーのほうに向くばかり。彼女を救うため、この場をすり抜けられればそれでいいのだ。
空振る奴を横目に見ながら、屈んだ体勢から片手も使って地を掴み、脇を潜る加速のために踏ん張った。
しかしその思惑はすぐさま頓挫する。もう不要だと、視線を外したその直後、大振りに振り抜いたはずの奴の手が、不自然に折れ曲がった。ナイフ切っ先が軌道の終点で再び閃き、その速度を残したまま突如として続きを描き出したのだ。
どうやったのか。驚愕するも身体は集中を刃に向けて、引かれる軌跡からその身を逃そうと動き出す。着いた手が地面を突き飛ばし、横に舵を切る。無理矢理に身をひるがえしつつ、硬いコンクリートの上を一回転し――
辛うじて、背中を切り裂かれるような事態を回避した。
慣性でなおも転がり続けようとする身体を片足だけで静止させ、ほぼ四つん這いの状態で奥を見る。
『念魚』はまだ『落下中』にあった。ギリギリだが、まだ間に合う。思考が冷静にそう返すと、再び沸き上がる活力が、冷えた四肢に伝わった。
ナイフの射程からも十分に離れている。後は私の瞬発力。ピトーには遠く及ばないまでも人離れしたそれを用い、漲る力に任せて忌まわしい『念魚』の元へ向かおうとした。向かおうと、両手足に力を込めた。
「――ッあ」
だがどういうわけか、一歩も踏み出せずにつんのめった。
右腕を中心に、痺れが感覚を上り始める。戦闘とピトーの窮地から、間隔を狭める拍動。引き延ばされた思考の中でドクンと心臓が伸縮する度、どんどん広がっていく。
倒れかける身体。反射的に突っ張った両腕。より頼りなく痺れる右腕に眼を向け、肘に走る赤の一線と鈍い痛みを発見した時、私はようやくそれを悟った。
(まさか、毒――ッ!!)
気付き、阻害の原因たる異物の浄化に意識を向けた、ちょうどその瞬間。
脇腹を衝撃が貫いた。
「――がはっ……!!」
感じる浮遊感に、蹴り上げられたのだと気付く。狙ったのか、仙術行使の隙を突かれたために防御をし損ねたのだ。
『気』を込めた蹴り。かなりのダメージ。引き起こされる窒息と鈍痛に、身体は悶えることしかできない。
それ以外に選択肢のない空中浮遊。目を見開く私はそれ故に、倍増した絶望感を味わっていた。
ピトーを呑みこんだ『念魚』が地面に着水し、そのまま地下に潜っていく様子。見守ることしかできない。
目の前が暗くなっていく。
(そんな――)
浮遊感が消え、遅れて右腕の痺れ越しにおぼろげな痛みと衝撃が響く。墜落し、バウンドした身体はさらに数メートル転がり、うつ伏せでようやく止まった。
よろよろと顔を上げる。ナイフを構え、突進してくる青年の姿があった。立ち向かう気力も湧かず、私は呆然とその様を、地面に広がる波紋を見ていた。
その視界に、ふと二つの影が躍り出た。
赤と金色。魔力と妖力をそれぞれ帯びた二人が、私を守護するかのように立っていた。
小さな背中が、お前は下がっていろと、そう言わんばかりに。
「――邪魔、なのよ……ッ!」
広がる淀みを押しのける。
そうだ。たかが『念魚』に食べられたくらいで、ピトーが死ぬはずがない。助けるチャンスは、まだ残っている。
弱々しく揺れる両脚で何とか身を起こしつつ、喉から捻り出した。
「あんたたちは、おとなしく守られてなさいッ!!」
ダメージが響く脇腹の回復を試みながら、二人を追い越す。残滓を吐き出し、痺れる全身からかき集めた決意で、私は青年に向かった。
可能性があるならば、諦めてはならない。強く心を鳴らした想い。
方法はいくらでもある。あるいはピトーが自力で脱出するかもしれない。
そのためにも、私がすべきこと。
四人もの庇護対象に気を配りながら一人で奴を打倒できるとは、さすがに断言ができない。まんまとナイフを当てられたことを鑑みれば、私が奴と比較して体術的に劣っていることは疑いようがないだろう。
元々私は接近戦に向いていない。悪魔に転生する時も
守護のため、下手に下がって距離を取ることもできない。相手の獲物も、射程の短いナイフ。必然的にインファイトのような接近戦をせざるを得ない現状では、私が断然不利となる。奴をその場に縫い付けることが精々だ。
故に、稼いだ時間の間にピトーか、あるいは八坂でもいい。味方が来てくれさえすれば、私と奴の勝ち目は逆転する。
だから私は、迫りくる毒濡れのナイフを身を捻って躱し、牽制に回し蹴りを放ちながらそれを叫んだ。
「じっとしてられないって言うなら、どうにかして白音と曹操起こしなさい!!」
白音はともかく曹操が目を覚ますとは思えないが、余計な手出しをされるよりは随分マシだ。
心の中で悪態を付きながら、肺から空気を押し出すついでに身を倒し、下段から蹴り上げる。回し蹴りを屈んでいた青年にバックステップを強いつつ、私はさらにそれを追撃した。
奴に私以外を見させないため。端的に言えばあの転移能力を使わせないための苦肉。もう一度白音や、背後の三人を人質に取られたらたまったものではない。攻めすぎて反撃をもらうわけにはいかないが、かといって攻めの手を緩めることはできないのだ。
さらに言えばチョウチンアンコウにも注意を払う必要がある。近づきすぎず離れすぎず、その都度見極め戦局をコントロールせねばならない。
それは圧倒的不利なこの状況に於いて、些かならず無謀な決心だった。
「――ッ!!」
痛みはなかった。その代わり、右腕に冷たい不快感。躱し損ねたナイフに皮膚を裂かれ、その下の肉が僅かにえぐられる感覚が伝わる。
痛みがない分、その様は、はっきりと知覚できた。そして同時に、重ねて直接毒を浴びた右腕から、完全に力が抜けたことも。
続く二撃目の閃きから慌てて飛び退り、傷口をぎゅっと押さえる。身体はともかく、だらんと垂れ下がる右腕は回復のために相当の時間と集中が必要だ、という自己診断を苦々しく受け止めながら、私は仙術の治癒に割く意識を断ち切った。
睨みつけた先でニヤリと不敵に笑う奴が、私を見て笑みを深くする。
「驚いたな、二度でもまだ動けるのか。0.1ミリグラムでクジラとか動けなくする薬なんだが……仙術には浄化能力もあるのか」
「……か弱い乙女になんてもの盛ってくれてんのよ」
ピトーに弾かれ、銀の円盤と化していた時のナイフを思い出す。この上ない猛毒に塗れたそれに、よく手を伸ばせたものだ。
胸中に溢れる不安を誤魔化すため、そんなことを考えて余裕の笑みを浮かべてやる。
「だが――」
様子見から攻勢に、再び転じる気配を青年に認めると同時、私も駆けだした。突き込まれるナイフ。半身に構え、いなすため伸ばした左腕。
だがそれは逆側の手、『念』の本に弾き上げられた。能力を使ったわけではない、ただの防御。ナイフの障害はそれだけでなくなった。
簡単な話だ。腕一本で腕二本は防げない。
動いてくれない右腕と、逸らされた左腕。ほとんど浄化できたとはいえ、全身にも微かな痺れが残っている。そんな状態では、掠っただけで致命傷となりうるナイフを捌けない。
歯噛みしながら、閃く刃をひたすらに躱すしかなかった。
屈み、捻り、反る。避けて三歩後退し、その間隙に牽制の蹴りで半歩下がらせるのが精一杯。対応に息つく間もなく巡らせる思考の最中、奴の悠然とした口調がノイズとなって流れ込む。
「どうやら完全に解毒できるというわけでもないらしいな。皮一枚でこれなら……ふむ、突き刺せばちゃんと回るか」
物騒なことを言いながらナイフを振り続ける涼しい顔。ぶらぶら振れるだけの厄介物となった右腕を庇う私からは、対照的に、取り繕うこともできないくらいにどんどん余裕が消えていく。
心の決心も侵食され始め、鈍い全身の感覚にひやりとしたものが巡るころ、触覚をも消失した肉袋から三度目の出血を認識したことをきっかけに、とうとうその誤魔化しが砕け散った。
このままでは応援が来る前に私が力尽きるという、理性的な確信。
そんな未来を回避するためには――
(『力』を、使うしか……)
もう、禁を解く以外に思いつかない。
魔力や妖力、『黒歌』として本来の『力』を使えば、たぶんこの状況は打開できる。片腕を封じられていようが、それを補って余りある手札は、私のことを人間だと思い込んでいる奴の虚をも突けるだろう。
しかし一方で、使えば私たちの正体が露呈する。
九重はまだしも、リアス・グレモリーに知られてしまえばどうなるか。その眼に私が『黒歌』だと、知らしめられてしまえば、『フェル』と『ウタ』、手に入れた安寧は跡形もなく消え去ってしまう。ピトーの平穏を、奪ってしまう。
それによるストッパーは、確信でもなかなか外れなかった。やらねば己が死ぬと確信していても、所詮は脳内での空想。まだ死ぬような事態には遭っていないのだから、これからも大丈夫かもしれない、という希望的観測が、愚かにも最後の砦として躊躇を張り付けてしまっていた。
このまま何事もなく事が進んでいれば、手遅れになるまで躊躇いは剥がれなかっただろう。
そういう意味では幸いだったかもしれない。
「――あ……ッ!?」
回避に下げた右足の甲へ突如として落とされた衝撃は、溜まり溜まった不安に、鮮烈な痛みを伴って、抑制の枷ごと冷静を突き破ってしまった。
理性の冷静が弾け、本能的な精神に切り替わる。負傷への反射で足を引き戻そうとするも、まるで縫い付けられてしまったかのように動かず、逆に身体のバランスを崩す。
視線を下げ、原因を見やる。ピンク色。見覚えのある、カジキだかカツオだかわからないへんてこな『念魚』のツノが足の甲を貫通し、コンクリートに深々と突き刺さっている。ピトーが潰したはずだが、まさか死んでいなかったのか。注意していなかったために、見逃してしまったのか。
いやそれよりも――
視線を戻す。薄く私の赤に濡れる刃。まっすぐに突き進んでくる。青年の顔に嘲りの微笑。
今の私の体勢では、あれを止めることはできない。回避しようにも足を動かせず、距離も近すぎる。
つまり、刺される。
浄化のしようがないほどの量が太い血管に流れ、全身が麻痺してしまう。そうなればもう、成す術がない。
省略されたそれらで、『死』という結果のみが精神を揺らす。そこまでしてようやく、私は左手に『力』を迸らせた。
久方ぶりに発揮した魔力と妖力が、封印の不満を爆発させるかのように、激しい紫電となって瞬く。私の手の中、突如の明滅と小さな魔法陣が青年から笑みを消し、飛び退こうと膝を撓めた。
正面と、加えて背後から向けられる驚愕に、私は最後の悔恨を強く念じる。
(ピトー、どうなっても、一緒だから――ッ!!)
せめてもの思いで『力』を引き絞り、奔流を放とうとした。
その直前、
「――ッ!?」
私と青年の間を、捉えられないほどの速さで貫いた何かが、瞬時に私たちの注意を奪い去った。
重なった不意で一様に硬直する。立ち直ったのは、仙術にて飛行物体の正体を看破した私のほうが少しだけ早く、正体不明を既知としてしまえば、狭まった咄嗟の警戒心も元通りに広がった。
ごく小さく、しかもかなり損傷しているが、釣り人の男が具現化したのであろう『念魚』の一匹。視界内を縦断したそれを青年が眼で追い、首まで回してようやく捉えたその時には、もうすでに対応のしようがないところまで、私の仕掛けた反撃が迫っていた。
痛みを堪え、地面に突き刺さる『念魚』を脚力だけで引き抜き、消し去ると、反動をもつぎ込んで放ったハイキック。それは何の障害もなく、きれいに奴の横顔へ吸い込まれた。
『気』越しに確かな手ごたえ。上体を後傾させる奴を捉えつつ、続けて蹴りの勢いで宙に浮いた己が身を捩る。そのまま半回転して後ろ蹴りを見舞い、腕を突いて転がるように着地。そして止まることなく地を蹴り飛ばし、顔面を背の後ろに反り返らせる青年へと、束ねた『力』を拳に握りこんだ。
一息に肉薄。防御姿勢も心構えも、何もできない無防備に、私は気合を乗せて打ち放つ。
「せあぁッ!!」
重く地面を踏みしめた『力』混じりの正拳突きは、今度こそ、その胸部に突き刺さった。
全身に紫電を纏わりつかせ、青年の身体が木の葉のように舞い、吹き飛ぶ。だが、どうやら致命傷にまでは及んでいないらしかった。
『念』の本と毒ナイフは手から離れていないし、身に纏った『気』も、未だ力強さを残している。そもそも『力』だって少量で、しかも利き腕ではない左での一撃だったのだ。前二発の連続蹴りを含めても、高レベルの使い手である奴を倒せるほどの威力には足りていない。
が、それでもそれなりのダメージは与えることができたはずだ。
もしかすれば、このまま打撃のみで押し切れるかもしれない。そうなれば『力』に対する言い訳もたつのでは……。
ギリギリのところで訪れた幸運と、ようやく与えられた有効打に、怯えから脱した打算がそんなことを思い付いた。『近づきすぎず離れすぎずで戦局をコントロール』という前提条件も、『かもしれない』の甘美には勝てない。
僅かも間を開けずに傾いた天秤にそそのかされるまま、私は再度ダッシュを敢行した。後傾から宙返りし、体勢を立て直しつつある奴へ、それが半端であるうちに追撃をくれてやろうと距離を詰める。
その短絡的な暴挙は、十字路の真ん中にてようやく両足を地面に着けた青年を要因の一半に、踏み留められた。
左の角、連なる倉庫街の方面から後ろ跳びに現れた、見覚えのある麦わら帽子と、釣竿。
「――おおっとぉ!危ねぇなぁ……もうこんなとこまで下がってきちまったんかぁ。ちゅーか団長、もしかそれ、眼鏡のねーちゃんにやられたんかぁ?大丈夫なんかよぉ」
青年とぶつかり、よろけるその背に張り手を打ちながら、相変わらずの気の抜けた調子で言った
警戒とも好奇ともつかない眼差しは、妙な圧力となって私を一歩下がらせ、思考を冷やす。忘却してしまっていた後ろの四人のことも併せて、戦慄に心臓を跳ねさせる私。全身に溜まった余分な力を解き、痕の残る顎を一撫でした青年は、そんな中でもやはり悠揚迫らぬ態度で返した。
「お前には言われたくないな。……まだ十分も経っていないだろう?」
「ちーっと釣果が悪かったんだよぉ。それにぃ……あぁ、もう追いつかれちったぁ」
億劫そうなため息をつき、男が釣竿を構えなおす。その視線が向いた先、男が逃げ込んできた角に、釣られて私も眼をやると、ちょうど同時に現れる。
銀髪の偉丈夫。シルバ=ゾルディックが角から飛び出し、次いで私と、たぶん背後の曹操を一瞥すると、誘拐団二人から少し距離を開けて静止した。
次々と起こる突発的事態が、頭の処理能力に掛ける多大な負荷。どうにか受け流し続ける私をよそに、釣り人の男はシルバにひらひらと手を振った。
「ほらぁ、天下のゾルディック家が御党首様なんだろぉ?ただでさえ不漁でしんどいってのにぃ、相手は強敵だしぃ……あぁ、そうだぁ。一緒にあの大妖怪までいたんだぜぇ?むしろ褒めてほしいもんだねぇ、そっちはちゃぁんと処理したんだからさぁ」
「しょ、しょり、じゃと……?」
呆然とした九重の声。徐々に気配が荒れてゆき、語尾の震えた怯えとなって口を出る。
「き、きさま……しるば……ははうえは、どうなったのじゃ……」
「………」
「へっ……そっちもエロいねーちゃん、フェルって言ったかぁ?いねえだろぉ?そういうこったよぉ」
誘拐団を凝視し微動だにしないシルバに代わって、釣り人の男が鼻を鳴らし、唇を嗜虐的に歪めてみせた。
八坂も、『念魚』に食われたということか。
九重が絶望に膝を折る音を背後に聞きながら、ようやく現状を理解した私は、悟った危機に冷や汗をかいていた。
釣り人の男が言ったことが嘘であれば、さすがにシルバも反応していただろう。ということはつまり、八坂の戦線離脱は事実。最も可能性の高かった応援、一番の当てがなくなった。
加えて敵が二人に増えている。仲間同士、連携して私を殺しにかかるだろう。そうなれば、非常にまずい。
故に私は僅かな望みに賭け、疲労と痺れとダメージが残る身体から、精一杯に声を張り上げた。
「シルバ!私に協力して!」
再びちらりと、シルバの眼がこちらを向いた。微かに覗いた期待感で、畳みかけるように声帯を震わせる。
「情けないけど、私、今ナイフの毒にやられて右腕が使えないのよ!私が殺されたら、今度はあんたが二対一になる。白音やリアス・グレモリーまで死んだら、あんたの雇い主も困るでしょ?釣竿男の『念魚』は……私の仙術で消せるから、だからサポートを――」
「断る」
短く、そう言い切られた。
一切余地のない断言で二の句が継げない私に、シルバは冷たく言い放つ。
「指図は受けない。オレはオレの好きにやらせてもらう」
「こっ……この、石頭!」
なんとかそれだけ罵倒を捻り出した。
が、それで何が変わるわけでもあるまい。もはやどうでもいいが、心象はむしろ悪くなったろう。
融通の利かない殺し屋に拒絶された、という事実だけがそこに残る。依頼達成のためなら手段を択ばない暗殺一家。私は囮にでもされるだろう。それが示すのは、『力』を行使しなければ生き残れない、という気鬱のみ。
話は済んだと言わんばかりに私から眼を外し、シルバは睨んだ誘拐団たちへ攻勢をかける。可能性からの落差に頭を抱える私は、せめてそれに乗じようと身構えた。
だが、すぐにそれに気付き、『力』の発動を踏み止まらせる。
初撃の思いもよらぬ強打に弾き飛ばされ、「おっとっとぉ」と戯けを装いながらこっちに流れた釣り人の男も、訝しげに目を細めてそれを見ていた。
「なんちゅーかぁ……これぇ、フラれちまったんかぁ?」
シルバは、青年一人に照準を絞っていた。
十字路の向こう側で青年を相手取り、完全に抑え込んでしまっている。青年が守りに徹している故、大してダメージは与えられていない様子だが、それができるくらいにシルバの力量は高いらしい。もはやこっちに構う余裕もないくらいに、青年の顔は歪んでいた。
しかしその代償に、背は無防備だ。釣り人の男が一撃を加えれば、タイマンの状況は容易く壊れるだろう。
要は、私に背を預けている。
どうやら、思っていたほど硬い頭ではないようだ。
「――あ、後そいつ、相手を瞬間移動させる能力を持ってるから、気を付けてよね!」
だから私は、激しく動き回るその後姿に、そう付け足してやった。
「まぁ、どーだっていーけどよぉ。タイマンなら団長でもだいじょーぶだろーしぃ、むしろ願ったりだしぃ……」
釣り人の男はため息を吐くようにそう呟くと、戦うシルバと青年から私に視線を移し替えた。その口調と同じく、まるで緊張感のない態度。奴は、ともすれば私など眼中にないのではと思えるほど無造作に、竿で背を掻いて悠々と伸びをして見せた。
それも挑発の一環なのだろうとわかってはいるが、呼応して迫ってくる焦りと不安は抑えることができない。それでも何とか勝気な表情を上に被せ、せめてもと笑ってやった。
「……ふん。願ったりはこっちの台詞よ。あんたの『念魚』がどれだけ強かろうが、仙術の敵じゃないんだもの」
たぶん、私が浮かべたものより数段嘲りの濃い笑みが、奴の唇に作られた。
「ねーちゃんよぉ、さっきおいらにぶん殴られたことぉ、もう忘れちったんかぁ?」
直後、自然体から流水のように滑らかに、男の身体が前傾した。
あまりにも自然なその動作。そのために一拍だけ反応が遅れる。背を跳ねさせ、動揺を抱きながらも反射的に身構える私は、しかし次の瞬間、さらに別種の動揺を味わった。
一直線に走る男の姿が、突然複数にブレた。
瞬く間に幅は広がり、男が幾人にも分裂する。数を増やし、襲い掛かってくるそれら。不意に発現した不可解な現象は、それが与える動揺で私の身体を縛め、間隙に命を奪おうと迫る。
その攻撃に帯びた殺気が、ギリギリのところで私に仙術を思い出させた。
首や腕や胴を貫いていく男の攻撃、いや、残像。眼でなく感覚でそれらを無視し、越した先で、飛んできた殴打の一つに構えた拳を打ち込んだ。分厚い『気』の手ごたえ。感じると、同時に四方からの残像も消え、その中からようやく
私のパンチを腕一本に受け止めた男が、さらに口角を上げていた。
「今の残像も、あんたの能力?どちらにせよ、毒ナイフがない分イケメンよりはずっとマシね!」
「やっぱぁ、ずいぶんと気が合うねぇ、ねーちゃん。おいらもぉ、ゾルディックの旦那よりねーちゃんのほうがぁ、百倍は楽に勝てそうだからなぁッ!」
唾を飛ばして笑うと、男は力任せに一歩踏み込む。押され、僅かによろめき後退する私から瞬時に飛び退き、奴はいつの間にか糸を垂らしていた竿を引いた。
コンクリートの水面が盛り上がり、奥で揺らめく『気』の瞬きを、しっかりと眼に映す。
釣り上げられたのは、濃い藍色をしたウナギのような『念魚』だった。
「おぉう、早速運が向いてきやがったぁ!行けぃ!【
空中で針から外れ、太く長い身体から、頭部と思しき先端がこちらを向く。目のないつるっとしたそれに加え、吸盤のように丸い口と円形に並ぶ歯は、ちょっと例えようがないほどキモい。
ぞっとしてたじろぐも、その存在しない瞳が狙う先を気配に感じ、気付く。
つい数分前に爆ぜたピンクのゴルフボール大は、大半をピトーが浴びたものの、幾らか白音にも効果を及ぼしたのだろう。焦点は私を通り過ぎ、背後の白音に向いていた。
私の右手に付いたものは、とっくの昔に消してしまった。こうなるとわかっていれば、と、無益な後悔を噛みしめる。
(けど、いまさら『念魚』の一匹程度――ッ!)
どうということはない。おまけにウナギの動きは、今までの『念魚』と比べて明らかに鈍かった。
身をくねらせて宙を泳ぐウナギに手を伸ばす。脇目も振らずに突き進むそいつは己に迫る必殺を避けようともせず、私の指はしっかりと胴に食い込んだ。
察するに、まずは『念魚』を囮にして、できた隙に自らも攻撃する、というのが釣り人男の基本戦法なのだろう。が、私に対しては無意味だ。奴はまだ、私の力量を見誤っているらしい。
チョウチンアンコウと鮫の時は撃破に全集中力を要したが、それは時間的余裕がなかったためでしかない。ウナギほど鈍間であれば、意識の大部分を男の警戒に当てていても何ら問題がなかった。
慎重に見極める。奴が馬鹿正直に向かってくるのであれば、手古摺っているふりをして攻撃を誘うのもいい。
その余裕にカウンターを見舞ってやると、ウナギとの葛藤を装いながらひそかに息巻いた。その時、
「なにゃあっ!?」
手の中の生温さが、にゅるんと滑る。と同時に、腕に巻き付き上り始めた。
ウナギの全身から溢れる大量の粘液。子供の腕ほどの太さを持つ肉の塊が腕を這うたび、滴るほどのそれを擦り付けられる。その感覚は私に極大の生理的嫌悪をもたらし、奇声の悲鳴を吐き出させた。
半ばパニックに腕をぶんぶん暴れさせ、振りほどこうとするも、締め付けは僅かも緩まない。怯んでいるうちに、素肌を舐める鳥肌は二の腕を越え、肩にまで到達した。
近づけば、いよいよもってキモチワルい。エイリアンめいた頭の冒涜的キモさ。ぬたぬたに塗れる忌避感とパニックも相俟って怖気が走り、つい顔を逸らしてしまう。
その怯えに、さらなる閃光が走り流れた。
「があぁッあッ!!」
全身の神経が焼かれる。それがウナギの電撃だと気付いたのは、お腹に釣り人男の拳を受けた後だった。
己の正中線に突き刺さる太腕から辛うじて眼球だけを動かし、端に認めたウナギの胴体。発光し、発熱するそれに脳からの運動指令を妨げられ、硬直する身体の隙にまんまと一撃を決められたのだ。
理解し、湧き出たのは、自分への怒りだった。何度同じ過ちを繰り返すのだ、と、己の短絡による油断を責め立てる。
それが呼び戻した敵意で、私は折れる上体を踏み留めた。
念で『気』を足に集めつつ、同時に全身を流れる電気へ仙術を使う。
電気も『念魚』も、もとを正せば男の『気』でしかない。ならば、
「――私の、敵じゃないってのッ!!」
薄れた痺れが完全に消え去るのを待たず、私は男の正拳を蹴り上げた。
直前に攻撃を悟った男が腕を引いたため、真芯からは外れたものの、その身体を弾き飛ばし、浮かせることに成功する。さらに勢いで身体を捻り、お返しに腹へ回し蹴りを食らわせた。
だが残念なことに、そっちは防御されてしまったらしい。手を突き宙返りして着地した奴は、動揺の一つも見せずに言ってのけた。
「おぃおぃ、電撃食らってんのにどーしてそこまで動けんだよぉ。……これも仙術の仕業なんかぁ?」
「それ、もしかして私に聞いてる?……答えるわけないでしょ。独り言は一人で言うもんよ」
吐き捨てるように返してから、私は一息を吐いて首を横に向けた。肩、電気を流し続けているウナギを見つめる。覚悟を固め、その頭にかぶりついた。
途端、口の中いっぱいに粘液が湧くも、堪えて思い切り歯を立てる。同時に仙術の意識を僅かに割き、干渉してやると、ようやくその締め付けと電撃が弱まった。
再度腕を振ると解け、ウナギの胴体はぬめりに滑って地面に叩きつけられる。噛み千切った頭と、しつこく口に残る粘液の後味を何度かかけて吐き出して、ゲホゲホ咳き込んだ後、息をつく。私は口元を拭い、男を睨みつけた。
「……あーもう、最悪。口の中すっごく気持ち悪い。あんた、なんてもの食べさせてくれるのよ」
「知るかよぉ。……たくぅ、そのまま喉詰めりゃあよかったんにぃ……」
電撃の苛立ちに任せて踏みつけ、糸を引く粘液溜まりを残して消滅したウナギの残骸にちらりと視線を流し、男は薄く笑う。
と思った次の瞬間には、とぼけた間抜け面で首を傾げ、宣っていた。
「そーいや、後ろのにーちゃんはなんで気絶してんだぁ?」
「そっ!?そんなのあんたには関係……――ッ!!」
思い出してしまったチョップに身が強張った、その一瞬に、男は地を蹴り私との距離を詰めていた。
薄く動揺を引きずりながら、それでも反射気味に拳を突き出した。さっきのように残像も使わず、ただまっすぐに突っ込んでくる奴に、お手本のようなカウンターを叩き込む。
男が嗤った。無造作に割り込んだ奴の腕に、私のパンチが接触する。
瞬間、いとも簡単に私の攻撃が逸れた。
何の抵抗もなく、拳が男の腕を滑る。その境界に粘液の存在を思い出すももう遅く、懐に入り込まれた私にそれを防ぐ手段はない。
前腕を粘液で濡らした奴の右フックが、そのまま私の頬に突き刺さった。
殴られ、顔が横を向かされる。怯む身体に鞭を打ち、なんとか開き続けた目の前から、奴が流れるように外へ抜けていく。
背後を取られる、と危機感が身体の硬直を取り払い、同時に脇の下へ伸びる奴の手を感じると、両脚で踏ん張り、肘鉄を振るった。
受け止められる感触。肘から腕の骨にじぃんと抜ける痺れのような感覚は、たぶん『気』を纏わせた釣竿の硬さだろう。止まらず脇を潜った方の腕と合わせて締め上げられ、関節を決められる直前で停止する。ギリギリと、互いに譲らぬ均衡の中、変わらない男の調子が感情を刺激する。
「つれねぇなぁ、そんなにおいらにハグされんのが嫌かぁ?」
「嫌に、決まってんでしょッ!加齢臭が移るわ!」
「ひっでぇ。二十代はまだオッサンじゃねぇだろぉ?臭うわけねぇ。てゆーか――」
身動ぎの気配。
「どーせねーちゃん、彼氏が心配なだけなんだろぉ?」
「――んのッ!!」
ぬめりを信じ、力任せに腕を引いた。見事にすっぽり拘束を抜け、たたらを踏む奴に、助走皆無ながらもショルダータックルをかます。体勢を崩す二連打に、引いた足を重く踏む。奴。私はその身体を支点に半回転して、背中を後ろ蹴りして突き飛ばした。
背には曹操以下四人。正面に前転で体勢を整える男と、奥のシルバと青年。何とか元の位置関係に戻し、心身の疲労を息に吐き出す。
己を戒めなければならないだろう。確かに、『念魚』を主体に戦う奴に対して、私は有利に立ち回れる。だが油断などもってのほかだ。
シルバの『念弾』と異なり、その場で持続的に存在する『念魚』。仙術はこれに対してほとんど無敵に近い相性の良さを誇るが、それは能力のみの話であり、使い手の技量は全くの別問題。つまるところ、私の仙術は男を圧倒できるほど卓越したものではないのだ。
ネテロと比較すれば、その五分の一ほどの技量も有してはいないだろう。例えばあのウナギ、本体と粘液と電気を、それぞれ別個にして対処しなければ消滅させることができなかった。この穴は、近距離戦闘の経験の差と合わせて馬鹿にできないほど隔たりを詰めてしまっている。
アドバンテージはほとんどないものと考えたほうがいい。
改め、ズレた眼鏡の位置を直してから、私は再度疾駆した。
同じく立ち直り、踏み出した男と、拳が交錯。続いて竿を離したもう一方の手が風を切り、アッパーが放たれる。
好機に私は顎を引いた。最低限の動作で躱し、反撃覚悟で今度は自分が相手の懐に突っ込んだ。
背中に肘が落ちた。さらに胸に膝が刺さるも、こちらはあまり肉体的ダメージが無い。金取るぞと言いたくなる気持ちも併せ、理由は言わずもがなである。
ともかく攻撃を耐え抜いた私は、掴まれてしまう前にと、体当たりに加えて腕で奴の身体を押した。片足ではたまらず、傾くその恰幅。背後に置き去りにされた釣竿を、幸運にも射程に捉えた。
だが直後、私は戦慄によってその進行に制動をかけ、真後ろに跳ね飛んだ。
「おいらにばっか夢中になってていいんかぁ?」
という囁きで背後に向いた仙術のアンテナが、『念魚』の『気』を捉えたからだった。
しかし、
(――やられたッ……!!)
反転の直後、私は背が泡立つ後悔を噛みしめていた。
そこに泳いでいたのは、今までの『念魚』と比べれば搾りかすのように小さな『気』しか持たない、一匹の小魚。たぶん、私と青年との間を飛翔したあれと同じ種類。リアス・グレモリーや九重にしても、到底脅威足りえない、文字通りの雑魚でしかなかった。
そもそもヤバいものが背後に居れば、二人が何かしらの反応を見せていただろう。私は『念魚』への警戒を忘却していた事実に焦り、先走って反応してしまったのだ。
後悔も遅く、小魚を消し飛ばして着地し、振り向くと、竿を手にした男の口には、私の様を面白がっているような嫌な笑みが浮かんでいた。
「全くぅ、煽りがいのあるねーちゃんだなぁ!そらぁ、もう一匹ィ!!」
案の定張っていた糸が引かれ、釣り上げられる。
丸みを帯びた矢じりのような頭。その下に直接生える、吸盤付きの無数の触手。
イカのようなタコのような『念魚』は、姿を露にするや否や、一抱えほどもある体躯から触手のすべてを私に伸ばした。
「あっはぁ!【
呑気に笑う男。また同じように、このイカタコの後から仕掛けるつもりなのだろうが、避けるわけにもいかない。壁のように隙間なく迫るそれらを、私は腰のあたりをムズムズさせながら受け止めた。
腕なんて騒ぎではない。顔から足まで、誇張なく全身をまさぐられる。ウナギほどでないにしろ、ぬめった質感が至る所にへばりつき、絡みつく悪寒がゾゾゾっと血の気を下げさせる。
表面積の問題か、あるいは掴みやすかったのかもしれない。ぬめぬめの肉鞭に縛られ、妙に煽情的な強調をされた己の胸。多少なりとも血の気を回復させながら、私は集中のための中途半端な無心につい、感情を荒げさせていた。
「電気責めにローションプレイに、お次は触手で緊縛!?このド変態!!」
「言いがかりの濡れ衣だぁ!」
「うっさいッ、わよッ!」
如何に私が猫又とはいえ、ここまでされれば羞恥の一つも感じるし、怒りもする。爆発するそれで頬に熱が溜まり、衝動的に腕力を振り絞った。
と同時に集中が間に合い、巻き付く無数の触手が仙術によって溶け始める。伝染し、頭、いや胴体部分へ広がっていく消滅の波。だが届く直前で、イカタコの触手が、すべて根元から切り離された。
途絶える拡散。消えゆく『気』の朧げなもやも空気に馴染み、短くなったゲソの奥に見える口。そこから伸びていたのは、たぶん釣り糸だった。
わざと外さなかったのだろう。引かれ、イカタコの胴体が外に退く。私は当初の照準を、その向こうから現れた男に切り替えた。
そしてそのまま振り下ろす。向けられた男は、馬鹿にするような笑みで腕を差し入れた。その意は理解できている。私の拳には、まだ粘液が纏わりついたままなのだ。
故に、私も笑う。
(同じヘマ、するわけないでしょ!!)
放った打ち下ろしは男の身体どころか逸らすための腕からも外れ、ずっと内側、私の身体の側に曲がった。
フェイントと助走を兼ね合わせた空振りだった。思い切り振ったその勢いで前宙返り。寸前のところで地から離れた脚が、腰と胴をも連動させ、ばね仕掛けのように落とされた。
渾身の踵落とし。これで決まってくれれば、と思うも、相手はそこまで弱くはない。あの態度でも奴に油断はなく、斜めに首元を狙った一撃は十時にクロスされた腕によって、いっそ見事なほど完璧に受け止められていた。
『気』を纏わせた釣竿は軋みさえせず、盾としての役割を完遂している。肉体へのダメージもほとんどないだろう。片膝だけ突いた体勢で、男は少しだけ声量を増した。
「ちーとばっかし驚いたがぁ、ずいぶんと軽いねぇ!!」
間延びしたダミ声を吐き出すや否や、男の四肢に筋肉の束が盛り上がる。と思った次の瞬間には全身が跳ねあがり、私は宙に弾き飛ばされていた。
支点が踵だったせいで後ろ向きに回転しながらの浮遊。一回転半で体勢を取り戻し、上空から下を見やる。
男が、その顔にニヤニヤ笑いの表情を張り付け、私を見ていた。
左手にはピンクのアレが握られている。それもゴルフボールなんかではなく、ソフトボールほどの大きさ。
私に眼を向けたまま、奴はそれを、リアス・グレモリーたちの方へ振りかぶっていた。
あんな大玉が命中し、炸裂すれば、白音にかかった飛沫など比較にならないほどの誘引力を引き起こすだろう。あのチョウチンアンコウを呼ぶ気なのか。宙に打ち上げられている今現在、このままでは危惧が現実になってしまう。
男は、ようやく訪れた大チャンスに笑っているのだ。実際私にも、自身が致命的な隙を晒していることはわかっている。だがそれも、己が意図した結果であるなら、危ない橋を渡っている、くらいには焦燥を希釈できる。
賭けだった。それだけのリスクを背負ってでも、試す価値がある。成功すれば、チョウチンアンコウは疎か奴自身をも無力化できる可能性があるからだ。
その証拠に、私の左手。背に隠したそこに作り出した『気』の光弾が隠しきれないほどの大きさに高まった時、奴の笑みは驚きの滲んだ渋面に変わっていた。
私の策略を悟った奴。構えたソフトボールが投球に入るよりも早く、バスケットボールにまで成長した私の『念弾』は放たれた。
宙に空いた距離は二、三メートルばかり。投球の直前で無理に踏み止まった奴。避けようもない。
狙い違わず、『念弾』は奴の右手からバシと良い音を引き出し、叩き落とした。
再度、釣竿が奴の手中を離れる。くるくる独楽のように回ってから、釣り糸で繋がったイカタコをアンカーにビタリと停止。これならどうやっても外さない。そして奴は間に合わない。今のあれは、炭素繊維でできたただの棒きれでしかない。
(今なら――ッ!!)
期待に急かされ、左手に『気』が集う。数舜前のような溜めもなく、できたのは半分にも満たない大きさだが、それで十分に足りる。
発射した。まっすぐに釣竿へ飛んでいく。もはや『気』で守られてもいないそれを、へし折り、粉砕せんと空を割く。
だがその進路の半ほどで、ぐしゃりと湿っぽい音がした。
生臭さが爆発する。男が手の中でソフトボール大を握り潰す様子を視界に捉えるとほぼ同時、イカタコが激烈な反応を見せた。
胴体のみとなり、半ば置物と化したそいつは、今までの生すら捨てたような諦念から突然蘇り、頭を膨らませて飛び出した。全身全霊の、力強く素早い射出。それは当然、糸とその元である釣竿を一緒に連れて行った。
カーボンの表面だけを薄く擦り、私の『念弾』は空を割いて消えた。イカタコはピンクを握り潰した左手にむしゃぶりつくようにとりつき、運ばれた釣竿は男の手に収まる。収まってしまった。
「また……もう……ッ!!」
吐き出さずにはいられない。右腕を除いた両手足で着地し、前に据えた男を睨む。
いいところまでは行けるのに、最後の一歩が届かない。それはつまり、奴もその危うさを十分に理解し、心の隅にでも置いていたためか。舌打ちまでしかねない苛立ちに唸る私に、奴はどこかつまらなさそうに首を鳴らした。
「あー痛ってぇ。何かと思ったらぁ、ただの『念弾』かよぉ。ねーちゃん『放出系』かぁ?どーりでなぁ、体術からっきしのくせしてぇ、やけに馬鹿正直に殴り合いしてくるから変だと思ったよぉ。初見の隠し玉でぇ、一気においらの釣竿ぶっ壊しちまおうって魂胆だったわけだぁ」
ため息を吐くように言いながら、男はイカタコに食われた手をごそごそと動かす。びちち、と奥まった微音がすると、イカタコの胴体が鮮烈な紅から白に変わり、さらにもう一度、びち、と鳴ると、僅かに残った短い脚からも色彩が消え、泥のように力なく地面に落ちた。
死体となり果て消えゆくイカタコを横目に、解放された腕の調子を確かめるように回し、奴はいかにも呑気に呟く。
「まぁ、あんだけやってりゃぁ、気付くよなぁ」
「……あんたのその釣竿が、『念魚』具現化の肝だってことが?」
もはや誤魔化す理由もあるまい。身体を持ち上げながら答えてやると、男は表情を笑みに戻した。
件の釣竿を肩に担ぎ、笑みの向こうで窺うような眼を向けてくる奴。私は戒めを以てしてなんとか苛立ちを呑みこむと、続いてほとんど確信に近い推察を口にした。
「大体、普通じゃありえないのよね。見た分だけでも七種類、ピンクのマーキングと釣り上げる能力を含めれば、九種類もの『発』。どうせまだ別の『念魚』も持ってるんでしょ?そんな量の能力、普通は作れない。『発』の容量不足に陥るはずだわ。
にもかかわらず、あんたの能力は成立している。普通の『発』じゃ、それだけの能力は得られない。ということは――」
「そーさぁ、『制約』と『誓約』さぁ」
男は私の声を遮り、おかしそうに笑った。
「定めたルールを守ってりゃぁ、その覚悟の分だけ念は強く働く。リスクをばねに、ってやつだなぁ」
釣竿を掲げ、硬く握りしめたままゆらゆら振られた。馬鹿にされているような心地で自制心もを悶えさせる私を尻目に、奴は続ける。
「おいらの場合、ルールはこいつ、【
「……お望みなら、今度はそっちをタマごとぶち抜いてあげるわよ」
「うっへぇ、こえーこえー。ねーちゃんにゃぁわからんだろうけどなぁ、あれ、かなーり痛ぇんだぞぉ?フェイの拷問と同じくらいにゃぁ辛ぇ。今んとこはだけどぉ」
ついつい漏れた低い声に、男がおどけて返す。この期に及んでよくもそんな調子を出せるものだ、と心の中で罵り、冷却して平静を保とうと試みる。
また同じような手管なのだ。私を煽り、冷静を剥ぐための言葉。
二度は、いや三度はないという強い思いが、意地と決心に固く固定されていた。
だから気付けた。猛烈な勢いで近づいてくる『気』の気配。
けれど動けない。ただ、全身を巡る戦慄の冷や汗に必死の思いで思考を回しながら、私は男の邪悪なしたり顔と、その左手をつつく数匹の小魚を凝視していた。
「まぁ、そーいうわけでねーちゃんの言う通りぃ、おいらの能力は竿がなけりゃぁ全く機能しねーしぃ、具現化にも時間がかかるんよぉ。だからなぁ、こーいう大仕事んときゃぁ仕込みが欠かせねぇんだぁ。念のための撹乱用だけどぉ、察するにねーちゃんとは相性いーんじゃねぇかぁ?なぁ」
有効な策を思いつかないまま、怖々と背後を振り向く。
曹操の危惧。『もしも具現化したものが残っていたら』。ソフトボールほどもあるマーキングを握り潰したことによって、それらが一気に引き寄せられたのだ。
倉庫街の暗がりから、その濁流の如き勢いが、薄い蛍光の下に明らかとなる。それは、もう数えることすら億劫になるくらい大量の、小魚の群れだった。
確かに、一匹一匹は大したことがない。だがそれが百匹では?千匹では?万匹では?
そして肝心要、私はそれに触れなければ『念魚』を消滅させることができない。あの大軍を一度に消せるほど、大きな手足を持っていない。
『ウタ』では、この状況に抗しえない。白音も、守れない。
「さぁ、どーする?」
男が走り出す。魚群との挟み撃ち。
結局――
唇を噛み、私は平穏と願いを諦めた。その瞬間。
その諦念を打ち壊すかのように、コンクリートの地面が禍々しい『気』に瞬いた。
オリジナル念能力
【
・具現化系能力
・釣竿で釣り上げることで念魚を具現化する能力。何種類もの念魚を具現化するためサンペーが己に課した制約と誓約。
サンペーはこの能力でなければ念魚を具現化できず、念魚を操作することもできず、“釣り上げる”という前提のためその種類も数も選べない。ただし釣りのテクニックと念魚の習性を理解することでサンペーはある程度釣り分けることが可能。
・これらの制約をサンペーはむしろ醍醐味として受け入れている。
【エサ玉(仮称)】 使用者:サンペー=キリツチ
・具現化系能力
・念魚を誘引する生臭いにおいを撒き散らす能力。
ピンク色のボールであり、破裂すると発動する。大きさは可変。大きければ大きいほど効果の範囲は広くなる。
【
・具現化系能力
・ボックスカーサイズのチョウチンアンコウのような念魚。地中を泳ぐことができ、ウボォーギンの攻撃でも破壊されないほど頑丈。
疑似餌を用いて対象を催眠状態にし、呑み込み捕らえる。疑似餌は一度呑み込んだ者の姿をコピーすることができるが戦闘には使えず、会話もできないただの人形。
・現実のチョウチンアンコウのチョウチン部分は誘因突起と呼ばれるメスしかもたない器官であり、つまりこの念魚は女の子。女の子が女の子を丸呑みしている。エッチぃ。
【
・具現化系能力
・ショッキングピンクのカツオ、あるいはカジキマグロのような念魚。動きが素早く、最初に狙いをつけた相手をずっと狙い続ける。
・地面に突き刺さったりしたが、奥義ゲージが二〇〇パーセントアップしたりはしない。
【
・具現化系能力
・深青色のヌタウナギのような念魚。刺激を感じると全身から粘液を放出し、手近なものに巻き付き放電する。一度絡みつかれると引きはがすのは困難。
【
・具現化系能力
・イカのようなタコのような、無数の触手を持つ念魚。色はその時々でランダムに変わる。今回は紅。
・触手で絡みつく以外に、吐いた墨の中を自由に泳いだりといった既視感のある能力も有するが、今回は使われることはなかった。
小魚と鮫は次回。しんどい戦闘描写は続く。
感想ください。