主なきノラネコたちの家   作:もちごめさん

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三話

 クロカが邪気なるものの影響で酷く感情的になったあの事件以来、ボクは湧き出る不安感を抑えることが難しくなっていた。たったの一日でまるで別人のように様変わりしたクロカの様子が、ボクには異様なものに見えて、そして少し悲しかったのだ。

 

 確かに、クロカは今までよりずっと明るくなった。取引でしか交わすことのなかった会話も増え、張り詰めていた表情も随分柔らかくなったように思える。警戒心むき出しで一歩一歩距離を測っていた頃のような、出会った当初の関係と比べれば状況は格段によくなった。

 

 それがボクの手によるものならば、こんな憂鬱な気分にはならなかっただろう。

 

 結局あの時、ボクは何もしていないのだ。クロカの様子がおかしくなり始めた時も、彼女が激怒した時も、した後も。

 

 クロカが言うには、邪気に呑まれると感情の制御ができなくなり、心の中の『負』が膨れ上がってしまうらしい。

 

 ならばその怒りの元はなんなのか。

 

 わからない。だからボクはあの時、時間を空ければ落ち着くだろうと言い訳をして、その場を逃げ出すことしかできなかった。ご機嫌伺いにしても、お腹が満ちればなんて見当違いのことしか思いつくことができなかった。

 

 そうしたらいつの間にかクロカが笑っていた。

 ボクの知らないところで、クロカの陰りは晴れていた。

 

 心の重たさは、それだ。

 

 知った時、ボクは愕然とした。何日も一緒に居るというのに、ボクはクロカのことを何一つ理解できていない。いくらクロカに知識を請うても、ボクは無知なままだった。

 

 ボクの能力が不足しているせいなのだ。

 

 クロカと同じ、思考できる脳味噌を持っているのなら、ボクにだって彼女の気持ちを伺い知ることはできるはず。なのに吐き出された負の言葉の心情も、それを収めることができた訳もわからない。

 わかるはずなのにわからないということはつまり、ボクの脳味噌は自分で思っているほど優秀なものではないということだ。

 基礎的な性能が劣っているのか、はたまた別の要因か。考えたところで頭が良くなるわけでもなく、詮のないことではあるが、その事実は負い目と自分へのふがいなさとなり、ボクの精神にグサグサと突き刺さっていた。

 

 おかげでこのところは、クロカの顔を正面にすることすら難しい。彼女の眼を見ることが、なんだか無性に怖いのだ。

 

 そしてその精神状態は、食料調達の合間に行う『念』の修行にも支障をきたしていた。

 

 ボクの『発』、【人形修理者(ドクターブライス)】はクロカの言う通り、応急処置程度の治療しかできないものだった。未だ寝床の上での生活を余儀なくされているクロカは、今でこそ立ち上がるくらいのことならできるようになったものの、それすら単に彼女の身体そのものの自己治癒力による賜物。ボクの手は、直接的には関係がない。

 

 しかし、瀕死の状態から自己治癒力が機能するようになるまで回復させたのは確かにボクの能力だ。どうであれ治療ができたのであれば、その先、クロカの身体を完治させることだって不可能ではないだろう。

 ならば簡単な話、【人形修理者(ドクターブライス)】をそういうふうに進化させればいいのである。

 

 結論を得たボクは、今日に至るまでずっと修練を積んできた。

 『発』の進歩のためには恐らく『発』自体の経験が必要だろうと、半殺しの動物相手に何度も能力を発動させたり、あるいは『気』の量と質が足りないせいかと、精神統一で多くの『気』を練ってみたり。

 

 だが不安感に集中力を削がれたボクは、そのうちとうとう、【人形修理者(ドクターブライス)】の精度向上どころか発動することすらできなくなるという事態に陥ってしまった。

 

 クロカ曰く、生命エネルギーというある種の神秘を操る『念』とは、肉体もそうだがそれ以上に精神力が非常に重要であり、心の強さが『念』の強さに直結すると言っても過言ではないくらいに、自身の心の揺らぎによって精度が大きく上下してしまう能力なのだという。そう思えば確かに今の自分は落ち着いているとは言い難く、『念』が不安定になったこともありえない話ではないのだろう。

 とはいえ『念』自体が使えなくなったというわけではなく、『纏』や『絶』はもちろん、普段より多くの『気』を纏ってみたり一箇所に集めたり、はたまたその『気』を体中に移動させてみたりという、手探りの中で編み出した応用技はほとんど影響がない。簡単なものしか使えないが魔力にも問題はなく、しかしどうにも【人形修理者(ドクターブライス)】、難度の高い複合応用技たる『発』だけが思い通りにならないのだ。

 

 おかげでここしばらくは『発』の修練もままならず、練習用の動物たちは失血死するばかり。膨らむお腹とは裏腹に、もしかしてこの能力ボクと相性悪いんじゃ、という不吉な予感を感じたボクは、故に仕方なく『発』の修行を諦め、『気』自体の模索に精を出していたのだった。

 

 そうして手慰みのように『気』をこねくり回しているうち、また一つ思いついたのが『纏』の応用だ。

 

 『纏』。皮膚の上から数センチの厚さで『気』を纏う、『念』の基本技の一つ。主な恩恵は肉体強化なのだが、驚くべきことにこの纏った『気』、まるでその分だけ皮膚が広がったかのように感触があるのだ。

 

 本物の皮膚のように触れるわけではないが、『気』の層に触れれば目を閉じていても触れられたとわかるし、葉が落ちてくれば皮膚に触れるまでもなくその存在を感知できる。

 それを見つけ、だから思い付いた。この『気』をもっと増幅させ、引き延ばせば、数センチなんてつつましやかな範囲でなく、もっと離れたのものでも感じ取って把握することができるのではないか、と。

 

 そしてその思い付きは、見事に成功したのだった。

 

「おお!すごいよこれ!全部が見える!」

 

 思わず盛大な独り言を叫んでしまうくらいに、その体験は素晴らしかった。

 

 試しにと、『気』の手を伸ばしたのはほんの百メートルまでだったが、それだけでもあまりの情報量の多さに頭がパンクしそうだった。なにせ文字通り、その範囲のすべてが見えているのだ。木も草も、ボクの『気』に気付いて大慌てで逃げていく動物たちも、極めつけには小さな羽虫や石ころだって。どこにどれがあってどう動いているのかまで、鮮明とした光景がボクの脳内に見えるのだ。

 

 目で見るのとは違う神秘的な光景が、一時とはいえ不安を薄めてくれて、ボクは歓喜に口を閉じることも忘れていた。

 

 しかし、そうとなれば俄然気になった。

 

「これ、どこまで伸ばせるのかにゃあ」

 

 もしかしたら、クロカの元まで届くかもしれない。

 

 距離にして凡そ一キロメートルほどだろうか。試した感覚からすると、出力さえあればそれくらいの距離は届いてしまいそうな予感がした。

 

 ボクは自分の口元がにんまりと弧を描くのを感じつつ、『気』を練り始めた。

 

 体内を流れる『気』を一つに束ね均一に練り合わし、それを一気に体表へ放出する。通常の『纏』とは比べ物にならないほどの『気』を身に纏うと、ボクはそれを思い切り前方へ伸ばした。

 

 それはただ呼吸するかの如く、簡単に成功した。

 

 脳内になだれ込んでくる膨大なまでの情報が、伸びた『気』の道筋を、あらゆる角度からの立体映像として頭の中で組み上げる。藪を越え川を越え、五百メートル級の大樹の横を通り抜け、ボクは瞬く間に一キロメートル近くの道のりを網羅した。

 そして『気』の先端に見覚えのある風景を見たボクは、そこでぴたりと停止する。寝床の近くに生えていた木だった。ならばもうほんの数十メートルも伸ばせばクロカの姿が見えるだろうが、今の彼女に邪気に塗れているらしいボクの『気』は向けられない。

 しかし、当初の目標であった一キロメートルに達しても、まだまだボクの『気』には余裕が残っていた。限界の中ほどにも達していないのではないかと思うほど今までの工程に疲労は無く、ならばこれで終わっては面白くないと、ボクは再び『気』の操作に注力した。

 

 多少の蛇行や歪みはあれど、ここに至るまでの道のりは基本的に直線だ。ならば意図的に曲がることはできるのか。形を変えることはできるのか。好奇心に抗うことは難しかった。

 未知が解明されるというのはすこぶる気持ちがいい。しかしその実験をそのままクロカの周囲で行ったのは単なる気まぐれと自信が故で、彼女の周りを丸く囲うように操った『気』にそれが触れたのは全くの偶然であった。

 

 感知したのは生き物の手だった。ボクのものとは違う、クロカのそれに似た五本指の柔らかそうな手。『気』の端にふと現れたそれが、何かを探るような手つきでゆらゆら動いている。そしてその手に感じた『気』の気配は、彼女と明らかに異なるものだ。

 

 侵入者。気づいたボクは、瞬時にそれの全身へ『気』を伸ばす。

 

 気づいたのか、慌てた様子ですぐさま手をどけるもとうに遅く、掴んだ正体に、ボクはボクの始まりを思い出した。

 

 二本の脚と二本の腕。そして皮膜の黒い羽を持つあの生物。

 

 『女王』を、『王』を殺した悪魔共。

 

 途端に頭の中が憎悪で染まった。当然だ。あんな奴らを許してなるものか。

 しかし次の瞬間、『気』にまた新たな手が触れたことによって、ボクの頭はあっという間に冷え切った。

 条件反射的にその手の本体へも『気』を伸ばし、広がった感知範囲にまた新たな気配を感じるころになって、ようやくボクはその集団に、クロカの告白を思い出した。

 

 クロカは悪魔共に追われている。

 

 その周囲一帯に伸ばした『気』に計七匹もの悪魔を捉え、ボクは気付いた。

 

 なぜこいつらはここに来たのか。なぜ大人数なのか。そしてこいつらが進もうとした先に誰がいるのか。

 

「クロカが――ッ!!」

 

 その瞬間、ボクは地を蹴った。溢れる負の感情に途切れそうになる『気』を必死につなぎ止め、木々の間を走り抜ける。

 

 悪魔共とクロカの間にはまだそれなりの距離があるが、ボクとの距離はそれの何十倍とある。樹海に阻まれる一キロメートルの道のりを、両者が鉢会う前に完走できるかは、もはや運の領域だった。

 そしてクロカは魔力を使う奴らに対して今到底戦える状態にない。それどころか逃げる脚すらなく、攻撃されればそれを防ぐ方法だってないだろう。奴らに見つかればクロカは――

 

 最悪の事態が脳裏をよぎり、冷える背に煽られた足に縺れてしまいそうなほど力がこもる。

 しかしどれだけ速く走ってもやはり距離は遠く、気を取り戻したらしい悪魔の群れがじわりじわりとクロカの居る寝床へと近づいていく光景が見えるだけに、ボクの焦燥感は増していった。

 

 顔や腕にビシバシ当たる枝木もお構いなしにひた走り、そしてとうとう、感覚に触れる悪魔の群れが歩みを止めてしまう。その正面にはクロカが沈痛な表情で佇んでいて、ほぼ同時に、ボクは向けていた『気』を解いた。

 その光景を眼で捉えたからだ。

 

 解いた分の『気』を纏い、ボクは勢いのまま突っ込んだ。気付いた悪魔の一匹が声を上げるが関係ない。『念』もを合わせた渾身の一撃を、振り下ろした。

 

 初めて殺したあの時のように、柔らかな悪魔の肉が容易く引き裂かれる、ぬるりとした感触。それを己がツメの切っ先に感じるものだと、その瞬間までボクは確信していた。

 だが赤い血肉が舞う前、視界の外から滑るようにして白銀の盾が割り込んでくる。標的の悪魔を覆い隠してしまったそれは、けたたましい金属音と共に、ボクの攻撃を受け流した。

 

 一瞬身体が硬直してしまうくらいの衝撃が脳内を貫く。初めて攻撃を防がれた動揺は打ち消しがたく、内にあったおごりは、散る火花を見つけた途端に吹き飛んだ。

 

(こいつ、前に殺した奴らのはるか格上……ッ!!)

 

 他六匹も同じような力量であるならば、できる限り早く駆除せねばならない。もしこいつらの注意がクロカに行って同時に襲い掛かれば、そのすべてを防ぐことができるとは、さすがに確信ができなかった。

 

 故にボクは、まず目の前の盾を殺すことを考える。もう一方の手に瞬時に『気』を集め、盾を弾くように薙ぎ払った。

 

 手に伝わる尋常でなく硬質な感触。しかし力任せに押し切り、たまらず盾がめくりあがる。向こう側に見えるは驚愕した悪魔の顔。

 

 露になったそいつの頭をなます切りにしてやろうと再びツメを引き絞り――しかし突き出すことなく、別の場所から飛んできた拳を受け止めた。

 

 砲弾のように飛び込んできた新たな悪魔の顔が、『盾』と同じように驚愕し、次いで痛みに歪む。

 

 今度は確かに肉を貫く感触があり、視界の端に赤色の血が舞った。

 対してボクの手にはダメージが無い。恐らく無視して身体で受けていても同じ結果だっただろうが、しかしどちらにせよ『盾』のなます切りには失敗していただろう。致命傷以外に意味は無いのだ。

 

 それに、もっと殺しやすそうな敵が自らやってきたのだからこだわる意味も無い。苦痛に歪むそいつの顔面を吹き飛ばすため、ボクは拳に『気』を集める。

 

 だが直後、一撃を放つことなく、捕まえたそれも手放したボクは、警鐘を鳴らす本能に従ってすぐさまその場を飛び退いた。一拍遅れてちょうどボクがいた場所に火の玉が着弾し、爆音と共に破裂する。想定以上の威力と爆風に身体を煽られ少々バランスを崩しながらも、なんとかまともに着地した。

 揺れる身体を四つ足になって踏み留め、戦闘態勢を取り戻す。そうしている間に敵の恐慌も落ち着いてしまったらしく、顔を上げると、悪魔共が十メートルほどの距離を保って三方を囲んでいた。

 

 正面には先ほど手を握りつぶした格闘の奴。顔をしかめてはいるが片手は無事で無力化できたとは言い難い。右手では最初に吹き飛ばした『盾』が片手の剣を油断なく構え、その後ろには爆発する火の玉を放った悪魔が三匹。特別な武装は見当たらず、ならあれは魔力だったのだろう。そして残る一方。こちらには両手剣を構えた悪魔と、何故だかやけに注意を惹く緑のグリーブを装備した悪魔がいた。

 

 そして肝心なのは、その二匹の後方にクロカが居ることだった。

 

 クロカは無事だった。敵もさすがにボクがクロカを助けに来たとは考え付かなかったらしく、その状態から脅威にあらずと判断された彼女に悪魔共の注意は向いていない。『両手剣』と『グリーブ』に至っては背を向けてしまっているくらいだ。

 

 だがしかし、奴らのその態度はクロカをいつでも殺すことができるという余裕の表れでもあり、奴らが気まぐれを起こすか、あるいはボクが数匹に掛かりきりになっているうちに、クロカが凶刃に倒れかねないということでもあった。

 

 故にボクは動けない。三方のどれかに襲い掛かれば残りを警戒することができなくなり、下手にクロカを救うそぶりを見せれば彼女が人質たり得ることを奴らに知られてしまう。

 

(どうする)

 

 ボクは頭の中で考える。

 

 全体に注意を払いつつ、クロカのことを意識させずに敵を殺すには――

 

 やはり一匹ずつ確実に殺していくしかない。それもできる限り素早くだ。数さえ減れば加速度的に難易度は下がり、クロカを気に掛ける余裕も増える。

 

(だから、ダメージ覚悟でまず一人を確実に()る!)

 

 火の玉を放った悪魔の一匹が何か叫ぶと同時に、片手を潰した『格闘』が一気に距離を詰めてきた。ほんの少し遅れて『グリーブ』が向かってくる。

 

 先陣を切って残った拳を振り上げた『格闘』だが、ボクはこれを無視した。代わりに目を注ぐのは、蹴りを繰り出そうとする『グリーブ』。『格闘』の力量についてはすでに把握している。覚悟さえできていればダメージどころか身体を揺らされることすらないために、それに防御をする必要はない。しかし『グリーブ』は未知数だ。故に『格闘』の攻撃は身体で受け止め、『グリーブ』はしっかりと防御。両者を受け止めて、今度こそ確実に『格闘(一番殺しやすいやつ)』を殺す。

 

 予想通り全く意味をなさなかった『格闘』の拳が側頭部を小突き、僅かに遅れて『グリーブ』の脚が飛んできた。想定通りの軌道を描くその脚を、難なく『気』でガードする。そうして二匹の攻撃を受け止めたボクは、無事な腕も無意味に費やし無防備と化した『格闘』の頭をミンチするため、残りの『気』を集めた手を振りぬこうとし――

 

 動かない。

 

 いや、動けないのだ。『格闘』にツメを向けたまま、ボクの肉体は意志に反してそこで固まった。まるでボクの時間だけが止まってしまったかのようにその場に取り残され、意思一つで行えるはずの『気』の操作すら行えない。

 その間に『格闘』と『グリーブ』が背の羽でその場を飛び去ると、ボクはようやく自由を取り戻した。が、しかし遅かった。

 

 後方の三匹の悪魔共が放った火の玉、しかも前に放ったものの倍近くはあろうかというサイズの火の玉が、視界の端からもう既に避けれないほどの近さまで迫っていたのだ。

 

 『格闘』を駆除してからでも簡単に避けられると高を括って無視したのは完全に間違いだった。

 魔力か何かが込められているらしきあのグリーブ。『気』のように蹴りの威力が増しているか、あるいは火でも発するのか想像していたのだが、まさかたった一秒とはいえ『気』の防御を無視してボクの動きを止めるとは全くの予想外。そしてそのたった一秒でも今のボクには致命的だった。

 

 回避は間に合わず、ただでさえ高い威力が倍になって襲い掛かる。素の状態で受ければ大ダメージを負っただろうその火弾が、その時爆発した。

 

 しかしその直前、辛うじて防御が間に合った。

 『念』の修行、もとい模索の成果。攻撃のために両手へ集めた『気』を、瞬時に防御へ移し替えることに成功したのだ。

 

 だがもちろんノーダメージとはいかず、炎に焼かれたボクは爆風に吹き飛ばされた。ちょうどクロカとは正反対の方向で距離がますます離れるがしかし、薄目を開けてみれば大きな勝算がその光景に見えた。

 

 ボクを仕留めたと思い込んだのだろう。火の玉を放った悪魔共と空に逃れた『グリーブ』が目に見えて油断していた。『格闘』は手を潰された恨みからか警戒心を保っているが、爆風を避けるため勢いよく空中へ飛んだそいつらに急な方向転換はできない。

 確証はないが、しかし何より、確実にボクの動きを止めてしまう『グリーブ』は危険すぎる。何を賭してでも真っ先に殺すべきそいつが晒した隙を無視する選択肢など、ボクにはありはしなかった。

 

 足がようやく地面にたどり着いた瞬間、ボクは放物線を描く間に腿へ蓄えた力を一気に開放した。

 

 地面が割れて、ばね仕掛けのように飛んだボクの身体はまっすぐに、クロカが居る大樹の対角線上を浮遊する『グリーブ』へと向かう。爆煙を突き破り現れたボクに、奴は気付くことすらない。もっとも、気付いたところで構えまで解いた奴にはどうすることもできなかっただろう。爆煙に遮られた奴の視界に、ボクの姿は直前までなかったのだから。

 

 だが『グリーブ』は気付かなくても、警戒心を剥き出しにした『盾』はボクの動きに気が付いた。

 

 十数秒前の焼き直しのように白銀が目の前に割り込んで、ボクの攻撃を受け止めた。しかしあの時と違ってここは空中。不安定な体勢で『グリーブ』を庇った『盾』は、わずかに勢いを削いだだけで簡単に吹き飛んだ。背後の『グリーブ』にぶち当たり、縺れあって落ちていく。おかげで『グリーブ』の体勢も大いに崩れ、絶好の隙を晒していた。

 

(やっと、一匹――ッ!!)

 

 しかし、そんな安堵。この確信が、ボクの意識を曇らせた。

 幾度となく失敗した策がようやく成功して、僅かに生まれた油断が心に滑り込んだことに、この時ボクは気付かなかったのだ。

 

 『グリーブ』を押しのけて現れた『両手剣』に、反応が遅れた。

 

「がはッ……!!」

 

 その剣を背に隠すように振りかぶった『両手剣』が、上向きの薙ぎ払いを繰り出した。ほとんど『気』を纏っていない胴体に食い込み、衝撃で肺の中から空気が飛び出る。

 

 身体がくの字に折れ曲がり、ボクのツメに込められた『気』は誰にも命中することなく霧散した。が、肉体が飛ぶ勢い自体は『両手剣』にも止められず、刃の上を滑るように流れたボクはそのまま悪魔二匹の頭の上を通り抜け大樹にぶつかり、そしてクロカの目の前に墜落した。

 

「ピトー!!」

 

 背後にクロカの悲痛な声が聞こえる。一瞬の意識の暗転から目覚めたボクは、なんで名前を呼んじゃうかな、と呆れながら、腹部の傷を押さえつつ立ち上がった。

 

 視界内の悪魔共は全員そろって、どういうことだと言いたげな顔をしている。しかしそうかからずに、ボクとクロカが仲間であるという事実に気付くだろう。そうなる前により素早く、奴らを駆除する必要が出てきたわけだ。進歩は無いのに難易度だけがどんどん上がっていく。

 

 勝算は、冗談ですら良いとは言えないほどの状態だ。奇襲は既に二度失敗し、奴らの中の油断がほぼ消えかけであることに疑う余地はなく、勝手に隙を作ってくれるような可能性は皆無。背後のクロカのことを考えれば、もはや自分を囮にする手も使えない。

 加えて、切られた腹からは青い液体が流れている。生まれて初めての流血は案外辛く、命に関わるほどではないと思われるが、それでも脱力感に襲われてこの上なく踏ん張り辛い。この状況下でクロカを連れて奴らから逃げ切ることは、殲滅する以上に難しいだろう。

 

 だが不幸中の幸いか、吹っ飛ばされて三方の囲いから抜け出した今、前に出ても奴らを死角に入れてしまうことは無い。自ら攻め入って一対一の状況を作ることさえできれば、簡単に奴らを駆除できるはずなのだ。

 

 そう考え、ボクは悪魔共に向かっていった。

 

 が、その一対一を作ることが絶望的に難しい。

 

 速攻を狙って放ったツメは速度が出ず『盾』に防がれ、隙の穴埋めに現れた『両手剣』は力ずくで排除することが叶わない。そうこうしているうちに『グリーブ』の蹴りが飛んでくればもう回避に専念するしかなく、そいつらから少しでも距離を取れば、待ってましたと言わんばかりにあの火弾が飛んできてボクの肌を焼いてしまう。

 

 いつまで経っても状況が好転しない。力を入れれば血を噴き出す腹の傷も合わさって攻め手が続かず、代わりに体力だけが減り続ける。身体の動きは鈍く、踏ん張れず、初めて味わう鮮烈な痛みに心が乱れ、『気』の制御もおぼつかない始末だった。

 

 手詰まりだ。

 

 数秒の攻防に顔をしかめ、ボクは悟ってしまった。万全の状態ならともかく、背後のクロカに加え腹の傷という二つ目のハンデを背負った状態で、奴ら七匹の連携を崩すことは不可能だった。

 前衛の悪魔三匹は常に互いをフォローできる間合いを保ち、火の玉の悪魔共はその後ろで虎視眈々と火弾を放つ隙を伺っている。ようやく自らが役立たずであると理解したらしい『格闘』はその中間。万が一にも後ろの三匹に攻撃が行かないようにするための最後の砦。

 

 せめて腹部さえ治療できれば勝機も生まれるかもしれないが、しかし考えるまでもなく、ボクが【人形修理者(ドクターブライス)】を発動することはなかった。そもそも発動できるかも怪しく、よしんばできたとしても治療の間悪魔共が待っていてくれるわけもない。あれは戦闘時に使う『発』ではないのだ。

 

 ……いや待て、戦闘時に使う『発』?

 

 ふと思いつく。

 

(そうだ!それがあった!)

 

 クロカ曰く、様々あるらしい『念』の技の中でも『発』は特に強力だ。本人の資質によるが、まさに十人十色の効果を発揮する、『念』の基本にして集大成。無限に作れるわけではなく、あらかじめ個人ごとに作るための容量は決まっているが、それでも大抵の使い手が二、三個の能力を開発し、使いこなすという。

 

 なら、凡人にもそのくらいの余裕があるのならば、ボクにだって別の能力を、奴らを殺すための能力を得ることができるはずだ。

 

 一筋の光明を見出すが、しかし今は戦闘中。能力について考える暇などあるわけもなく、矢継ぎ早に繰り出される悪魔共の攻撃を捌くうちに、その思考も戦闘の反射の中に溶け、かき混ぜられていった。

 

 そしてやはり、同じような展開が続く。奴らの連携の前に、あと一歩が届かない。

 

 ここでもっと早く動ければ。ここでもっと力が出せれば。ここでもっとうまく『気』を扱えれば。

 そんなことばかりが繰り返される。

 

 後ろで待機する四匹も含めて悪魔七匹に注意を向けながらの戦いで、呑気に思考する余裕などは無い。しかし歯痒さの積み重ねは、『発』という方向性を頭に描いたことによって、徐々に形を成していったのだ。

 

 そしてまた、ボクは何度目とも知れぬ歯痒さを味わう直前にいた。

 

 振り下ろされたボクのツメ。それを防ぐ『両手剣』。そして攻撃を仕掛ける『グリーブ』。

 

 ボクの両手も両足も、奴を迎撃できる体勢にない。しかし指の一本でも『グリーブ』に向けることができたなら、それだけで奴を殺せるのだ。

 

 もし今この時、慣性を無視した動作ができたなら。

 

 もし今この時、全身の筋肉が最も効率よく働き、全集中力を要したあの時以上の速度で、『気』を攻防に移し替えることができたなら。

 

 もし――

 

 ボクの身体を、限界を超えて動かしてくれる能力があれば――

 

 身の内から『気』が吸い取られる感覚があった。

 

黒子舞想(テレプシコーラ)

 

 体勢的に目で見ることは叶わないが、確かに頭上に何かが具現化された。過程で言えば【人形修理者(ドクターブライス)】の発動と似ているが、しかしすべてが決定的に違う。

 

 【人形修理者(ドクターブライス)】であれば発動から稼働までに三秒はかかるところをこの能力はコンマ一秒で完遂し、その僅かな間でボクの手や足、身体のあちこちに糸を繋いだ。

 

 当然その糸は【人形修理者(ドクターブライス)】のように身体の傷を縫い合わせるものではない。どちらかというと操り人形のそれのようで、ボクは直感的にその役割を理解していた。

 

 剣の腹でボクの右手を止めた『両手剣』と、その隙を突こうとする『グリーブ』を意識する。

 

 二匹を駆除するための道筋は瞬時にいくつも思いついた。しかしそのどれもが自身の実力的にも体勢的にも通ることができない、机上の空論ですらない道ばかりだ。

 

 だがボクはあえてそれを想像する。奴らを殺すための、非現実的な肉体操作を。

 

 頭の中でイメージすれば、少しのタイムラグも無く体は動いた。

 

 威力も勢いも殺されたはずの右腕が、繋がれた糸に導かれて最高速で『グリーブ』に飛ぶ。同時に『両手剣』の剣と身体の隙間から蹴りを叩き込み、その頭を足首で引っ掛けるようにしてこちら側に引き寄せた。

 そして地面と挟んで押しつぶす。足元に『両手剣』の潰れた脳味噌がぶちまけられるのと、『グリーブ』の頭が消え去って首から血が噴き出すのは、ほとんど同時だった。

 

 慣性や身体構造のことごとくを無視した一連の動作が二匹の悪魔を駆除するまで、かかった時間はコンマ三秒。能力の発動を含めても、一秒の半分さえ経過しない。悪魔共の反応速度を優に超えた動きは、死んだ二匹は疎か、傍から見ていた『盾』にさえ何が起こったのかわからなかったのだろう。ぽかんと口を開けて目の中に飛び散る赤色を映していた『盾』は、しかしすぐに我を取り戻した。

 

 こいつがやったのかとボクの顔を見て、血に濡れたその手足に確信し、顔を憤怒に染め上げる。

 

 『盾』の反応速度は、この悪魔共の中で最も優秀だ。だからこそ出合い頭の不意打ちや、爆煙を使っての不意打ちにも対処することができ、今回も三メートルほどの距離から飛び掛かったボクに対して、辛うじて盾を掲げることができたのだ。

 

 今のボクが得たものが速さと精度だけであったなら、まあ一撃は防げただろう。

 

 ドッ

 

 と重い音が盾と、それから『盾』の身体から鳴った。

 

 能力によって極限まで多く素早く圧縮された『気』を載せて、ボクの腕がすべての防具を貫通し、心臓を貫いた。

 延々攻撃を防がれた恨みも相俟って『気』を込め過ぎたのか、次の瞬間貫いた周辺が余波によって爆散し、取り残された頭が宙を舞う。

 

 怒りから恐怖に変わる途中で止まってしまったそいつの表情を、ボクは地に落ちるまでぼんやりと眺めていた。

 

「……死んだ?」

 

 崩れ落ちる『盾』の下半身に向かって問いかける。

 

 今までの苦戦が嘘であったかのようにあっさりとした終わり。自分がやったことながら、夢でも見ているんじゃないかと思うほど現実味が無い。拍子抜けのあまりに、一瞬とはいえ『格闘』と火の玉の悪魔三匹の存在も頭から消えてしまうほどだった。

 

 ぺしゃりと、『盾』だった肉塊も血の池に加わって、いよいよボクの眼前に動くものは居なくなった。

 

 ボクはぐっと背を反って、【黒子舞想(テレプシコーラ)】に目を向けた。

 全体的に黒色で地味な細身の身体。わかってはいたが【人形修理者(ドクターブライス)】とは似ても似つかない姿をしたその人形は、どことなく不満げであるような気がした。

 

 そう見えるということは、つまりボクも不満なのだ。新たに得た力のほんの一部を示しただけで、せっかくの玩具(・・)が壊れてしまったから。

 

 得た力のすべてを見たい。その思いは刻一刻と増していった。

 

 そんな思いを煽るかのように、明らかな恐怖が滲んだ悪魔の声がボクの注意を引いた。

 

 今までの毅然とした雰囲気はどこへやら。残った玩具共は、そのどれもがボクを恐れの目で凝視していた。目も口も体も、全身で絶望を叫ぶそいつらに、ボクの中の何かが蠢く。

 

 口角が上がっていくのを自覚しながら、ボクは一歩を踏み出した。

 

 (知りたい)

 

 今のボクがどれだけ強いのか。

 

 ボクの意思を機敏に感じ取った【黒子舞想(テレプシコーラ)】は、歓喜に震えてボクの身体を動かした。

 

 再び赤い血を目にする頃には、もうボクの中に奴らに対する怒りや恨みなんてものは欠片もなくなっていた。

 

 

 

 

 

 ぎゅるるる

 

 盛大にお腹が鳴る音に、ボクはようやく我に返った。

 

 振り返れば、血の気が引いたような顔をしていたクロカに一気に血色が戻っていくその瞬間。半分寝そべるようにしてミンチの死体を見ていた彼女は、ボクの視線に気づくとさらに顔を赤くした。

 

「ち、違うわよ!?これはその……朝から何も食べてないからであって、生理現象であって!別にあんたの、その……それを見て、お腹が空いてきたとかそういうのじゃないから!ほんとに!」

 

 言い募るクロカの必死さに、ボクの眼が散々遊んだ玩具の残骸に落とされる。バラバラの肉片とその臭いを感じていると――なるほど、思い出したかのように胃が空腹を訴えかける。

 空が赤みを増しつつあることも考えて、ハイになっていたボクならいざ知らず、傍からそれを見つめるクロカには結構な拷問であっただろう。

 

「あー、そうだね。確かにもうご飯の時間だにゃ。お腹の虫が鳴くのも仕方ない」

 

 【黒子舞想(テレプシコーラ)】を解除してにこりと微笑むボクに、クロカの顔の赤みが最高潮に達する。期待通りの反応に声を上げて笑いたくなるのを堪え、ボクはまだ原形をとどめている最初に壊した玩具の方に向かった。

 

「ねえ、そういえばあんた、お腹の傷は平気なの?あんたの『発』、えっと……【人形修理者(ドクターブライス)】って言うんだっけ?それで治療しなくていいの?」

 

 背を向けると、多少は落ち着いた様子のクロカが深呼吸の後にそう言った。

 

 そういえばと、ボクは腹の傷を覗き見る。そこには確かに一線の傷が刻まれていたが、しかしいつの間にか血も止まり、今の今まで負傷したことすら忘れ去っていた程度には痛みもなかった。

 

 問題ないみたいだ。そう告げようとして顔を上げると、その直前、答えを待たずにクロカが言った。

 

「まあ、あれだけ元気に暴れまわれるんだから、そりゃ平気よね。時間も忘れて楽しそうにしている割には『気』もほとんど乱れてなかったし……さっきの新しい『発』のおかげかしら。それにしても、関心を通り越して呆れるばかりよ、あんたの才能。あんな状況下で能力を開発するなんて、ほんとに……」

 

 尻すぼみに消える声を聴きながら、ボクは『グリーブ』の死体に手をかけた。どこぞに飛んで行ってしまったのか、『グリーブ』の代名詞たるグリーブがどこにも見当たらないことに首を傾げつつ、その腕を外そうと試みる。

 

「……ごめんね、ピトー」

 

 ボクはクロカの方を振り返った。

 

「なにが?」

 

「何がって……あんたを巻きこんじゃったことよ。私がお尋ね者だから、ピトーがあいつらと戦って怪我することになっちゃって……」

 

「戦いならご飯のために日常茶飯事にゃ。悪魔とも初めて戦ったわけじゃないし……怪我したのは初めてだけど、結局殺せたんだからいいじゃない?」

 

「……許して、くれるの?」

 

「許すも何も――」

 

 クロカは何を気にしているの?

 

 伏し目の彼女にそう言いかけて、ボクは慌てて口をつぐんだ。ボクは空気が読めるいい猫なのだ。

 

 雑念を追い出して、ボクは再び肉に向き直る。脚はやたらと太いが筋肉ばかりで筋張っていて硬そうだが、腕はいい塩梅で脂肪と筋肉が乗っている。クロカにとっても食べづらくはないだろう。力任せに引っ張ると水っぽい破砕音がして、気持ちいいくらいにあっさりと腕が捥げた。

 

 悪魔の一番おいしい部位は脳味噌だが、しかし頭はどこかに飛んで行ってしまった。他の死体は軒並みぐちゃぐちゃで、だから見つかるまではこれで我慢してもらおうと、いわゆる前菜を考えたのだが、どうやらクロカは不満なようだった。ボクが掲げ持つ腕肉を目にした途端表情が消え、次いで冷や汗を含んだ訝しげな視線が向けられた。

 

「ねえ、ピトー。私の勘違いだったらすっごくうれしいんだけど、まさかそれが今夜の私の夕食になる、なんてことは……ないわよね?」

 

「んー、腕が嫌いなら、じゃあ脚にする?硬いし、あんまりお勧めできないけど……ああ、なら腹肉はどう?後は内臓とかも柔らかくておいしいよねぇ。ちょっと面倒だけど……まあいいや。今切り分けるから――」

 

「そうじゃなくって!!」

 

 ほとんど絶叫だった。こういった豹変が若干のトラウマとなってしまったボクに、突然の激烈な反応が背を跳ねさせ、尻尾の毛を逆立たせる。恐る恐るクロカの方を振り返ると、彼女の顔はさっきが比較にならないほど血の気が引いて真っ青で、その手は吐き気を堪えるように口を押えていた。

 

「え?ほんとに?ほんとに私が食べるの?あれを?」

 

 ぼそぼそとくぐもった声で、せわしなく目を右往左往させるクロカ。呆然と見守るだけなんてことはできず、ボクはついつい口に出してしまった。

 

「脳味噌も、食べたかったら探してくるけど……」

 

「だからそうじゃないって!!」

 

 やっぱり駄目だった。ならばどこの部位がいいのだろう。あばら?背中?それとも『グリーブ』のような硬い肉質からして駄目なのか。

 

(まさかクロカがこんなにも悪魔肉にうるさかったなんて……)

 

 そんなことを考えるボクは、クロカと決定的にズレていた。

 

「だって、その、共食いよ?いくらそいつらが敵だったからって、そういうのって絶対禁忌だし、そうじゃなくても普通食べたいとは思わない……でしょ?」

 

 そのたった一言で、取り繕われた喜怒哀楽は反転した。

 

 せっかく忘れていた重苦しい感覚が封を破り、ボクの思考を飲み込んでゆく。たちまち身体が冷え切って、ボクは手の中のものを取り落とした。

 

(そうか……そうだよね。共食いになっちゃうんだよね。普通、共食いなんて、しないんだよね)

 

 クロカは猫又だが、奴らと同じ悪魔だ。しかし、悪魔を喰らうことになんの忌避感も抱かないボクは――

 

 ボクはたまらず眼をそらした。

 

「に、にゃはははは!だよね不味いよね共喰いは!冗談だよクロカ。ちょっとした冗談。待っててね、すぐに鳥か何か取ってくるから」

 

 言葉の中ほども言い終わらぬうちにクロカに背を向けて、ボクはその場を逃げ出した。背に突き刺さるクロカの視線が恐ろしく、それによって想起される事実がさらに恐ろしくて、ボクはただ無心で灌木の中をかき分け進んだ。

 

 無意識に視界の通らぬ場所を走り、そしてボクはついに足を縺れさせた。直後、運の悪いことに木の根に引っ掛かり、藪のクッションめがけてすっころぶ。

 驚いた動物たちが大慌てで逃げ去っていく気配を聞きながら、しかしボクはしばらくの間そのままでいた。

 

 やがてボクは枝葉の中に顔を突っ込んだまま、大きく深呼吸した。

 

「うん!さてと、早いとこ何か狩って帰ろう」

 

 頭に残すのは、クロカのために獲物を狩って帰るという一点のみ。そのほかすべてを奥に追いやって、ボクは藪の中から立ち上がった。

 

 そしてその視界に、目を引く赤色を見つけてしまった。

 

 鼻を働かせれば、芳ばしく香る血の匂い。つられて向かうとその一角は大きな力で押しつぶされたかのように草木が折れ、小規模なクレーターを地面に刻んでいて、

 その中心には赤黒い塊が一つ、放射線状に血を撒いて鎮座していた。

 

 調べるまでもなく、それは散々玩具にした玩具の破片。

 

「へぇ、こんなところまで飛んで行っちゃったの。すごいね、キミ」

 

 そう呟いて足先で小突いてやるが、もちろん返答などは無い。だがなんとなしににそれを見つめていると、ふと足先に何か硬質なものが当たった。よくよく見ると、肉塊の中に銀色の人工物のようなものが埋もれてしまっているようであり、興味をひかれたボクは手を突っ込んでそれを引っ張り出した。

 

 手のひらサイズの板切れのようなそれは、案外頑丈なようで壊れている様子もなく、二、三度振れば血もすぐに落ちた。

 

 見知らぬ材質のそれが何の変哲もない石板であるなんてことは当然あり得ず、ボクはすぐにそれの正体に思い当たった。

 

「にゃるほど。思うにこれが『すまほ』ってやつなのかな?」

 

 厳密には、魔力によって動くこれは悪魔たちが人間界のものを真似して作った別物なのだが、さすがにそれはあずかり知らぬことだった。

 

「うーんと、確かここを押して……おお!ホントに光った!」

 

 クロカから授かった知識で、その『悪魔製スマホ』の起動に成功する。画面に触れると絵が次々流れて変わり、眼を刺す色取り取りの閃光が辺りに溢れた。だがその内の一つ、画像を見つけた瞬間に、画面をなぞるボクの指はぴたりと固まった。

 

 正直なところ、ついさっき戦ったばかりの『格闘』や『盾』の顔さえ既におぼろげにしか思い出せないが、しかしそこに映し出された悪魔の顔だけはボクの脳に焼き付いていた。

 

 ボクが生まれた直後、一番最初に首を刈り取った悪魔の顔。

 

 『女王』を殺した張本人の顔を見間違えるなんてことはあり得ない。この世で最も憎い害獣の顔写真がそこに載っていた。

 

 だがいくら憎悪を込めて睨もうとも写真は写真。ボクの興味はすぐに逸れた。その下に延々続く模様の羅列、クロカ曰く悪魔文字という悪魔共独自の言語で書かれた文章に目が行って、ボクはすぐさまその解読に夢中になった。

 

 文字という概念からして知らなかったボクにとって、それは物珍しく、同時に理解が難しい代物だった。一からクロカに教えられ、文字の形と仕組みをすべて覚えるまで数日かかったほどで、苦労して習得したそれを試す機会を得られたことは容易にボクを熱中させてくれた。

 

 ただ、それが楽しかったのかと問われれば、多分そうではなかった。

 

 この時のボクにとって、それがつまらなくても他のことを忘れてしまえるくらい集中できるのならば、何でもよかったのだ。

 

 クロカと話をした時も、拒絶された時も、今回も、あるいは初めて出会ったときから既に、ボクはそれに気づくことが怖くて目を背け続けてきたのだ。

 

 その記述を見つけてしまった時、ボクはそう思った。

 

――また、行方不明である上記の下級悪魔が当日向かった森林地帯は、過去に人間大ほどの大きさに突然変異した『キメラアント』が発見された区域であり、それ以前に発覚した八人の行方不明者も含め、捕食されたものと考えられる。

 『キメラアント』は分類的には昆虫であるが、摂食交配という特殊な産卵形態をとり、捕食した生物の特徴を次世代に反映させることが確認されている。性格も、気に入った生物を種ごと喰い尽くすほど貪欲かつ狂暴であり、現在どのような外見、及び能力を保有しているかは全く不明であるため、探索隊は十分に留意して任務を遂行されたし――

 

 『キメラアント』。直感的に、ボクは自身の種族がそれなのだと確信した。

 

 妖怪でも、猫又でも、ましてや悪魔でもなく、『キメラアント』。

 

 クロカと似たこの耳も尻尾も、同じようでまるで別物。クロカと自分は全くの別種である。眼前に提示されたそれは、ボクの中から感情の一切合切を奪っていった。

 

 ボクは自身の腹部に目を向ける。

 

 クロカの血は赤く、ボクの血は青い。

 

 思えば簡単にわかってしまうほど、単純かつ決定的な違いだ。

 

 他にも肌の質感、関節の形状、指の数。明らかな証拠はいくらでもあった。にもかかわらず、『ボクとクロカは同じではない』という事実を、ボクは今の今まで本当の意味で理解したことがなかった。

 

 理解してしまえば、ボクは一人きりになってしまうから。

 

 『女王』は死に、『王』は生まれず、雑兵の『兵』も皆絶えて、生き残ったボクがただ一人見つけた仲間。それがまやかしだなどと言われれば、わかっていても違うと否定せざるを得ない。ボクは気づかないふりをし続ける。

 

 けれどもこれ以上、自分を騙し続けることはできなかった。

 

 ボクの脳味噌はもう修正が利かないところまで理解してしまったのだ。ボクは一人なのだと、ただ一人生き残ってしまった『キメラアント』であるのだと。

 

 ――いや、本当にそうだろうか。

 

 無駄に回るボクの脳味噌は、ふとその疑問にたどり着いた。

 

 顔を上げる。

 

 『王』が生まれることなく死んだあの時、『キメラアント(ボク)』も共に死んだのではなかっただろうか。

 

 『王』なき世界に『王直属護衛軍(ボク)』の価値などない。ボクはそう断じ、そしてそれは『キメラアント』にとって正しい事実であるはずなのだ。

 

 しかしどうだろう。ボクは未だのうのう生き永らえ、あまつさえただの餌であるはずの悪魔を、クロカを救っているではないか。

 

 彼女から知識と力を得るため?なるほど確かにもっともな理由だ。

 

 そんなものを価値のないゴミに与えたところで何の意味がある。

 

 合理性の欠片もない。クロカと出会ってからの出来事全て、『キメラアント(ボク)』の本能にないものばかりだ。

 

 『ネフェルピトー』という生物は、『キメラアント』の生態から著しく乖離している。

 

 ボクは既に『キメラアント』ではないかもしれない。『女王』が取り込んだであろう悪魔の血がボクの『キメラアント』を変えてしまったのか。しかしだからといって、ボクが妖怪や猫又や悪魔であるなんてことはあり得ない。性格も姿形も、クロカとは似ても似つかないことなど嫌というほど思い知っている。

 

 妖怪でも猫又でも悪魔でも、そして『キメラアント』でもない。ならば後に残るのは、悪魔を喰らう貪欲で狂暴なバケモノだけだ。

 

 悪魔の敵たるたった一匹のバケモノだけ。

 

「ボクは――」

 

 クロカの傍にいていいのだろうか。

 クロカを食い殺すかもしれないバケモノが、彼女の傍に――

 

 駄目だ。そんなバケモノをボクは信用できない。クロカが傷つく可能性を、ほんの少しでも残せない。

 

 去らねばならない。ボクという邪悪な害獣から、クロカを守るためにも。

 

「………」

 

 ボクはゆっくりと、クロカが居るであろう方向を振り向いた。

 

 ――ねえ、クロカ

 

「ボク、どうすればいい?」

 

 見慣れた真っ赤な空色が、その時のボクには気味が悪いものに見えた。

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