ピトーさまの存在が姉さまの心の要になっていることは、なんとなく察しがついていた。
家族、と呼ぶには少し歪な依存だが、しかしそれ以上に強固な関係。ウタさまとフェルさまの姿だった時の様子を見ていれば、それは明らかだった。だからそれを自分が邪魔しているのだと知らされた時、私は想像だにしなかったその事実に、驚愕と共に底なしの沼に落ちゆくような深い絶望感に襲われた。
五年前と同じだったからだ。姉さまの涙に気付けず、恐怖してしまった時と同じ、他でもない私自身が姉さまを傷付けているのだという事実。知らずの内に後悔を繰り返していた自分が情けなくて、悲しかった。
そんなふうに姉さまの心を傷つけることしかできない私と比べて、ピトーさまのなんと優しいことだろう。私が姉さまを拒絶してしまった時からずっと、あの人は姉さまの心の傷に寄り添い続けていた。あの日から今日までの五年間、ずっと傍に居て、その苦しみを癒し続けてくれていたという。
姉さまにとって、ピトーさまは自身を救ってくれた大切な人。私にとってのリアス様。
そんな人との関係を、私は引き裂こうとしているらしいのだ。
そんなことをしたいとは思っていないし、した覚えもないが、しかし私の存在が障害になっているというのは事実だ。当人がそうだと言うのなら、間違いであるはずもない。私は、またしても姉さまを涙させようとしている。二度も姉さまを傷つけてしまうのは、嫌だった。
だから私は受け入れた。私が姉さまに殺されることが姉さまの幸福につながるのなら、それでもいいと思った。
それがいいと思った。
私はずっと罰が欲しかったのだ。姉さまの涙を知り、しかしもう償うことはできないのだと悟ったあの時から。ならばせめて姉さまと同じように、私は私を救ってくれたリアス様を命を賭けて守ろうと、そう決めた。
だが今、悪魔の長い寿命の中、永久に背負い続けなければならなかったはずの罪を濯ぐことのできる奇跡のような機会が目の前にある。死んでしまったはずの黒歌姉さまに、あの果てしない後悔の贖罪をすることができる。
そう喜んでしまう私が許されることは、たぶんない。だからこそ、すべてを費やさなければと思った。リアス様やサーゼクス様、大好きな仲間もみんな裏切って、そして自分の命を捧げてでも、何もできずに死なせてしまった姉さまを、今度こそ私が救いたかった。
だから、私は姉さまに殺されることを受け入れた。それが姉さまの救いなら、と。
本心だった。何を想っていようとも、そう考え、姉さまの捌きに身を委ねようとした。
だからこそ、それは私にとっても驚愕のことだった。
「は……え……?」
思考が全く追いつかない。私も姉さまも、目の前で起こったそれに、呆然とすることしかできなかった。
受け入れ、とうとう姉さまの貫き手が私の命を狩り取る、その直前だったはずのこの瞬間。
私の手が、その貫き手を払い除けていた。
手を動かしたつもりなんてなかった。突然死ぬことが怖くなったわけでもない。だというのに、私の身体は姉さまからもたらされる『死』を拒絶した。気持ちと思考は変わらないのに、身体だけが勝手に動いた。
呆然が解ければ今度はその不可思議な己の行動に混乱と、そして恐怖が身を覆った。
「あ……ちっ、違……」
『死』を拒絶するということは、姉さまの幸福を拒絶するということ。しかし私にそんなつもりはないのだと、私は己の腕に落ちた視線をパッと持ち上げ、必死の思いで言い募ろうとした。
しかし持ち上げ、姉さまに訴える私の眼は、その表情に全く異質なものを認めた。手を払われた勢いで一歩二歩と足を下げる姉さまは、私の突然の裏切りに怒るでも悲しむでもなく、ただ呆然のまま、信じられないという面持ちで、
「――なんで……」
呟く言葉に導かれ、私も背後を振り返り、見上げた。
「なんで、邪魔するの……?ピトー」
見上げた私の真上には、ニタリと笑みを浮かべた道化師のような人形が浮いていた。
しかもよくよく見れば、その人形の手からは糸が伸び、私の身体に、腕に繋がっている。瞬間、それが私の身体を操り、姉さまからの『死』を妨げたのだと悟った。理解した途端溢れかえる得体の知れない恐怖感に、小さく悲鳴が漏れた。
だが、ピトーさまだ。怒涛の如く流れ込む情報を受け止める理性は、混乱の中でもその言葉を聞き逃さなかった。姉さまの呟きは感じる恐怖のその中から、覚えのある『気』を思い出した。
思い出せば、すぐにわかった。恐怖の一端である不気味な人形の、恐怖を呷る冷たい『気』。背中が泡立つそれは、紛れもなくピトーさまのものだ。
この人形は、ピトーさまの念能力なのだ。いつの間にか、気付かぬうちに身体に仕込まれていたのだと、私は確信した。
――ならばなぜ、私は生かされたのだろう。
「あは……あははははッ!」
姉さまの笑い声。調律が狂ったような狂気的な音に、気付きかけた思考の冷静が剥がれた。怯えを抱きながら、私は姉さまに視線を戻した。
顔を覆った手の隙間から、焦点の合っていない眼が人形の向こうを凝視していた。
「そう……そうなのね、ピトー……」
「ねえ、さま……?」
様子のおかしさに、私は煽られる不安を呑み込んで眼の中を覗き込む。ほぼ同時、姉さまの眼も人形から私へと移った。
だがやはり、私を映してはいない。
その眼は明らかに、塞がれていた。
「……ピトーが悪魔に抱く憎悪は、こんなものじゃないわよね……。ただ殺すんじゃ、足りない……。殺すならもっと……むごたらしくッ!!」
自らに言い聞かせるように呟いた。その次の瞬間、姉さまは無造作に、再び私へ貫き手を放った。
それに私は反応できない。内心にはやはり回避する気も防御する気も存在しなかったが、しかしピトーさまの人形は私を動かした。操られた私の身体は姉さまの突きを容易く見切り、身を反らして紙一重にそれを躱す。ただでさえぼろと化している制服がまた切り裂かれるが、身体には届かない。
なぜこうなっているのか、わからなかった。わかっていることは一つ、ピトーさまが再び私を守ったということ。ピトーさまは、私が今殺されることを望んでいないということだけだ。
その理由は姉さまの言う通り、ただ殺すだけでは不満だからなのだろうか。
(でも、だとしたら――)
「………」
頭上で動く人形の気配が、一瞬ゆらりと霧のように霞がかった。それを見た姉さまが、引っ込めた貫き手を拳骨に変えつつ不気味に笑って言った。
「ふふ……ほら、合ってた。ピトーのソレ、もうすぐ消えるわよ。役目の終わり」
展開に徐々に追いつき始めた頭が、ゆるゆると再び人形を見上げる。確かに、人形は気配だけでなくその姿をも薄れさせ始めていた。そこに宿った『気』が、ゆっくりと減じている。
そうかからずに空になり、消えるだろう。だがやっぱり私は、その理由が姉さまの言う通りピトーさまの憎悪だと、どうしても思うことができなかった。
役目の終わりとは、そうではなく――
私の心にあるのではないだろうか。
その時ふと、視界に違和感が生じた。ほんの僅かな間だけ明滅し、目玉を『気』が覆う感覚。『凝』をさせられたのだと瞬時に気付き、と思えば、視界の端に迫りくる黒い球体を発見した。
さっきまでは全く見えなかったそれ。姉さまの能力、【
そして突然、頭上から人形の気配が消えた。
「……ああ、言った途端、ね。安心して、ピトー。ちゃんと捨てるから」
法悦すらをも感じている様子の姉さまが呟く。人形の突然の消失が、姉さまには己の意思を認められたように感じたのだろう。
しかし私は反対に、否定だと思った。その証拠に、ピトーさまが人形の力をすべて費やし施してくれた『凝』は、人形が消えても未だ保たれたままだった。
私に、私個人の『凝』では見切れない姉さまの『隠』を見切るための力を与えてくれたのだ。
だから私は、続けて逆側から飛んできた姉さまの能力を、屈んで避けた。
姉さまの笑みが、それを眼にして削げ落ちた。
「は……?」
呆け、固まる。自在に動くはずの能力も私を追いかけることなくその場で止まり、そして崩れて消えた。
姉さまも、理解せざるを得ないはずだ。テストの時のようなピトーさまの甘い『隠』で隠された『気』ならともかく、仙術使いでもある姉さまの本気の『隠』を見破れるほどの力量を私が持たないことは、修行をつけていた姉さまが一番よく知っている。だからこの『凝』はピトーさまのもので、私が今回避したことも、すべてピトーさまの意志であると。
わかってしまったはずだ、ピトーさまが何を求めているのかが。
だが姉さまは、狂気を声に呼び戻した。
「あ……はははははッ!!ちょっと、こんな土壇場で急成長?覚醒なんて、ゲームじゃないんだからさぁ!!」
否定を叫び、姉さまは拳を振りかぶった。
それを認識した瞬間、私は未だ僅かに残る迷いを振り切り、大きく後ろへ飛んだ。今度は自分の意思で、私は姉さまにとっての幸福を払い除けた。
笑みの形は保たれたまま、姉さまが歯を食いしばるのが見えた。
「……ッ!!」
無言のまま、姉さまは空を切ったパンチの手を広げ、再び能力を発動させた。出現した一つの黒い玉が、瞬時に私へ飛ぶ。至近弾だ。が、元より【
集中すれば猶予の間がなくとも回避できた。能力の念弾に込められた『気』が、頬掠めて飛んでいく。しかしそれだけで終わるはずもなく、次なる念弾、そして何より姉さま自身による打撃の気配を感じ取った私は、反射的に頭を両腕で防御した。
一瞬の後、両腕に重い痛みが走る。利き腕ではない方のパンチ。筋力量からして素の威力はマシなのだろうが、その衝撃はコカビエルの一撃と大差ないように感じるほど、込められた『気』の量がすさまじかった。
それに質も、紛れもなく冷酷だ。私への殺意が滲み出て、受けた腕が凍り付くかのような錯覚に陥る。姉さまの『気』は、それほど冷たく満ちていた。
だから余計に際立つ。私の身体に宿る、ピトーさまが残した『気』。同じような冷たさと恐ろしさの中にある、確かな
背を押され、私は殴られた勢いでまた後ろに跳ぶと、そのまま距離を取るため駆け出した。
姉さまは当然追ってくる。能力の念弾も風を切り、次々と私を襲った。背後からも前からも襲い来るそれらだが、直線的に飛ぶそれらは姉さまの精神状態を表して避けやすい。とはいえしかし避けるたびに一瞬とはいえ足の動きが犠牲になるわけで、いずれ姉さまの打撃に追いつかれることは明白だ。
ジリ貧を自覚しつつ、私は己がどうするべきか、頬を掠める念弾の冷たさを感じながらか頭を回す。するとその時、何個目とも知れぬ念弾を放った姉さまが、追いかけっこだけのせいではないだろう荒い息のまま、歯を剥いて叫んだ。
「殺されますって空気ガンガンに出してたくせにッ、何逃げまくってんのよ白音ッ!!『むごたらしく』に怖気づいちゃったわけ!?」
「っ!!ち、違いますっ!!そうじゃない、私が、私が怖いのは――ッ!!」
思わず振り向き、言い返してしまう。それで集中が削がれ、生まれた死角を貫く念弾に気付くのが少し遅れた。寸前でどうにか躱すが、その代償に、視界の端に殺意の『気』を纏った姉さまの拳が写り込んだ。
片腕だけが、なんとか防御に間に合った。受け、めしゃりと右腕から嫌な音が鳴る。一拍の拮抗の後に身体も衝撃に押され、地面に叩きつけられて弾んでから、反対側の壁にまで吹き飛ばされて激突した。
散乱していたおんぼろ小屋の残骸と一緒にがれきに埋もれる。遅れて腕に激烈な痛みと針のような冷たさを感じたが、それを碌に認識する間もなく、私はすぐに瓦礫からから這い出し、横に跳んだ。
ほとんど同時に姉さまの追撃、念弾ではなく黒い炎である火車が着弾し、その場所を覆った。たちまち赤く赤熱し、融け始める瓦礫の熱。それを引き起こした攻撃から辛うじて逃れた私は、感覚の消えた右腕以外にその熱さを感じながら、正面に立つ姉さまを見上げた。
はだけた着物の奥の素肌に刺青と、いっぱいの汗をかきながら、半開きになった口でせわしなく呼吸を繰り返している。揺れる焦点は見えているのかいないのか、しかし私に向いていた。
私はその眼を見つめ返す。こちらもうっすら汗が浮く足を踏ん張って立ち上がり、言った。
「私が怖いのは、死ぬことじゃない……!!」
姉さまの足が止まる。眼の揺れが、動揺がさらに激しくなった。
だが、言わねばならない。ピトーさまの暖かさ。それが教えてくれた、彼女の想い。
私の死は、姉さまの幸福になり得ない。それどころか――
「私が死ぬことで、姉さまはきっと、不幸にしかなれないから……」
「……何を……言ってるのよ……」
つまり、
「ピトーさまはきっと……私を憎悪なんてしていない」
だから私を守った。姉さまが私を殺せないようにして、姉さまの心を守ったのだ。
それはほとんど確信に近いものだった。
私の存在が姉さまとピトーさまの仲を邪魔している。それは事実なのだろう。フェルさまの中にあった悪魔への憎悪は紛れもなくピトーさまのもの、だから姉さまはピトーさまに認められるために私を憎悪しなければならなかった。
そこが、たぶん違うのだろう。ピトーさまは、自分が憎悪しているからといって姉さまにまでそれを求めるような、そんな束縛なんてしないはずだ。まして姉さまはまだ私を愛してくれている。それを捨てろだなんて鬼畜な所業、するわけがない。
悪魔への憎悪があろうが、姉さまの幸福以上に優先するものなど無いはずなのだ。
それが、私の知るピトーさまだ。そんな私よりずっと長い間ピトーさまと一緒にいる姉さまであれば、あの人がどれだけ姉さまを想っているのか、その優しさだってわかるだろう。
そう、これは単なるすれ違い。
お互いを想いあうあまりに起きた、拗れた優しさなのだ。そう言おうとした。
が、
「黙りなさいよ」
姉さまの口から飛び出したのは、一瞬にして器の縁まで満たされた、一色の
背を押された勇気が反転し、恐怖が暖かさを押し流す。ゆらりと動いた姉さまの手に、私は逃げることもできず、反射的に身を固くした。
次の瞬間、怒りに塗れた姉さまの拳が私のお腹に突き刺さった。
息が詰まる。今までに受けたパンチよりもはるかに強いものだった。すぐに喉の奥から灼熱が駆け上がり、飛び出す。持ち上がった身体が、地に着くとバランスを崩して膝を突き、粘っこい血を撒き散らした。
拳にかかり、糸を引いて垂れる赤色は、小刻みに震えていた。
「あんたに……ピトーの何がわかるっていうの」
その言葉に、心臓が一瞬強く脈打った。だが眼に映る姉さまの凍えるほどの怒りに遮られ、口から血として零れ出る。
「ぅ……ぁ……」
一緒に僅かな声が漏れた。だが姉さまは意に介さず、私を蹴り飛ばした。
あばら骨が砕ける激痛にも何もできず、赤い線を引きながら地面を転がる。大きめの瓦礫に背をぶつけようやく止まった時には、痛みと恐怖と動揺とで姉さまの顔を見上げることもできなかった。
「……ピトーがどうして悪魔を憎むのか、その理由も知らないくせに」
投げ出された右手が踏みつけられる。冷え切った感覚に激痛だけが流されて、出ない悲鳴の代わりに半分吐血の咳が出た。
姉さまはそんな私に、冷たい忌々しさを吐き掛けた。
「ピトーはね、悪魔に仲間を殺されたの」
言葉の衝撃が眼だけを動かし、その怒りの激しさを認めた。
「一人や二人じゃない、全員が殺されたわ。ピトーが仕えるべき『王』を産むはずの『女王』も……ピトーが生まれる頃には殺されていた。たった一人、仲間も主も奪われた世界に生まれてしまったのよ。……自分の生のすべてを踏み潰したのが、悪魔なの。その苦しみが、憎悪が……全部嘘ですって……?」
私の手を踏みつける力が強くなる。折れた骨に響いて益々高まる痛みに歯を食いしばり、私はなんとか、掠れた声で主張した。
「嘘、とは……言いません……ッ!私も、もし『
それらはきっと、乗り越えられるものだ。だって現にピトーさまは、キメラアントの社会に囚われず五年も姉さまと一緒にいる。
しかし姉さまは、激しくかぶりを振って遮った。
「『
足が振り上げられて、私の手が踏み潰される。絶叫が地下空間全体に響いた。
「……ピトーにとっての『王』は、もっともっと重要な存在なの。裏切ろうなんて一かけらも思わないくらい、絶対的。だからその忠誠は……私との絆よりも、はるかに強固で重たい」
「そん……な、こと……っ」
激痛が響く頭は朦朧としながら、血のあぶくと一緒に必死の否定を口にする。姉さま一つ息を吸いこみ、足をどけた。
「それを奪った悪魔、その枠組みにある全てを憎んでも尚足りないくらいの憎悪。それほどの忠義。ピトーの根幹は、どうあがいてもそれなのよ。心も身体も命すらも、『王』のための道具として存在する。それが……
命。
すべてが『王』のために奉仕し、すべてが『王』に収束するキメラアントのその生態。ピトーさまも、そこからは逃れられないと言うのか。
そうではないと一番言いたいのは姉さまであるはずだ。『その枠組みにあるすべて』ということは、つまり姉さまもピトーさまにとっては憎悪の対象であるということ。だというのにした否定の断言には、それ故の重さがあった。
しかしならばこそ、せめてこの身に宿ったピトーさまの暖かさだけは、何としても伝えねばならない。
「……ピトーさまは……それでも……!」
ピトーさまの、その思いの強さ。
託された、果てしない優しさを。
「
まっすぐ、姉さまにぶつけた。歯を食いしばり、無事な左腕で倒れ伏した身体をなんとか持ち上げる。動かない右腕をぶら下げ立ち上がって真正面から姉さまと対峙した。
そうして改めて直視した姉さまの表情には、やはり一つの混じりものもない激情が渦巻いていた。
「知ったふうな口利くなって、何度も言ってるでしょッッ!!!」
つばと一緒に血濡れの拳が私に飛んだ。すさまじく濃い『気』に思わず心が怯える。元より避けるつもりではあったが必要以上に大きく下がり、大げさな間を取ってしまった。姉さまは止まることなく追い、次なる攻撃を振りかぶりながら続けて叫んだ。
「ピトーはあんたたちとは……私たちとは、違うのよ!!身体も、心もッ!!何も知らないその口で、ピトーを語らないでよ!!」
疼く心臓と身体。だが衝動を噛み殺し、私は続く攻撃から逃げ続ける。避けたパンチが地面に突き刺さり、岩盤を砕いて再び私を追ってくる。
「私は……だからピトーと同じにならなきゃいけないのよ!!悪魔は全部、実の妹だろうが自分だろうが殺さなきゃ……私は、ピトーに憎まれるなんて嫌なのッ!!」
「そんなこと、する必要はないはずですっ!!ピトーさまは私とも姉さまとも何も変わらない……あんなに優しいただの人じゃないですかっ!!」
「うるさいうるさいうるさいッ!!違うのよ!!私は猫又で悪魔だけど、ピトーはキメラアントなの!!全く別の生物なの!!私はどうやっても悪魔の肉をおいしいなんて思えないし、生まれてもいない主人に尽くす忠誠心も理解できない!!元々わかり合うことなんてできない同士なのに、その上自分が憎悪する悪魔を、白音を好いている私を、心から信用できるわけないじゃない!!どれだけ優しくても……その事実だけは絶対に変えられないのよッ!!
「でもピトーさまは姉さまとずっと一緒にいたんじゃないですか!!憎んでいたならそんなことはしない……むしろ愛している。家族なんでしょう!?」
「それはピトーの優しさでしかない……!!そうよ、あんたの言う通り、ピトーは優しい。だからこんな私でも、仲間として家族として、受け入れようとしてくれてる……。そんなことくらい、私がわからないわけがないでしょ……ッ!!」
「でも」と、姉さまは拳がギリリと硬く締まる。
「キメラアントの性は、想いなんかじゃどうにもならない。私が白音を捨てられないように、ピトーも『王』への想いを捨てられない。もうどうしようもないって、いい加減わかってよッ!!」
たぶん今までで一番の『気』が、悲鳴が込められた攻撃。私はほんの一瞬だけ押され、迷った。が、躱した。
「……だからって、そのピトーさまの優しさを……今までキメラアントの性に抗い続けたピトーさまの勇気を、姉さまは無駄にするつもりなんですか!?キメラアントじゃなくて、人であろうとしたピトーさまを……姉さまはどうして否定してしまうんですか!!」
「仕方ないじゃないッ!!何を言われようと……私はこれ以上、私のせいでピトーを苦しめたくないのよ……!!私が人でいることがピトーの苦しみだから……だから私はキメラアントに、ピトーと同じにならなきゃならない……!!」
黒い念弾が飛来して、回避に手間取ってしまったために姉さまとの距離がぐっと縮まる。パンチが肌を掠めた。
「……ピトーのその勇気だって、永遠に続けられるようなものじゃない。心を捻じ曲げるようなマネ、いつかは限界が来る。どうせいつかは正しい形に戻っちゃう。だから今のうちに、私がピトーの苦しみを消さなきゃならないのよ!!」
「そう思ってるのはピトーさまも一緒です!!ピトーさまだって、姉さまに妹殺しの苦しみなんて与えたくないから――」
「その苦しみからずっと守られてきたあんたには、私の気持ちなんてわかりっこないわ」
激しい何かで、喉が詰まった。あのあまりに同時に一瞬身体も硬直し、回避できたはずの姉さまのパンチが腕にめり込んだ。
バランスが崩れ、身体ごとなぎ倒される。それでも余った威力で数メートルほど吹き飛ばされた私を、姉さまは見下ろしながらゆっくりと追いかけてきた。
静かに言う。
「……ピトーは悪魔が憎い。それがすべてよ。ちょっと何かがズレるだけで、私もその輪に引き戻される。優しくてもそれくらい脆いのが、ピトーが用意できた私の居場所。守るのは、私の仕事」
立ち止り、しゃがみ込む。そしてなんとか身体を持ち上げようとする私へ伸びる手のひら。
「すべてに甘えるわけにはいかないの。もうこれ以上はね。だから……殺す。私がこれからもずっとピトーの家族であるために、ピトーが憎む悪魔じゃないって、ピトーの中のキメラアントに証明する。そうするしかないのよ」
首を掴まれた。息苦しさを感じる前に身体が持ち上がり、壁に叩きつけられる。肺から押し出された息は喉元で止められ、僅かに飛んだ血が姉さまの手にまた赤を付け足した。
身体の痛みと、徐々に迫ってくる窒息の苦痛。死の予感に、左手がひとりでに姉さまの腕を掴む。だがそれ以上は進まない。
進んではいけない。
私の心が身体を抑え、眼だけが痛みを堪える姉さまの歪んだ表情を凝視した。
「私はもう……家族を失くしたくないの……。だから、ねえ、白音」
流れる、光。
「お願いだから、なにも言わないで殺されてよ」
霞み始めた視界に、火車の炎が見えた。
私はやはりそれに焼かれて死ぬべきなんじゃないか。その黒い炎の熱に感応して、酸素不足で朦朧とする頭があの時の覚悟を思い出した。
少し前までの私は、そう思っていた。元々そう感じたから、私はリアスさまを裏切ったのだ。ひっそりと姉さまに殺されることが、リアスさまにも姉さまにも一番迷惑が掛からない、正しい道で唯一の道だと、そう思ったから。
だがそれが『正しい』で、『唯一』だと思ったのはなぜなのだろう。
それは――姉さまの涙を知ったからだ。
いや、違う。
姉さまの涙
そうじゃないか。
「ピトーの忠誠心も、私の苦しみも、あんたには私たちの何も理解できるわけないんだからさ」
その通りだ。いくら頭の中で考えても、姉さまやピトーさまの気持ちをそのまま理解することなどできるはずもない。
ただそれは――
「……もう、私たちは姉妹でも家族でもないんだから」
自らに言い聞かせるような言葉は、決して、そうではない。
私の右手が、首を締め上げる姉さまの手を打ち払った。
「あっ……!?」
あっさりと拘束が外れる。私が明確な反抗をするなどと思っていなかったのだろう。
だが酸欠から解放され咳き込む私の衝動は止まらず、息も整わぬうちに爆発した。
「姉、さまの……」
虚を突かれた様子の姉さま。その口が滅茶苦茶にした私の心は、積もり積もった想いで限界だったのだ。
右腕の痛みも忘れるほど。
「姉さまの、バカああぁぁぁッッ!!!」
手のひらが、姉さまの頬を思いっきり打った。
ばちぃん、と乾いた破裂音。やはり思いもよらず、姉さまはよろよろと後退して尻もちをつく。赤くなった頬を押さえながら、呆然と私を見上げた。
私はそんな姉さまに、眼に染み出る涙を振り払い、ぶつけた。
「姉妹でも家族でもないなんて、勝手に決めないでくださいッ!!そんなことまでどうして……どうして姉さまは一人で全部言っちゃうんですか!!」
「……か……勝手って、だって……あんたも私も、もう……」
もうそんな関係には戻れない。だってそうするしかないから。そうであることが一番幸せだから、そういうことだろう。
私の喉が、裂けんばかりの必死の否定をする。
「私はそんなの嫌です!!私の心を、幸せを決めつけないで!!私は、たとえそれが不幸でも、姉さまと姉妹で家族であることを否定したくない。裏切っても、殺されても、みんなに何と言われても……!!私はそれだけは絶対に捨てません!!」
姉さまは何も返さない。私は荒れる内心に深呼吸をして、それでも全く落ち着かない衝動のまま続ける。
「……そうです。姉さまの言う通り、人の気持ちなんてわかるわけない。私も、姉さまが考えていることなんてわかりません。だって……姉さまは、私に何も言ってくれないじゃないですか……!!」
「……言ってるじゃない。私は、あんたのことを――」
「『
すべて『失くしたくないから』だ。そんな思いで出た言葉が本当の望みであるはずがない。
だから、その裏にあるものなんて私にわかるわけがないのだ。
「……ずっと見せてくれていた笑顔が偽物だったなんて、そんなこと……。私は、姉さまの妹です。心を読める覚妖怪じゃない。苦しいって言ってくれないと、わからないんです!!」
本心を覆う外側の声しか知らない私は、だからその言葉を信じるしかなかった。姉さまが苦しみ、傷ついているのは私のせいだから、その憎しみを濯ぐための償いには私の命を差し出すしかない。そうとしか、考えることができなかった。
必死に私を守ってくれていた姉さまが、主さまから受けた内の苦しみをも隠していたから、私はあの時、姉さまを救うことができなかったのだ。
「私だって……姉さまを救いたかったのに……」
でもやっぱり、そうであっても救えはしなかっただろう。私は幼過ぎた。だからこそ、姉さまは何も言わずに私を守り続けてくれていたのだから。
どうしようもないことだ。だから姉さまにも、ピトーさまの気持ちがわかるはずがない。これもだって、『キメラアントの性』というどうしようもないことだから。
けれど私は知ってしまった。ピトーさまの優しさ。背負った業に決して劣らぬ、その暖かさ。その想いの強さ。
だから私は、もう我慢しないと決めた。
「……あんたに救われたいなんて、思ったこともないわ」
姉さまが身を起こした。脚は震え、身体はふらふらと揺れている。
「それでも救いたいって言うなら……邪魔しないでよ」
怒りの表情が、私を威圧した。
「死んで、私を救ってみせてよ……!!」
だが今度は全く怖くはなかった。今の私にはちゃんと見えている。その眼に浮いている涙の、その理由。
そして何よりも、私にはピトーさまが付いている。
思いっきり、首を振った。
「嫌です!!」
「っ……!!」
気圧され息を呑む音。私は軋む身体を動かして、姉さまに一歩近づく。
「私、もう姉さまの言うことなんて聞きません……!!もう守られているばかりの子供じゃないんです!!私は……ピトーさまの優しさを信じます!!」
圧され、同じく一歩後ずさった姉さまの足が、食いしばられる歯と共に前に進み出た。
「なんで……どうしてあんたばっかりがピトーの気持ちを語るのよ……ッ!!嘘に決まってる……!!私でもわからないのに、関りもないあんたが……!!」
「それは姉さまが気付きたくないからです!!私と姉さまを二人っきりにしたのも、私を裏切りものにしなかったのも、姉さまと一緒にしたのも、全部ピトーさまの優しさ……私と姉さまを、仲直りさせようとしてくれていたからじゃないですか!!」
「そんなこと……そんなこと絶対ありえない!!ピトーはキメラアントなの!!悪魔とは相いれない存在なの!!なのにピトーがっ……ピトーが、私を悪魔に戻そうだなんてッ……そんなの絶対、本心じゃないッ!!」
震え出した自身の身体を姉さまは抱きしめる。私が手の刺し伸ばすと、姉さまは怯えたようにそれを避け、下がった。少しの躊躇。しかし私は力を込め、手を伸ばし続けた。
「……姉さまをそうしてしまったのは、私のせいです。私に姉さまを救う力がなかったから、あの時姉さまを一人にしてしまった……。だから姉さまにはピトーさましかいなくて、ピトーさまの気持ちを認めてしまったらその唯一も失ってしまうから……だから、怖いんですよね……?姉さま……」
「………」
怯えた眼の沈黙は肯定と同じだった。私はそれにゆっくりと首を横に振った。
「でも、そう思っているのは姉さまだけです」
「……どういう、意味よ」
「姉さまも、覚妖怪じゃないんです。銃の女の人みたいにそういう念能力を持っているわけでもない。自分のものじゃない心の中を覗き見ることなんてできない。姉さまこそ、ピトーさまの気持ちをわかってないです……!」
姉さまの怯えに怒気の気配が戻る。だが私はそれが姉さまの中の迷いを消してしまう前に、震えるその手を掴んだ。
「捨てられたくないばかりに、姉さまはピトーさまをキメラアントとしてしか見ていない!!」
姉さまを傷つけるだろうその言葉を、言った。
私に手首を取られた衝撃とで、姉さまが怒ることはなかった。私がピトーさまを語ることを理由にした怒りが縫い留められ、姉さまは過去を直視している。そこには姉さまの心に目隠しをさせたモノがたくさんあったのだろう。
しかしそれだけではないはずだ。私はそう信じながら、耳と尻尾までがぺたりと伏せてしまった姉さまに、込み上げるものを必死にこらえ、続ける。
「ピトーさまは残忍なキメラアントなんかじゃない、優しい人です。姉さまが信用を疑う必要なんてないくらい、あの人は姉さまを愛しています。私を能力で守ってくれたのも、力を与えてくれたのも、姉さまを苦しめるためじゃない、姉さまに幸福でいてほしいからなんです……!
だから、ピトーさまは姉さまと一緒に、今まで私を守ってくれていたんじゃないですか。京都の時もコカビエルの時も、ピトーさまが姉さまの悪魔の部分を疑っていたなら、私を疎ましく思っていたなら、あんな風に命を賭けることはなかったはずです。……ピトーさまが戦ったのは、全部姉さまの幸せのため……自分の中のキメラアントよりも、姉さまの幸福を願える普通の人になりたいからじゃないですか」
だから姉さまが悪魔を憎もうとする必要はない。私を殺し、ピトーさまと同じ悪魔嫌いのキメラアントにならずとも、ピトーさまは姉さまを家族として認めている。いや、認めたいと思ってくれている。
ピトーさまの方こそ、姉さまと同じになりたいのだ。ただ偏に、姉さまが幸福であるために、私に託してくれた。
悪魔を憎悪する自分に抗って。
「……でも――」
姉さまが、震える声で歯を食いしばった。
「私は、ピトーに苦しんでほしくない……。私は、ピトーの重しにはなりたくないの……っ!」
「なら私は、姉さまにもピトーさまにも幸せになってほしいです」
姉さまの言葉が止まる。何を虫のいい話を、とでも思っているのだろう。しかしそう思っているのも、やはり姉さまだけだ。
「自分さえ変われば、姉さまの心に陰を落とすこともない。ピトーさまはそう思っているから、だからピトーさまは姉さまを捨てたりなんてしません。……あんたにそんなことわかるか、なんて言うのはなしですよ?人の心は覗けないんですから」
けれど私は、そして姉さまも、知っているはずだ。頬を伝い、血を洗い流す涙は、そうだ。
「……例え家族でも、交わさなければ思いは伝わらない。けど交わした思いは真実なんです。ピトーさまの『気』は、あんなに暖かかった」
あれこそが、すべての答えなのだ。
私も姉さまも、もう限界だった。
「ピトーさまは……っ、私たちに、仲直りのチャンスをくれました……。憎悪よりも愛を選べる人だから……きっと、きっと……大丈夫、です……っ」
跳ね、言うことを聞かなくなっていく咽喉。詰まる言葉に加えて、目の前の姉さままでもが滲んで歪んでいく。
「きっと……姉さまが苦しまなくても、家族でいられます……。もし、何かが、ず、ズレてしまっても……今度は私がっ、今度こそ、救ってみせます……っ!だから、だから……」
姉さまの腕を強く掴んだ。
「わ、私も、姉さまの家族でいさせて……姉さまの
震える声がきちんと言葉を紡げたのか、もはや自分でもわからなかった。掴んだ腕に額を押し付け、ぎゅっと瞑った目からはとめどなく水滴が流れ落ちる。
永劫かと思われるほど、その間は長く感じた。ふと、何かに導かれるようにして顔を上げる私と、上から涙と言葉が零れ落ちてくるのはほとんど同時。
初めて目にしたその表情は、記憶にある頼もしいそれではなく、一人の小さな女の子のものだった。
「わたし……」
初めて知った姉さま。私と同じぐちゃぐちゃの声は、しかしはっきりと聞こえた。
「白音を、失いたく、ないっ……」
もう片方の手が、震えながら私に伸びる。
「殺したくなんて、ない……ずっと、家族でいたい……!」
弾き飛ばしたはずの涙が、また溢れた。伸びる手がぴたりと止まり、酷くつっかかりながら私に聞く。
「何回も、わたし……しろねに、ひどいこと、し、したのに……ひどいこと、言ったのに……それでも、い、いいの……?わたしが、家族で……しろねの、お、おねえちゃんで本当に……」
「ねえさまじゃなきゃ、だめなんです……!」
当たり前じゃないか。
すごくうれしかった。嬉しいのに、涙が出て止まらなかった。
だから、もう言葉はない。私も姉さまも、同時に互いの身体を抱きしめた。あらん限りの力で強く、強く。もう離れ離れにならないように、痛いほどきつく。
耳元で、姉さまがしゃくりあげる音がした。
「……ごめんね……」
抱きしめる力が強くなる。
「あの時、置いてって……駄目なおねえちゃんで、ごめんねぇ……」
私も、より強く抱きしめた。
「わたしも、気付けなくて、駄目ないもうとで……ごめんなさい……っ」
ただ二人、ようやく再開できた姉妹を抱きしめながら、泣いた。
温もりの中で、ただずっと泣いていた。
愛が故に。
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