曹操と赤髪眷属たちの手合わせは、あの忌々しいサーゼクスとかいう悪魔が主張して行われたものだ。
曰く、修行に当たって個人の能力だけでなく、突発的な危機への対処や連携、格上との戦闘経験も積ませておくべき、だとか。つまるところ、少しは懲りたのだろう。ただでさえ襲撃される理由が多い面子が揃っているのだから、
多少手荒になろうとも、妹を守る駒を育てるためならそれでいい。要はそういうことだ。
ただまあそんな他所の思惑はともかく、ボクとしても、格上に対する戦い方を覚えるべき、という方針には異議はない。特にシロネには、せめて自分の身を守れるくらい強くなってほしいからだ。
京都の時や今回の学園での一件のように、ボクたちが守ることができればいいのだが、毎回そんなご都合主義を期待するのは楽観が過ぎる。またいずれ危機に陥り、そして今度はボクたちが知る間もなく死んでしまうかもしれない。そうなれば、クロカが悲しむ。クロカのために、シロネに死んでもらうわけにはいかないのだ。
しかし、今回の手合わせにクロカの悲嘆を防ぐ効果があったかどうかは、正直微妙なところだ。
結果としてほとんど一方的にいいように弄ばれていただけであるし、ついでに言えば曹操の戦い方。眷属たち当人からすればすさまじいパワータイプを相手にした死闘だったのだろうが、しかしそもそもあいつは完全なテクニックタイプだ。技を駆使して相手を翻弄するのが本来の戦い方で、肉体の膂力や頑丈さは人間にしてはかなりのものだが、それでもクロカと大して変わらない。
そんなやつに力でねじ伏せられて、それが果たして
唯一最後はいい所まで行ったのかもしれないが、それでも、赤龍帝の練度不足か、それともどうやったのかは知らないが曹操の仕業か、直前に鎧ごと『力』が消え、同時に戦意喪失してしまったことは如何ともしがたい。女の胸でパワーアップしたというのも――ボクの感性がキメラアント的でおかしいという可能性も無きにしも非ずだが――どうかと思う。結局、地力と精神面のもろさと変態性が露呈しただけではないだろうか。
(まあ……ボクたちの担当はゼノヴィアと赤龍帝と、それに……シロネだけだし、別にどうでもいいけど)
周りが強くなればシロネが危機に陥る可能性も下げられるだろうが、迂遠だし悪魔の育成なんてただでさえやりたくないし、これ以上契約外の面倒を見る気はない。赤髪も指導要因も見つけているというのだから、三人の他は放っておけばいいだろう。
それで勝手に強くなって、シロネを守る盾が増えてくれたら御の字。というまあ、曹操の無双は、それ始終するだけの見世物だった。
ボクはそんな結論に至るまでの思考に徒労を見出しながら、ブロック型の携帯食料をかじっていた。
機械的に口をつけていた朝ごはんのそれが、頭の中に向けた集中が落ち着くにつれて意識に上る。口の中にモソモソした食感が蘇り、やたらに甘いチョコレート味も手伝って増した不快感を、水で一息に流し込んだ。
はあ、とため息を吐く。クロカのためにボクがやるべきは、シロネと、そしてついでにゼノヴィアと赤龍帝を鍛えることのみ。これらだけでも十分なストレスなのに、喉を滑り落ちていく不快感をいちいち真に受けていられない。
というか、これに不快感を感じる要因が、そもそもストレスに端を発したものだろう。苛立っていると些細なことが気になってしまうという、公園でゼノヴィアを待っていた時のような連鎖反応。今いるここが冥界の森の中、ボクの故郷に似た環境であるというのに落ち着かない理由だって、きっとそのせいだ。
昨日の夜、すなわち手合わせ見物の後に苛まれたそれが、恐らく火種だった。
赤髪が『治療のためにうちの屋敷まで転移魔法陣を引いている』なんて言った時から覚悟はしていたつもりだったが、しかしやはり、悪魔の屋敷に連れていかれる嫌悪感には耐えがたいものがあった。前後左右、どこを向いても悪魔ばかり。それも、控えるメイドやら執事やらのすべてが純血で、人間が転生したわけでもない、正真正銘の悪魔ばかりだったのだ。
すぐに人のいない離れへ通されたが、その間でもその距離でも、殺意を堪えるのに苦労した。泊るとなって、もちろん気が休まるはずもなく、夜が明けるなり修行の準備を理由にして飛び出すくらいのストレス。それが尾を引いて、せっかくの朝食もマズくしているに違いない。証拠に、隣の木の上に寝そべるクロカは、ボクのと同じチョコレート味をおいしそうにほおばっている。
ボクの手のそれが一本混じった欠陥品でない限り、おかしいのはボクの精神状態のほう。食事すら苦痛に感じるようになるなんて、もしかしたら大分末期に近付いているのかもしれない。そう思うと、ストレスに加えて危機感までもが頭を侵すかのようだった。……そもそも食事を楽しいと思ったことはあまりないが。
暗い頭の中を追い払うようにしてかぶりを振ると、ボクは手に残った半欠片のブロックを口に押し込んだ。ほとんど噛まずにそのまま呑み込み、眼前に拓いた小さな広場と先の大樹海を眺めながら、なんとなしに話題を探した。
「……そういえばさ、知ってる?」
「ん?何が?」
「ここ、シロネの領地なんだって」
ボクを見下ろしながらもしゃもしゃと続けるその咀嚼が、一瞬ぴたりと固まった。しかしすぐに再開し、視線を枝葉ばかりの宙に戻すと、つまらなそうな顔になって応える。
「へえ、そうなの。さすが冥界、土地が余りまくってるだけあるわ。あんな小娘にまで与えるなんて、そんな無駄遣いするくらいなら人間にでも売ってやればいいのにね。絶対いい値段付くわよ」
「……そもそも、人間に売る気なんてないと思うよ。外患誘致になりかねない。だからシロネとか、身内にしか分譲しないんじゃないかな」
「土地転がしは無理かぁ。楽にお金稼ぎできると思ったんだけど、残念」
と、台詞に反して全く残念に思っている様子のない調子で言うクロカは、やっぱりこの話題に興味を示さない。ずっと続く、シロネ関連への徹底的な無視。
だからつまり、シロネなんてどうでもいいと、そう装っている。
恐らくそれは数週間前、依頼の受注を嫌がった時と同じ、ボクを慮るためのものだ。悪魔との関りが苦痛であるボクのため、それを極力取り除こうとしてくれているのだろう。
その思いやりは嬉しく思うが、しかし不要だ。ボクはクロカに気を遣わせるためにここに来たわけでは、悪魔に囲まれ続ける昨日の拷問を受け入れ、そして耐え切ったわけではない。
クロカに幸福なってほしいからなのだと、もうそろそろわかってはくれないだろうか。
腰かける切り株の根をじっと見つめながら、ボクは三度も深呼吸をして恐れを振り払うと、それでも重い口をどうにか開いた。
口ではっきりと伝えるのは、思っていた通り苦しかった。
「……昨日、シロネと……食事とかお風呂とか、一緒にしなくてよかったの……?」
喉から押し出した言葉。昨日、グレモリー邸に泊まることを決めた理由の大半がこれだ。そろっての食事会や大きなお風呂場やら、シロネと関われるチャンスが多かったから。
それを拒否する必要は――ボクの憎悪を汲んでシロネを避ける必要はないのだと、己の口からそう告げた。
けれどクロカは、言っている意味がわからないと言いたげな表情で首を傾げた。
「え?なんで?」
また一つ息を整え、どうにか声に出す。
「ボクは……特にお風呂なんて絶対無理だけど、けどクロカまで断ることなかったんだよ。シロネと一緒にご飯食べたりする機会なんて……これを逃したら、もう今後あるかわからないんだよ?」
「……何言ってるのかよくわからないけど、別に機会なんてなくっていいじゃない。あいつらをボコボコにした曹操と違って、別に私たちは点数稼ぎする必要とかないもん」
「だから……シロネに、だよ。下手したら、会うのだって今回が最後になるかもしれないんだしさ……ボクに構わないで、話したりしていいんだよって……」
「仙術の指導のこと言ってるの?ならもっとわけわかんないんだけど、どうせ『念』のほうが一段落着いたら嫌でも二人きりよ。だいたいピトーって、なんでそんなに指導指導って熱心なわけ?いいじゃない、テキトーにモノだけ教えて、できないなら放っておけば。私だって悪魔となんか関わりたくないんだから」
忌々しげなふうに吐き捨てて、クロカは二個目の携帯食料の包装を剥いだ。今度はプレーン味のそれに舌鼓を打ち、打って変わってご機嫌に頬を緩める。
それらの仕草も、すべてが作り物。何年もずっと一緒にいたから、ボクにはそれがわかってしまう。わかってしまうから、やっぱりもう言わざるを得ない。
言いたくなくても、言わねばならない。それが、クロカのためなのだから。
錆びた機械のように重く硬い声帯が軋み、切れ切れに言葉を並べた。
「けど……姉妹……でしょ……?」
クロカの顔色が一変した。
ご機嫌から、何も読み取れない虚無の表情。数秒そのまま固まり、やがてまた突然、思い出したように慌てて周囲を見回した。
まるで引きずり出された内心を隠すかのような間と大げさな慌てようは、ボクの想像が正しかったことを実感させた。
食べかけのプレーン味を片手にわかりやすく肩をなでおろしたクロカは、次いでボクにジト目を向け、寝そべっていた枝から飛び降りた。静かに着地し、ボクに詰め寄る。
「もう、誰に聞かれるかわからないのに、こんなところで危ないこと言わないでよ。冥界の森だからって、また前みたいな逃避行サバイバルでもするつもり?」
「……でも、大丈夫だったでしょ?近くに誰もいないことくらい、ボクにだってわかるよ。木の洞で寝るのは……うん、嫌だからにゃ」
正直に言えば、それは嘘。あの頃に戻りたいと少しだけ思った。少なくとも五年前は、クロカの心に開いたシロネの穴が自分には塞げないものであると、気付かずに済んでいたから。
あの頃は、何の憂いなくシロネを憎むこともできていたのだ。
クロカを傷つけ、自死を望むにまで追い詰めたシロネ。その悲しみに寄り添うことはできても、癒すことはできなのだと、気付いたのは四年前のクロカの眼だ。
あれだけ苦しめられても尚、クロカはシロネを憎んではいなかった。それはたぶん、シロネが『妹』で、『家族』だから。裏切られ、心にぽっかり空いたその穴を、クロカは埋め戻したく思っているだろう。
そしてボクは、クロカにそう思わせる『家族』というものが未だに理解できない。だから『家族』を求める彼女の苦しみを癒してあげることもできない。
京都の九尾、八坂はボクに『母親に向いている』と言ったが、しかしそれは少なくとも
それが唯一可能なのは、元より『家族』であり、『妹』であるシロネだけ。故の今の状況。シロネをクロカに近づけたくはないが、しかしそうしなければクロカの苦しみが永遠に続いてしまう。やりたくはないが、やらねばならない。そしてクロカを『愛』しているなら、ボクはそれを喜ばなくてはならないのだ。
困難極まるその事情に苦しまずに済むから、ボクは懐旧を感じていた。
「……まあ、確かに私と白音は姉妹だったけどさ……」
ボクの内心の感情も、やはり長年の付き合いでわかったのだろう。クロカが眉尻を下げ、後ろめたそうに言う。しばらく視線を彷徨わせると、小さく「けど」と呟いた。
「嘘ついてるわけじゃないのよ?ほんと。それに、第一もう『黒歌』は死んじゃってるわけじゃない?『ウタ』にとっては全くの他人。関係性なんて、精々同じ仙術の素養があるってことくらいだわ。ネテロみたいに学べる部分があるわけでもないし、そんなんで話したいことなんてあるはずもないわよ」
「………」
「……それに、そうじゃなくても私と白音の関係は、もうとっくに終わってる。何があったか知らないわけじゃないでしょ?せっかく苦労して助けに行ってあげたのに、拒否った挙句にバケモノ認定。あっちは私のことを姉なんて思ってないし、私ももう、アレを妹だなんて思ってないわ。百年の恋も冷める、ってやつ?まあ、冷めたのは
「……っ」
そんなはずがないだろう。苦しみから何度も口を突きそうになる八つ当たりを、ボクは何度も押し留めた。
クロカが言うシロネの拒絶は、すべてボクのための言い訳。『家族』も『愛』も、それを求める心までもが本当に消えてしまったのなら、クロカもボクもこんなに苦しんではいない。そうに決まっている。
それに、もし本当にクロカの中でシロネへの想いが消えてしまったのだとしても、その穴が残っていることは確か。クロカがボクを受け入れてくれた場所だからだ。
しかしそれでは、ボクでは『家族愛』とやらを満たせない。クロカは猫又で、ボクはキメラアント。血も姿も一目瞭然に繋がっていないボクたちはそもそも『家族』でないのだから、当然クロカが求める
京都の時からの四年間、どれだけ脳味噌を働かせても、それが変わらない結論だ。
「クロカは……『家族』が欲しいんでしょ……?」
クロカの憂いは、すべてこれに尽きるのだと思う。幸せだったころを取り戻したい。それがボクのせいで妨げられているなら、それは全く望むところではなかった。
クロカに幸福を捧げること。ボクが望むのはそれだけだ。
そう押し殺して、ボクはぎこちなく微笑んでみせた。
それがシロネにしかできないことだとは、本当は認めたくないが、けれどどうしようもない。クロカの嘘で強まった確信に押しつぶされそうでも、クロカを幸福にできる唯一がボクではなくシロネだという事実は変わらない。だからそのために、ボクは自身を殺すしかなかった。
悲しみと悔しさと失意に痛む心を押さえながら、ボクは接いだ決心で、感情に引き下げられた顔を持ち上げた。
しかし、瞬きを一つした後に見えたクロカは、
「家族なら、ピトーがいるじゃない」
キョトンとしながら、そう言った。
「――え……?」
たっぷり十秒。冥界特有の淀んだ風が駆け抜けていくだけの間が開いて、クロカが胡乱げに目を眇めた頃に、ようやくボクの口から反応の声が出た。何の意味む含まないただの疑問符だが、しかしそれが精一杯。それほどに、クロカが放ったその言葉は衝撃的だった。
『家族なら、ピトーがいるじゃない』。それはつまり、ボクがクロカの『家族』であると、そう認めてくれたということか。
血は繋がっていないし『妹』であるシロネは嫌いだし、それに何より、おいしいと言って食いかねないボクを、それでも『家族』の枠組みの中に入れてくれるということか。
あまりにも突拍子で想像すらしていなかった言葉の並びが、そこまで熟考してようやく理解にたどり着いた。
しかしまだ信じられず、聞き間違えかもしれないと耳を隠す帽子に手を掛ける。それをやや焦りの顔で止めたクロカが、近づいた顔に今度は呆れと困惑を乗せ、瞬きをした。
「……何をびっくりしてるのか知らないけど、そりゃあそうでしょ?ていうか……あれ?そう思ってたの、もしかして私だけだった……?」
「……え……っと……」
理性の復活を待つボクに疑念が正しかったことを悟ったクロカは、今度こそ本心からの苦々しげな表情で、長々とため息を吐いた。
「……マジなわけ?確かに周りにはコンビくらいにしか思われないかもだけど、だってもう五年もずっと一緒にいて……いやまあ、私は……だけど……」
もごもごと口の中で言葉が途切れ、ほんの少し頬を赤らめたクロカはしかし、すぐにボクを睨みつけて続ける。
「と、とにかくだって、私にとっては家族も同然なんだもん!……少なくとも繋がりって意味なら、五年も前に妹をやめた白音よりも、ピトーのほうがよっぽど大事よ!」
「……それは……ほんとに……?冗談なんかじゃなくて……?」
「冗談でこんな恥ずかしいこと言わないわよ!……だから、私はピトーが居てくれるだけで……それだけで十分幸せなの!」
血が上った頬で言い捨て、照れくさそうに顔を背けるその様子には、やはりシロネを否定した時のような嘘がない。嘘がないということは、本心からの困惑だったということ。クロカがボクを、本心から『家族』だと思ってくれているということだ。
ボクの頭は、ようやくそのことを理解に引き上げた。
「あーもう恥ずかしい!なんだってこんなことを大声で宣言しなきゃ……って、え?ピトー?なんでそんなにじり寄って――むぐっ!?」
歓喜に身体が勝手に動き、気付けばボクはクロカの頭を抱きしめていた。他の誰でもない、クロカが言うからこそ信じられるその言葉。八坂からでも、もちろんボク自身からでもなく、クロカがボクのことを『家族』と呼んでくれたから、だから今までボクを苦しめ続けたそれは、幸福の言葉に転じた。
自分がシロネに負けないほどクロカに想われる存在であると、そんなあり得もしない話が、しかし今、クロカの口に認められた。シロネでなくとも、ボクはクロカが求めるものになれるのだ。
八坂でもボク自身でもない、他でもないクロカがそう言うから、そう
それは、とてつもない幸福だった。
あの時の孤独を、もう恐れずに済む。クロカの心をシロネに明け渡さずに済むと、抱いていた怯えが融解した。 そうなりたいとずっと望み、しかしできないと諦めていたそれ。クロカが心の奥で『
喜ぶことにした。
(――キミがそう認めてくれるなら……ボクももう、何も言わないから……)
たとえそれが『
そんな歪みで軋む心には気付かないふりをして、ボクはそう
ピトーが唐突に私の頭をホールドし、加減なしでぎゅうぎゅう締め付けてきた時は、正直また何か茶化しているのかと思った。
思えば一度も言ったことなどなかったし、いきなりの家族認定はそりゃあ引くかと顔が茹ったが、しかし私を胸に掻き抱く手、その温かさはどちらかと言えば抱擁で、しかも直前に見た深刻を思い出せば、明らかに頬っぺたこねこねの類とは違うとすぐにわかった。
ピトーはたぶん、引いたのではなく喜んでいるのだろう。そしてそれは私の言う通り、五年もの長い付き合いであるから。彼女は、私の中に未だしつこく残る白音の残り香に、目敏くも気付いてしまったのだ。
京都での出来事からもう白音のことは忘れると決めて実行し、隠し通してきたつもりだったのだが、しかし読み取られた私の内心からは完全に消すことができなかったらしい。自分でも気づかないほど僅かな白音への想いを気取られ、それでピトーはあれこれといらぬ気を回したのだ。
深刻そうな顔で姉妹に家族にと言っていたのも、今思えばそういった不安、あるいは不満。実は黒歌は、悪魔を、白音を嫌ってはいないんじゃないかと、そんな疑念を抱いてしまった。
つまり裏切られた思いだったが、しかし私の家族認定でそれが否定され、反転して喜んだと、そういうことだ。
よくわからなかった感情の激変に理由を見つけ、ほっと息をつき納得した。そして同時に呆れと、ほんの少しの怒りを覚える。
ピトーの胸から顔を抜け出して、薄いコートの襟に唇を尖らせてやった。
「私がピトーを見捨てるなんて、そんなことあるわけないじゃない。そんなに信用ないなんて、酷いわ」
私もピトーも、独りの怖さを知っている。だからこうやって一緒にいるのだ。なのに裏切って、しかもよりにもよって白音を取るなんて、そんなこと絶対にありえない。例え何があっても、私がピトーを置いて行く日は来ない。もう二度と、あれはごめんだ。
そんな思いだったが、しかしはっきりとは伝わっていなかったらしい。やっぱり言葉にするのは大切だなと子供みたいな理解を得た私は、小さく「うん」と呟いたピトーの、優しく頭を撫で始めた手に、目を細めて浸った。
その数秒後に、私の感覚に無粋にも異物が混じった。
(……空気読みなさいよ、あいつら)
悪魔の気配。件の白音と、そしてゼノヴィアに赤龍帝だ。
まあそもそも私たちは奴らにつける修行の準備でここにいることになっているのだから、忌々しく思うのはお門違いだろう。先に屋敷を出た私たちを待たせまいと思ったのなら、それは褒めて然るべき師匠思い。
だから、要は有難迷惑だというだけだ。良識的に忌避すべき逆恨みは、しかし相手が悪魔であるなら問題なく表情に出る。とはいえ抱き合う姿を見せることは羞恥心的に許容し難く、私は名残惜しくもピトーの背に回した腕を解いた。
ピトーも察してしぶしぶ離れ、そして一緒に気配のほうを見やった。
「こんなガキ共のとこに行くだなんて思われてたの、ほんと心外だわ」
「ごめんってば」
はにかみ、おどけるようにピトーが笑う。どうやらお邪魔虫なお子様たちの訪れでも、
家族という言葉がピトーにとってそんなにもいいものであるなら羞恥を呑んでこれからも言ってあげようと決意して、私は余りのエナジーバーを口に放り込んだ。
値段の割に中々おいしいそれを味わい終えて、その頃になって耳にも騒々しさが届き始める。主にハンゾーとゼノヴィアと赤龍帝の間でぎゃあぎゃあ交わしながら、そこに白音を加えた四人の姿が、冥界らしいねじくれだった巨木の陰に見えた。
「――にしてもマジですげーとこだなぁ、冥界ってのは。こんなでっかい木があちこち生えてるような手付かずの樹海が、まだまだあちこちあるんだろ?魔境とか秘境とか、未知の宝庫じゃねえか!」
「……もっと大きな木、五百メートル近い高さのものが生えている土地も、どこかにあるらしいです」
「五百メートル!?はー……東京タワーよりもでっかい木か……想像もつかねーなあ……」
きょろきょろ周囲を見回して目を輝かせていたハンゾーが、手を掛けた巨木の梢を感嘆と見上げる。確かに私とピトーが長い間を過ごした森の木々は、ここのものよりはるかに大きかった。それこそ白音の情報通り、五百メートルもの高さがある木もあったほど。
私はひやりと若干肝が冷える思いを味わいながら、しかしまだこちらに気付かずおしゃべりを続ける奴らはのんきに感心するばかり。ゼノヴィアが代表してうんうん頷いた。
「確かに。さすがは冥界、ということか。この世にそんな木があるとは……あ、いや、冥界だから『この世』ではないのか」
「……筋トレの時もそうだったけど、ほんと妙なところで細かいな、お前。けど確かに、すっげえよな冥界って。前に来た時はよくわかなかったけど、他にも面白い土地があったりするのかな」
「いいねぇいいねぇ!ロマンがたっぷりだ!なあ白音、ここってほんとにお前の土地なんだよな?なら後でいいからさ、ちょっと探検させてくれよ!」
ハンターとしての本能を丸出しにするハンゾー。さすがに眷属悪魔に与えられるような領地にお宝があるとは思えないが、まあどうぞご勝手に、だ。私たちが困ることはないのだから好きに遊んで来ればいい。
しかし修行大好きのゼノヴィアが、言葉に渋面を作った。
「だがハンゾー、お前が冥界にいられるのは夏休みの間だけだ。同様に、フェルさんとウタさんから教えを受けられる期間もな。『念』もまだ基礎しか覚えていないのに、そんな時間があるのか?白音の領地と言っても、たぶん駒王町くらいの広さはあるだろう」
「うぐ……」
と息を呑んだハンゾーが、助けを求めるように白音へ眼を向ける。白音は居心地悪そうに二人を交互に見やって、そして言い辛そうに口を開いた。
「ええと……どうなんでしょう。大雑把にしか説明してもらったことがないのでわからないです。けどたぶん、私の領地はほとんどこんな感じの森だから、すごく歩きにくくて調べ辛いと思います」
「原生林はむしろ得意分野だぜ!……てか、少なくとも俺の里よりは広大だってのに、そんな適当な管理でいいのか悪魔社会って……。まあオレとしちゃあ好都合だが。……あとは、森だってのに空気に変な感じがしてなけりゃ文句なしなんだがなぁ」
「……?そうか?俺はなんにも感じないけど……」
「冥界の空気だからな、人間には合わないんだろう。……平気か?」
不思議そうな赤龍帝に続き、ゼノヴィアが少し心配そうな顔をする。
「おう、修行する分には問題ねえ。屋敷で朝メシたっぷり食わせられたしな。悪魔の、それも貴族の朝メシなんてどんなもんかと思ってたが、結構旨かったし。ほら、曹操もお前たちと戦った翌日だってのに、うまそうに食ってたじゃねーか。平気平気」
「まあ……そうか」
そして歯切れ悪くもそう頷いた。
いやツッコんでよ、という私の心の叫びも空しく。
「なんでハンゾーも曹操も、悪魔と仲良くご飯食べてんのよ」
結局、止まらずに私の口がツッコんだ。
いやまあ失った好感度稼ぎの一環だろうが、知ってしまえばこっちの好感度が反比例で減っていくのだから我慢ならない。そのせいで思いのほか大きな声が出てしまって、四人がたちまち一斉に私たちが居る方向に振り向いた。
しかし習慣から軽く気配を消している私たちの姿は、『
「あ……ウタさま……!」
「ん?おお、フェルもウタもそこか!声まで聞いたのにわからねーもんだな。それも『念』、確か『絶』とかいうやつなのか?」
無視していた当時から気づいてはいたが、『ウタ』に対する態度が妙によそよそしい白音のことはまたしても放っておく。こっちの気も知らず元気に手を振って見せるハンゾーに、私は嫌々ながらも応えた。
「これが『絶』なら、あんたたち程度に見つけられるわけないでしょ。ちょっと静かにしてただけよ」
ある意味ではそれも『絶』の範疇かもしれないが、業界用語の意味など説明してやる義理はないので否定した。呆れで鼻を鳴らしてやる。なんだ違うのかと落胆するハンゾーに続いて下草をかき分けてくる三人を横目に、私はピトーの後へ退いた。
今日もまだ、私の出番はなしなのだ。『念』の修行担当のピトーと入れ替わり、切り株に腰かけた。
事前準備で作ってやったこの小さな広場にたどり着いたハンゾーが、そういえばとピトーに尋ねる。
「ここにいたってことは、聞いてたんだよな?なら、暇があったらやってもいいか?探索。どうせしばらくはここでサバイバル生活なんだろ?」
「……やりたいのなら、好きにすれば?」
ちょっとの、悩むような間があってから、ピトーは頷いた。「やったぜ!」と右手を突き上げるハンゾーに、続けて言う。
「ボクは修行メニューを提示するだけだから。やるかどうかはキミたち次第にゃ」
「……フェルさん?なんだか、やけにあっさり認めるんだな。寝る時間以外ずっと修行漬けにするのだと思っていたぞ」
さっきの抱擁のやり取りで心境の変化があったのか、ピトーのその、前よりも若干テキトーさが増した修行への態度は、修行バカのゼノヴィアに違和感をもたらしたようだった。ピトーはそれに、というか後ろでコクコク頷く赤龍帝に、冷たくした眼差しを向ける。
「うんまあ、ボクたちの方針に文句があるやつがいるみたいだしね、思い直したんだ。曹操も節穴だよね、何がダークホースなんだか」
「うげっ……!ま、まさかおい……ゼノヴィア、お前ほんとにチクりやがったな……!」
「まてイッセー、違うぞ、告げ口はしていない。曹操の特訓でうやむやになってしまったんだから。……普通に聞かれていたんじゃないか?」
その通りである。列車の扉一枚で声がシャットアウトされるものか。
ついでに半分嫌がらせでもあるので気になどしていなかったが、建前に使って話を終わらせるピトー。何も言えなくなる赤龍帝と肩を落とすゼノヴィア、それにわくわくで話を聞いていないハンゾーの間から、白音がおずおずと前に出た。
「それで……その、今日は何の修行をするんですか……?また『纏』と『練』を続ければいいんですか……?」
やっぱりなぜか、ピトーに加えて後ろで頬杖ついて眺める私にも、白音はチラチラ視線を送ってくる。いい加減鬱陶しいが我慢して眼を逸らし、ピトーの後姿で中和した。
その後姿、キャスケット帽が乗ったふわふわの銀髪が、おざなりに横に振られた。
「『四大行』の反復練習はもう一人でできるでしょ。まあ『纏』も『練』もどっちもまだ半端だし、『絶』に至っては触れてもいないけど……何度も言う通り時間がないからさ。とりあえず戦える
「……なるほど、です……」
「じゃあ、何やるんだ?」
白音の代わりに、ようやくロマンの夢想から帰ったハンゾーが尋ねた。ピトーはそれに人差し指を立て、目の前にかざして答えた。
「応用技の一つ、『
「まあ……手袋が云々ってわけじゃないなら。……結構いいもん使ってるな、どこで売ってんだ?」
「……話続けていい?」
「あっはい」
件の指先、伸ばした『気』で描いた猫マーク。『隠』を使ったそれに現れた苛立ちが、見えずともハンゾーを威圧し、黙らせる。
通常、そうでもしなければ感じ取ることもできないのが『隠』だ。私のように『念弾』や、『念』で具現化したものを使う念能力者にとっては、特に強力なものとなる『絶』の応用技。それを見破る唯一の方法が『練』の応用技である『凝』、なのだが、
「あ、あの……フェルさま、私、なんとなくわかります。……猫のマーク、ですか……?」
仙術の素質があるなら別の話。それが『気』によるものである以上、見えなかろうが感じ取ることはできる。樹木の茫洋な『気』だろうが羽虫の微細な『気』だろうが、それこそ邪気だろうが問答無用で感知し吸収してしまう仙術を以てすれば、ピトーの『隠』とて見破るのはそう難しくない。
つまり白音はピトーの言葉で仙術を使ってしまったのだろう。しかめっ面になりそうなのを必死にこらえてマークを見つめる白音に、ピトーはそれを察して小さく「ああ……」と呟いた。
「けど、見えるわけじゃないんでしょ?仙術じゃなくて『念』で見れるようになること。要は『気』を身体の一部に集中させる技術を身につかなきゃだから」
「集中……そうか、それで『すごく注意して見ること』、なわけか」
「うん、そう。『練』で生み出した『気』を眼に集める。最低限、これくらいの『隠』を見破れるようになって、それで合格だよ。んじゃ、頑張ってにゃ」
はい解散とでも言うようにひらひら手を振るピトー。少なめなやり方の説明に目をぱちくりさせたゼノヴィアとハンゾーと白音は、顔を見合わすと、やがて佇まいを直してピトーの指先に熱視線を送り始めた。
傍から見ればちょっとヘンテコな光景だが、『隠』を使った『気』がなければできているかもわからないのだから、仕方ない。しかしということはつまり、ピトーはずっと指を立てたままでいなければならないのか。
今更気付いて、時が来ればさすがに交代してあげようと、働きたくない私も決心した。
「えっと……俺はどうすれば……」
「筋トレに決まってるでしょ。いつもの各四百回を、とりあえず四セット。終わるまで休憩禁止ね」
「あ……悪魔め……!」
よくわかったわねと内心で赤龍帝を笑ってやって、私は食料なんかを詰めてきた鞄から、隠していたゲーム機を取り出した。
言葉にしないと伝わらないこともあるんやなって。(なお微妙に伝わってない)
感想くださいをまた肝臓くださいって打ち間違いかけました。