あれから既に五日が経過した。
私を拾った性悪猫、ピトーは、今のところ取引を順守している。どでかい木の洞に寝転がって、私は知識と引き換えに彼女に世話をされる毎日を送っている。
木の洞、だ。幼い妹とは対照的に出るとこは出てる体型の私が、横になれるほどの大きさの洞を持つ大樹。初めてここに連れてこられた時には、その百メートルはあろうかという巨躯に愕然とするほかなかった。
そしてピトーの言い分を信じるならば、ここら一帯にはこの木など歯牙にもかけないサイズの木が、それこそ腐るほど生えているらしい。中にはこれの五倍、五百メートルほどのものもあったという。本当に、冥界とは広大だ。
そんな大樹がそこかしこに生えているおかげで日が差さずに薄暗く、おまけに湿気も相俟って、肝心の洞は当初酷い有様だった。先住民こそいなかったが療養に適しているとはとても言えないくらいに不衛生で、生理的に無理なあれやこれやが散乱している有様は、まさに獣の巣そのものといった様相を呈していた。
私とて過去には妹と共に路上生活を送るくらいのことはしていたが、それにしたって許容できないほどの
のだが、しかし嫌々ながらも取引に応じてくれたピトーの手際は、彼女自身にとっても素晴らしすぎた。あまりにも快適になってしまったそこが、木の上で眠る彼女の不満を招かないはずがなく、そしてその魔の手から逃れるには、私の交渉力はあまりにも貧弱だった。結局、大樹の洞は、衛生的な代わりに少々狭苦しい空間へと変貌を遂げたのである。
昼間はともかく夜は身を寄せ合って眠ることになるので落ち着けない。そこにさえ目を瞑ればこの五日間は平穏そのもので、思う存分身体を休めた私は、上体を起こすのに涙を流さなくてもいい程度には回復し、まともな集中力を取り戻した。精神面ですこぶる健康な状態はやがて段々と身の安全や当面の生活の心配を解かし、傍らにある
そうして身体から緊張によるこわばりが緩み消え、生まれた心の余裕が、押し込めた欲のほうにも眼を向け始める。それに気付いたのは、ちょうどそんな時だった。
「あ……れ……?」
通気性の良すぎるボロ着物に肌寒さを訴えられた私は、暖を取るために魔力を使おうと思い立ち、そしてごく当然にそれを実行しようとした。
十代未満の悪魔でも使えるような、簡単かつ初歩的な術。もちろん私が使えないはずもない。失敗だってあり得ない。はずだった。
なのにほとんど習慣的な無意識で術を使った私の身体には、何の変化も起こらなかったのだ。
おかしい。何か間違えたのかと、きちんと意識してもう一度。やはり身体に魔力が満ちず、焦りを感じながら二度、三度と試すも、何も起こらない。五度目になってようやく、私はその事実を受け入れた。
(『力』が、使えなくなってる……!?)
魔力だけではない。妖力に加えて自身の『気』も使えない。それらの『力』が通る道はちゃんと生きているが、その『力』自体を身体のどこにも見つけることができなかった。
私の身体は、何らかの要因で魔力、妖力、『気』を生み出せない状態にある。『力』がほんの少しも無いのなら、術が使えないのもなるほど道理だ。
私は今現在、ホントのホントに何もできない。
額にうっすら汗をかきながら、消え失せた自衛手段に背が冷えていくのを、私は感じていた。
……一応、ピトーとは取引がある。きっと恐らくもしかしたら、他の外的要因からも守ってくれる、ことを期待しよう。こんなこと、ピトーに知られていいことなんて何もないのだから。
「あれ?クロカ、どうかした?」
「う、ううん。何でもないわ。ちょっと……身体が痛んだだけだから」
木の実の殻を洗面器代わりに、着物の切れ端をじゃぶじゃぶ洗うピトーに向けて、私は努めて平静にそう言った。
果たしてこのどもり具合で誤魔化せているのだろうか。切れ端を絞りながら訝しげな顔をするピトーに自身の演技力の無さを呪うが、しかし感想を求めるわけにもいかない。とりあえず、あははと愛想笑いをして、大根疑惑のある役者を継続した。
「……ま、いいか。続きするよ?」
内心は定かでないが興味なさげにそう言って、ピトーは私の腕をそっととった。ひとまずと自身が役者に向いていない事実を端に置いて、私はピトーの腕の導きのまま、じんじん響く痛みに耐えつつ自分の腕を持ち上げる。直後、痛みによる熱を濡らした切れ端で拭われて、その心地よさに詰まった息を吐き出した。
意外なことだが、この清拭はピトーが自発的に始めたものなのだ。何を思ってかは知らないが、不衛生なせいで死なれたら面白くもないと言い張って。おかげで対価に悩む必要のないこの時間は、私にとって最も心休まるものと化していた。
得体の知れない相手に、直接ではないにしろ肌を触られているというのに緊張しないで済むのはなぜだろうか。私は身体が弛緩するに任せて目を閉じて、心地よさの既視感を思い返していた。
まだ妹が生まれていなかったころ、その妹と野良猫みたいな暮らしをしていたころ。
思えば、人に身体を洗ってもらうのなんて本当に久しぶりだ。悪魔に転生してからは毎日ちゃんとしたお風呂を使えるようになって、そういうことをする必要性も機会もなくなってしまった。
そのころには妹もそれなりの歳になっていたし、たぶん恥ずかしかったのだろう。一緒に入浴する回数も減ってしまって、洗いっこなどもってのほかだと毎回断られるようになっていた。
悪魔の仕事で帰宅時間がめちゃくちゃになることだってざらだったし、その汚れを見せたくない気持ちも相俟ってそれを不満に思ったことはなかったが、いざこれをもう一度体験してしまえば後悔が募る。
頼み込んででも姉妹の触れ合いを増やすべきだった。ピトー相手でこれだけ気持ちいいのなら、さぞ幸せな気分になれただろう。
身体の汚れが気になるなら一度シャワーを浴びてからでよかっただろうし、時間だってどうにかやりくりできた。
そうだ、家に魔法陣の術式でも書いておけばよかったのだ。『元バカマスター』の屋敷から直接家に帰れるように。
確か当時の私は、その間を行き来する時間と、魔法陣を設置する費用と労力を秤にかけて、結局魔法陣のほうを断念したはずだ。実にもったいないことをした。何なら時間のこと以外にも転移魔法に慣れるといった利点もある。過去に戻って自分を説得してやりたい気分だ。
日常に組み込んでしまえば飽き性な私でも修行を継続できただろう。それならば今頃は、凄腕の転移魔法使いになれていたに違いない。だからきっと、あの時転移に失敗することもなくて――
(って、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて!)
『力』を使えないこの状況でどうするかを考えねばならないのだ。
快楽に解けていた脳味噌が我に返り、下りかけていた瞼が飛び起きると、押し寄せる光で眼の奥がじんと痛んだ。
深呼吸して寝ぼけ気味の脳味噌に酸素を送り込むと、私は思考を切り替え、しかし快楽の残滓を引きずりながらそれに没入する。
改めて考えても、『力』を生み出すことができないというのはやはり妙だ。野良猫生活時代はもちろん、悪魔に転生してからも、転移魔法が不完全に成功したその時まで、私は『力』を使いこなしていた。
そのはずなのに、今や底までからっけつ。封印か何かで一時的に使えないならまだしも、『力』のエネルギーそのものがないとくれば、それはあまりに異常が過ぎるだろう。あの時の死闘で使い果たしたとはいっても、それからもう五日はたった。それなのに僅かたりとも回復しないなど、ありえないはずなのだ。
しかし実際、『力』の面では肉体も精神も目立った障害は見られず、魔力も妖力も自身の『気』も、全く湧き出てこない。
これらの不可解な現状から考えられる可能性は、一つだけだ。
信じがたいが、『生命の源泉』に何か異常があったのかもしれない。
『生命の源泉』。命そのもの、魂と言い換えてもいい。ゲーム的に言えば『ヒットポイントバーそのもの』だろう。これがあるからこそ生き物は生きられるし、『力』を発揮できる。生命エネルギーたる『気』はもちろん、魔力に妖力、その他の『力』もほぼすべてこの法則からは逃れられない。
生も死も無い生き物がこの世にいるのなら話は別だが、普通、すべての根幹である『生命の源泉』に無策に手を付けるのは極めて危険だ。
それを、私がやってしまったというのが一つの仮説。元バカマスターたちとの戦闘で、私は死の寸前まで、文字通り命を絞り尽くしてしまったのだ。
『気』を操る仙術を修めている私は、他の有象無象よりもはるかに『生命の源泉』について理解している。命というものは、想像よりもはるかに繊細なのだ。触れるまでは遠いが、触れてしまえばそれはもう、薄いガラス球のようなもの。下手につつけば簡単に砕け、削れれば、ごく一部の手段を除いて、もう元に戻ることはない。少しひびが入るだけで、生涯昏睡し続けることだってあり得るだろう。
だから私は、いまいちこの可能性に確信が持てないのだ。
『生命の源泉』が傷ついたことが原因だとすれば、その影響があまりにも小さすぎる。
しかし、もうそれくらいしか、『力』を引き出し使えないのではなく、引き出すべき『力』そのものが無いとなれば、他に思いつくことができないということも事実であることに違いなかった。
もしこの予想が当たっているなら、対処する方法はある。『生命の源泉』を癒せる数少ない技術。仙術によって他所から都合した『気』を使うのだ。
『気』とは生命エネルギー。つまり『生命の源泉』にほど近い、命の余剰分とでも言うべきエネルギーだ。親和性は高い。それによって活性化を促せれば、時間はかかるが治すことができるだろう。
ならばさっさと治療なりなんなりすればいいと思うのだが、しかしそうもいかない。可能性に気付いてから今の今まで、私はそれを安易に行ってしまうことを躊躇し続けていた。
なぜなら、私のすぐそばには、『邪気』に満ち満ちた『気』を発するピトーがいるからだ。
「よし、これでおわり。じゃあ次……今日も試してみるよ?」
私の体を大体隅々まで拭い清め終わって、ピトーは役目を終えた布切れを代替洗面器にぽいと投げ入れる。そして深呼吸して目をつむり、一瞬だけ瞑想すると『気』を練って、そして使った。
【
仙術を使わなくとも感じてしまう、人形の形をした
その能力が治すためのものだとしても、それを形作る『気』の性質は変わらない。どのような状況であろうと、ピトーが隣にいる限り、仙術を使えば私はその『気』の邪気にもろに影響されてしまうだろう。
世界に漂う悪意の集合体である邪気は、周囲の『気』を操る仙術の技を用いる場合、完全に排除することが不可能だ。少量ならともかく、許容量を超えて取り込んでしまえば、自分の中の悪意や害意、負の感情が刺激され膨れ上がり、やがて制御が利かなくなって、呑まれる。
体験したのは一度だけだが、あれは本当にすさまじい。殺意を抑えようと思う気すらなくなって、何倍も濃くした心の闇を吐き出さずにはいられなくなってしまう。到底抗えない衝動なのだ。
純粋な正義などないように、邪気を持たない者もまたいない。誰しも心に邪気を抱えているものだが、しかしそれにしてもピトーの『気』はそれが表面に出すぎている。世紀の極悪人でもここまでではないだろう。
その謎は未だ解けず、そういう体質なのだと諦めるしかない状況だが、まあどちらにせよ結論は同じだ。
もしこの場で仙術を使えば、ものの数分で私は再び邪気に呑まれるだろう。
いくら現状が危険だとしても、ここまで大きなリスクは負えない。そんな大きな壁が、安易な解決策へ手を伸ばそうとする私を留めていた。
危機感と焦燥感からの解放という甘露を前にしながら、歯噛みをすることしかできない。もしもピトーの治療が功を奏して、肉体を十全に動かせたなら幾分かましだっただろうが、しかしそっちの面も解決は望み薄だ。
なぜなら、ピトーがこの診察を始めて四日、【
『念』について聞きかじった程度の知識しかない私には、当然『発』についてのそれも少なく、原因はさっぱりわからない。今回もやはり【
「前も言ったけど、『念』って本来多くの修行があって使いこなせるようになるものだから、たぶん、そのうちできるようになるわよ。才能は十分すぎるくらいあるんだから」
ピトーが私を見て、きょとんと呆ける。意外なことを言うんだな、と言いたげなピトーの目に、私は遅れて我に返った。
なんで私が慰めてるんだ。
ピトーが力なく笑って【
「そう、だね。んー、修行かぁ……」
ピトーは少しの間宙を眺めて、それから「にゃるほど」と表情に憂いを消した。
「じゃあ、ボクまた出てくるね。クロカの分も食事を探してこなきゃいけないし」
そう言って、ピトーは立ち上がる。「日が沈む前には戻るよ」と、代替洗面器を抱え持つその目の奥には『修行』の二文字が未だ焼き付いているようで、告げられた帰宅時間はいつもより少し遅かった。
案外負けず嫌いなのか何なのか。ともかく私はいったんそのことを頭の隅にやり、その背を大根役者で見送った。
「さて、と」
ピトーの姿が木々の奥へと完全に消えたことを確認して、私は保留していた思いがけぬチャンスに目を向けた。
今ここにいるのは私一人。正確な時間はわからないが、お腹の具合から見て今はお昼時。ピトーが用事を終えて帰ってくるまで、少なく見積もって四時間はある。
ピトーの『気』という、仙術を使うにおいて最大の障害が消えたのだ。
いつ襲われるかもわからない無防備な現状に甘んじるか、それとも、無為に終わるどころか悪化してしまうかもしれない危険を負ってでも可能性に賭けるか。リスクとリターンを天秤にかける必要がある。
少しだけ迷ったが、心はすぐに決まった。元々、何もせずにじっとしているのは性に合わない。
『生命の源泉』を癒すために、四時間という時間はあまりにも心もとない。治るとしても何週間、下手をすれば何ヵ月もかかってしまう可能性だってある。それだけの『気』を取り込んで、邪気に呑まれない保証もない。
しかし私は、それでも行動すると決めていた。
決意すると共に、私はゆっくり目を閉じた。ふう、と深呼吸をして心を静め、『気』を操るのに邪魔な感情の高ぶりを削ぎ落していく。
ピトーにも真っ先に教えた基本の基礎だが、『念』に限らず、『気』を扱うために一番重要な要素は心だ。これが乱れれば『気』も乱れ、逆に落ち着いていれば『気』もまた落ち着く。『気』とはつまり、意思の力でもあるのだ。
長丁場になるであろうこの試み。できるだけ邪気を取り込まないようにするためにも、準備の段階から最高の状態で精神集中しなければならない。邪気対策のために、この洞の家主たる大樹に絞って仙術を使おうという目論みも込みで、そこに手を抜く気は全くなかった。
ほどなくして満足のいく精神状態が出来上がり、私は背を介して大樹の『気』に意識を向けた。
途端に感じるのは、長く生きた木特有の静かでほんの少し温かな、それでいて膨大な量の『気』。何千年もの間蓄え続けられたのであろう『気』に、心の中で思わず感嘆した。
私が今まで見てきた中で間違いなくトップクラス。人間界ではめったにお目に掛かれない雄大さゆえに致し方なしと、少しだけぶれた集中を修正する。気を取り戻すと、私はいよいよ、その圧倒的な『気』に手を伸ばした。
人と木。どちらも生き物であることは違いないが、その『気』の性質はかなり異なる。当然だ。動物と違って植物は思考を持たないし、感情も持たない。
他にも多々あるが、今重要なのは、同じ『気』でも性質が異なるということ。端的に言えば、植物の『気』は取り込むのがすごく難しいのだ。
合わない鍵穴に無理矢理ねじ込むような、そんな規格の差異をいちいち矯正しなければならない。
達人ならば心を不動とし、精神を植物の域にまで高めることができるそうだが、当然私にはそんなことできるはずもない。
おまけに樹齢がうん千年だ。今までにも植物から『気』を取り込んだことはあったが、そんなものは比にならないほど、この大樹の『気』は静寂でとっかかりがなく、私の器に合わせようにもまずはそれから探さねばならなかった。
七面倒な手順を踏まねばならず、精神は着々削られて、想像以上に作業の進行は遅い。そのことに少なからず気が立っていたからこそ、私はその違和感に感付いた。
「……ッく!」
『気』の通り道である『精孔』に、刺々しい何かが入り込む不快感。慣れ親しんでしまった異物感。邪気だ。
数分としないうちに感じる大型の不快感は訪れが少々早い気もするが、そのこと自体は驚くに値しない。大樹に限定してもあまり意味はなかったか、と内心で少し残念に思う程度でしかなかった。
しかし、それが連続して何度も続くとなれば話は変わってくる。
十秒後にまた感知。さらにその二十秒後。果ては五秒間隔に精神を邪気がかき乱し、さすがに無視しきれなくなった私は、大樹とのつながりを絶つと同時に『気』の取り込みを一時止めた。
濁流のごとき邪気を一度に取り込んでしまったせいか、絶え間なく感じる精神の不快感に眉をひそめ、私は身体の痛みに耐えつつ身動ぎをした。
ぱきぽき鳴る筋肉の凝りを聞きながら、私は感じる違和感に眼を向ける。
いくらなんでも感知できる邪気の塊が多すぎる。人の悪意が集まりやすい戦場やスラム並みだ。
ここは樹海のど真ん中。辺りにあるのはさざ波一つ立たない大樹の『気』ばかりで、私たち以外の人がいるはずもない。
バカでもわかるだろう。この邪気はピトーのものだ。
とはいえ、食料調達に出ているはずのピトーが『気』を吸収できるほど近くにいるとは考えづらい。
恐らくこれは『気』の残りカスだ。仙術の感知で見ることができないくらい薄い『気』が、ここに広がっているのだろう。
毎日『発』を使った弊害か、それとも意図して獣除けにしているのか。
ピトーに解決を頼もうにも、それは私の現状を包み隠さず伝えることと同義だ。話そうとは思えないし、かといって『気』の影響範囲から逃れることも、重症のこの身体では無理難題。何十メートルと移動なんてすれば、余計に傷の治りが遅くなるに違いなかった。
となればできる選択は一つ。『生命の源泉』を癒すこの試みを、続行するか否か。
「……隣に本体がいるよりはまし、か」
私は自身の性に従った。
しかし、いくら意思がそう決めたところで邪気の影響がなくなるわけもない。時がたてばたつほど集中力が乱されて、効率が落ち、ミスも増える。歩みは遅々として進まず、私の心にはゆっくりと行き場のない怒りが積み重なっていった。
挙句の果てに、なんでこんな苦労をしなくちゃならないんだ、と無益な雑念に囚われ始め、それでも遅れを取り戻そうとする意思だけが空回りしていた。
無心、無心と念じながらなんとか集中力を繋ぎ、ふと気付けば空が夕暮れ模様へと変わっていた。
もうそんなにたったのかと、精神的な疲れに盛大なため息をつく。
そのせいか、私は木の上から顔を出した彼女に気づくのが遅れ、はっとして仙術をやめた時には既に顔が見えるくらいに近づいていた。
ガサガサ木の葉を揺らしながら身軽に枝枝を跳び渡り、水とウサギのような小動物を三匹携えたピトーが音もなく着地する。見られてしまったかもという焦りと、心労が合わさって半ば投げやりに「おかえり」と呟く私に、ピトーは訝しげな視線を向けた。
「ただいま。ねえクロカ、さっきキミの周りで変なもやが見えた気がするんだけど、何してたの?」
予期していた質問であったために動揺を表に出すことこそしなかったが、ピトーが私の周囲のもや、つまり『気』を目で見ることができた点には、少しだけ驚きの息を呑むことになった。
しかし、私はそんなピトーの進歩を無視してぶっきらぼうに言い放つ。
「もや?見間違いじゃない?ちょっとお昼寝してただけよ。別のにして」
ピトーが持ってきた水と食料に対する対価に、私の現状を教える気にはなれなかったのだ。
「別の……うーん、そうだにゃー……」
大樹の根に腰を下ろしたピトーは一瞬悩むように宙を仰ぐと、すぐに手元に目を下ろし、毛むくじゃらな小動物たちの解体を始めた。
パキ、ポキ、と聴いている分には小気味よい音が鳴り、脚が外れると血の臭いが辺りに漂う。
所詮小動物。小さな体から流れる血の量など知れている。その臭いも言わずもがなであるはずなのに、この時はひどく不快に思えた。
「ちょっと!こんなところで解体なんてしないでよ!やるんならどっかよそでやって!」
「うん?あ、そう?」
私の怒声に眉一つ上げず、ピトーは粛々とそれに従った。つまり解体をやめて、近くの葉に未処理のものごとただ置いた。
これでいいでしょと言わんばかりに、呑気に指に付いた血を舐めとるピトーの姿に、私は怒りが増していくのを感じた。
私の言葉が『ここで血の臭いを巻き散らすな』という意味であることがなぜわからない。
もうほんの少しでも遅ければ、私の怒号はただの悪罵となっていただろう。だがピトーは、私が喉を震わす直前にこちらを向き、言ったのだ。
「クロカ、体の具合はどう?おかしいところはない?」
「はあ?どこもかしこも痛いに決まってるでしょ。相変わらず右腕は動かせないし、骨は折れてるし、おなかのやけど跡は痛いし、まともな部分なんてどこにもないわよ。見てわからないの?」
代わりの怒声を叫んでも、苛立ちが発散されることはなく、未だ胸の内で燻るそれに、私は続けて言い放った。
「だいたい、あんたの『発』も悪いのよ。治療する能力とか言っておいて、三日たっても碌に動けやしないじゃない。『気』をしこたま消費して、できたのは精々応急処置程度?そんなの知識があれば誰にだったできるわよ。とんだゴミ能力ね、全く」
間を開けずに言い切ると、私は目を丸くするピトーから顔を背け、横向きに寝転がった。
言い返してくるかと思ったがピトーも黙り込み、辺りがしんと静まり返る。気まずい空気に少しだけ頭が冷えて、私は、我ながらめちゃくちゃなことを言っているなと、小さな後悔を味わった。が、やはりそんなことよりも、私の心を占めていたのは怒りだった。
ただそれは、ピトーの言動に対するものではなく、ましてや遅々として進まない治癒に対するものでもない。
わからないのだ。
自分が何故怒っているのか、大本の理由さえ無い、ただただ行先のわからぬ怒りだけが心に満ちているのだ。だから発散する方法もわからない。
そんなむしゃくしゃとした感情だけが存在していた。原因は馬鹿でも察しが付くだろう。恐らく邪気の作用なのだ。
我を失ってはいないと自覚できるから、邪気に呑まれているわけではない。だが、私もまだまだ修行中の身だ。仙術のすべてを把握しているとは口が裂けても言えないし、呑まれるまではいかずとも、蓄積すれば精神に異常をきたすことだってあるのだろう。
しかし、だからといってどうしようもない。私は結局、これ以降も『気』の取り込みを続けた。
最悪、邪気に呑まれる直前でやめればいい。感覚は覚えているからと、自分にそう言い聞かせ、身体をねじ切りそうなこの感情も、ピトーの訝しげな眼も、一切合切を無視して私はそれを決行したのだった。
それからさらに三日後、毎日一人になるたびにそれを繰り返した弊害か、私は仙術を使うどころか、『気』に集中することさえ難しくなっていた。
頭が重い。頭の中が煮えて、中身が底に沈んでいるような頭重感だった。おかげで考えが巡らず、冷却できないイライラが私の眉間を寄せていた。
ピトーが出かけてから十分足らずでこのざまだ。これでは一体いつになれば『生命の源泉』が癒えるのかわかったものではない。
ままにならない自身の感情に苛立って、そのせいで益々仙術の精度が下がり、生まれた怒りにまた内心が荒れる。そんな悪循環を何度も何度も繰り返して、また途切れた『気』の流れに私は憚ることなく舌打ちをした。
ああ、イライラする。
最近では五分持つことすら稀になった。何の前触れもなく怒りが湧いて、『気』の流れを断ち切ってしまう。その度に『気』を感知するところからやり直しだ。
「ほんと、嫌になるわ」
それでも私は諦めない。邪気に影響は受けていても呑まれていないのだから、まだ限界は先のはずだと、頑なにそれを無視する。
だから私は再び目を閉じた。もはや形だけの深呼吸をして、最悪な気分のまま木肌に集中する。半ば強引に大樹の『気』割り込むと、一息にそれを吸い上げて、
――どうして、黒歌姉さま――
頭の中に響いた声に、弾かれるようにして目を見開いた。
「しろ、ね……」
激しく痛む身体にも気づかぬまま、跳ねる心臓に私は呆然と呟く。
しかしもちろん、その声の主、白音は居ない。それは幻聴でしかなかった。
そう。そうだ。当たり前だ。白音が、我が妹がこんなところにいるわけがない。だって白音とは、あの元バカマスターの本邸で――
「――ッ!!」
自分が考えかけたことに気づき、私は頭を抱えて身を縮めた。
駄目だ、考えるな。あれは間違いだったんだ。大丈夫、まだ私は邪気に呑まれていない。私はおかしくなっていない。
考えるな、大丈夫だと、逃れるように何度も首を振る。荒い呼吸を繰り返し、私は軋む身体をお構いなしにきつく抱きしめた。
そしてその光景を隠れ見ていたピトーが、おずおずといったふうに声をかけた。
「クロカ、大丈夫?」
その声が耳に届くと同時に、私は顔を跳ね上げた。
「なん……」
あの悪戯好きは死角に潜んでいた。私は後ろ手をつき、愕然とその顔を見やる。「なんでいるんだ」という悲鳴は喉の奥に消えた。
『絶』まで使って、恐らく驚かしてやろうという腹積もりだったのだろう。だが既にその表情に好奇の感情はなく、ピトーはまた訝しげな眼を私に向けた。
憂いを帯びたそれが、私には恐ろしく見えた。
「べ、別に何でもないわ!放っておいて!」
「どう見たって何でもなくないよ。クロカ。三日前からずっとでしょ?いい加減ボクも騙されてあげられない」
ピトーは気遣わしげにそう言って、無意味かつ半端に後ずさる私の額に手を伸ばした。硬くてひんやりとした手が、こもった熱を少し冷ます。
私はまた恐怖を感じた。
「やめてよ!だから何でもないって言ってるじゃない!私は平気よ!」
私はピトーの手を払い除け、必死になってそう叫んだ。
だがピトーは構うことなく再び手を伸ばした。今度は私の頬を掴むように両の手を。しかしそれも、怯えにとらわれた私の手がまたしても払い落とす。
いつの間にか、あれほど頭を蝕んでいた意味不明な怒りの半分が消えていた。その消えた分を丸ごと置き換わったようにして恐怖が満たしている。
全く異なる二つの感情は、しかし意外にも似通っていた。児戯のような攻防に負けた私は、ぴたりと繋がるピトーの視線と、脳裏をよぎる白音の姿にそれを感じた。
「だから、本当に平気だから……お願いだから、ほっといてよ!」
歪んだ目から涙が零れ、頬に添えられたピトーの手を濡らした。しかしピトーは気にも留めずただじっと、私を見つめていた。
その眼が、そう、温かかったのだ。
そう思えたのだ。
「無理だよ。だって――」
ピトーが言った。
「――こんなのいつものクロカ(姉さま)じゃないもの」
強烈なフラッシュバック。あの時の白音の声が重なって聞こえて、思い出したくなかったあの感覚が全身を駆け巡る。
私はもはや、心の制御を失った。
「あんたに……あんたに何がわかるっていうのよ!!」
ピトーの手を三度振り払う。
粘ついた泥のような言葉を吐き出せば、それ皮切りに次々と溢れ出た。
「『いつもの私』っていったい何!?ほんの一週間前に知り合っただけのくせに、あんたが私の何を知ってるっていうのよ!!私のことなんて何も知らないくせに!知ろうともしなかったくせに!!違う、違うのよ私は!おかしくなんてなってない!!壊れてなんていない!!私はバケモノなんかじゃないッ!!」
喉の奥に血の味がして、もはや自分が何を叫んでいるのかすらわからない。頭を掻きむしってかぶりを振って、乱れた前髪の向こうに驚愕したピトーの顔を見た。
「何よ……何なのよその目は!!どうせあんたも私を気狂いだって言いたいんでしょ!!恩知らずのクソ猫だって!!なんでなのよ!!ここまで必死に頑張って、頑張って、頑張ってきたのに!!どうして皆わかってくれないの!!どうして皆……どうして私だけこんな目に……」
「クロカ……」
泣き崩れる私にピトーが呟くように言う。伸ばされた手はすぐに止まり、それを凝視する私は身の内から染み出る怯えを隠すように大声を上げた。
「大体!!私がこんなになったのだって結局はあんたのせいじゃない!!あんたがそんな邪気だらけの『気』をしてるから、私は一日中イライラしっぱなし!!おかげで『力』の一欠片だって未だに取り戻せていないのよ!!あんたの邪気さえなければ、今頃は、今頃私は……」
一人でも生きていける身体になっていたかもしれない。
「だ、だから!あんた――ッ!」
喉にへばりついたしこりを飲み下す。
「――迷惑、なのよ!!もう私に近づかないでッ!!!」
一際大きな声が洞の中で反響し、遠くで鳥が飛び立つ音がした。それからはほとんどの音が消え、背を丸め、酸素を求めてあえぐ私の荒い呼吸音だけが、しばらくの間空気に流れていた。
どれほどの時間が経過したかはわからない。開いてしまった傷の痛みと、乱暴にかき混ぜられた感情に苦悩させられていた私の耳に、ピトーの平坦で短い声がその時届いた。
「わかった」
くしゃりと、床に敷き詰められた木の葉を踏みしめる音が鳴る。恐る恐る顔を上げると、そこにはもう私に背を向けたピトーの姿があった。
「ぁ……」
洞を出たピトーの背がどんどん遠ざかる。その歩みには淀みがなかった。
「待って……」
無意識に零れた言葉と追うように出た手は彼女に届かず、その姿はすぐに森の薄闇に消えてしまった。
「ピトー……」
涙の雫が手の甲に落ちて、それが乾いてもピトーは帰ってこなかった。
もう二度と、ピトーは戻らないのではないか。
私は自分の言った言葉を思い出した。どれもこれも、言うつもりなんて、吐き出すつもりなんてなかったのに。
認めよう。あの時私は邪気に呑まれていたのだ。
知る思いから知らない思いまで、ピトーへの怒りからまだそうでない怒りまで、数多の激情が噴出して、私はそれを抑えられなかった。
そして私は拒絶した。ピトーはまだ私を見捨てなかったというのに、未来を危惧して最初から切り捨てたのだ。
彼女からすれば訳が分からなかっただろう。突然意味不明な罵倒をされて、何故と問う間もなく、近づくな、だ。
だからこそピトーは行った。気狂いとは一緒にいたくないから。
(ああ、なんであの時――)
何故あんな事を言ったのだろう。
気づいた私に襲い掛かったのは、大きな後悔だった。
……後悔?
私はふと、宙を見上げた。
何故私は後悔をしているのだ?
ピトーが居なくなったことが悲しいから?では何故悲しいのだろう。私自身も言っていたではないか。『ほんの一週間前に知り合っただけ』だと。
たかが一週間共にいただけで、はたして情が湧くだろうか。
私とピトーの関係からしてそうだ。片や身体どころか『力』すら使えない重病人。片やその治療を餌に知識を吸い取る健康体。おまけに口でもかなわないとなれば、どちらの立場が上かなんて一目瞭然だ。言ってしまえばピトーは私の生殺与奪の権を握っている。絆されるなんてありえない。
しかし、と私は自分の右手に眼を落とした。
現実に、私は『この関係を終わらせたくない』という思いでこの手を伸ばした。
小動物のような可愛げがあるわけでもない。庇護欲を煽られたわけでもない。今後のご飯が無くなるからとか、そんな下らない理由では断じてない。
しかし、この右手はピトーを追ったのだ。
わからない。わからないがしかし、私は確実にピトーへの執着心を持っている。だからこそ、ピトーが出て行ってしまったことが悲しくて、そうしてしまった原因に後悔しているのだ。
わかる事はそれだけだった。自身がピトーと離れがたく思ったその過程さえ、私は全く理解できなかった。そのくせ、ピトーにもう一度会いたいというその思いは、ほんの少しも薄れることが無いのだ。
そんなざまで、一体どうしてピトーと顔を合わせることができようか。
大体、会ったとして何を言う。よくわからないけどあなたが私のそばからいなくなるのが嫌なのでここに座っていてください、とでも言うのか。
違うだろう。そんな空虚な言葉を伝えたいわけではない。もっと他にピトーに伝えたいことがあるはずだ。
こんな空っぽの状態でピトーと対峙すれば、もう二度と私が求める関係にはなれないだろうという、そんな予感ばかりが私にはあった。
だから私は必死になって考える。余計なことを考えないためにも、頭を回さざるを得なかった。
「……痛い」
心臓が締め上げられているかのように痛む。ピトーのことを考えるたびに、息が詰まるようなこの感覚が私を襲って、降り積もるその苦しみは耐えがたいものへと成長しつつあった。
「う……ッグ……」
わからない。これだけ苦しんでもなお、自分の心がわからない。
ピトーと一緒にいられない。忍び寄る現実に嗚咽が漏れた。
自分がどうしてそんな感情を抱いているのかもわからぬまま、目頭に熱が溜まる。それがいよいよ決壊せんと震えた直後、私は森の奥から漂う香ばしい香りに気が付いて、ぱっと顔を上げた。
ピトーの基本が生食であるために久しく嗅いでいなかった匂い。それは焼けた肉の匂いだった。
「我ながら気づかなかったことが不思議なんだけど、ボクの『気』が原因なら、それってボクがずっと『絶』をしていれば問題ないことだと思うんだよね。どうかにゃ?」
そこにピトーが立っていた。
言葉の通り『絶』をしているために気配はひどく希薄だが、その手に持った焼肉が存在感を割り増ししていて、木々に紛れたその姿を見つけることは大して難しくはなかった。
いや、そんなことよりもだ。
「――ピトー?」
「うん?ああこれ?前にクロカが『肉は火で焼いたほうがおいしい』って言ってたのを思い出したから、キミに教わった魔力の実践も兼ねてみたんだよね。食べるでしょ?」
そう言って若干焦げ付いた肉をゆらゆら振って見せるピトーに、私は心の奥に押し込めていた不安が氷解していくのを感じていた。
本物のピトーだ。
散々酷いことを言ってしまったにも関わらず、それでもピトーは帰ってきてくれた。そして彼女はそのことについて何も言わない。無かったことにしてくれているのだと気づいた私は、迷わずそれに飛びついた。
「――そうね、確かにそれで邪気のほうは問題ないわ。ていうか魔力って、ほんの少し口で説明しただけでしょ?それだけで習得するって、ほんとふざけた才能よね」
喜びと罪悪感で物理的に飛びついてしまいたくなる衝動を抑えながら、私は努めて普段通りの調子で肩をすくめてみせた。
そう返されて、ピトーも心なしか肩の力が抜けたように見える。普段は軽薄な彼女が緊張している姿など想像もできないが、やはり思うところはあったのかもしれない。
その様子に、私たちの望みが一致していることを確信した私は、心からの安堵に頬を上げた。
私はピトーの手からへたくそな出来の焼肉を受け取ると、彼女の眼をしっかり見つめ、言った。
「それで、対価には何を聞きたいの?」
結局、私の執着心の謎はわからずじまいだ。だが、この取引が生きている限り、心地いいこの関係は続く。
「……んー、じゃあねえ――」
これが思考停止だということはわかっている。しかし、それでいい。
この取引を守る限り、私はピトーに見捨てられずに済むのだから。
それから私は、邪気のことはもちろん、重傷を負うことになった原因の戦いについても話した。その過程で自分がお尋ね者であることを伝えた時、興味なさげな淡白な反応が返ってきたことに、私は家に帰ってきたような温かい安堵感を覚えた。
けれどやはり、白音のことは言い出せなかった。