主なきノラネコたちの家   作:もちごめさん

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八割書き終えたところでほぼ全分の書き直しが発生して心折れかけてました。
危なかった。


十五話

 優しくて、どこか懐かしい気配が、闇底から私の意識を押し上げた。

 

 夢現が流れ、身を撫でる暖かな風に浸る。姉さまと一緒にいる時のような懐かしさが、頼りなく揺蕩う身体にじんわりと染み込み、和らいでいく。

 

 長らく味わうことのなかった安らぎに、私はすべてを委ねて沈んでいた。

 

 波風もたたない奥底の、穏やかな気分が心地いい。悪魔たちの悪意ある目も、腫物のように扱われる煩わしさも、心を揺るがすものは何もない。ただ、私の求めた平穏だけがそこにあった。

 

 ――ずっと、このままでいたい。

 

 私は、独りだ。

 

 こんな安らぎは、もうここにしか残っていない。草の一本も生えない荒野を一人で歩き続けるような、そんな今までがあっただけに、余計にこの感覚が得難いものであるように思えた。

 

 それこそ、これを失うくらいなら死んだほうがマシだと、そう思えるほどに。

 

 現実は、辛いことでいっぱいだ。

 

 もう二度と得られない、家族の温もり。夢幻だろうが、焼けつくような渇望もたらす、この想い。だから醒めてほしくなかった。この暖かさと思い出に、いつまでも浸っていたかった。

 

 必死に縋りつき、浮上しようとする意識を堰き止めていた。

 

 だが次の瞬間、冷水が身を刺した。身体を包んでいた暖かな気配が掻き消され、代わりに冷たい悪寒が纏わりつく。

 境に張られた封は砕け、意識が夢裡から顔を出す。故にその半ば、全身に吹き荒んだ冷気が通り過ぎた直後に、私はおでこに響いた衝撃を、痛覚として感じ取った。

 

 途端、私の中の何かが、鍵の外れた扉を開き、外に流れ出る。

 

 そんな感覚が痛覚を越して意識に響き、脳味噌へ冷たい衝撃を浴びせかけた。

 

 それで一遍に夢が弾けた。ヒリヒリ痛むおでこが瞼を持ち上げ、ぼんやりぼやける視覚を取り戻す。

 仰向けになっているのであろう平衡感覚や、上に誰かが覆いかぶさっているような感触と圧迫感。嗅覚聴覚共々、覚醒途中ではっきりとしないが、身体は着々と息を吹き返しつつあった。

 

 けれどそれらは無意識の中で認めたことで、意識に上ってくることはなかった。

 

 すでに頭の中を占拠されていたからだ。

 

 開いた眼に、真っ先に映ったその姿。

 

 片膝を突き、弱々しく肩を上下させながら、ゆっくりと私に振り向く。その、どこか焦点の定まらない視線に、私の注意は縫い付けられ、知らずのうちに呟いていた。

 

「……ねえ……さま……?」

 

 と。

 

「――っぁ……」

 

 弾かれるように開いた口から、手前で引っ掛かったような声が漏れた。

 

 彼女と私の視線が繋がる。驚愕と混乱の眼が、私を捉えて奥に染み込む。

 

 次の瞬間、怯えに変わって逸らされた。

 

 胸のあたりがずきんと痛んだ。

 

(どうして、そんな顔をするの……?)

 

 目はちゃんと開いているのに、まだ夢の中にいるような心地がした。思考がふわふわと定まらず、『何故』も『何』も理解できない。故に、胸の疼きの衝動のまま、遠ざかる何かを捕まえようと圧迫感の中で身動ぎをしたことにも、私の意識が気付くことはなかった。

 

 すぐそばで高まった歓喜の感情が、地面に押し付けられた私の身体を持ち上げる。その感覚にも気付かないくらい、一点に集まった注目は強固だった。たぶんこのまま頬を(はた)かれても、私が我に返ることはなかっただろう。

 

 だがさすがに、視界を何か柔らかいもので閉ざされれば、その限りではなかった。

 

「ッ!白音!目が覚めたのね!ああ、よかった……このままずっと起きなかったら、私、どうしようって……よかった……本当によかった……っ!」

 

 というリアスさまの涙声と、頭に回された腕の感触が、視界いっぱいのダークグレーに押し付けられる私の脳味噌に飛び込んだ。横抱きに抱き上げられ、胸に押し抱くような抱擁を受けているのだと気付く。

 

 息苦しく感じるほどだった。明らかに力加減を見失った抱擁に、図らずも意識が冴える。錯乱気味のリアスさまにも引っ張られ、私は半ばパニックになりながら、拘束を逃れた片腕でリアスさまの身体を突っ張り、胸に向かってもごもごと抗議した。

 

 すると、ふと締め付けが緩んだ。すかさず胸の谷間から脱出し、ぷはぁとまとめて息をする。どうやら私のささやかな抵抗は、無理矢理押しのけはできずとも、その訴えを伝えることに成功したらしい。

 

 私は、解放に喜び勇んで振り返った。

 

 思考も視界も、さっきよりずっとはっきりしていた。だからもちろん、自分の口が紡いだ単語の意味も、音も、憶えている。全く違和感もなく、ごく自然に、私の唇はその形を作って、鳴らしていた。

 

 けれど――

 

 改めて彼女を眼にした瞬間、私はそれが夢裡の残滓であったことを、理解せざるを得なかった。

 

 なぜ私は、この人を姉さまと呼んだのだろう。

 

「う、ウタ……ッ!白音が、白音が目を覚ましたの!……無事だったのよ!ありがとう、ウタ……!ありがとう……」

 

 見知らぬその人は、どこか無機質な眼で、リアスさまに返した。

 

「……仕事、だもの。お礼を言われる筋合いはないわ。それに……安心するには、まだ早いわよ。四人で固まって、おとなしくしてなさい」

 

 錯乱を引きずったリアスさまが頭を下げ、涙を零す。彼女、ウタというらしいその人は、荒い呼吸を繰り返しながら、無感情に言い捨てた。

 

 何かの先生みたいに冷たい雰囲気が、横顔さえもを後姿に消した。

 

 確かに、似てはいた。

 

 暗闇の中で光跡を引く、見覚えのある気がしてならない黄金色の瞳。片膝立ちから立ち上がり、向けた背に流れる艶やかな黒髪。腰を上げた拍子に零れ出る、いっそ腹立たしいくらいの胸。

 

 どれもこれも、黒歌姉さまに似ている。しかし、やはり違うのだとわかる。

 

 厳然とした雰囲気が、姉さまとは似ても似つかない。記憶の中の姉さまと、目の前のこの人が、間違いなく一致しない。これでもかというほど、ウタさまは姉さまではない。

 

(そんなの……当たり前だ)

 

 姉さまは、もうこの世にいないのだ。

 

 二度と会うことは叶わない。そんなことは、わかっている。何度も何度も何度も、言い聞かせられずとも、きちんと理解できている。

 

 いくら思い込もうが、覚めたら苦しくなるだけだと、そんなことは夢現だろうが理解できる。わかりきったことだ。そのはずなのに――

 

 ズバン

 

 不意に空気が、何かを叩きつけられたかのように震えた。吹き付ける風圧と妙な悪寒に思わず目を瞑ってしまい、一拍の後開く。

 

 眼前に、魚の頭が突き付けられていた。

 

 ウタさまだった。背を向けていたはずが、いつの間にか私の近くで腰を落とし構えていて、左腕を私に突き付けている。目の前の魚は、彼女が鷲掴みにしているものだった。

 

 その色は、目に痛いほど鮮やかなピンク色。いかにも普通でない見た目と覚えのある気配に加え、周囲に飛び散る、別の小魚のものであろう白い肉片をも発見すれば、それは明らかな不自然として私の認識に詰め込まれた。

 

 その両方の魚が、次の瞬間、謎の湯気のようなもや(・・・・・・・・・・)と化して溶けるように消える様すらを目にしてしまえば、理解が渋滞を起こすのも当然だ。

 

 正体から原因まで、現状がさっぱりわからなかった。だが辛うじて、その魚たちから感じる悪寒のような嫌な気配から、守られたのだということだけはわかっていた。失神の前、目の前を泳いだあの白い魚。あれと同じ存在であるなら、敵であることは間違いない。

 

 だからたぶん、途端にリアスさまが小さな悲鳴を洩らしたのも、そんな固定観念のような恐怖があったからなのだろう。

 

 見え、感じるのは、ウタさまが纏う、ウタさまの湯気(気配)

 

 ピンクの魚という遮蔽物も消え、視界に収まる全身から、魚のそれとは比較にもならない重量感、圧迫感のような圧が放たれている。離れていても肌に感じるくらいの迫力が、針が肉に突き刺さるが如き悪寒と混ざり合い、私たちの身体を圧していた。

 

 敵意の矛先が向いていなくとも、リアスさまの反応は至極当たり前のものだ。だからこの場では、それを目にしてもパニックに陥ることなく、呆けたままでいる私こそが、異常なのだ。

 

 悪寒の刺々しさを感じていても、私はその湯気に、懐かしさのような安堵感を覚えてしまっていた。

 

 彼女は、別人なのに、

 

「……姉さま……」

 

 どうして、私はまだ、姉さまとウタさまを、重ねて見てしまうのか。

 

 離れ、どこからともなく襲い来る十数匹もの魚たちに立ち向かうウタさまの、その傷だらけの身体を見つめながら、鈍く痛む胸中は、舌に馴染んでしまうその呼び名を口にした。

 

 自分の声ながら、それは酷く乾いていた。

 

「白音……やっぱり、まだ混乱しているのね。……当たり前よね、こんなことになってしまったのだから……。謝って許されることではないけれど……ごめんなさい……。あなたに辛い思いをさせてしまって……」

 

 頭上から、リアスさまの思い詰めたような声がした。思わず、鈍間にだが頭の向きを変える。案の定、眉尻を下げたリアスさまが私を見下ろしていた。

 

 『こんなこと』とは、やはり誘拐のことだろうか。確かにあの人間たち、『幻影旅団』の三人は恐ろしかったが、そのことでリアスさまを責める気には到底なれない。むしろ巻き込まれずに済んでよかった、とも思える。

 

 だからリアスさまの表情が涙を零しそうに歪んだ時、私はそれに反応して、慰めようと口が開いた。胸の詰まりが邪魔をして、言うべきことは思い浮かばなかったが、どうしても泣いてほしくない、という気持ちが勝っていた。

 

 そうして改めて言葉を探す、その間。リアスさまが、瞳に湛えた涙を堪え、ゆっくりと瞬きをした、次の場面。

 

 私より一瞬早く声帯を震わせたリアスさまが、その唇を、全く意識の埒外に合った単語に形作った。

 

「ウタが仙術を使っているから、思い出してしまうのはわかるわ。でも……ごめんなさい。今やめさせるわけには――」

 

「え……仙術……?」

 

 頭に綴った言葉が全部吹っ飛んだ。姉さまではない、と判明した途端に、百八十度真逆の言葉。

 

 それまでのあれこれがひっくるめて思考を駆け上り、引っ張り上げられ思い至る。仙術の源、『気』という存在。万人が持つ生命エネルギー、としか姉さまは教えてくれなかったが、もしやあの湯気がそうなのではないだろうか。

 

 よくよく見れば、というか図らずも意識の膠着から抜け出したためか、リアスさまと私の身体にも、湯気が立ち上っていることに気が付いた。ウタさまのそれと違って、リアスさまのは何というか垂れ流し。わたしのは正に『噴き出ている』という表現がぴったりなくらい、勢いよく迸っている。違いはあれど、ウタさまや魚に見たものと本質は同じであるように感じた。

 

 ということはやはり、この湯気は『気』なのだろうか。

 

 そうであるなら、ウタさまが魚を消し去ったあの『力』こそが、リアスさまの言う通り、仙術だったということになる。

 

 ウタさまは姉さまではないが、仙術使いだということに。

 

(本当に……?)

 

 あの時のウタさまを思い出す。私やリアスさまの『気』とはまるで違う、整った『気』。美しいとすら感じる、『気』を纏うその技。魚を『気』に還した技も、明らかに『気』を操った技だった。

 

 あれが、仙術なのだろうか。

 

 何度も追憶と想像を繰り返したからなのか、ふと気付けば私の『気』も好き勝手に飛び散ることをやめ、身体の周囲に留まっていた。温かい流れの中にいるようなその感覚は、抱いた予想が確信に近付きつつあることを明確に告げている。

 

 故に、私はその湯気に、冷たい恐ろしさを感じた。胸が詰まったような息苦しさを押し隠して、リアスさまへ困惑の表情を作ってみせた。

 

「でも、リアスさま……。仙術は、使い手がとても少ない能力なんです。そんなに都合よく、居合わせるなんてこと……ありえないです」

 

「――あ……えーっと、そのね……。別に、偶然っていうわけではないのよ」

 

 しばしの思考停止の後言い淀み、同じく困惑を返したリアスさまは、言い辛そうなまま、ウタさまを見やって訥々と言った。

 

「つまりね……ハンター、なのよ。……あなたが浚われてしまった後、八坂様が呼び寄せたの。彼女、ウタはその内の一人で……追手から、私たちを守るために戦ってくれているのよ。たぶん、仙術を使って。……だから私、あなたが黒歌を思い出してしまったんじゃないかって、思ったのだけど……」

 

 違うの?

 

 と、恐る恐るに眼で尋ねるリアスさま。保った困惑顔で聞き流す私の注目は、戦うウタさまへ向いている。その手に鷲掴みにされたイカのようなタコのような軟体生物が、握られた頭を始点に消滅していく様子を、私は言い知れない重苦しさと共に凝視していた。

 

 だって、あまりにも違い過ぎる。

 

 私が知る仙術は、もっと悍ましいものだ。暗くて、冷たくて、私から何もかもを奪ってしまう。底なしの穴のように恐ろしい、邪悪の『力』。人を傷つけるための『力』。

 

 なのに、ウタさまにはあの邪悪がまるでなかった。姉さまを殺した悍ましさを、欠片も感じない。忘れもしないあの絶望感がそこにあれば私が気付かないはずはないのに、守られて感じたのは、恐ろしさとは似ても似つかない、暖かな心地だけだった。

 

 そんな優しいものが、私を守った『力』が、本当に仙術なのだとすれば、

 

 ――なぜ姉さまは、あんなにも悍ましく恐ろしく、死んでしまったのだろう。

 

 名前が同じなだけの、全く別の技であると思ったほうが幾らか納得もしやすいくらい、それは信じ難いことだった。

 

 だから、なのかはわからないが、その時私は、巡らせた回想の中に姉さまの教示を見つけ出し、思わずそのまま口に出していた。

 

「『たぶん』、なら……じゃあ、『念』なんじゃないですか……?『気』を操る技にそういうのがあるって、私、聞いたことが――」

 

「ウタは、せんじゅつつかいじゃ」

 

 幼い女の子の舌足らずな調子が、私とリアスさまの間に割り込んだ。

 

 後ろからの声。視界外の気配に驚く。少しばかり恐る恐るの調子で、身を捩って振り向いた。

 

 見知らぬその子は、どうやら狐の妖怪、それも九尾の女の子であるようだった。その甲高い声色の通り、私よりもいくらか年下だと思われるのその子が、土埃で汚れた巫女装束姿で、私をキッと睨みつけていた。

 

 その視線と、身体を覆う『気』の湯気に感じる刺々しさには、当然覚えがない。なぜ敵意のようなものを向けられているのか、という中身の挿げ変わった困惑で動揺を振り落とし、私は、女の子の責めるような物言いを正面に受けた。

 

「フェルとははうえが、うそをつくわけがなかろう!……きっと、そうそうだって、せんじゅつだっていうはずじゃ……!」

 

 身を起こしつつ、微妙に要領を得ないその意味を口中で転がし探る。知らない人物三人から証明されている、ということをなんとなく理解した私は、追及、あるいは反論のために顔を上げ、女の子に尋ねようとした。

 

 が、女の子は痛みを堪えるような顔をして俯き、視線をよそにやっていた。拒絶のような無視に少しだけムッとして、気持ちのもやもやから私を逸れたそれを辿る。

 

 そして間もなく背を跳ねさせた。

 

 瓦礫の上に正座する女の子の膝下、手を伸ばせば私でも触れられるほどの距離に、男の人が一人、目を閉ざして横たわっていた。

 

 漢服のような恰好で、背丈はリアスさまより一、二回り高く、顔立ちは絵になりそうなくらい整っている。そんないかにも目立ちそうな容貌が、振り向いた視界に突然飛び込んできた。

 

 直視するまで、全くその存在に気付かなかったのだ。女の子の視線という目印がなければ、もしかすればそのまま眼が通り過ぎていたかもしれない。『気』を全く発していない、その無機物のような存在感のなさに、私は驚いた。

 

「……九重、ちゃん……その……曹操は、やっぱりまだ起きない……?」

 

 切れ切れに後ろめたそうな問いを、リアスさまが口にした。初めて耳にするリアスさまの卑屈にまた驚き、信じられない思いでパッと頭を戻す。しかし束の間、続く女の子、九重が纏う『気』に感じた激しい怒りの感情で、注意は再度とんぼ返りした。

 

「おきて、おらぬ……。あたりまえじゃろう。おまえたちは、なにもしておらぬのじゃから……!のんきにおしゃべりしていたくせに……あくまどものくせに……よくも、そ、そんなくちが、きけるものじゃな……っ!」

 

「そ、それは……だって、やっと白音が目覚めたから、嬉しくて……。それに……白音は悪魔じゃなくて、妖怪だから……あの……こうなってしまったことには関係――」

 

「あくまのなかまなら、そやつもあくまじゃ!それに、うそをついてもむだじゃ!わたしもしっておるのじゃぞ!もともとは、そやつがかってにいなくなってしまったせいなのじゃろう!」

 

 私を置いてきぼりに、九重が顔を真っ赤にしてまくしたて、リアスさまの身を縮ませていく。

 

 興奮が過ぎて眼に涙の膜をも作っている九重。私たちへの怒りと不信がありありと浮かぶ、その激情っぷりにひたすら困惑しながら、それでも私は精一杯声を張り、彼女の注意をリアスさまから奪い取った。

 

「あ、あの……!私、気を失っていたから、気絶した後のこと、憶えていなくて……『こうなってしまった』って……何が、あったんですか……?」

 

「そんなこと……みればすぐわかるじゃろう!」

 

 『気』を一際強い憤りに爆発させる九重が、その小さな身を震わせ、上を指さした。

 

 言われるがまま見上げると、目を引いたのは湾曲した天井に空く大きな穴。曇り気味な夜空が広がり、雨樋に垂れる雨粒のように、時折土くれが降ってくる。ここが地下なのだと、初めて気付いた。やはりというか、変な機械やらドラム缶やらが転がる、あの時の場所とは違うらしい。

 

 そしてそのまま天井を伝い、地下空洞の奥を見た。暗闇に目を凝らし、九重が指し示すそれを、今更のように現在地を知った鈍間な頭で認識する。

 初めはただの壁のように見えた。トンネルのようなアーチ型の地下空洞、その行き止まりなのだろうと思った。

 

 けれどすぐ、そうではないことに気付いて心臓が跳ねあがる。直接見て、意識すれば、嫌が応にも理解できた。

 

 それは、嫌な気配を発する、あの魚の塊だった。

 

 はるか遠くにある天井まで、魚たちが寄り集まって積乱雲のように渦を巻いている。隙間らしき隙間もなく、中までみっしりと詰まった多種多様な魚の大群。

 

 こんなにもたくさんいたのだ。今、ウタさまを襲っている、十数匹だけではなく。

 

 わだかまっているそれらがもし、一斉に私たちを攻撃すればどうなるか。想像するまでもない。

 

 全く気が付かなかった周囲の様相。全身に冷や汗を噴出させる甚大な悪寒に、私はようやく、現状のこの上ない危うさを悟った。

 

「きさまたちのせいで、こんなことになってしまったのじゃ!きさまたちが……あくまどもがこなければ……!ははうえも、ウタも、フェルも、けがなんてしなくてすんだのに……っ!」

 

 幾度ともなく浴びせかけられた罵声の記憶が蘇る。姉さまが死んでしまっても尚、収まることがなかった怨嗟の声。

 

 あんなにも強大なものが、私を追って現れたのだとすれば。私が浚われてしまったことによって、ウタさまが傷つき、皆が命の危機に晒されているのだとすれば。

 

 それは、あまりにも恐ろしい。

 

 九重が指さす魚の塊に視線を縫い付けられながら、私は全身の血が凍ったような恐ろしさを味わった。

 

 私のせいで皆の命が奪われれば、それは私自身が皆を殺すことと何も変わらない。

 

 自分自身の手で、大切なものを壊す。

 

 まるで、あの時の姉さまみたいだ。

 

 私に仙術を使う気があろうがなかろうが、私が皆の害悪であることに、変わりはなかったのだ。

 

(――なら、私はどうすればいいの……?)

 

 姉さまと同じ道を辿るしかないのだろうか。

 

 リアスさまの腕の中から、逃げるようにして這い出した。

 

 怖かった。行く道の暗闇から、突然奈落の穴が現れたかのような心地だった。道なりに進み続けた歩みが途切れ、先に進めない。それどころか端が崩れ、広がる穴がどんどん足元に迫ってくる。

 

 そんな、急かすような不安感。自問しようが答えが返ることはなかったために、九重の震えた声色は私の耳に届き、意識を絡め取った。

 

「わたしは……なにもできなかったのじゃ……。ウタにも、じゃまじゃといわれて……きっと、わたしでは……フェルとウタのやくにはたてない……けど――」

 

 ぱっと勢いよく上げた顔。涙に濡れながらも決意の眼で、彼女は私を貫いた。

 

「けど、ははうえがいっていたのじゃ……!フェルのいうことよくきいて、って……そうそうをおこせ、って……!だからわたしは……ううん、わたしはみなで、そうそうをめざめさせねばならないのじゃ!」

 

 手を突き、頭を下げる。

 

「あくまはわるいやつらだから、いうことをきくのはだめかもしれないけど……たのむ!ちからをかしてほしい……!」

 

 様々が絡み合う混乱の只中ではあったが、恐怖心はその言葉、罪悪感を押し付けられる道に目敏く反応し、迷うことなく私を九重の近く、仰向けになる男の人の傍に近寄らせた。

 

 曹操というらしい、その男の人。目覚めさせる方法も、そもそもなぜ眠っているのかもわからないが、九重に頷きかけ、ちょっと湿った漢服を揺さぶった。

 

 声をかけようと口を開いた直後だった。

 

「ぎゃ、ぴゅ……」

 

 声ならざる声。何かが潰れたようなくぐもった音がして、同時に背中に悪寒が叩きつけられる。

 

 悲鳴を上げて背後を向いた。

 

 口から血の塊を吐くウタさまと、そのお腹に拳を突き刺す片腕の男が、縺れあうように立っていた。

 

「う……ウタっ!」

 

「そんな……」

 

 九重の怯えた悲鳴と、リアスさまの呆然とした呟き。信じられない、と思考を止めた彼女らを通り越し、見覚えのある男が、聞き覚えのあるガラガラ声でにんまりと笑った。

 

「よぉ、ちび助。また会っちまったなぁ」

 

 所々に殴られたような傷跡を残すその顔。『気』の湯気を纏うサンペーは、あの時と変わらず、獲物をいたぶる残忍さに満ち満ちた視線で私を舐めていた。植え付けられた恐怖が身体を竦ませ、ぐったりと血を垂れ流すウタさまの姿で絶望に落とし込む。

 

 心臓を無理矢理えぐり取られたような、喪失に満ちた戦慄だった。

 

 胸ぐらを掴まれ、足が地面から離れるくらいに引き上げられてもピクリとも動かないウタさまを、意味のある声すら出せずに見つめるばかりの私。サンペーは笑みの邪悪さを一回り増し、私を嗤った。

 

「期待してくれてっところ悪ぃけどよぉ、やべーのがまだあと二人も残ってんだぁ。だからぁ、ちび助たちの相手はその後にぃ……」

 

 言い淀み、わざとらしく、うーん、と唸る。ぴったり二秒後、ちらりと魚の積乱雲を見やって帰ってきたサンペーは、さらに口角を釣り上げた。

 

「あぁ、でもまだ持ちそうだしなぁ……。先にちび助たち殺っちまっても――」

 

「ずいぶん、余裕じゃない」

 

 頭を埋め尽くしつつあった、続きの悪夢の浸食が、その声で止まった。

 

 サンペーが、弾かれたようにウタさまから手を離し、眼に捉えて拳を引き絞った。ウタさまが放っていたそれにも劣らない迫力の『気』が、ウタさまを見据えて震える攻撃に宿る。

 

 その後の一瞬に何が起こったのかは、ほとんどわからなかった。ただ気付いた時には、背を何かに突き飛ばされたかのように、反りかえったサンペーの身体が傾き、それを迎え撃つ形で、地面に降り立つウタさまが掌底の構えを取っていた。

 

 さっきまでの死に体が嘘だったかのように、舞う黒髪の隙間から、暗闇の中にらんらんと輝く敵意の瞳。次の瞬間、静謐にすぼめられた。

 

「ふ――」

 

 短い息。掌底が無防備なお腹に触れ、一拍を置いて逆にくの字に圧し折った。サンペーの頭ががくりと垂れ、ウタさまの肩に伸し掛かる。

 

 けれどそれも、束の間のことだった。

 

 一点に集中を注いでいたウタさまが、突如目の色を変えた。

 

「しつけぇなぁ、ねーちゃんもぉ。『隠』で『念弾』ぶち当ててぇ、鳩尾に一撃たぁ……意趣返しのつもりかぁ?へへぇ、可愛すぎていっそ泣けてくらぁ」

 

 掌底の腕を掴まれていた。ウタさまはその場を離れようとしているが、振りほどけない。二人の『気』が競り合い、押され、みし、と怖気の走る音がした。

 

 増したサンペーの『気』が空気を圧し、ウタさまの顔が歪んだ。悪寒混じりの風に思わず視線を上げると、唇の端を血で濡らしたサンペーが揺れる焦点を絞り、言い放った。

 

「こんくれぇで倒れてやるほどぉ、おいらの念は甘かねぇよぉ」

 

 頭突きが落ちた。

 

 後頭部が叩き落とされ、ウタさまの身体が沈む。腕で引っ張り上げられて、逃げることもできずに続く蹴りをその身に受けた。

 

「……おぉ?」

 

 サンペーの妙な声。身が凍る思いに侵される私だが、しかし恐怖に反して瞬く間に、蹴り飛ばされたウタさまは体勢を取り戻した。かと思えばその左手が閃き、何か眩いものが放たれる。気配に、それが『気』の塊だと察する頃には、その風圧が私の目を塞がせていた。一秒もない間を置いて開いてみれば、離れていたはずの距離が消え、ウタさまとサンペー、二人の腕がぶつかり合っていた。

 

 理解を超えた本物の戦い(・・・・・)に、私は唖然とするしかない。つばぜり合いに交差する目の前の二人は、対照的な表情でそれぞれ口を開いた。

 

「なんか今ぁ、『オーラ』が練りにくくて威力出なかったんだけどぉ……これ仙術かぁ?」

 

「……言うわけないって、いつになったら、わかってくれるのかしら、ね……ッ!」

 

「そいつぁ残念――」

 

 と言いかけたサンペーが突然言葉を切り、後ろに跳び退った。理由はすぐに理解できた。

 

 極寒の吹雪だった。

 

 激烈な悪寒が吹き荒ぶ。先ほどの、サンペーの『気』やウタさまの『気』の弾丸と同様、ただの余波。私に向けられているわけでもない『気』がもたらした風でしかなかったが、そこに溶け込んだ気配だけでも、邪悪の程度はサンペーや魚を軽く上回る。

 

 そんな気配がウタさまとサンペーの間に飛び込むのを、私は察知した。

 

 視覚ではもちろん捉えられない。白い影を引くブレた映像は、過程を飛ばして結果を見た。

 

 なんとなく色っぽく感じる、銀髪の女の人だった。この圧倒的悪寒の持ち主であろう彼女。たぶん、九重の言っていたフェルという人なのだろう。その革手袋の拳でサンペーの胴体を打つ光景を、私は否応なしに震えながら、必死の思いで眼に映していた。

 

 しかし知覚はしたものの、それ理解するだけの猶予はやはりなかった。爆ぜたサンペーの胴から煙幕のような黒い霧が巻き散らされ、その姿と一緒に、表にすべき感情すら見失ってしまう。

 

 速すぎる事象への理解に、処理能力のほぼすべてをつぎ込む私。少しの光も透らない真っ黒の膜から飛び退り、今にも頽れそうなウタさまを支えたフェルさまが発した重く低い声が、職務放棄気味の鼓膜を通り抜けた。

 

「……立てる?ウタ」

 

「大丈夫、よ……まだ……」

 

 途切れ途切れに苦しげな呼吸を繰り返し、ウタさまは口元の血を拭って立ち上がった。だが脚は震え、上体は揺らいでいる。

 

 フェルさまは背後に庇うウタさまをちらりと一瞥し、次いで私にも視線を流した。ほんの一瞬目が合っただけで心が怯え、気つけ代わりとなったその冷たさが、中にウタさまの怪我に対する慄然を戻す。

 

 蘇った感情の、そのほとんどを占める恐怖で血の気を下げていると、まるで追い打ちのように、さらなる悪寒が飛来した。

 

 つまりは、フェルさまの纏う『気』が、その量を爆発的に跳ね上げた。

 

 声もなく悲鳴を上げた。

 

「……左腕、もう駄目だよね。どちらにせよ、限界だ。……使うよ」

 

 呟くようにそう言ったフェルさま。黒い霧を鋭く見据えるその眼には、激しい殺意が宿っている。

 

 だからなのか、勢い余って飛び散った『気』に触れてしまった指先に、私は失神直前に感じたもの以上の『負』を、認めてしまった。

 

 ほんの僅かに触れただけであり、しかも瞬間身を遠ざけたにもかかわらず、指先から悪寒が入り込んでくるような感覚が残ってしまうくらいの、心がすり潰されるような恐ろしさ。ともすれば攻撃を受けているのではないかと錯覚してしまうくらいに冷たい、えもいわれぬ戦慄。

 

 気配だけで絶望感に侵されるほどの悪寒の中で、今度は一瞬、ウタさまが私を見た。

 

「でも……フェル……」

 

 苦悩の色。

 

 黒い霧が晴れた。

 

「『使う』、ねぇ……。よーやくタネ明かしかぁ?よかったよぉ。このままあっけなく殺しちまうんかってぇ、ちーと心配になってきたところだったんだぁ。そっちのねーちゃんは耐えるばっかりだしよぉ」

 

 サンペーは周囲に何匹もの魚を侍らせ、血の塊を吐き捨てると、余裕綽々に手の中でピンク色の玉を弄ぶ。

 

 フェルさまの放つ圧がさらに高まり、体勢が飛び掛かる寸前で引き絞られる。激しい怒り、害意が、邪悪に塗れて吹き荒れた。

 

 それを放つトリガーにフェルさまが指をかけた。そんなふうに感じた、その時だった。

 

 どこか茫洋とした表情でフェルさまを見つめるウタさまが、見張った眼で鋭く叫んだ。

 

「――白音!仙術、使いなさい!」

 

 必死ながらも無機質な声は、トンネルの中を悠々響いた。

 

「……はぁ?ねーちゃん、何のつもり――ッ!!」

 

 と、皆を代表する一拍を置いて、サンペーと、そしてフェルさまの姿が掻き消える。

 

 次の瞬間、二人は私の目の前にいた。

 

「ひぁッ!!?」

 

 本当に、目と鼻の先。サンペーが突き出した拳を、フェルさまが受け止めている。ぶつかり、揺らめく二人の『気』が流れた。

 

「そういやぁ、そうだったなぁ。仙術にゃー、相手を癒す技もあるって話ぃ」

 

 眼までもが、こちらを見ていた。今までのような流れ弾ではない。二人の『気』は、明らかに私を意識している。直接、邪悪や害意を向けられるのだ。動揺も相俟って、私は後退りが九重にぶつかり止まったことにも気付かなかった。

 

 その九重も、どうやら私と同等以上の衝撃に呑まれたらしく、微かに息を洩らすばかり。唯一リアスさまが尻もちをつきながらも思考停止を逃れ、その精神をそのまま押し出したような恐怖を、つっかかりつつ言葉に並べた。

 

「せ、仙術って……ウタ、あなたこんな時に何を言っているのよ!白音は戦いなんてできないわ!それに……わからないの!?この子は仙術の才能を持ってはいても、使ったことなんて……」

 

「できる、わよ!白音よりも小さかった頃の、私でもできたんだから!それに戦うんじゃない、癒すのよ!そこの寝坊助をね!」

 

「あなたッ……!だとしてもよ!黒歌のことを聞いて、何も思わなかったの!?この子に無理矢理仙術を使わせるなんて、そんなことできるわけないじゃない!第一、仙術で曹操が目を覚ますなら、あなたがやれば――」

 

 遮って、一声が轟いた。

 

「ウタ!!避けろッ!!」

 

 サンペーの攻撃を押し返し、前のめりにつんのめったフェルさまが叫んだのだ。それはたぶん、直前にサンペーが蹴り飛ばした何かのため。

 

 ウタさまは、光線のように飛んだそれを避けることができなかった。

 

 フェルさまの警告でも動けないほどの満身創痍。胸に当たり、爆ぜたピンク色の玉からサンペーと同じ気配の『気』が巻き散らされ、ウタさまに降り注ぐ。

 

 万全の状態であったとしても、ウタさまは曹操の治療などできない。

 

 真っ先に襲い掛かったのが、一抱えほどもある胴を持つ大きなウツボのような魚であれば、それはなおのことだ。

 

 なすすべなく食いつかれ、そのまま壁まで追い詰められたウタさま。苦しげに歪む口から凍り付く私に向けて、喝を入れるような大声が、水音混じりに鳴り響いた。

 

「『気』を、曹操に流し込むのよ!やりなさい!――白音ッ!!」

 

 鼓膜を揺らし、脳に溶け込んだぼろぼろの声色。あっさりと抵抗もなく届き、託されて灯った思い。

 

 もたらしたウタさまの姿が、ウツボに続いた魚の濁流に呑み込まれた。

 

「―――」

 

「―――」

 

 隣の九重と前のリアスさまが、悲鳴を上げてウタさまを呼ぶ。私は声も出ず、胸元の布地を掴んで、ただ衝撃に喘いでいた。

 

 あるいは私も、心臓が潰れたかのようなこの絶望感に、何か叫んだのかもしれない。だがそれらは、言葉の一切は、私に認識されることはなかった。

 

 代わりに、その眼差しは驚くほど鮮明に映った。

 

 怖くて冷たい眼。サンペーを押し留めながら私を見る、フェルさまの赤褐色。

 

 そこに浮かぶ逡巡が、不思議なくらいはっきりと、透けて見えた。

 

 だから私は、その言葉を口にせざるを得なかった。

 

「やり、ます……っ!」

 

 フェルさまとリアスさまの反応を眼にする前に、私はすぐさま曹操の身体に向き直った。縋るような眼差しの九重を横目にし、目を閉ざす。震える息で、逃れるように深呼吸。心が鎮まるのを待たず、両の手のひらが曹操の湿った漢服に触れた。

 

 体内に感知した微弱な気配、曹操の『気』、その器。空っぽのここに、私の『気』を流し込む。輸血のようだと、そんなイメージをすれば、やり方なんてわかっていないはずなのに、『気』の湯気が動き始めた。両手を介してするすると、意のままに曹操の器へ流れ込んでいく。

 

 ついさっきまで『気』なんて見えもしなかったのに、もちろん操ったことなんて今までに一度たりともなかったのに、

 

 なのに私は仙術を扱えていた。

 

 何ら躓くこともなく、当たり前のようにあっさりと、『気』を操れた。バクバクと心臓がうるさい。酷く薄気味悪い心地がした。

 

 本能が、知るまでもなくすべて為してしまったのだ。自分に宿る仙術の才をまざまざと感じ、心が、不気味を打ち切って逃げ出したい衝動でいっぱいになる。

 

 それらすべてを苦心して呑み下し続けるのは、やはりあの逡巡が瞼の裏に焼き付いているからだった。

 

 あの時、『やります』と言った理由だってそうだ。別に、ウタさまの仙術を見て恐怖心が薄れたわけではない。姉さまの印象は、そう簡単に消えない。

 このまま曹操に『気』を注ぎ続ければ、あのように呑まれてしまうのではないか。恐れは、常に心を侵している。

 

 義憤に駆られたわけでも、当然ない。ただ私は、『やる』と言わなければリアスさまや九重はもちろん、私もが死んでしまう、というどうしようもない一本道を、その時フェルさまの逡巡に悟ってしまっていた。

 

 それ以外を選択することができなかったから。それだけなのだ。

 

 たぶん、あの時『やります』と言わなければ、フェルさまはサンペーから私たちを守ることをやめ、ウタさまを助けに行っていただろう。

 

 確信があった。フェルさまはウタさまのことが何よりも、少なくとも私たちよりは大切で、私の死とウタさまの死の二択であれば、間違いなく私を切り捨てる。当て嵌めれば今の現状、魚の塊から薄く感じる気配でまだウタさまが生きていることはわかるが、あの身体ではいつまで耐えられるかなんてわからない。フェルさまも、今すぐにでも助けに行きたいはずだ。

 

 なのに迷ったのは、私が曹操を癒すことができればウタさまも、そして多分私たちも助けられるから。つまるところ、一より五を救える可能性。フェルさまには、真にウタさま以外を助ける気がない。

 

 私がやらねば、皆を殺してしまう。……私のことを、家族と呼んでくれた、リアスさま。たった一人の唯一を、私はもう、失いたくない。

 

 仙術よりも、そのほうが怖かった。要するに、その程度なのだ。

 

 そんな浅ましさで作られた決心。ひ弱な精神で、集中のために集中していたせいだろうか。

 

 最初はあれだけあっけなく曹操に溶け込んでいった『気』が、だんだんと操り辛くなっていた。

 

 注げる量も速度もどんどん下がり、滞る。疲労感が増すばかりで、胸の内にもやもやとしたものまで溜まり始めた。急がないとだめなのに、と焦りばかりが先行する。

 

 そんなところにフェルさまの悪寒を吹き付けられれば、心の怯えが爆発的に増大するのも、致し方ないことだろう。戦慄が背中を駆けると同時、私はつい、考えてしまった。

 

 もし、曹操の治療が上手くいかなかったらどうなるのだろう。

 

 フェルさまに見限られれば、やっぱり私たちは死ぬ。こんなに時間をかけていたら、そうなってしまうのではないだろうか。

 

 想像してしまえば、精神は一気に奈落へ引きずり落とされた。全身を見えざる手に蝕まれ、呑み込まれるような絶望感が身を襲い、頭を痺れさせる。手足から身体の感覚が冷えて消え、『気』の気配すら遠ざかり、どろりと染み込む幻覚に、私は思う。

 

 やっぱり、姉さまが抗えなかった『力』に、私が敵うはずがなかったのだ。

 

 心の中に渦巻く黒い泥に。

 

(姉さまも……そこに、いるのかな……)

 

 ひとりでに瞼が開いた。取り乱すフェルさまをすり抜け、私に向かって襲い来る、あの小魚の群れが見えた。

 

(ならいっそ、もうこのまま――)

 

 曹操の身体から手が離れようとした、その時、

 

 黒の塊を、暖かい波動が突き破った。

 

 魚たちを蹴散らす光弾。貫かれた空白の向こうに、一瞬だけウタさまが見えた。すぐに魚の渦で埋まったが、眼にした意思は焼き付いた。光弾が弾け、残った僅かな小魚たちが再び向かってきても消えないくらいに、強く。

 

 放たれた滅びの魔力が残敵を消し飛ばし、眼前に印象のみを残して散る頃になって、私はようやく、傍にリアスさまの温もりがあることに気が付いた。

 

「白音、あなたは、優しい子よ」

 

 リアスさまの、春風のように穏やかな調子が聴覚に鳴った。突然の突飛に驚き、訳もわからずその優しげな横顔を見る私。

 

 続けられる。

 

「優しくて、そして強い子。だって、あなたを傷つけてしまった私を、許してくれたんだもの。私の手を、取ってくれたんだから」

 

 私に、笑みを向ける。

 

「だから、大丈夫。あなたは……黒歌とは違うわ。あなたは、黒歌のようにはならない」

 

 ――何を、馬鹿げたことを。

 

 暖かさを浴びて、這い出た感情はそれだった。

 

「そんなの、わからないじゃないですか……!」

 

 抑えられなかった。

 

「リアスさまに、わかるわけがないんです!黒歌姉さまは私の姉さまで、姉妹なんだからっ、だから、私は……。それに、リアスさまに付いて行ったのだって、私が優しいからじゃない……!独りが、一人ぼっちが、怖かっただけです!リアスさまだけが、唯一手を差し伸べてくれたから、それだけでしかないんです!」

 

 私は、優しくなんてない。自分のことばかりで、人のためを考えられないから。

 

 そして強くもない。姉さまのような、他の追随を許さない圧倒的を、一つも持っていない。力も、心も。

 

 リアスさまの言う通りだ。私と姉さまは違う。姉さま構成する頼もしさは、その一端も私にはない。私が継いだのは仙術の才能だけで、しかもそれすら碌に使いこなせない。

 

 私はどうしようもないほど劣っている。だから、姉さまよりもずっと自分勝手で弱いから。姉さまにできなかったことができるはずもない。

 

 私は――

 

「姉さまみたいに……できない……。一人じゃ何もできない、疫病神だから……私なんて、死んでしまった方がずっといいんです!!」

 

 害にしかならない厄介者なんて、生きているべきではないのだ。

 

 そう叫んだ。胸の中の汚泥を、リアスさまに吐きかけた。

 

 なのに、

 

「私が、いるわ」

 

 私の手に添えられた温かさは、相も変わらず優しくて――頼もしかった。

 

「一人じゃ何もできないって、あなたは言うけれど、私だってそうよ?今回だって、ウタに曹操に……フェルの力がなければ、あなたを助けられなかった。私一人だけじゃ……ううん、曹操たちだって、誰か一人でも欠けていたら、たぶんあなたを見つけることさえできなかった。……一人で何でもできる人なんて、いないのよ」

 

 語りかけるような調子だった。鼓膜を撫でる、ただの言葉。なのに、なぜなのだろう。

 

 黒が晴れていくような安堵があった。

 

「けれど、一人でできなくても、二人ならできる。三人なら……皆と一緒なら、できないことなんて何もない!」

 

 反対側の手の甲に、九重の手が重ねられる。眼前で戦うフェルさまも、ちらりと私を見てくれた気がした。そして、漂うウタさまの光弾の残り香。その意思。

 

 リアスさまの手の熱を感じながら、それは私の心の中を、洗い流すかのように駆け抜けた。

 

「私も、私たちも一緒に戦うわ!だから、だから白音、仙術なんかに、負けないで!!」

 

 暖かさに導かれるようにして、私は再び目を閉ざした。

 

 さっきまでのもやもやが、嘘のように消えていた。心は穏やかで、『気』が雪解け水のように澄み切り、淀みなく曹操に流れる。

 

 それが皆のおかげであることは明らかだった。左右の手の熱を感じれば心が落ち着き、漂う気配を感じれば勇気が湧いてくる。皆が支えてくれるここには、私の恐れる絶望がなかった。暖かい心地だけがそこにあった。

 

 ウタさまが使ったこの仙術(暖かさ)も、やはり私の知る仙術なのだ。

 

 だから私も、ようやく認めた。

 

 あの涙の訳。恐怖に負けてしまった私が、何もできなかった私が、あの時見つけられなかったもの。

 

 姉さまが邪悪な仙術に呑み込まれてしまったのは、独りだったからなのではないだろうか。

 

 私にとってのリアスさま、ウタさまにとってのフェルさまのように、支えてくれる人がいなかったから。いや、私が支えになれなかったから。

 

 一緒に戦わなければと、そんなことを考えもしなかった、私のせいなのだ。

 

 二人で路地裏に暮らした時も、主さまに眷属に取り立てられた時も、そのすべてが壊れたあの時も、寄り添おうなどと思ったこともなかった。姉さまは強いから大丈夫と、すべて任せて頼り切っていた。姉さまには私の助けなど必要ないと、ずっと無意識に甘え切っていた。

 

 私は黒歌姉さまを、姉さまとしてしか見ていなかった。だから、姉さまは死んでしまった。だから、あの時涙を流した。

 

 そうなのではないだろうか。

 

 答えてくれる人はもういない。死んでしまった姉さまには、もう償いもできはしない。

 

 今更気付いても遅すぎる。後悔なんて虫のいい話だ。

 

 けれど、

 

(ねえさま――)

 

 今だけでいい。許してなんて、この痛みを無かったことになんて、しないから。だから、

 

「――力を、貸して――」

 

 私はもう二度と、間違えたくないんです。

 

(ねえさま――)

 

 

 

 ――会いたいよ……。

 

 

 

 ふと、腕を掴まれる感触がした。

 

「もう、十分だ」

 

 知らない声。男の人の声。

 

 聞こえた途端、私は全身に猛烈な疲労感が揺蕩っていることに気が付いた。一気に意識に浸透したそれが集中を遠ざけ、『気』の流れを絶つ。両手が押し上げられて落ち、私は開いた目に、その人の青白い微笑を見た。

 

 目覚めた曹操が、私の頭を撫で、言った。

 

「それ以上はキミが持たない。休んでいるといい」

 

 起き上がりつつ、静かに息を吐く曹操。『気』を纏い、それを膨らましていく彼に、リアスさまが歓喜と興奮で頬を赤くする。

 

「そ、曹操っ!今、ええと……う、ウタが魚に――」

 

「わかっているさ。リアス殿は白音嬢と九重嬢を頼む」

 

 短く鋭く飛んだ言葉に、リアスさまが疲労困憊の私を支える。目が回りそうなくらいの疲れに襲われる私は、曹操の右手に奔る呪いめいた黒い炎を見た。

 放たれたそれが最初に向かったのは、ウタさまが閉じ込められている、魚の塊だった。瞬く間に黒い火球と化す魚たちに、曹操は声を張る。

 

「フェル、ウタ!!こっちは任せろ!!」

 

 炎を突き破り踏み出したウタさまに、フェルさまから距離を取ったサンペーが重く舌打ちした。

 

「任されてたまるかよぉ!!」

 

 言葉と共に振りかぶって投げつけられたのは、二頭を持つ鮫だった。くるくる回転しながら飛んでくるその後ろには、さらに数多の魚たちが連なって突撃してくる。

 

 悪意の『気』に濡れたそれらに怖気が走る。だが、曹操は至極冷静に、炎を纏った手を振った。

 

 炎が吹き荒れた。トンネルいっぱいに広がり、向かってくる魚たちを包み込むように覆う。球体の檻のように受け止め、そして、パンッ、とささやかな音を立て、破裂した。

 

 僅かな黒炎の破片が飛び散るのみとなった眼前。奥の魚の積乱雲まで、三人以外は何もいない。

 

 がくり、と、曹操が膝を突いた。いかにも限界ギリギリといったふうに、荒く息をつく。

 

 サンペーは、怒りと喜びが入り混じった声で笑い、後ろに跳び退った。

 

「ったくよぉ!!これだから神器(セイクリッド・ギア)ってぇのは厄介だなぁ!!」

 

 積乱雲に手を突っ込み、嘲笑の興奮に叫ぶ。

 

「次があったらぁ、その貧弱な体力鍛えときなァ!!」

 

 ウタさまもフェルさまも、邪魔をできる位置にいない。また同じように投げつけられれば、それは曹操に届く。そんな状況を見て、サンペーは笑ったのだろう。

 

 たぶん、気付ける余裕がなかったのだ。

 

 驚くほど静かに、それは成された。

 

 何の音もなく、何の気配もなく、ただあっさりと、まるでリンゴが木から落ちるように、自然に。

 

 黒い炎に焼かれた積乱雲から、銀髪の大男がするりと現れ、サンペーの脇を通った。

 

 すれ違ったその手には、こぶし大の包みが抓まれていた。

 

 ウタさまとフェルさまの足が止まり、サンペーも、突如目の前に現れた大男を凝視したまま固まる。包みが拍動し、白い生地に赤い液体が滲む様を眼にすると、サンペーは消えゆく魚たちの積乱雲から手を抜き、自分の胸に当てた。

 

 その表情が呆然からいつもの笑みに変わった時、私も、ようやく悟った。

 

「あぁ、まだいたんかよぉ、シルバのあんちきしょうはぁ……。静かなもんでぇ、もう死んじまったかとぉ……思ったよぉ……」

 

 身体が後傾し、瓦礫にもたれかかるようにして倒れ込む。

 

 サンペーは、尚も悪寒をもたらす眼で私たち全員を見回し、鼻で笑った。

 

「こんなに身体張ったんにぃ、一人も殺れずぅ、かぁ……」

 

 首が折れ、手が滑り落ちる。俯いて、且つごく微かな声が、しんと静まったトンネルに鳴った。

 

「……ちくしょうめ……」

 

 皆を追い詰めた男の命は、酷くあっけなく吹き消えた。




(ほぼ)オリジナル登場人物
【サンペー=キリツチ】
・色黒で筋骨隆々、麦わら帽子がトレードマークの二十代後半なおっさん。ちなみにクロロはこの時二十二歳。年上。
・性格は豪放磊落。他旅団員、特にウボォーギンとの仲がいい。おかげで高攻撃力の相手とは戦い慣れている。
・砂漠地帯出身で、子供のころからの釣りマニア。とはいえ雨季でないと釣りができないような環境であり、当時は妄想で釣り欲を発散していた。釣り能力や『念魚』も、ほとんどがその産物。現在では釣りはもちろん、新古問わず漁具の収集が趣味。クロロと知り合ったのも、たぶん黄金の釣竿とかそんなのを狙ったから。美術的価値はともかくオーバーテクノロジー釣竿とか、アザゼルが作ってそう。
・ハンターハンター原作における、1996年頃シルバ=ゾルディックに殺された団員No.8。後釜がシズク。名前どころかどんな人物であったかも不明なため、都合よくもといやむを得ず人物像と能力を捏造された。たぶん拙作唯一のオリキャラと呼べる存在。

プロット上では一話にまとまってた病が発動しない限り次話が二部の最終回なので感想ください。
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