20/3/20 本文を修正しました。
一話
薄い羊膜のような殻を破り、生まれ出たボクの目に最初に映りこんだのは、青い血と臓物と、大小様々な甲殻の破片だった。
ただっぴろい空間。地面を埋め尽くし、積みあがったそれらが、自分と同じく『王』に奉仕するために生まれたものたちであることは、誰に教えられた訳でもなく本能的にわかった。そして同時に、この『巣』が何か致命的な事態に陥っていることも理解する。混乱する暇もなく、ボクは無地の脳へ光を走らせていた。
この際、発生した『何か』は重要でない。どうすれば、ボクは自身の務めを果たすことができるのか。
存在意義だ。ボクは生まれながら『王直属護衛軍』という役目を背負っていた。無数に存在する『兵』とは違い、ボクを含めて三人しか生まれることのない『護衛軍』の使命は、名の通り、『王』を守り、その覇道をお助けすること。
だがしかし、『王』はまだ生まれていないだろう。なぜならボクがまだ生まれたばかりで、家臣が『王』よりも遅く目覚めることなどありえないからだ。
故に今のボクがすべきことは、『巣』や『兵』の損失など気にする間もなく、『王』の揺り籠たる『女王』の身を守ること。
ボクは羊水に濡れた地面を蹴り、駆け出した。暖かい金臭さの元を飛び越え、土を固めて建造された『巣』の中を、『女王』を探して駆けずり回る。
そして見つけた。『女王』と、それを囲む皮膜の羽を生やした二本足の生物たち。
思えばそんな確証など、ありはしなかったのだ。『巣』の中はそこら中、兵の死体ばかり。息のあるものなどいなかった。
『女王』もそうであると、どうして思わなかったのだろう。
『女王』は死んでいた。
四肢はもがれ、腹には大きな穴が開き、頭は潰れていた。完全に、完璧なまでに『女王』は死んでいた。『王』をその胎に宿すことなく、死んだ。
誰が?いったい誰が『女王』を、『王』を殺した?
決まってる。
ボクは躊躇いなく、その生物に襲い掛かった。
駆除は驚くほどあっさり完遂された。
不意を突いて数匹を即殺して、あとはあまりよく覚えていないが、立ち上る血の臭いと引き換えに、『巣』は静けさを取り戻した。
ボクは崩れ落ちるようにして地べたに腰を下ろした。ひたひたと、零れ落ちては地に吸い込まれる侵入者の赤い血を眺めていると、頭の中の赤色も一緒に流れ落ちていくようだった。
これにいったい何の意味があったのだろうか。
ふと思った。
『女王』は最初から死んでいて、『王』は生まれてもいない。そして恐らく、他二匹の『護衛軍』もそうだろう。
例えばもしここでボクが侵入者共に殺されていても、『王』の覇道が潰えた、という事実は変わらない。ボクが一人だけ生き残ったって意味がない。
『王』がいなければこの命に価値など、存在意義などないのだから。
「ボクは、いったい――」
何なのだろうか、という呆然とした言葉は、濃い死臭の中に消えていった。
それからボクは『巣』を出て、日も射さぬ樹海の中でいまだ生きている。ただ物を口に入れて眠るだけの日々で、どちらかというと『死んでいないだけ』といったほうが合っているかもしれないが、時折頭をよぎる『なぜまだ生きているんだろう』という邪念を振り払って、ともかくボクは生きていた。
そうやって生きながらえて日が十回は昇ったころ、ボクはその娘に出会った。
いつものように何をするでもなく、ただ木にもたれかかってぼんやり宙を眺めていた時だった。突然、すぐそばで大きな葉擦れの音が鳴った。
それに驚き確かめるような情動はすでになく、ボクは梢の枝葉を見つめたままため息を吐く。
虫か獣か、それともあの時の侵入者の仲間か。ボクがまだ『護衛軍』であれば警戒の一つでもしたのだろうが、今となっては心底どうでもよかった。近づいてこなければ放っておくし、向かってくるなら胃に収めてやるだけだ。それが仇討ちに来たのであれば、あるいはこのつまらない命を終わらせてくれるかもしれない。
そう、それはもしかしたら、いいかもしれない。
ボクは目をつぶり身体を弛緩させた。ようやく、本当の意味での眠りを得ることができるかもしれないと。
だが、いくら待てどもそれは訪れない。それどころか、葉擦れの主が立ち去ったような気配もしない。
さすがに不思議に思い、ボクは気だるい身体を起こして葉擦れのほうを振り向いた。
瞬間、名状しがたい衝撃が、ボクの全身を襲った。
最初に目についたのは、その耳だった。木々の暗闇に溶け込んだ濡れ羽色の頭に、同色の三角耳が乗っていた。そしてそのうつ伏せの身体をたどっていくと、これまた同色の二股に分かれたしっぽ。
数瞬前まで興味の欠片もなかったにもかかわらず、途端にボクの眼はその姿に釘付けになる。今まで見てきた生き物はおろか、死んだ『兵士』たちや『女王』にも見ることがなかったその形。
無意識的に、自らの頭の、彼女のそれとよく似た耳へと手が伸びた。
水場の水面で知った自分の耳と、彼女のそれは驚くほどよく似ているように思えた。尻尾も、ボクのものは二股ではなかったが毛並みも形状も全くそっくりで、もはやボクは身の内に込み上げる奇妙な衝動に耐えることができなかった。
意を決して、ボクは彼女が倒れる暗がりへと歩み寄る。そろりそろりと近づいて、そして何事もなく傍へ膝を突いた。覗き込むと、口元の草が微かに揺れている。どうやら息はあるらしく、ボクはほっと胸をなでおろし、その身体を慎重にひっくり返した。
耳と尻尾の有無、そしてわずかな差異はあれど、気配と身体のつくりから見て、『巣』を襲ったやつらと同じ種類の生物なのだろう。だが、仇討ちに来たわけではないらしい。
その身体はボロボロだった。
服の裏には殴られた傷や切り傷刺し傷、どうやったのか、内側から爆ぜたような傷が全身を赤で染めており、右腕に至っては肩のあたりから千切れかけていた。顔に刻まれた醜く深い傷は眼球にまで及んでいるだろう。
そして何より全身が冷え切っている。血が足りないのだ。
このままでは死んでしまう。そう理解した瞬間、『女王』の亡骸がボクの脳裏をよぎり、悪寒が走った。その悪寒が『この娘を助ける』という思いに転じるには一秒もかからない。
そうやって思いに突き動かされたボクは、彼女の腕に触れたと同時に固まった。
小さな傷はいい。だが、腹に空いた穴は?えぐり取られた顔面は?引き千切られた右腕は?足りない血はどうする?
どうすれば助けられる?
何もかもが足りない。そもそも、これほどの重傷を負ってまだ生きていること自体が、信じがたいほどの奇跡なのだ。思いつける手当てでどうにかできるような段階ではない。
助けようにも助け方がわからない。手の施しようがない。
なら、諦める?
そんなことは考えられない。
胸の息苦しさが諦めることを拒否して熱いものへ変わり、ボクは彼女の手を、包み込むようにしてぎゅっと握った。
あの『死』を、もう二度と見たくない。
誰に祈るでもなく、ただ強く願った。
(――おねがい)
この子を助けて。
【
ずるりと、身体の中の何かが抜け出たような感覚がした。
固く閉じていた瞼を開けると、『それ』は彼女の上に浮かんでいた。
大きな頭に大きな目、そして大きな胴体。下半身はなく、ひもが一本伸びているだけの『それ』は、明らかにまともな生物ではなかった。むしろ命があるのかさえ疑わしいものだったが、不思議なことにボクはわずかな警戒心も抱くことはなかった。
「キミは……」
吸い込まれそうな透明感の、その瞳を見つめ呟くと、それは一瞬だけボクを見つめ返し、次いで仰向けの彼女に眼を落とした。
ボクはようやく、『それ』が何のためにこの場に現れたのか、いや、ボクがなぜ『それ』を作り出したのかを理解した。
「この娘を、助けて」
『それ』の顔は相変わらず無表情だった。だが、その眼はより深く、透き通った色に沈んだように見えた。
それがきっかけになったのだろうか。突如として『それ』の胸元が扉のようにぱかっと開き、中の闇から細い手のようなものが無数に生え出した。同時に両手の指からも同じものが伸びて、それらはゆっくりと彼女の傷へと降りて行く。
そうして『それ』は治療を始めた。
執刀の手はひどくゆっくりとしていて、今にも彼女が死んでしまうんじゃないかとひやひやするほどだったが、それでも確実に治療は進み、高かった日が夕暮れに沈んだころ、ボクの中の何かを吸い続けながら、『それ』はようやくすべての傷を塞ぎ終えた。
跡一つなく、とまではいかずもとにかく血は止まり、血色も回復しつつある彼女を見やると、『それ』は「役目は終わった」と言わんばかりに姿をかき消してしまう。
「……ありがとう」
煙のように消え去った『それ』を、息を吐き出すようにして見送った。ずっとつないでいた彼女の手が暖かさを取り戻しつつあることに気付き、改めて安堵する。張り詰めた気が抜けて、断ち切られた堰の向こうから押し寄せる疲労感に押し流されたボクは、一瞬のうちに全身の力を狩り取られ、彼女の隣に倒れこんだ。
『それ』に吸われていた何かは、言わばボクのエネルギーだったのだろう。そこまで絞り尽くしたために抵抗はできず、誘惑に負けて目を閉じればもうそれまで。あっという間に、ボクは夢も見ないほどの深い眠りに落ちていった。
なぜ、命を削ってまで名前も知らぬ彼女を助けたのか、根本的なところで気付かぬまま、二匹の猫の姿は着々と深まる夜の闇に飲まれていった。
「こっちに、来ないでッ!」
声が聞こえる。
「どうして、こんなことを……」
愛すべき我が妹の、怒りと恐怖に濡れた悲鳴が。
「いやッ!あなたと一緒になんて、行きたくない!」
差し出した手を払い除ける音。
「お願いですから……どこかに行って。もうわたしに関わらないで――もう、一人にして……」
ずっと一緒に生きてきたのに、なんでそんな顔をするの?なんで、私を怖がるの?
なんで――
「っあ……!」
悪夢からはじき出されるようにして目が覚めた。と同時に全身へ激痛が走り、飛び起きようと跳ねた私は再び地面に転がった。
あまりの痛みに、頭はすぐクリアになった。が、対照的に手足の感覚はひどく朧気で、まるで自分のもでないかのよう。肌に見える傷は大半が薄いかさぶたを張って、快方に向かいつつあるようだが、それでもまともに動けるとは思えないような状態だった。
私は息を吐きつつ、強張った全身からゆっくり力を抜いていく。悪夢の名残を振り払って目を閉じるとこうなった経緯を思い出し、まあ当然か、と私は自嘲した。
あの腐れ悪魔の元マスターと戦って殺し、その眷属と戦って殺し、本家の奴らと戦って殺し。合計すればうん十人にも上る悪魔たちと殺し合ったのだ。こうもなるだろう。あの時散々取り込んだ『気』もほとんど残っていないようだし、むしろ生きているのが不思議なくらいだ。
しかし、いったいここはどこなのだろう。
肌にまとわりつく空気の独特な感触から察するに、冥界から脱出できたわけではないだろうが、眼前に広がるのは木々と木の葉、草花ばかりで直前の記憶とはこれっぽっちも一致しない。どことも知れぬ森の中だ。
転移の魔法が暴発でもしたのだろう。館を逃げ出した後、追手の悪魔に追われている最中の記憶は、正直あやふやだ。意識朦朧としていたその時の自分が苦し紛れに使って、どことも知れぬ場所に飛ばされてしまった、と考えればとりあえず納得はいく。
悪魔の駒で転生して悪魔になったとはいえ、私は元々妖怪の猫又だ。魔法に関しては成熟しているとは言い難く、そもそも転移魔法とは本来専用の魔法陣を必要とするような高等魔法なのだ。それを死にかけの状態で、しかも魔法陣なしで行使するなど、そんなもの、まともに成功するはずもない。上半身と下半身が別々に転移、なんてことになっていない分、私は幸運だ。
そう、生きているだけ儲けもの。
顔面、特に右目を頭蓋の奥から殴りつけられているような鈍痛に、私は脂汗を流しながらため息をついた。
身体は、結構な個所が駄目になっている。どこをどう動かしても激痛が走った。
骨は少なくない数が折れているだろうし、筋肉や内臓の損傷だってあるだろう。生憎首が曲げられなくて見えないが、欠損している部位もあるかもしれない。歩くどころか動くことすらままならない身体。
(あれ?これって私しばらくしたら死んじゃうんじゃ……)
水音も聞こえない鬱蒼とした森の中、死の淵から半分身を乗り出しているようなこの身体で、いったい何日生き延びれるのか。仮に生き延びたとして、この身体は治せるのか。
なにが「生きているだけ儲けもの」だ。ほとんど詰んでるじゃないか。
「どうしよ……」
喉からかすれ声をひねり出した。その時だった。
ゾワ
突然、尋常でなく不気味な『気』が私の全身を覆った。
「――ッッ!!」
心臓が破裂しそうなほどの衝撃。怯えに囚われた身体が、痛みを無視してそこから離れようともがく。その拍子に一瞬だけ視界が持ち上がり、そこに私は信じられないものを見た。
「んにゃぁー」
などという既視感のある伸びをしながら、この禍々しい『気』をまき散らすそいつ。
うねった銀髪の上には、一対の猫耳が乗っていた。
腰のあたりにはやはり猫のような尻尾が生えており、猫の獣人か、あるいは自分と同じ妖怪の猫又かと一瞬思ったが、すぐに誤りだと気が付いた。
そいつの関節部は異様なものだった。まるで人形の球体関節のようで、よくよく見れば手の指も四本しかない。きちんと服を着ているところを見るに、知性なき魔獣ではないだろうが、そいつは全く未知の生物だった。
だが、私の本能が真に恐れたのはそこではない。問題なのは、足から手まで順繰りに伸びをするそいつが、いやでも身体が反応してしまうような『気』を放つそいつが、もはや隣と言っていいほどの近距離に突如として出現した、ということだった。
自身の『気』を隠す技は確かに存在する。が、仙術という、体外の『気』を操る術を修めている私でさえ気づけないほど完璧に『気』を隠すことができるなど、信じることができようか。
つまりこの謎の猫は、それらの技術をここまで昇華できるだけの才能があり、『気』はこの世のあらゆる『邪気』を孕んでいるかの如く不気味で、冥界にも人間界にも見られないような異様な造りの身体を持つ、二つの意味でのバケモノだということだ。
「あんた、いったい何なのよ……」
そいつの背中を呆然と見つめながら、私は呟いた。その声に反応したのか、耳がピクリと動く。
「『いったい何』ねぇ……実はボクも同じことを聞いてみたかったんだよね」
頭だけで振り返ってそいつは言うと、その赤褐色の瞳で私を捉える。次の瞬間、感じていた『気』の圧が何倍にも膨れ上がった。
背が冷える。ただ無造作に垂れ流していた今まででも相当だったが、それが整い、いっぺんにこちらへ向くと威圧感がすさまじい。
「ねぇ、キミって、何者?」
その言葉の端々に自分の身体が飲み込まれていくような気がして、気が付けば私の頭でその問いが乱反射を起こしていた。
何者。私とは誰なのか。
「く、
とりあえず自分の名前を告げた。
答えてから気付く。「名前は?」ではなく「何者か?」という質問に対してそれは違うんじゃなかろうか、と。
実際、そいつの反応は芳しくなかった。
「クロカ……?それがキミたちの名前?」
「え?『たち』……?い、いやいや!違うわよ!私の!黒歌は私の名前!」
「うん?違うの?キミはクロカで、なら他のキミもクロカじゃないの?」
そう言って、訳がわからないと眉を寄せるそいつに、私は頭の中がこんがらがっていくのを感じた。
この謎の猫、個人名と種族名を混同しているんじゃなかろうか。
「だ、だから!私の名前よ黒歌っていうのは!種族は妖怪の猫又……いや、今は悪魔に転生したんだけど……と、とにかく!黒歌は私個人の名前で、名称!個人識別名!なのよ!」
「個人の名前?」
「……そうよ。あんたにもあるでしょ?あんた自身を指し示す名前」
ぜいぜいと息を吐き、酷使した喉から鉄臭い血を吐き捨てる。
謎の猫がうんうん唸って考え込む間、私は痛む胸を押さえて息を整える。幾らか落ち着いて再び顔を上げた時、その真ん丸な眼がちょうど喜色に見開かれた。
「ああそうだ!ネフェルピトーだよボクの名前。なんとなくだけど、ずっと前に女王がボクをそう呼んでたような記憶が――」
その時、私の身体がその単語に反応してびくりと跳ねた。反射的に脳味噌が戦闘に切り替わり、そして――腕をほんの少し持ち上げただけで身を貫く激痛に、瞬時に思考の冷静を取り戻した。
「……何か変なのでも見えた?」
今目の前に。
などと軽口をたたく余裕はなく、みょうちくりんな体勢で無意味に悶絶するという、なんとも間抜けな有様を晒しながら、私は痛みと一緒に長々と息を吐き出した。
そうやって硬直する身体を解きほぐすと、私は意を決し、尋ねた。
「あんた、女王って……もしかして転生悪魔なの……?」
感じる気配はその『気』のせいか、そうであると断言しづらいが、それでも今の私はそれを曖昧にすることをよしとできなかった。
なんといっても、私は悪魔にとってお尋ね者なのだ。
確かに当初は、その外見からネフェルピトーを未知の生物と評したが、しかし転生悪魔に限ってはその判別法は通じない。悪魔たちは
かくいう私もそれで悪魔になった身だが、ともかく、ピトーがどういった立場であるかは、私にとって早急に知らねばならない最重要点であった。
そのために、いざとなればと覚悟を決めてピトーの答えを待っていたわけだが、しかし、その覚悟は妙な方向に裏切られた。
「『テンセイアクマ』?うーん、知らないにゃ。まあ、ボクが卵から生まれた時には皆死んじゃってたし、知りようなんてないんだけどね」
「卵!?あんた、そんななりして卵生なの!?悪魔になってそれなりにたつけど、そんな生物が冥界にいるなんて聞いたことないわ……」
「『アクマ』?『メイカイ』?また知らない単語。ねえ、それってどういうものなの?」
「うそでしょ……?」
冥界で暮らしているくせに悪魔すら知らないとはさすがに思ってもみなかった。いったいこの謎の猫は何なのだろうか。
私を油断させるための演技?いや、現在の力量差からしてもそんなことをする意味はない。したとしても、もっとましな嘘をつくはずだ。
だとしたらこれはすべて本当で、ピトーはただの世間知らずということか?それが疑わしいからこそこうやって悩んでいるんじゃないか。
ならばこれはすべて夢で、現実の私はぐっすり眠っているか、あるいはもう死んでる?あらゆる意味で論外だ。
謎だ。ピトーの正体からその背後、現状に至るまですべてが不明瞭。思えば嫌に禍々しいその『気』の謎も全く解明できていない。まるで、まっさらのパズルを前にして途方に暮れているような気分に、私は嘆息した。
もっと情報が必要だ。
経歴に能力、身長体重嗜好までなんでも、できる限り知ってネフェルピトーという存在を把握しなければならない。でなければ枕を高くして眠れないと直感した。
そしてどうせなら、舌戦の上だけでも優位を取っておきたい。
現在の私とピトーの立場、力関係は明らかだ。ピトーが上で、私が下。戦うなんていう選択肢を選ぶ余地もないくらい、差は明白に隔絶している。
今はおとなしくおしゃべりに甘んじているが、それも彼女の気分次第だ。いつ豹変して襲い掛かって来るかもわからず、そして私は動くことすらままならない。
故に私の身の安全のためにも、ピトーの中の私の立ち位置を引き上げて、行動を縛ってしまうのが望ましい。
ならばいっそと、私はわざとらしく咳払いをしてみせた。
「こほん。ねえ、ピトー。私と取引しない?」
「取引?」
ピトーがきょとんとした顔で首を傾げた。「そうよ」と返し、威厳を示すために歯を食いしばりながら上半身だけ起き上がってその身を木に預ける。過程で何度か苦悶が漏れてしまったような気もするが、それを無視して私はニヤリと、不敵な表情を塗り重ねた。
「悪魔の本業でもあるのよ。願いを叶える代わりに対価をもらうの。大昔は魂が対価だったみたいだけどそれは論外として……今回の場合、私が提供するのはあんたの疑問に対する答え。つまり悪魔がどういうものなのか、とかね。一般常識を教える代わりに、私に対価を……あなたのことを教えてほしいの。どう?」
気が急いて身の安全の保障を求めそうになったのを辛うじて自制して、私は痛みに顔を引きつらせながらも微笑みを貫き通した。
いきなり最終目標を提示する必要はない。ピトーがこれに乗ってくれば、どちらにせよ取引中は安全なのだ。砂漠で新鮮な水が詰まった水筒を割るバカではないだろう。
「ふぅん。取引ねぇ……」
それもピトーが水を欲していなければ無価値なのだが。
「……どうなの?」
内心で冷や汗を流し、私は気付かれぬように拳を握った。痛みが僅かなりとも不安を誤魔化してくれる。
「……にゃるほど。うん、いいよ。その取引乗った」
その言葉を耳にした瞬間、脱力した身体がさらに脱力して、スライムにでもなったようなとろける安堵が全身を襲い、私は耐えられずに小さくため息を吐いた。
とりあえず、不測の事態で殺されることは恐らくなくなった。
ひとしきり胸をなでおろし、次いで気が変わらぬうちに施行しなければと急かされた私の頭は、なぜか悪そうな笑みを浮かべているピトーにまた一つ咳払いをした。
「じゃあまずは……悪魔についてでいい?さっきも言った通り、人の願いを叶えたりしてる存在で、まあ、私の種族でもあるわけなのよ。とはいえ私は転生悪魔って言って、妖怪の猫又から後天的に悪魔になったんだけど――」
「耳は?」
私の言葉を遮って、ピトーが言った。まだおちょくり足りないのかと悪戯顔を想像したが、ピトーの表情は意外にもそれなりに真面目だった。
「キミの耳と、あと尻尾は、『ヨウカイのネコマタ』と『アクマ』、どっちなの?」
「み、耳?それは、猫又としてのものだけど……」
「なんでそんなことを?」と続く言葉はやめておいた。
余計なことを聞いて地雷を踏むわけにはいかない、と思ったためでもあるが、ピトーが手を伸ばした自らの頭の上に、同じような猫耳が乗っていることを思い出したからでもあった。
「にゃるほど、にゃるほど。つまりボクの正体は『ヨウカイのネコマタ』だった、っていうことだ!」
「そんなわけないでしょ!あんたみたいなヘンテコな猫又がいてたまるもんですか!」
かといってこんな発想に至るとは思っていなかったが。
「え?違うの?」とでも言いたげに首をかしげるピトーに気疲れのため息を吐き、私は望み薄な答えを求めてとりあえずと聞いた。
「次、私の番だけど……まあ、一応聞くわ。あんたっていったい何者なの?どうして私の隣で寝ていたの?」
心なしかしょんぼりとしたピトーが答える。
「『何者なのか』、ね。『アクマ』とか『ヨウカイ』とか、キミたちが付けた種族名のことを聞いていて、それが『ネコマタ』じゃないって言うなら、ボクは知らない。けど、そうだねぇ。言えるとしたら、ボクは『王』に仕える『王直属護衛軍』だった、ってことくらいかにゃ。でも、『王』が生まれる前に『女王』も『兵』も全滅しちゃったし、そういう意味では『ピトーだ』としか答えられにゃい」
「『王』と『女王』に『兵』……ねえ、ほんとにあんた転生悪魔じゃないのよね……?」
「『テンセイアクマ』だと『アクマ』や『メイカイ』を知らないのはおかしいんでしょ?実際ボクは知らなかったし、『テンセイアクマ』だっていう自覚もない。これ以上の証明はいらないと思うけど?」
ごもっともだ。しかしそうなれば、ますますもってピトーの正体がわからない。話から察するに、『王』を頂点としたコミュニティーを築く種族のようだが、冥界が広いとはいえ、ある程度の文明と強さを持つであろう彼女の種族が悪魔たちの中でまったく知られていない、などということがあり得るのだろうか。それにどうやら彼女以外の同族は皆死んでしまったらしい。これがドラゴンなら、悪魔界どころか世界中の神話体系も巻き込んでの大騒ぎになるに違いないというのに。
いや、まてよ。
私はふと気が付いて、ピトーに尋ねた。
「ねえ、さっき『全滅しちゃった』って言ってたけど、それってもしかして、殺されたってこと」
「うん、そうだよ。ボクが生まれたころには皆殺されちゃってたんだ。多分、『アクマ』にね」
やはり、彼女たちは人知れず迫害されていたのだ。正直に言って異様としか評せないその身体だ。恐れた悪魔は多かったのだろう。
誰も進んで関わろうとはせず、どこかの辺境に押し込まれたまま、ついに『退治』されてしまったのだ。
「まあ、そいつらは全員殺して食べちゃったから、もう確かめようがないんだけど」
「た、食べ!?」
前言撤回だ。それなら誰だって排除して退治するに決まってる。悪魔にとっての悪者はこっちだった。
「な、なら、これが終わったら私のことも、た、食べる気?そ、そりゃそうよね。あんたにとって悪魔は、仲間を殺した仇なんだし……」
「んー、それもいいけど、やめとくにゃ。せっかく気絶してまで治療したんだから、もったいないし」
「そ、そう……それならよかったけど……治療?治療って、何を?」
「そんなの決まってるじゃない?キミをだよ。特にこことか、すごく酷かったんだから」
と言いつつ、ピトーが私のそこかしこが破れた着物に手をかけて、脱がそうとぐいぐい引っ張ってくる。同性(?)とはいえさすがに羞恥を覚え抵抗を試みるが、傷だらけの身体で何ができるわけもなく、布地が裂ける甲高い音と共に、無残にも私は剥かれてしまった。
「ほら、ここ」
「な、何するのよ!早く着物返して……え!?これ……」
木漏れ日に晒された自分のおなか。ピトーが示すわき腹のあたりに、大きな縫合痕が刻まれていた。
いや、それだけではない。ほかにも大小無数の縫合痕が、青紫のあざと共に身体中に散らばっている。見えていた胸元辺りよりもずっとひどい、むしろ私は今頃死んでいなければおかしいんじゃないか、と思えるほどに、私の身体はボロボロだった。
「腕もね、肩から捥げかけてたんだよ。あと顔も」
平坦な声で告げられて、右肩の違和感に気が付いた。言われてみると左肩よりも少しだけ動かしづらく、皮膚が引っ張られているような感覚がした。
もちろん、それらの治療された傷跡に見覚えはなく、ならばピトーが私を治療したというのも嘘ではないのだろう。
「確かに、あんたが私を助けてくれたってのは本当みたい。それにはお礼を言うわ、ありがとう。けど、いったいどうやったらこんなにきれいに縫合できるの?化膿もしてなさそうだし、こんな森の中にこんなことができる設備があるとは思えないんだけど……あと早く着物返しなさいよ」
痛みに耐えつつ腕を伸ばし、もはや布切れと化した着物を奪い取る。何とか隠すべきところは隠すことに成功し、ほっと息をついた私に、なんだかやけに無表情なピトーが言った。
「キミを治したのは、あー、なんて言うか、厳密にはボクじゃなくって……ボクのエネルギーみたいなものを吸って生まれた人形のおかげなんだ。あれを出したのはキミの時の一回が初めてで、そのあとはすぐに消えてボクも疲れて眠っちゃったから、どういうものなのかはほとんどわからないんだけど」
「もしかしたらとは思ったけど、やっぱりあんた『
『ピトーの何かを吸って生まれた人形』。私はすぐ、それの正体に思い当たった。あれほどの『気』を操る才能があるのだ。『
「でも、なんで?魔力がないってわけじゃなさそうだし、どうしてわざわざ『念』を学んだの?だって『念』より魔力のほうが――」
「はーい、ストップ!」
突然ピトーの手が目の前に飛び出して、私の口は止まった。
あっけにとられた私を差し置いて、打って変わってピトーは楽しそうに笑いながら、私を指さして言う。
「サービスはここまで。ねえクロカ、キミ、自分が取引って言ったこと覚えてる?それと、自分が何回連続で質問したかは?」
「え?えっと……」
「覚えてない?まあそれはともかく、しばらくはボクの番でいいよね。クロカのルールを守れる程度に質問するけど、ちゃんと答えてね?」
ピトーが纏う『気』に一瞬だけ揺らぎが生じ、ほんの少しの嫌な予感が頭をよぎるが、すぐさまそれは申し訳なさに掻き消える。私の善性がピトーの主張に納得してしまったのだ。
「じゃあ、さっそくだけど」
ピトーが私の隣に腰を下ろす。
「『ネン』って、何?」
こいつに驚かされることはもう何度目だろうか。それだけ『気』を振りまいておいて、まさかその総称である『念』という言葉すら知らないとは。
いや、わかってはいる。確かに『念』と知らずに使えるような者もいないわけではないが、それにしたって彼女の力量は高すぎるのだ。ぶん殴ってやりたくなるほどの才能。
話を聞く限り、ピトーは生まれた直後に同胞を皆失ったというし、教える者が居なかったといえばそうなのだろう。だが、ものをよく知らないところもそうだが、彼女の背格好は私と大して変わらない。どれほどかは知らないが、彼女はそれなりに長い間、森で生きてきたはずなのだ。私のように『悪魔喰い』というその正体を知らずに接触した者の一人や二人、いてもよさそうなものだが。
まさか問答無用で食らってきたんじゃ、と怖気が走る妄想にかぶりを振り、私は気付けに咳ばらいを一つすると、頭の奥の『念』の知識を引っ張り出した。
「『念』っていうのは――」
自身の肉体の『
『
『絶』はピトーがした通り、自身の気配を絶つ技だ。より詳しく言うのなら、全身にある『精孔』を閉じ、体外に流れ出る『気』を絶つ技を言う。それはつまり体内に生命エネルギーたる『気』を満たすということでもあり、気配断ちの他にも、疲労や外傷の回復などに効果がある。ピトーが私の治療後、『絶』の状態で眠っていたのも、たぶん身体が本能的に休息を欲したからだろう。
そして『発』。これは本来なら『念』の集大成と言うべきもので、『纏』や『練』はおろか、『念』すら知らなかったピトーが習得できるとは思えないのだが、できたものは仕方ないのでここでは置いておこう。
ともかく『発』とは、自身の『気』を操り、様々な形や性質に変えることを言う。例えば龍の形をとる光線に変えたり、刺せば問答無用で相手を操るアンテナに変えたり、よく伸び縮みしてくっつくと中々取れないような物質に変えたり、あるいは単純に自分の力を強化したり。
そしてピトーのように、対象を治療してくれる人形を作り出したりと、『発』によってできることは多岐にわたる。『発』は所謂『自分だけの必殺技』なのだ。
そんな『念』だが、使い手のほとんどは人間で、この世界、冥界に住む悪魔や堕天使を含め、人外たちにはてんで人気がない。存在自体を知らない者も多いくらいだ。なぜかといえばすこぶる単純、人外たちが元より持つ能力、魔力や光力に比べて、『念』の使い勝手が非常に悪いからだ。
例えば、目の前の薪に火をつけようと思ったら、魔力なら一瞬だ。火のイメージを魔力に乗せれば、それで事足りる。対して『念』で同じことをしようとすれば、まずそれ専用の『発』を作らなければならない。それだけでも普通なら年単位の修行が必要だろうし、使いこなせるようになるにはもっとかかるだろう。それに、『発』は無制限に作れるわけではない。使い手の能力の限界を超えるようなものは作れないし、そもそも一人に作れる『発』の許容量が決まっているため、そのような細々した能力を作る余裕はないのだ。
その点、魔力や光力にはそういった制約はない。私の使った転移魔法や結界のことも考えると、それらの力の使い勝手が良すぎるだけとも言えなくはないが、ともかく、魔力や光力であふれるこの世界では、『念』はすさまじく珍しい技術なのである。
「――ってことよ。正直なところ、私も仙術の修行で少し触れた程度でしかないから、詳しくはないんだけどね」
長々と話し続け、疲れた喉を労わるように私は口の中の唾を呑む。ヒリヒリ痛む喉と胸の奥がじんわりと熱を持ってほっと息をつくと、ピトーは聞き入るように閉ざしていた目を開き言った。
「でも、『アクマ』と『ダテンシ』よりは詳しいんだよね?ボクは『四大行』の内二つを使える、ってことは残る二つ、『纏』と『練』も習得できる道理にゃ。そっちも教えてよクロカ」
「ええと、確か『纏』は字の通り『気』を身体に纏うことだから……教えること何もないわね。あんた最初からできてたもの。それに『練』も教えられないわ。名称以外何も知らないし……だって、言ったじゃない。元々仙術の修行の一環で少し触っただけなのよ。他三つはまだ仙術に通ずるところがあったけど、『練』には無かったのよ。自身の『気』を操るのと他者の『気』を操るのとじゃ、かなり勝手が違うんだから」
断ずると、途端にピトーが不満げな顔を作る。
仕方ないでしょ、知らないんだから。
心の中の声が通じたわけではなかろうが、痛む喉を鳴らしながらそう思うと同時に、ピトーが「なら」と言葉を続けた。
「『センジュツ』を教えてよ。そっちがクロカの得意分野なら、指導も簡単でしょ?」
「残念だけど、それも無理。『念』っていうのは自分が元々持つエネルギーを操るものだから、努力さえすれば誰にでも覚えられるけど、仙術は自然のエネルギー、つまり自分のものではないエネルギーを扱うのよ。大前提として、習得するにはそういった『気』を取り込む『精孔』の才能が必要で、見た限りあんたにはそれが無いわ」
もっとも、習得したところで自身の『気』があんなであれば、すぐさま邪気に呑まれてしまうだろうが。
私は二度ほど咳き込んだ。
「うーんそれは確かに残念。あ、それじゃあ『マリョク』は?さっきボクにも『マリョク』が使えるみたいな口ぶりで――」
「もう!けが人にいったいいつまでしゃべらせる気よ!もう少しくらい労わってくれてもいいんじゃない!?」
ちらちらと主張してきた不満が爆発すると同時に、私は盛大にむせた。喉や胸どころか足の先までが一塊に痛み、その痛みがまた咳を誘発する。
数秒の悪循環に苦しんだ私をあざ笑うかのように、ピトーは悪戯が成功した子供みたいな表情をして、私の顔を覗き込んだ。
「そりゃあ、『しばらく』だよ。クロカも同意したじゃない?」
「あ、んた、それ答えに、なってないでしょ!私は具体的な数字を聞いてるの!」
かすれ声でなんとか文句を捻り出す。
確かにあの時頷きはしたが、それは『交互に質問する』というルールに対してであって、一方的な質問を許したわけでは――うん?
「だから分からないんでしょ?クロカがボクに質問した回数。ボクはその分からないに対して互換的に『しばらく』質問してるだけだよ」
「な、なによそれ!そんなのあんたの匙加減ってことじゃない!」
つまり私は見返りもなく唯々ピトーに知識を授けるだけだということか。なんだそれは。誰がそんな屁理屈に納得するというのか。
「それに、キミが自分で決めたルールを自分で破ったのが始まりなんだから、それくらいのペナルティがあって然るべきなんじゃない?」
無茶苦茶だ。だが、一応筋は通っている……のだろうか?なんだか頭がくらくらしてきた。
だがしかし、認めてしまうわけにはいかない。私が、私の頭の中をすべてぶちまけてしまえば、多分恐らく、待っているのはピトーに夕食にされてしまう運命のみだ。彼女のことをよく知ってからと思っていたが、やはり早々に質問の対価を自身の身の安全としておくべきだった。
だが不幸中の幸いと言うべきか、ピトーは約束を屁理屈だが順守しており、ならばこちらからの約束、私の身の安全を保障することを約束させられれば、それを破ることも無いはずだ。たぶん。
だから奴の圧力に屈することなく毅然とした態度で――
「まあ、冗談だけどね」
気が抜けて、背もたれの木からずり落ちかけた。それを見るピトーの表情は最高潮のにやけ顔で、漏れ出た笑い声にからかわれたのだと確信した私は、火照る顔を自覚しながらもピトーを睨め付けた。
人に悪戯するのは大好きだが、されるのは大嫌いだ。
腹立たしいことに、ピトーはひとしきり私の様子を堪能し終えたようで、半笑いで立ち上がると私に背を向けた。
「続きはまた今度にしよう。野ざらしで眠るのにも飽きちゃったし、身体を休めるなら、清潔な場所のほうがいいよね?」
にっこりと満面の笑みを向けるピトーに、私は願ってもないことだと一瞬喜びかけて、数舜後、その奥の悪い笑みの意味に気付いた。
はなから優位など取れていなかったのだ。
「でもさ、話がしたくなったらいつでも言ってね?」
そう言って、どこからともなく取り出したおいしそうな果実を見せびらかすように振るそいつは、間違いなく私が嫌いなタイプであった。
Q:ピトーの念能力名前違くない?
A:あのシチュエーションで目覚めて玩具修理者はさすがにないかなと思った
ちなみにこのピトーはメスです