作者的にはじゃれてるだけだったのでタグは付けませんでした。
20/3/21 本文を修正しました。
「――待っててね、すぐに鳥か何か取ってくるから!」
早口で言うや否や、ピトーは逃げ去るように木々の暗闇に消えていった。その後姿を追った私の眼が、乱れた枝葉のその一点に縫い付けられる。
あっけにとられ、三秒も後に伸ばした手と掠れたような静止の言葉はきっと聞こえはしなかったのだろう。その時にはもう、辺りはいつも通りの静寂を取り戻していた。
その空気に薫る戦闘の破壊痕とピトーの『気』の残りカスが、雲に乗っているような浮遊感に呆けていた私の精神を現実に引き戻した。
身体から力が抜ける。背を預けた洞から少しずり落ち、頭は拍子に地面を向く。
鼻を突く悪魔だったものの臭いさえ気にならず、私の脳裏では延々と疑問符が浮かんでは消えていた。
否が応にも思い出すのは、現実から目を背けたあの時のことだった。邪気に呑まれ、ピトーを傷つけ、そして一人絶望したこと。
私は顔を上げた。鈍重な動作で左右を見渡して、その視界にピトーの姿が見えないことを理解すると、糸が切れたかのように再び頭を垂らす。
私はまた、ピトーに失望されてしまった。
ゆっくりとその事実をかみ砕いて飲み込めば、途端に脳内が氷のように冷え切った。不明瞭であった疑問符が形を以て、それは私の口からわずかに漏れた。
「――何を、間違えたの?」
答える者などいるはずがない。凍結してしまった頭は碌に動作せず、しかしだからこそ私は待った。口を開けて餌をねだるひな鳥のように、欲することしかできなかった。
何故、ピトーはここにいないのか。何故、ピトーは行ったのか。何故、ピトーはあんなにも嫌悪を孕んだ眼をしていたのか。何故、何故、何故……
返答はない。答えも出ない。心の奥底の自分が考えることを拒否して、ただひたすら『何故』だけが頭に並ぶ。
そうして着々と脳内は渋滞し、しばらくするとにじみ出るようにして別の感情が現れた。隙間に滑り込むようにして混ざりこんだそれが、私の手に触れた。
それは恐怖だった。
気が付けば、頭の中のもやがきれいさっぱり晴れていた。おかげで思考は冴え渡り、だから私はその恐怖が何なのか瞬時に理解してしまう。もう二度と味わいたくないと思い出すことをやめたその記憶を、私は思い出してしまったのだ。
首を絞められ、心臓を万力で潰されているような強烈な絶望だった。その傍らに彼女の存在を想起されてしまえば、私はもはや認める他なかった。
最初の印象はあまりよくなかった。意地悪でいけ好かなくて、その上何を考えているかわからなくて不気味だった。けれど何日も彼女と共にいるうちにそれ以上に好ましい部分も知って、そして今度は目の前で命を救われた。
私を守るために戦ってくれたピトーの姿に、私は、そう、とうとう絆されてしまった。それこそ、白音や母さんと同じくらい大切な存在に、ピトーはいつの間にか化けてしまっていたのだ。
だからこんなにも恐ろしく思える。それを失う絶望を、私は知っているのだから。
信じていたのに、守ってきたのに、突如として裏切られ、その度に心がひび割れていくあの感覚。私の中の大切な何かがすり減っていく悪寒は、私の精神を容易く瓦解させてしまう。
それがもう、ピトー相手でも起こりうる。
「そんなの……そんなの嫌よ……」
私の手が、ピトーが消えた暗闇に伸びた。
もう二度とあんな思いはしたくない。頭はそれでいっぱいだった。この望みが叶うなら、私はなんだってするだろう。
ピトーがもっと知識を欲するなら、自分の脳味噌をすりつぶしてでも叶えよう。世話をするのが面倒なら、血反吐を吐いてでも立ち上がって見せよう。共食いを拒否したことが気に障ったなら、腕でも脚でも内臓でも、何でもかんでも食らって見せよう。
狂気的にも、私にはそんな覚悟まであった。もう後が無いのだと悟ってしまえば、こんな発想に行き着いてしまうのにさしたる時間はかからなかった。
だが行き着いてしまったところで私にできることは何もない。今起きていることは、ただの結果だ。
あの元バカマスターに盾突いたことも、数十人の悪魔を前にして生命力まで捻り出したことも、その結果が巡り巡ってピトーの腹に傷を負わせたことも、もはや変えようがない、すべて私の自縄自縛。
私があの子を助けると決意した時から、否、もしかすると悪魔に転生してしまったときから既に、こうなることは決まっていたのかもしれない。
過去によって生み出された絶望の中では、希望など生まれようがない。ピトーが私を捨てようと決めれば、拾われただけの立場である私にそれを覆す術はない。群れの主が出て行けと言えば、それに従わねばならないのは『悪魔』の世界ですら同じことだ。
だから私は震えて祈ることしかできない。そのことが何よりも恐ろしかった。
自分ではもう手の出しようがないところで、すべての結果が決まってしまう。
もしピトーが今度こそ帰ってこなかったら。帰ってきたとして、それが妙に律儀な彼女の別れの挨拶だったら。想像することしか私には許されず、募った不安がまた新たな不安を呼ぶ無限機関が頭の中に造られる。断片的にでも思い出される絶望に、頭がおかしくなりそうだった。
もしこれが私に対する罰だというなら、それにしたってあんまりだ。何度も何度も想像を見せられて、もはやピトーの存在そのものに恐怖を覚えさえもする。
だから私は茂みの中からピトーが顔を覗かせた時、喜びよりも先んじて感じてしまったそれに、彼女の顔を直視することができなかった。
「あ、その……おかえり……なさい」
「……うん、ただいま」
短いが会話が成立したことに安堵が遅れてやってきて、私は心底ほっとした。続けて差し出された獣の肉に、さらに胸をなでおろす。
肉を包んでいる葉っぱのお皿に眼を落として、剥がそうとすれば手元がやけに暗いことにようやく気付く。いつの間にか日が沈みきってしまっていることに驚きながら、爪でひっかくようにして葉をどかしてやると、ようやくそれが顔を出した。いつも通り、血が滴りそうなほど新鮮な生肉が、その金臭さに慣れてしまった私の鼻をくすぐる。
私は眼だけでピトーのほうを覗き見た。
私に夕食を渡してから、ピトーは一言も話さなかった。話を切り出すならタイミングは決して少なくはなかっただろう。だがピトーは洞の入り口に背中を預け、木々の隙間から漏れる月光をじっと見つめるばかりだった。
ピトーの口から言葉が紡がれる気配はなく、彼女にその気がないことを半ば確信した私は、あっという間に肉に興味を抱いていたフリをやめた。
その背中に会話を求めようと決すれば、いつもであれば舌戦を制するため、気の利いた話題を投げかけるべく頭を捻っていただろう。しかし今は、考えることすらしないうちに口が開いた。何かに急かされるようにしてひとりでにしゃべり始めた私の声色は、今までの恐怖が嘘であるかのように朗らかなものだった。
「ね、もしかしてこれ、この間も取ってきてくれたやつ?ほら、角の生えたウサギみたいな……あの耳が長い動物よ。あの時も『もしかしたらそうかも』って思ってたんだけど、多分こいつ魔獣よね。他のと比べて内包する力が明らかに高いし……ああ、魔獣っていうのはね、体内に魔力とかの特殊な能力を秘めていて、例えば一瞬で人に化けたり違和感なく声をまねたり、火を吐いたり雷を吐いたり、どう考えても飛べるはずのない体形で空を飛んだり……そう考えてみるとドラゴンとかも魔獣の一種なのかしら?もしかしたら妖怪とか悪魔も……?さすがに拡大解釈が過ぎるわね。とにかく、『力』の強い獣のことなのよ」
ピトーは何かを思い悩むように枝葉の空を見つめたまま、何も言わない。まるで壮大な独り言を言っているような気分になるが、私の口は止まらなかった。
「でね、最初に食べた時、私結構感動したのよ?ピトーには理解できないことかもと思うけど、私、肉を生のまま食べたことってあんまりなくて、正直に言うと『肉は焼かないと食べれたものじゃない』って、それまでずっと思ってたのよ。けど、ただの固定観念だったわ。すっごくおいしいんだもん。生の、血と油とを新鮮なまま感じられて、『力』がそのまま身体に取り込まれるみたいな感覚がすごく、その、よかったの。これがドラゴンとかの『力』が強いものだったら、どんな感じなんだろうって、ちょっと興味湧いちゃった、かも」
「クロカ」
空虚な言葉を遮って、ピトーが私の目を見据えて淡々と名を呼んだ。まるで、というか実際聞こえていなかったのであろうが、その眼は私のつまらない話に向いているようには見えない。感情の読めないまなざしに、私は強烈な嫌な予感を感じた。
「え、えーっと、何かしら?あ、そうだったわね!そういえばお肉の代価がまだだったわ!そ、そうね、じゃあ光力のことは……もう話したっけ。なら、悪魔、天使、堕天使の三大勢力の話――ももうしちゃったし……そうだ魔獣!魔獣……えーっとねぇ……あー、確か――」
私の言葉はまたしても遮られた。
「身体は、いつごろ治りそう?」
絶えず話題を探していた口が止まる。
それは恐れていた言葉そのままではなかったが、しかし本質的には同じものだ。ピトーは、私が思っていた以上に誠実であったというだけのこと。
『身体が治ったら、ボクはキミを見捨てて消える』
私にはそう聞こえた。
本来ならばピトーの優しさに感謝すべき場面なのだろう。私が取り付けたのは厳格な契約などではなく、その気になれば簡単に反故にできるような口約束。頑なに守る必要などピトーにはないのだ。しかし彼女は、もう邪魔にしかならない赤の他人でも一人で動けるようになるまでは面倒を見ると、そう言った。
正規の病院のような、不満を抱く隙さえない好待遇。死にかけていたところを救われて、守られて、衣食住の世話をされる。それを看護が必要でなくなるまで続けてくれるなら、もう十分であるはずだ。それはいわば退院なのだから。
だが私はどうしてもそう思えなかった。
「……さあ?わかんないわ。一ヵ月か二ヵ月か……ちゃんと治ってきてる実感がなくって、どれくらいかかるかなんてさっぱり」
我ながら恐ろしいほど違和感なくそう言って、さらには肩まですくめて見せた。
ピトーがそれをどう受け取ったのかは伺い知れない。何とも言えないような表情を浮かべると立ち上がり、洞の外へ出た。
私はその後姿を眼にしながら、心の中に湧いてくる罪悪感を必死に誤魔化すことしかできなかった。
だってウソだから。
ちゃんと治ってきてる実感がない?どれくらいかかるかわからない?そんなの嘘っぱちだ。身体の痛みは日が経つごとに減ってきており、つい最近はピトーがいないところで数歩歩くことすら成功していた。それがわかれば、まともに動けるようになるまでの時間もある程度割り出せる。
凡そ一週間だ。それだけあれば、今のままでも杖を突いて移動するくらいのことはできるようになるはずだ。
いざとなれば、邪気を体内に留めることも覚悟して『絶』擬きによる体内からの回復も行って、完治までの期間はさらに短くなるだろう。
ピトーの介護が必要なくなり、退院できるようになるまでそう時間はかからない。だからついた嘘だった。
身体が治ればピトーが離れていってしまうと瞬時に繋がってしまった理解は、それ故に容易く、完璧な嘘を私に演じさせた。
もちろん、こんなウソでピトーを騙し続けるなんてできないことはわかっている。これがただの先延ばしでしかないことも、ばれた時ピトーが何を思うのかも、きちんと理解は及んでいる。
それでも尚、私には隠し通す以外の選択をすることができなかった。今この瞬間、ピトーに捨てられずに済むのなら、以降の不安などいくらでも押し隠せる。
心の奥に押し込んで、忘れてしまわなければ狂ってしまう。一時の快楽に飢える薬物中毒者のようだ。恐怖だけが、今の私の動力源だった。
もはや対面など気にしていられない。なりふり構っていられない。止めようのない自縛の連鎖。
そんな私の苦しみに、ピトーが気付くことはないだろう。私は荒む心を落ち着けるために息を吐くと、彼女が出て行った薄闇を見やった。戦闘の余波で露出した茶色の地肌を、無心に掘り返すその後姿。
よけられ積まれた土砂の下からは、バラバラの肉塊がまだいくつか顔を覗かせている。原形が残っているのなら穴を掘って埋めればいいが、しかしほとんど液状になってしまった一部の死体は、上から土を被せる以外になかったのだろう。染み出てくる赤は最善の処理と言い難いが、放置して異臭をばらまかれるよりはずっとマシだ。
私はその作業を、ただじっと見つめた。
次々埋められていくその様は、ピトーの容姿も相俟って猫の後始末のようだ。
まるで汚物のような扱い。
私はふと、まだ奴らが死んでいなかった頃の光景を思い出した。
私の目から見ても、奴らは強かった。一人一人の実力もさることながら、言葉を交わす必要すらないような、素晴らしいの一言に尽きるその連携は、もし私が万全の状態であったとしても苦戦を免れ得なかっただろう。そんな強敵を相手に私を守りながら挑まなければならなかったピトーの苦労も、当然察するに余りある。彼女の表情も、怒りと敵愾心と、それと僅かな闘争心に歪み、あの場にはそれ以外なかったように思えた。
だがそれも、『発』が編み出されるまでのことだ。一瞬のうちに三人を殺し、残った者たちの恐怖に塗れた顔を見た時、彼女はどう感じたのだろう。リーダー各の悪魔が震えた声で撤退命令を叫んだ時、彼女は何を考えたのか。
わからない。だが、ピトーの表情はこの目で見た。
あの時ピトーは笑っていた。今までの恨みを晴らすことができるという事実が、うれしくてたまらないと言わんばかりに。
それが済めば、後はこうだ。興味をなくされ、土をかけられる。
ピトーにとって悪魔は憎い敵で、それ以上でもそれ以下でもない。物言わぬ肉塊になれば、その価値はもうゴミ同然だ。
私のことも憎いのだろうか。
憎いだろう。私は元々猫又だが、今は確かに悪魔であるのだ。
かつて私はピトーの出自を、悪魔に迫害されたあげく滅ぼされた種族の生き残りだと推測した。この推理がどこまで正しいかはわからないが、彼女の恨みの矛先が『女王』を殺した当人だけでなく、悪魔という種の全体にまで及んでいることは間違いない。老若男女一人残らずこの世の悪魔を皆殺しにしたいと、心底で彼女が思っていてもなんら不思議はなく、そこに私が含まれていることも自明の理。
ピトーは私を殺さないと言ったが、憎いことに変わりはないはずなのだ。殺さない理由だってただの義理でしかない。彼女は私との取引に対して筋を通そうとしているに過ぎない。
だからピトーにとって私は、
その時ふと、近づく気配に気づいた私は、悲観の海から顔を上げた。
辺りはもう真っ暗だった。夜目でも色彩はうっすらとしかわからないほどだったが、ピトーによる死体処理はもう終わってしまったらしい。私は自分が結構な間思い巡らしていたことに驚いた。
ピトーが洞の入り口を潜り、寝床に入ってくる。習慣で少し端によってやると、できた空間に腰を下ろし、敷き詰められた葉がガサガサ鳴った。
それからはもう物音一つしなくなった。肌が触れ合ってしまうほどのすし詰め状態の洞の中で、しかし自分以外の誰もいないんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどの静寂が辺りを包む。
私のために『絶』をしてくれていることを差し引いても、彼女はやけに物静かだ。一言も話さずに床に就いた彼女の対応が、私との会話を拒絶しているように感じられる。
その無音に、心が軋んだ。
「ね、ねえ、ピトー……」
たまらず声をかけてしまう。ピトーの耳がぴくりと動き、彼女の意識が私に向くのを感じた。
しかし、話題を用意していなかった私の口から次の言葉は何も出ない。口をパクパクさせているうちにピトーの興味は薄れていき、何も言わないその背中が恐ろしいものに見えてくる。この機会を逃せば私はこの鬱々とした気分のまま朝を迎えねばならなくなるだろうという想像は、着々と私の喉をひりつかせていった。
そうして膨れた恐怖による圧迫感に、ついに私は耐えきれなかった。この憂鬱を晴らす言葉を探していたはずの思考が、『何でもいいから会話のネタを探す』方向にねじ曲がる。結果、その直後に鼻を突き刺したそれに可能性を見出してしまった私は、何も考えることなくそのままの感想を口にしてしまった。
「何か、変な臭いしない?」
数秒の沈黙。自分が何を口走ったか遅れて理解した私は、慌てて言葉を継ぎ足した。
「ち、違うの!別に文句を言ってるんじゃなくて、なんだかやけに腐敗臭が強いような気がして……」
私に背を向けたまま、ピコピコと頻繁に動いていたピトーの耳さえ動きが止まり、尻尾はだらんと垂れ下がる。焦りのあまりに口を衝いた言葉が弁明にすらなっていないことを自覚した私は、さらに訂正を重ねてしまいそうな口を閉ざした。今、矢継ぎ早に喉を押し上げる弁明の言葉をそのまま口にしたところで失態を上塗りするだけだということは、いかに恐慌状態であろうともわかりきっていたからだ。
「……ボク、そんなに臭う?」
「ご、ごめんなさい!違うの、ほんとに!ちょ、ちょっとだけ待って……」
ピトーの沈んだ声にそう言って、私は一つ深呼吸をした。
何とか心を落ち着けて、頭の中を整理する。ピトーの気に障らない理由を探し出し、繋ぎ合わせてさらに一呼吸を置くと、自分の声が震えはしないかという不安を生唾と共に呑み下してから、私は脳に綴った弁明の言葉を口に出した。
「その、つまりね、今から水浴びに行けって言ったんじゃなくて、そう、あなたが殺した悪魔たちから腐敗臭がすることが不思議だなって……ほら、まだほんの数時間しかたってないでしょ?そんな短時間で腐敗が始まるとは思わなかったから言葉足らずになっちゃっただけで、ほんとにそれだけなの」
ピトーは背を向けたままだが、私はできうる限り反省しているふうに見えるよう顔を伏せ、そしてちらりとピトーの様子を覗き見る。怒っているわけでも、興味を失ったわけでもないだろう。だがピトーは寝転がったまま、何の反応も見せなかった。
何を思っているのかもわからないその後姿は、十分すぎるほどに私の不安を掻き立て、喚き散らしたくなるような震えを内心に生じさせる。だがしかし、僅かに残った自制心は辛うじてその自暴自棄を押し留め、理性的に理由を見出すことに成功した。
(……やめよう。ウザがられて嫌われたら元も子もないわ。心身を休めてもらったほうが、ずっと建設的)
それは焦燥感を説得するために捻り出した、適当な理屈だった。だがしかし、それを思いついた瞬間、私にとってそのひらめきは、正に天啓というべき奇跡の逃げ道であったのだ。
スイッチでも切れたかのように一瞬頭の中がまっさらになって、自分がそうしていることがさも当然のように感じられる。
理由はもちろん悪魔たちだ。
私を追ってやってきた奴らが定時連絡を怠る常習犯でもない限り、奴らが死んで失踪した事実はすぐに悪魔の上層部にも伝わるだろう。少し頭を働かせれば何が起きたかも察しが付くだろうし、となれば近いうちにより強大な手勢を送り込んでくることは想像に難くない。手負いながらも七人もの悪魔を撃退したと判断され、跳ねあがった脅威度に比例して投入されるその戦力が、ピトーの手にも私の手にも負えないことも、同様に疑いようのないことだった。
だからいずれ私たちはここを離れなければならない。そのためにもピトーにはできる限り万全の状態でいてほしいのだ。
私は無意識的にそんなことを考えたらしい。そしてそれは絶好の話のネタになる。
そんなふうに扱ってしまうには些か重要過ぎる話題だが、話の切り出しに空模様を使いかねないほどコミュニケーション能力をズタズタにされてしまった私にとって、それは砂漠のオアシス同然だった。
だが、無意識下であろうとも私がそれを口にすることはなかった。
実際、背を押すものが焦りだけであったなら、私は意気揚々とそれで静寂を破っていただろう。しかし、私の眼にはピトーの背中が写っていた。
それを話の火種にするということは、私がピトーの負担になっていることを自ら宣言するも同然だ。どう見たってそれは、私がいるために生じた厄介事であるのだから。
私という災厄のタネは、またしても害悪を呼び寄せた。
ずっと感じていた私の負い目を、ピトーが許すと言ったことは理解している。しているがしかし、今一度それを彼女に喧伝する勇気が、今の私にあるはずもない。
最初にその弱音を口にした時はまだよかった。ピトーが無事であったことに、その恐れを忘れられていたからだ。けれどもう、存在しない。勇気も楽観も、胸中に予備はない。
私はもうピトーと離れられないと、そう思い知ってから、思考は急落し続けて、彼女に見捨てられるかもしれない恐怖が繰り返して止まらない。
不信感が積み上がり、ピトーは今度こそ私に愛想を尽かしてしまうかもしれない。そんな不安がどうあがいても無くならないのだ。
けれど私がピトーと共にいたいと願うせいで、ピトーの苦労が際限なく増えていく。私にはとてもその現実を直視することができない。
ならばこそ、私はこの不安を押し隠し、朗らかな笑みを無理矢理浮かべてピトーと自分自身を騙し続けるしかなかった。いずれ溢れてしまうことを知っていても、もう吐き出すことなどできないのだ。
「もう、寝ましょ。あなたもあんな戦いで……疲れてないはずがないんだから、少しでも長く身体を休めなきゃだめよ」
思考の外でそう言う自分の声を聞きながら、私は重たく暗い感情で頭を満たしていた。
そのせいで血の気が引いた私の顔色などわかりはしないだろうが、ピトーが突然寝返りを打ってこちらを向いた時、私は彼女からそっと視線を外した。
寝釈迦の恰好をしたピトーがおどけたように言う。
「クロカが想像するほど弱ってないよ、ボク。いい具合に肩慣らししたせいで、むしろ精神的には絶好調にゃ」
「心が元気でも体は違うでしょうに……とにかく、変に盛り上がって夜中の散歩とか行かないでよね。肉体的な疲労が溜まったままだと『気』の回復だって遅くなるんだから」
「んー、それは困るにゃあ。力の加減がわかんなくて【
「【
「もちろん、勘だよ。能力を使うとビビビって来るんだ。もう最初からそれと決まってるって感じに。あ、でも【
そう言って唇に弧を描くピトーは、もうすっかり元の調子を取り戻していた。
会話を交わす度、指数関数的にピトーの声色がよくなっていく。それに釣られて私の気分も表面上は上向いた。
おかげで現実逃避の言葉がすらすらと出る。私は顔を笑顔に歪めながら言った。
「確かにピトーって、感覚だけで何でもできちゃいそうところあるわよね。『発』だって、本当ならもっと瞑想とか精神修行とかしてイメージを固めてからようやく開発できるもののはずなのに、あなたは一度戦っただけで作っちゃうし……」
半ば呟くように言うと、私の眼は小さな丘のようになった奴らの墓のほうを見つめた。ほんのり香る残虐の臭いに緩く歯を噛む。
それだけで能力を発現させてしまえるほど、彼女の悪魔に対する感情が強かったのだろうか。
私は慌ててかぶりを振った。
脳味噌からその感覚を弾き飛ばし、小さく息を吐いて頭を切り替える。
そうしているうちに、不意にピトーが上体を起こした。自らの腕を顔の前に突き出して……においを嗅いでいるのだろうか?
私はピトーが何をしているのかわからずに一瞬だけその姿を凝視して、彼女の視線がたびたび悪魔たちの墓に向いていることに気が付くと慌てて首を振った。
「だ、だから違うって何度も言って……あの……ほら、もしかしたら私から臭ってるのかもしれないし……ね?」
意味深に墓へ眼をやってしまったためか。もう私が全部悪いってことでいいから、いい加減その心臓に悪い表情をやめてくれ。
声にも顔にも出さなかったが、心底そう思った。
ピトーは私の作り物の愛想笑いににまりと笑い、身を乗り出してずいっと顔を近づけた。
「にゃるほど。じゃあボクの名誉のためにも、それがほんとかどうかちゃあんと調べておかないとねぇ……」
いつかに聞いたことがある悦に入った声色で言うや否や、ピトーはそっと、私に抱き着いた。
「……ッ!?」
肌に感じる他者のぬくもり。初めての直接的なスキンシップに、思わず身体が強張った。一拍遅れてやってきた気恥ずかしさに、顔の温度が数度上がる。
心臓から昇っていく血で喉が圧迫されて悲鳴も何も出なかったが、絶えず感じていた恐怖も一時押し流されてしまうほど、私の頭では様々な感情が錯綜していた。
まるで、普段はしゃれっ気の無い女の子が唐突にフリフリの服を着て、その満面の笑みで微笑みかけられた時の男子中学生のような……つまりそんなことはしないと思い込んでいたがための意外性に、私は度肝を抜かれてしまったのだ。何を考えているんだ私は。
「えど、どう……どうして……なに?」
いつも以上にどもりつつ、辛うじて疑問の言葉を作り出した。私の胸元に顔を突っ込んで、白銀のくせっ毛を見せつけながらピトーが言う。
「んー。クロカってここ大きいよねぇ。……なんだかよくわからないけど負けた気分」
素肌とほぼゼロ距離でそう言うものだから声の振動が胸の奥まで響いてくる。心臓が痛いくらいにびりびりしびれて鼓動が上がり、ほんの少しでも気を抜けば考えなしにピトーを抱きしめ返してしまいそうだった。
その衝動を必死に堪えていると、その時ふと、生暖かい小さな風が素肌をなぞるのを感じた。血行が良くなって火照った肌だからこそわかるようなぬるい温風は、胸の谷間辺りを行き来している。どうやらピトーが起こしているようだった。
私のにおいを嗅いでいるのだと理解が追い付けば、私の頬がますます赤みを増した。
「ちょ、ちょっと!いくら女同士だからって、やっていいことと悪いことが……や、やめてったら!わ、私お風呂入ってな……あああ!わかったから!に、臭うの私でいいからあ!」
ピトーがニマニマと悪い笑顔で私の身体をまさぐって、その手がヘンなところにまで達しそうなことを感じ取った私は、くすぐったさに身を捩り、大慌てで抵抗を試みる。それにさしたる意味があるとは自分でも思えなかったが、男に肌を見せるのとは別種の心労に耐性が無い私は、肉体が許す限り遮二無二に腕を振っていた。
不快がられないようにと、頭の真ん中に据えた留意はきれいに忘れ去り、取り繕った笑顔の仮面も剥がされる。
私を不安がらせたあの雰囲気はどこへやら。ひどく楽し気な様子のピトーに、私は自分を隠すことすら忘れてしまっていた。
見捨てられる恐怖に怯える必要も、絶望する必要も、そうなるまいと苦心する必要もない。何にも煩わされることがない、初めて見つけた希望に、私は心を奪われた。
それは私が渇望していたぬくもりそのものだった。大きな手に庇護されているような、泣きたくなるくらいの安心感を、私は感じていたのだった。
だから私は丸裸な心のまま、急転換した自分の心情に疑問も抱かず、その温かさに陶酔していた。
そう、脳味噌は酔いに侵されていた。故に私は再び急変したピトーの態度に置いて行かれ、愚かにもぼんやり首を傾けてしまったのだ。
「にゃは、やっぱり腐敗臭なんてしないじゃない。さすがにクロカと死骸の悪臭を間違えたりはしないよ。こんなに、比べるのもおこがましいくらいいい匂いなのに」
ピトーが芝居がかった動作で胸を張る。そして、言った。
「なんだったらボクが初めて食べた悪魔よりも――」
ぴたりと、一瞬にして石にでもなってしまったかのようにピトーの口も身体も固まった。私に向いているはずの彼女の眼に私が写っていない。私を透かしてどこかの虚空を見つめているようなピトーに、私は純粋に疑問を持った。
「ピトー?」
その声にはっと我に返り、ピトーは再び笑顔になった。しかしその表情はどこか歪で、逆に私の安心感を剥ぎ取ってしまう。
相変わらずピトーは私を見ておらず、次に発せられたその言葉が私に向けられたものだと気付いたのは、少しばかり時間が経ってからだった。
「――明日はいっぱい歩かなくちゃならないだろうし、ボク寝るね。クロカも……。おやすみ」
何の脈絡もなく言い逃げのようにそう言うと、ピトーは洞の壁を向いて身を横たえた。私はただ茫然として、ガサガサと葉の中に潜り込んでいくのを観覧していた。
「……ピトー?」
あまりに突然の切り替わりにすべてが追い付かず、私はまた同じようにピトーの名を呼んだ。
……反応がない。まさか今の一瞬で眠りに落ちたわけではないだろう。無視されているのだ。
私は思考能力を取り戻した。心を浸していた幸福がひび割れる幻聴が聞こえて、無視に感じる拒絶の意が酔いを急速に冷ましていった。
悪寒が背に走り、勘づいた私は一度深呼吸をすることに集中した。一旦頭を空にして、幸福の余韻に平然と偽りを思い浮かべた。
(会話しながらじゃ眠れないものね。だからきっと、朝になれば元に戻るわ)
あのぬくもりは、本物だもの。
私はそこで思考を打ち切った。全身を改めて葉の上に下ろし、目を瞑る。後は眠ることだけ考えた。残った幸せだけを心に残し、そのほかすべてを切り離して、私は眠りに逃げ出した。
とうとう訪れてしまったのだ。幸福から絶望に突き落とされる、その時が。
私は、自分が夢を見ていることを自覚していた。
ふと目を開けば死んだはずの母親が笑っていて、その膝の上にはまだ幼子であった頃の我が妹が、白音がすやすやと寝息を立てている。
多分私が一番幸せであった頃の光景。今となってはもう見ることの叶わない幸福が、私の眼前にあった。そのことを気味が悪いほど強く認識している自分がいて、私はそれがたまらなく不快だった。
場面が移り変わる。そこには私と白音はおらず、顔が見えない男と、そいつに無視されながらも話しかけ続ける母親の姿があった。
こんな光景を私は知らない。深層心理が作り出した想像の産物だろう。
だから知りたくなくてもわかってしまう。この男は私の父親だ。奴は母親に私と白音を産ませた後、それを認知することを拒んでいたらしい。奴に惚れていた母親はどうしても私たちを認めてもらいたくて度々会いに行っていたという。よく外出する母親を不思議に思い、それを聞き出したような記憶がある。
また場面が切り替わる。今度は私と白音だけがいた。家族三人で住んでいた居間だ。ちゃぶ台だけがぽつんと置かれていて、大して広くもなかったはずが倍くらい広大に見えた。
そんなただっぴろい居間で白音が泣いている。もう何週間も前に父親に会いに行った母親が、それっきり帰ってこなかったのだ。
このことはよく覚えている。私はこの後、もう母親が戻らないことを確信し、白音の手を引いて何もなくなったその家を出たのだ。そうして何年か野良猫のような生活を送り、何時かにあの元バカマスターと出会い、白音の保護と引き換えに奴の眷属として悪魔に転生した。
場面が変わる。
「こっちに、来ないでッ!!」
まだ褪せていない、もっとも新しい絶望。悲鳴が鮮明に記憶をなぞり、私の精神を直接殴りつける。
事の始まりは、あの元バカマスターが白音の仙術の才能に目を付けたことだ。あろうことか奴は私との契約を破り、無理矢理白音を仙術に目覚めさせようとした。下手をすれば白音が死にかねないようなやり方に、私は白音と共に逃げ出すことを決めたのだ。なのに――
「どうして、こんなことを……」
悪意から隔離されていた白音にとって、元バカマスターは未だ『優しいご主人様』だった。
「いやッ!!あなたと一緒になんて、行きたくない!!」
同僚だった眷属を殺し、家人を殺し、奴自身も殺してたどり着いた先で待っていたのは、怒りと恐怖に満ちた眼で私を拒絶する白音だった。
「お願いですから……どこかに行って。もうわたしに関わらないで――もう、一人にして……」
私はこの時、またしても大切な存在に見捨てられた。
母さんも白音も、みんな私を捨てていった。
私は一人があんなにも怖いのに、皆は知ったことかと唾を吐く。まるで私一人が悪いのだと言わんばかりに、私を罰する。
そう、だから、
どうせピトーも、私を捨てるのだ。
心を壊す、あの絶望が――
「………」
いつの間にか、私は目を覚ましていた。
今までにないほど激しく拍動する心臓の痛みに意識が叩き起こされて、目にたまった水滴がこめかみを伝って流れていく。
私は上半身だけ跳ね起きた。肉の筋がぶちぶち千切れる音を聞いたが、認識すらしなかった。私の頭を占めているのは幸福という名の覆いが外れた恐怖心と、夢での追体験で蘇ったあの絶望だけだった。
そしてそれは、隣の寝床が空になっていることに気付くとさらに加速した。
「ピトー。どこ?ピトー……ピトー?」
私は無意識に仙術を使って気配を探っていた。
――いない。
探知範囲をどんどん広げる。
――いない。
動物の一匹すら引っ掛からない。ピトーの『気』の残りカスばかりが大量に残留しており、私の集中を散らしてしまう。
――いない。
ピトーが、どこにもいない。
「嘘、だったの……?」
あの言葉は。あの約束は。あのぬくもりは。
あなたは何故、私の心をめちゃくちゃにかき乱してしまうのか。
「もう嫌なのに……私……私は……」
どうせ捨てるなら拾わないでほしかった。瀕死のままで放っておいてくれたなら、こんな思いをせずに済んだのに。
すべて消えて、私は楽になれたのに。
「……?」
私はふと、それに気づいた。僅かな腐敗臭。昨日の夜、ピトーから感じたあれだ。
そんな希望を残すから、私は余計に傷ついてしまう。
私はふらふらと揺れながらも立ち上がった。寝たきりであったための脱力感と治りきっていない負傷のせいで重心が取りづらい。それでも私は立ち上がり、壁を伝って洞を出た。臭いの続く方向、ピトーが歩いたその道を辿るため。
一歩進むごとに全身が痛み、僅かでも気を抜けばその瞬間にバランスを崩しそうになる。しかし私はあちらこちらによろけながらも、確実に森の奥へ進んでいった。
もはや帰り道など覚えていない。いくつもの木々や草花、大地や岩を通り過ぎ、やがて私は茶色一色の城のような建造物にたどり着いた。暮らしていた大樹よりも背はずっと低いが大きさは何百倍とある。
明らかに何かしらの生物、人間大の何かが造ったものだ。巣であろうその中に侵入して私が害されない保証はどこにもない。けれど私は迷うことなくその中に入った。死への恐怖は私の歩みを止める要因になりえない。
そして、ピトーを見つけた。いくつもあった部屋の中で最も大きい大広間。そこら中に人間サイズの昆虫が屍を晒していて、比にならないほどの腐敗臭が私の鼻を潰していた。
踏み入ると、彼女の耳がぴくりと跳ねた。ゆっくりとこちらを振り返り、そして、
その表情が母親や白音と重なり見えて、私は自分の心が砕け散るのを感じた。