主なきノラネコたちの家   作:もちごめさん

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二話

「「寒ぅッ!!」」

 

 扉を開け放つや否や、異口同音に叫んだ私たちの眼前に広がっていたのは、猛吹雪に荒れる一面の銀砂だった。

 

 互いに繋いだ手は一瞬のうちに解け、内と外の異常な寒暖差に粟立つ己が身を抱きしめる。駅内は、恐らく魔力で温かく保たれていたのだろうが、それにしたって外は寒すぎた。いったい気温はマイナス何度なのだろう。息をするだけで肺が凍り付きそうなほどの冷気が、途端に私たちの身体を包み込んでいた。

 

 気温だけではない。分厚い風雪が壁のように私たちを叩いていて、こうしている間にもどんどん体温が奪われていく。震えながら辺りを見回しても数メートル先さえ視界が通らず、まるで何もない白霧の亜空間に閉じ込められているような、非現実的な光景が前方に広がっていた。

 

「冷たっ!ク、クロカ?ねえ、これすごく冷たいんだけど、この白いのはいったい何?悪魔とか『ハンター』とか、マズいものじゃないよね!?」

 

 想像だにしなかった方向の危機にしばし愕然としていた私は、ピトーの興奮気味な声色に我に返った。そしてふと理解する。ピトーが生まれ、私と共に歩いた冥界は、半裸で過ごしても風邪をひかなかったくらい温暖な気候であったのだ。

 

「ああ、これは雪って言うの。寒いときに雨が降ると水分がどうたらこうたらするっていう、ただの気象現象よ――しかし、参ったわね……」

 

 吐いたため息が白く煙り、すぐさま吹雪に掻き消える。その残滓の先でピトーがしゃがみ込み、降り積もった雪にずぼっと指を突っ込んでいた。

 

 その手は手袋などしていない。それどころか今ピトーが身に着けている衣類はすべて、防寒機能などほんの少しも有していなさそうな薄手のものばかりだった。それはもちろん私も同様だ。過去に鹵獲し現在着用している衣服は、到底この猛吹雪から私を守ってくれそうになかった。『絶』状態であれば多少の寒さには耐えられるだろうが、しかしそれもこの極寒では限界がある。

 

 一刻も早く防寒着が必要だ。でなければ悪魔の勢力圏から出る前に凍死してしまいかねない。

 

「とにかく、進みましょ。どこか入れそうな家を見つけて、コートか何か頂戴しなきゃ」

 

「ううん……冷たいのはやだにゃぁ……一応訊くけど、空を飛ぶのはアリ?」

 

「ナシ。ていうか、魔力関係は全部、使っちゃだめよ。そういう結界張られてたら一発で捕捉されちゃうから。だからほら、頑張って歩くのよ」

 

 不満たらたらにぼやくピトーの手を再び取って、私は膝下二十センチほどの雪を踏みしめた。

 

 安全面を考えれば魔力だけでなく妖力も、そして『気』も使うべきではない。元妖怪の転生悪魔は、人間のそれほどではないが多いわけであるし、『気』は言わずもがな、『ハンター』に危ない。

 例外は仙術くらいなものだが、これでできることは精々百メートル圏内の『気』を感じることくらいだ。暖を取ることはできないし、もちろん空を飛ぶこともできない。いや、極まった仙人ならできるのかもしれないが、少なくとも今の私には無理だ。扉という風除けがなくなり、嵐のような乱気流へと変貌を遂げた吹雪を、甘んじて素肌で受け止めなければならない。

 四方八方から叩きつけられる冷気に肌を引き裂かれそうな痛みを感じても、私たちは雪中行軍をやめるわけにはいかないのだ。

 

 まずはとにかく建物を見つけなくてはならない。あるいは街灯か、舗装された道でもいい。地下鉄の出入り口みたいに孤立しているこの場所がいったいどのような立地であるかは知らないが、少なくとも荒野にポツンと佇んでいるなんてことはないだろう。人工物さえ見つかれば、その先に人里はあるはずだ。

 

 一際強く吹いた風が積雪の表面をぶわっと巻き上げ、それにピトー共々尻尾の毛を逆立てる。寒さと、先の見えない灰色の壁に挫けそうになる心を叱咤しながら、私は雪と風をかき分け続けた。

 

 凍えながら数分進んだ頃だった。

 

 明け方の頼りない日差しは吹雪によって遮られ、作り出される真夜中の空気。その暗闇と雪片の向こうに、ぼんやりとオレンジ色の灯りが見えた。

 

 自然、歩みも速くなる。耳元で唸る風音に背を押されながら近づくと、不意に左右の白霧からコンクリートの壁が顔を見せた。次いで薄い雪の下にコンクリートの感触を見つけた私は、この時ようやく自分が路地にいるのだと気が付いた。

 

 オレンジの灯りは街灯だった。路地から出ると前後からの冷気が再び乱気流に姿を変えて私を打ち、それに身震いしながら壁に手をついた。

 

 これだけ近ければ、さすがにそのコンクリート壁の正体にも察しがついた。

 

 白霧の視界では到底全貌が見えないくらいに壁は高く、そして広い。中はカーテンで仕切られていて見えないがガラスの窓が付いていて、扉と、幅広のシャッターが辛うじて確認できた。

 反対側も似たような光景だ。人が造った建物だった。

 

 立ち止る私の隣にピトーが来て、同時に手を強く握られる。ようやく肩の力が不安と一緒に緩み、緩んだからこそ、ふと思った疑問が口に出た。

 

「ここ、いったいどこなのかしら」

 

「……どこだとしても、進まなきゃいけないことに変わりない。でしょ?足跡は一応消してみてるけど、どこまで効果があるかはわからないし、気付かれる前に早く進もう?」

 

 その通りである。私は神妙に頷いて、壁伝いに再び歩き始めた。

 

 ぽつぽつと、一定の間隔で直立する街灯の灯りと、延々続くコンクリート壁を辿ってひたすらに進む。体力の消耗を考えて走るわけにはいかなかったが、予想外の疑問に急かされた私の脚は、暴風雪の中でも早歩きほどの速さを保っていた。

 

 代り映えのしない景観に今までとさして変わらない徒労感を味わいながら、とにかくまっすぐ道を進む。しばらく行くと、建物内に人間の気配がし始めるようになった。恐らく、列車の周辺はダミーの建物だったか、人払いの結界でも敷かれていたのだろう。

 

 これまた憶測でしかないが、たぶんここは居住区なのだ。建物の雰囲気を見る限り一戸建てではなく、縦長の集合住宅の集まりであるようで、かなり高い位置にも人間の『気』が感じられる。当然と言えばそうだがその中に『念』を使いそうな気配を持つ者はおらず、ピトーの完璧な『絶』と、仙術によって周囲と同化した私の『気』が、締め切られた室内からこの天候で見破られることはほぼ無いだろうと考えられた。

 

 だが、その安心感を以ってしても、私の焦燥感は消えることがなかった。

 

 当初、一番最初に暴風雪を浴びた時、私はこれほどの『人間』を感じられるとは全く思っていなかった。想像していたのは、雪国の寂れた小村だった。

 

 木造りのログハウスのような民家がまばらに点在していて、住民は春夏秋に農業や畜産を、そして冬には狩りをして生計を立てているような、文明から隔離された古い町。

 豪雪地帯の過酷な環境下に多くの人間がいるとは思えなかった。しかし実際には、途切れることなく立ち並ぶコンクリートの建物に自然的な温かさはなく、地面も茶色い土ではなかった。

 

 無機質で規則的で、自然の『気』はほとんどない。良く言えば近代的な都市の香りが、そこら中に散らばっていた。

 

 そうであれば、民家へ侵入して防寒着を盗むという、当初の予定は変更せざるを得ない。想像していた昔ながらの古民家ならともかく、近代的なコンクリート建築のセキュリティーに対してステルスミッションを完遂するのは些かならず難易度が高かった。密室に侵入するためにはどこかしらを破壊しなければならず、その騒音を気取られずに済むと考えるのはさすがに楽観視が過ぎる。そして、それらの問題をまとめて解決できるであろう魔力の便利さを、私は改めて痛感していた。

 集合住宅内には、それはもちろん目当てのものはあるだろうが、見えている地雷を踏むわけにはいかない。諦める以外になかった。

 

 民家が駄目となれば、他に防寒着を入手する手段、しかも騒ぎを起こさずとなれば、それはおのずと限られる。最も堅実な方法は、この時間でも開いている店、コンビニか何かを探すことだろう。客に紛れて中に入ることができる。

 

 混雑していれば尚いいが、さすがにそれは高望みが過ぎるだろう。時間的に人間は未だ夢の中に揺蕩う者が多いだろうし、そうでなくともこの吹雪だ。外に出る人間が多いとは思えない。

 現に今まで、たった一人の人間とさえ出くわしていない。こんなところで開いている店を見つけたとしても、そこに人間がいるとは……そう、そうだ、人間だ。まずは人間がたくさんいる場所まで行かなければならない。

 

 気配断ちをしていたところで、このような新雪の上を歩き続けたのでは追手を撒けるはずもない。私たちの足跡もすぐに踏みつけられ、そして消えるような人通りの多い場所。まず何よりも繁華街にたどり着くことを考えるべきだ。でなければ先がつながらない。

 

 とはいえ、土地勘どころかここがどの国のどの街なのかもわからない現状、繁華街へと言っても私たちはただ前に歩くことしかできない。行く先にそれがあることを祈るばかりだ。

 

 それで、なんだっただろうか……ああそうだ、防寒着だ。コンビニか何か、とにかく人間がいるところなら、少なくともそいつが着ている衣服はある。追いはぎしても店の中なら凍えることはないだろう。

 

 ……もしかしたらこれは中々の良案ではないだろうか?雪の中に放置せずに済むので心も痛まないし、私たちは温まれる。追いはぎされる人間にも私たちにもメリットがあるという、まさに一石二鳥の最善手ではないか。

 

 いやまて、これのどこが一石二鳥の最善手なのだ。そも何を指して最善手なのかもわからないし、追いはぎされる側には損失しかないだろう。馬鹿なことを考えている場合じゃない。もっと他の、何か大事なことを……

 

(……あれ?私、今何を考えてたんだっけ?)

 

 なんだか頭がふわふわする。そして僅かだが、気温が上がったのだろうか。身体がほんのりと温かかった。

 

 何とも奇妙なぬくもりだった。身体に打ち付ける吹雪が、まるで羽毛のように私を包んで揺らしている。何というか、揺り籠の中にいるような心地がして、いつの間にか眠気を感じるようになっていた。

 

 耐えがたい睡魔の誘惑が刻一刻とひどくなる。抗おうという気持ちもだんだん薄れ、私はそのまま、吸い込まれるように瞼を閉じて――

 

「クロカッ!!」

 

「っあ……!」

 

 ピトーの一喝に意識が舞い戻り、次いでお腹がぎゅっと締め付けられる感覚がした。

 

 目の前に降り積もった雪が映っていた。重力も、何かおかしい。鈍い触覚によれば、足の裏が地面に触れていないような気さえする。

 回転率が上がらない頭で必死に考えた結果、私は前のめりに倒れかけ、地に着く寸前、ピト―に胴を支えられたようだった。

 

 しかし、理解し、悲壮感を漂わせるピトーの顔を見ていても、なぜか身体に力が入らない。眠気も消えないし、虚ろな思考もそのままだった。

 

 身体を持ち上げられ、ピトーの腕の中に収まった私はぼんやりと、その口が激しく動くのを見つめていた。

 

「クロカ!!クロカ!!しっかりして!!ボクのことちゃんと見えてる!?」

 

「……見えてる」

 

 ごく小さく呟いた自分の声が、風のうなりと一緒に聞こえた。

 

 喉を震わす僅かな動作すら億劫で、全身を侵す疲労感が瞼をまた重くする。

 

「ダメだクロカ!!しっかり!!目を開けて!!」

 

 肩を揺さぶられながらの言葉が耳朶を叩き、至極滑らかに脳味噌へ滑り込んだ。それが妙に心地よく、安堵感に包まれた私は無意識にその言葉に従っていた。

 

「……うん。目、開ける」

 

 視界にピトーの姿が現れる。彼女は私の目を見て一瞬だけ逡巡の色を浮かべると、何かを決心したように口を引き結び、そして優しく語りかけるように言った。

 

「……よし。クロカ、いい?目を開けて、周りの景色をよく見るんだ。落ちないようにボクにしっかり掴まって、それから……『絶』は絶対に解かないこと。わかった?」

 

 目を開ける。ぴとーに掴まる。『絶』を解かない。

 

 頭の中にその三つの箇条書きが降ってきて、居座るそれに、私は躊躇いなく頷いた。

 

「……驚いて暴れたりしないでね?クロカ、行くよ……!」

 

 ピトーは私を抱えたまま、ゆっくり腰を落とした。数秒の溜め。彼女の腿が膨れて背を押して、次の瞬間、垂直に飛び上がった。

 

 すさまじい下への重力と上からの風圧が私の全身に降りかかった。眠気とは別の理由で目を開け続けることが辛かったが、それでも私は愚直に約束を守り続けた。

 

 しばらくすると、きつい重力がなくなった。顔面にビシビシ突き刺さる風雪もいくらかマシになり、目をしかめさせる要因も消える。周囲は相変わらず吹雪いていた。

 

 それは本当に一瞬だった。

 

 ほんの一瞬、ピトーの『気』が私を含めて一帯に広がった。この世すべての不吉を孕んでいるかのような、あの特徴的な『気』だ。出会った当初は本能的に恐怖していたその『気』だが、しかし今回はピトーが危惧したように驚いたり、ましてや恐れた身体が勝手に暴れ出す、なんてことは起こらなかった。

 

 ただ、何となくほっとする感じがするな、という感想を抱き、身体を弛緩させるのみだった。

 

 だが、ふにゃふにゃと溶けた身体はすぐに硬直することになる。ほんの僅かな間でピトーが『絶』状態に戻ると同時、一時の停滞は終わりを告げ、今度は浮遊感、というか落下感が私の内臓を持ち上げて、凍る背筋に私はピトーの胴を締め上げていた。

 

 ズン、と静かに落下が終わり、今度は着地の重力がピトーの腕を介して私に伝わる。衝撃吸収材の役目を果たした雪がミルククラウンのように宙に舞い、それが吹き消えると、ピトーは私を抱えたまま走り出した。

 

 どうやら今までのように平らな道を行くのではないらしい。狭い視界に集合住宅の壁が出現するとほぼ同時に、ピトーは再び跳躍した。

 

 しかしそれほどの圧力は感じない。どうやらベランダか何かを足掛かりにしてゆっくり上昇しているようだった。

 

 上昇が終わり、恐らく屋根にたどり着くとピトーはまた走り始める。一定の方向に向かって、文字通り一直線に集合住宅の上を飛ぶように進んでいた。

 

 さっきの『気』の放射で何か感知したのだろうか。ピトーの迷いない足取りに揺られる私はそのようなことを思いながら、抵抗空しくだんだんと睡魔に呑まれていった。

 

 

 

 

 

 気付けば私は温かい安息の中にいた。全身をぎゅっと抱き留められていて、緩い拘束感と人肌の熱が、私に微睡みを与えている。

 

 すごく、落ち着く。

 

 あまりにも恥ずかしすぎるので言ったことはないが、私はピトーとこうやってくっついていることが何よりも好きだ。

 

 言葉を交わしたり傍から見ているのも幸せであることに変わりはないが、しかしふれあいによる多福感には劣る。できることならもうずっとくっついて、そしていつか私とピトーの境目が融解して一つになってしまえばいい、などという、我ながらキモいことを考えてしまうくらいには、私はこのぬくもりが好きだった。

 

 そんな超級の安らぎと幸福が、覚醒しかけた私の意識を布団の中に押し込むのだ。

 

 永久にこのままでいたい。命が尽きるまでずっとこのまま、二人の世界に浸っていたい。

 

 過去も何もかも忘れて、この幸せだけを心に満たせたら、それはどれほど素晴らしいことだろう。

 

 悪魔のことも、『ハンター』のことも、

 

 白音のことも――

 

 ―――。

 

 ――薄く開いた目に、茶色い扉が映っていた。安っぽい木製のドアだ。

 

 短く狭い廊下の向こうで壁紙と同化するそれ。左隣の靴箱は半開きになっていて、中から靴紐らしき細長が垂れ下がっている。壁伝いに視線を走らせ、暖色のカーペット広がった室内に入るとすぐに衣装ダンスが眼に入り、続いて恐らく冷蔵庫、反対側には洗面台、さらには大きな旅行鞄が置かれていた。

 そして私の左隣には背の高いベッドが鎮座して、右隣は螺旋状の白い配管が、壁から押し出されたかのように存在感を発している。

 

 それから感じる熱気に、そういえばこんな形の暖房器具があるって話を聞いたような、と記憶を巡っていると、聞きなれた彼女の声が、頭上から私の寝ぼけ眼に降り注いだ。

 

「よかった……クロカ、おはよう。よく眠れた?」

 

「……ぴとー」

 

 顔を上げると、私を覗き込むピトーの慈愛と目が合った。天井の豆電球が頼りない後光を演出していて、夢見心地のまま私は呟く。

 

「ここは……どこ……?」

 

「えーっと、なんだっけ……『ほてるこんぺてぃてぃぶ』?って建物の部屋だよ。狭苦しいけど、人間たちの寝床なのかにゃ?ボクよりクロカの方が色々知ってると思うけど」

 

 よくわからないがとにかく天国ではないらしい。まあ、それはそうだろう。悪魔が死後に天国に行けるわけがないし、四畳半もなさそうなこの小汚い部屋に天使がいるはずもない。

 

 ここにいるのは私とピトーと、それからベッドの上の人間一人だけだ。

 

 ……え?

 

 途端、脳味噌に吹雪が巻き起こって、私は微睡みから蹴り飛ばされた。記憶がぐるぐると走馬灯のように現状を思い出し、一筋走った電流が私の総身をぐるりと巡る。

 

 驚きのあまりに喉が詰まって口をはくはくさせた私は、落ち着いた笑みを見せるピトーに辛うじて聞こえるようなごく小さいかすれ声を捻り出した。

 

「な、なんでそこに人間がいるの!?ていうかホテルって……え!?私が気絶しちゃってから何があったの!?」

 

「まあまあ、ちゃんと話すからまずは落ち着いてよ。毛布が落ちちゃう」

 

 あくまで落ち着き払って言うと、ピトーは私の背後から手を伸ばし、肩からずり落ちかけた硬めの毛布を引っ張り上げる。

 

 その仕草でようやく自分がピトーの胸に背を預けていることに意識が行った。どうやら半分座りながら眠っていたらしい。

 

 そのことに今更気付き、そして当然のように顔に上る羞恥を誤魔化しながら、私はされるがまま、定位置に舞い戻った。

 

 二人羽織のようにしてピトー共々毛布の中に収まると、そのピトーが私の頭に顎を乗せてきて、さらには肩を抱きながら無駄に明るく語り始めた。

 

「と言っても、別に大したことは起こってないよ。カギがかかってなかったこの建物に忍び込んで、そしたらちょうどこの人間が扉を開けてくれたから、ちょちょいとやってこの部屋を占拠して、それだけ。後は……寝床からこの毛布引っぺがしたくらいかにゃ。もちろん誰にも見られてないし、もう一時間くらいこのままだけど、特に何も起きてない。

 一瞬とはいえこの場所を見つけるために『念』を使っちゃったから覚悟はしてたんだけど……まあ今のところは平気だし、気付かれてはないんじゃない?」

 

 顎が脳天にがつがつ当たって正直少しだけイラっとしたがそれは呑み下し、目を閉じ仙術の感知範囲内を巡回した私は、「確かに」と息を吐いた。

 

 もし仮に、あの時放射されたピトーの『気』に気付いた者がいたとして、瞬時にそれが発せられた方角を突き止めたとしても、その時ピトーは上空で、しかも吹雪の中にいたのだ。その姿を視認できた可能性は極めて低く、その後の対応も含めて考えれば、ピトーの言う通り気付かれなかったと判断して問題はないだろう。

 

 たとえそいつが超人的推察力を以ってピトーの目的と逃げ去った方向を特定したとしても、細かな場所までは知りようがないはずだ。諦めが悪ければしらみつぶしに探している可能性もあり得るが、少なくとも私が知覚できる範囲にそのような人間はいなかった。

 

 そこまで丁寧に懸念を潰して、私はようやく見慣れぬ個室に心を落ち着けることが叶った。一時間もの間、ピトーと毛布と螺旋の暖房に体温を引き戻されて、全身、特に顔がぽかぽかと温まっていることに対し、自責が口元までせり上がったのだ。

 

「そもそも、ピトーが『念』を使ったのだって私のせいよね。私の『絶』が甘かったせいで吹雪にやられちゃったから……」

 

「それを言うならボクがクロカに頼りきりだったのが悪いんだよ。どうせ道なんてわからなかったんだから、ボクが先頭に立てばよかったんだ。それに寒さのことも、身体にどんな変化が起きるのか知ってれば、倒れる前にどうにかできたかもしれない」

 

「それは――」

 

 卑屈が増す私を、ピトーが遮った。

 

「結局さ、一つの失敗もしないっていうのが無理な話だったんだよ。ボクもクロカも知らないことはまだまだいっぱいある。知らないものを知らなかったって、いつまでも悔いていたってしょうがないじゃない?大事なのは過去より未来。失敗は、なくすより減らしていく方が現実的だにゃ。あんまり気負わずにさ、気楽に考えようよ」

 

 駅内で言っていたことと矛盾しているような気がしないでもないが、つまり私は慰められているのだろう。確かに、悪い悪くないを言い争うのは不毛で、そして少しばかり子供っぽいかもしれない。後悔の霧が晴れて自覚が見えると、私はまたしても頬を赤く染めることになった。

 

「それに何も悪いことばかりじゃない。さっきそこの……えっと、小さい部屋の中も見たんだけど、厚手の服が色々入ってた。ボクには判別付かないけど、たぶん、クロカお望みのコートも二人分あるにゃ」

 

 骨導音じみた声が頭の上で鳴り、小さな部屋、恐らくクローゼットに眼をやって言う。

 

「踏ん切りがついたって思えば、むしろ良かったと思うよボクは。あんなに寒いのはもうごめんだし。

 まあそれはそうとして、クロカ、身体の具合はどう?どこか変なところはない?」

 

「え?……うん、平気よ。耐寒装備があるって言うなら、なんなら今すぐに出発でも大丈夫」

 

 手先足先のしもやけと若干の眩暈はまだ残っているが、まあこれらは道中でどうにかできるだろう。一瞬の躊躇いはあったが、私は口を噤んでおくことにした。

 

 のだが、さすがに低体温症で気絶までした身でそこまで断言するのは白々しすぎたらしい。のしかかるように背と頭を押され、くの字に折られた私にピトーが間延びして鼻を鳴らした。

 

「ふーん。ホントに?体調万全なの?」

 

「……ちょっとだけ、まだふらふらするけど……」

 

「ほらやっぱり。きっちり治してからじゃないと怖くて外なんて歩けないにゃ」

 

「うう……でも、だってそこまで慎重になってたら絶対マズいじゃない。私、一時間も気絶してたんでしょ?だったら今まで歩いた分も含めて、いつ悪魔たちが動き出してもおかしくない頃合いよ。大規模な捜査が始まったら、もう隠れていられないのよ?」

 

「そうなったらいつもみたいに全部ぶち殺すだけにゃ。いつもみたいに二人で戦って、それで二人で逃げればいい。それだけのことでしょ?」

 

「闇討ちのアドバンテージがなくなるって言ってるの!それに!さっきは黙ってたけどピトーってば、駅で言ってたこと今とで話がブレッブレになってることわかってる!?」

 

「うん?『私の頭がふらっふらになってることわかってる』って?」

 

「言ってなぁい!」

 

 意固地が増して、結局子供っぽい言い争いに転じることになった。不思議なもので、どちらかと言えばボケに属する性格だったはずの私であるのに、ピトーとのやり取りではもっぱらツッコミの役目を演じることになる。そしてそれが嫌ではないのだ。

 眷属悪魔でいたころは、それが誰であれ、舐めた口を利かれれば条件反射的に皮肉が口をついたものだが……人とは変わるものだ。

 

 ピトーの思惑通り私の中に楽観が顔を出し、協議を忘れて場違いなおしゃべりに興じようと口を開く。その時だった。

 

 ぎゅるるる

 

「………」

 

 いつだったか、同じような間を体験した気がする。顔にまたまた血が上り、羞恥で全身がボッと火を噴く。もうこれで、少なくとも体温に関しては完治したことだろう。素直に喜べないが。

 

「……お腹減った?」

 

「……減った」

 

 今更取り繕ってどうにかなるわけもなく、俯きながら捻り出す。頭上でピトーがにんまり微笑む気配がしたために私はさらに身を縮め、直後背もたれが消えたためにころりと床に転がった。

 

 続けて重心に導かれ、横倒しになった視界をピトーが歩き、数歩でたどり着くと冷蔵庫を開け放った。

 

 扉が開くとよくわかる。懐かしさを感じる芳ばしい匂いが私の鼻にも届き、再びお腹の虫が鳴いた。

 

 毛布を引き付け顔を隠すしかない私の正面に匂いの元の紙袋を持ったピトーが腰を下ろす。羞恥心の最後の砦からちらりと目だけを覗かせると、ピトーが紙袋の中からそれを引っ張り出し、その見知った形状に、私は知らぬ間に唾を飲んでいた。

 

「なにこれ?紙の中にまた紙の包み?ふむ、剥がして食べるのかにゃ?」

 

 それは紛れもなく、ファストフードの王、ハンバーガーであった。

 

 簡単なものとはいえ、まともな料理だ。まともな料理なのだ。

 

 この三ヵ月、サバイバル生活で私たちが口にできたものは、すべて生か、あるいはただ焼いただけの肉と、大しておいしくもない果物類だけだった。

 

 調味料などあるはずもなく、おまけに量も不安定。野性味あふれる食事もまあ悪いものではなかったが、文明にどっぷり浸かってしまった私にはやはり物足りない部分が多かったのだ。

 

 三ヵ月ぶりに美味なる食事を前にして、私の胃袋がその身をねじ切らんばかりに強烈な催促を始めていた。視線がそれに釘付けになり、跳ね起きると毛布が剥がれ落ちる。

 

「ぴ、ぴとー、それ――」

 

 手を伸ばすまでもなく、拳二つ分のサイズのそれを、ピトーは私に差し出した。

 

「はいどーぞ。あとは薄茶色の短い棒がたくさんと……箱の中に……これ肉なの?まあ直接見たほうが早いか」

 

 私がハンバーガーの包みを半ば奪うように受け取ると、ピトーは覗き込んでいた袋を縦に裂く。すると、今度はサイドメニューのほうの王、フライドポテトと、次席のナゲットが姿を現し、裂かれた袋の上に広がった。ついでにその隣に何らかの飲み物、色合い的に恐らくコーラのカップが置かれ、懐かしの三セットに、私は沸き上がる生唾を抑えることができなかった。

 

「た、食べていいのよね?これ」

 

「うん?さすがに毒は入ってないと思うけど?」

 

 少々ズレたことを言うピトーに独り占めして良しとの許可をもらった私は、一秒の間さえもどかしく包み紙を剥がすと、具も見ずにそれにかぶりついた。

 

 油の猛烈なうまみが口いっぱいに広がった。

 

 オーソドックスな牛肉のパテと濃厚なチーズの味。冷めていても尚芳ばしく、衰えない味の暴力が私の舌をこれでもかと刺激する。しかし全くくどいということはない。パテとチーズの上に乗っかったトマトの酸味が油を中和し、レタスのシャキシャキ感がもたっとした肉とチーズの歯触りを心地よいものへと変えていた。

 

 マスタードとケチャップの両方に補助されたそれらが、口の中で手を取り合って楽しげにダンスを踊っている。ともすれば一瞬で離散しかねないそれらを、土台たるバンズがしっかりと一つにまとめていた。

 

 懐かしい味、とするには少しばかり肉感が強かったが、しかし間違いなく美味しかった。一口かじり、急かす胃をギリギリまで焦らして飲み込んだ私はすぐさま次の目標に襲い掛かった。

 

 薄茶色の短い棒、ストレートカットのフライドポテトである。さすがに揚げられてから時間がたっていることもあり、好みのカリカリした部分は残っていなかったが、しっとり柔らかいものもそれはそれで別のおいしさがある。

 

 油を吸い、塩気と混ざり合った滑らかな舌触り。じゃがいものクリーミーな食感と味が前面に押し出されたその部位は、むしろカリカリよりも料理を食べているという感覚が大きかった。

 

 大げさかもしれないが、三ヵ月分の我慢も含めて考えれば過度な評価でもない気がする。元バカマスターの宗家で食べたじゃがいものクリームスープよりも美味しいと、私は感じてしまった。

 

 文化的な食事。ああ、なんて素晴らしいのだろう。やはり私はもう路傍の野良猫には戻れないのだ。

 

 飲み込み、栄養源を受け取った胃が働いてじくじくと熱くなる。しかし、しかしまだ足りない。ハンバーガーをパンくず一つ逃さず平らげ、ポテトの塩気に水分を奪われた私はコーラのカップに突き刺さったストローを吸い上げる。少し弱いがシュワシュワの喉越しと甘味を楽しみつつ、再びポテトに手を伸ばそうとして、ふとナゲットのことを思い出した。

 

 そういえば、まだ手を付けていない。今更のように気付いた私はすぐさま紙箱を探し、そして見つけた。

 

 それはピトーの手の上に乗っていた。さらにはすでに開封されており、それがぼったくりの商品でなければ何ピースか数を減らしているようだった。視線を上に持っていく。ピトーの口がもごもご動いている。

 

(あっやっぱり食べるのね)

 

 実際、ピトーは私の独占に『いい』とも『だめ』とも言っていないわけなのだから文句を言えるはずもない。そもそも目くじらを立てるほどのことでもなく、いやでも一個くらいは食べたいなぁ、と、私は胃の中のガス的な意味で息を飲んだ。

 

 幸い、と言っていいのかは知らないが、ナゲットを咀嚼するピトーの表情はそれほどそれに執着しているようには見えない。口に合わなかったのだろうかと、食い意地の張った思考の隅で考えながら、私は「あれ?」と遠回しに伺いを立て始めた。

 

「あんまり食が進んでないみたいだけど、それ美味しくなかった?私は……まだまだ入るから、無理しなくてもいいのよ?」

 

 ピトーがはっとしたふうにナゲットに落ちた眼を引き上げて、そしてチラと泳がせる。

 

「んー……いやね、別に不味いわけじゃないんだけど……おいしくないってわけじゃないんだけど……」

 

「けど?」

 

 食欲のまま突き進む私にピトーは言い辛そうに口ごもった後、決意染みて喉を鳴らし、無神経な私の追及に短く答えたのだった。

 

「……悪魔のと比べると、ちょっとね」

 

 今度は私が口ごもることになった。

 

 いや、忌避感とか、そういったピト―に対する悪感情からではない。そんなものは三ヵ月前に打ち捨ててきた。なんなら私だって悪魔は憎いし、その死に触れ過ぎた今となってはもう同胞であるという感覚すら消え失せてしまった。たとえ目の前で肉を噛み千切るさまを見せつけられたとしても、私はピト―を恐れたりしない。

 

 だが、私は一度、ピトーに悪魔食いを拒絶する姿を見せてしまっている。彼女にとって、私のこの心境の変化は容易く信じられるものではない。

 

 それでも尚、ピトーは内心の告白を決意した。恐らく、答えをぼかすことによって私の中に生まれてしまう不安を慮ってのことだ。

 

 (悪魔)を好物とする自身の性。己の闇を吐露することは酷く恐ろしい。それを押し殺してまでの献身が、私の咽喉を詰まらせたのだ。

 

 私はこれにどう返せばいいのだろう。感謝?謝罪?それともストレートに『気にせず食べていいよ』と伝えるべきだろうか。

 

 どれも違う気がする。特に最後のは縁起が悪い。ありきたりな言葉では、この喉元の感情をうまく表現できそうになかった。

 

 どうすればいいか、数秒硬直して考えた結果、出てきた答えはこれだった。

 

「もし、私が死んだら、食べてもいいからね……?」

 

 考えたとはいえ、短絡的な自身の性はどうしようもないようだった。

 

 言ってから、それがとてつもない身悶え案件であることに気付き、喉のつまりが破裂した。開いたそこから細い空気が漏れ出して体積が減る。今までも含めてとうとう羞恥心が許容量を超えた私は、一周回って酷く緩慢にピトーから眼をそらした。

 

「……バカじゃないの?」

 

 その通りです。その通りだからもういじめないでやってください。

 

 当然声は出ず、呆れ果てたピトーのため息に私は一切の抵抗ができない。胸のあたりと顔面に溢れる羞恥に対処するだけで手いっぱいだった。

 コップいっぱいに注がれた羞恥心が、その淵で山脈を作りプルプル震えている。それを、零れないようにと念じながらただ見ていることしかできない。

 

 小さな衝撃一つで決壊しかねないその小山が、その時思わぬ追撃を受けて、盛大に爆発した。

 

「クロカが死んだらボクも死ぬんだから、食べられるわけがない。言ったでしょ?クロカがボクの生きる意味だって。クロカが死んだその瞬間にボクも死ぬ。ああでも、それが他殺だったらその前に復讐しちゃうかにゃ?そうなったら時間はできる?まあどのみち、クロカを食べる気にはならないと――ぐへっ」

 

 とても聞いていられなかった。だってもう……いろんなものが抑えられない。

 

 衝動的にピトーのお腹に突撃して、ぐりぐり頭をこすりつける。口元が緩んで変な顔になってしまうのを我慢することもできず、それを隠すためにも私の両腕はピトーの身体にしがみついていた。

 

 頭にポンと、温かいものが乗せられた。ピトーの手だ。私は穏やかに頭を撫でられながら、泣きたくなるくらいの幸福に、しばし身を委ねていた。

 

 

 

 

 

「はい!じゃあ!そろそろ出発しましょ!もうそろそろ人間たちが起き出す時間だから!」

 

 ようやく回復に成功して、身の内にしまい込めるくらいの羞恥心を携えた私は、それを誤魔化すために大げさなくらいに元気よくそう言って立ち上がった。

 

 残っていたナゲットの最後の一つがピトーの口の中に消え、碌に噛みもせず飲み込んだ彼女が私に訝しげな眼を向ける。

 

「眩暈がしてるんじゃなかったの……?」

 

「お腹にものを入れられたからかしら?バッチリ治ったわ!……嘘じゃないわよ?」

 

 未だ懐疑的な様子のピトーに小首を傾げてみせ、私は行動で示すべしとクローゼットを開け放ち、ほんの一瞬悩んでから掴んだそれを投げ渡した。

 

 元の持ち主の体型通り、XLは軽く超えているであろうサイズのモッズコートがピトーの上に覆いかぶさる。「う゛にゃっ」というくぐもったうめき声を聞きながら、対して私はダウンコートを引っ張り出すと袖を通した。

 

 ……うん。十分温かい。この分ならインナーは拝借しなくてもいいだろう。さすがにオッサンが着たそれを何枚も身に着けるのは抵抗が大きい。なんか臭いし。

 

 前を留めつつ振り返り、今度は旅行鞄をあさる。何故か表層にぶちまけられている下着類に眉をひそめながら中を掘削していくと、すぐに目ぼしいものが見つかった。財布と、そして冊子の地図だ。

 

 現在地もそうだが、せめてここがどの国なのかを知っておきたい。イラスト飛び交う観光案内図めいたそれに国旗か何かが登場することを祈りながら、私はそれを引っ張り出した。

 

 よほど有名な都市でもない限り、それが地球のどのあたりにあるかなんて私にはわからない。あれだけ吹雪くのだから北のほうではあるのだろうが、その検索条件では札幌くらいしか都市名が出てこないのだ。

 

 だがその杞憂は表紙を目にした瞬間に融解した。でかでかと英語で書かれたその都市名は、私のポンコツ記憶力でも瞬時に思い出せるくらいに有名なものだった。

 

「『にゅーよーく』……え!?ここアメリカなの!?」

 

 ニューヨークとは、あんなに強烈な吹雪が発生する過酷な土地だっただろうか。

 

 しかし現に、窓の外では未だ風雪が荒れ狂っている。あれが低体温症の幻覚でもない限り、数年に一度の大寒波に鉢合わせてしまった運の悪い二人組という結論は変わらないだろう。

 

(どうりで変なとこに出たと思ったわ……)

 

 地下道を出た瞬間の驚愕を思い出し、ため息をつく。気抜けした私に、ぷは、と息継ぎをしたピトーが言った。

 

「ニューヨークって確か、人間界でも指折りの大都会なんじゃなかった?世界最大のオークションがどうとか。道中じゃそれっぽいものはなかったけど」

 

「ええと……まあ、一口にニューヨークって言っても広いし……それに、ドリームオークションは九月開催よ?今の季節にやってるはずないじゃない」

 

「あれ?そうだっけ。見てみたかったんだけどにゃー」

 

 背後から衣擦れの音が近寄ってくる。振り向いた直後、頭上からの手にあっさりと地図の冊子を奪い取られた。ペラペラとかなりの速度でページをめくるピトーに、無意味と知りつつ頬を膨らませて見せてから、私は再び旅行鞄の発掘に着手し始めた。

 

「むしろやってなくてよかったわよ。検問なんてされたら『絶』でも機械類は騙せないし、世界最大のオークションなのよ?人外だってたんまりやって来るんだから」

 

 言いながら、入用なものをできうる限りコートのポケットに突っ込んでいく。お金と水と、カバンの底で潰れていた携帯食料。あとついでにお菓子。タバコにライター、歯磨きセットは必要ない。体型通りの比率を左右のポケットに詰め込んで、不要物をカーペットの上に撒き散らした私は「さて」と鷹揚に立ち上がり、振り向いた。

 

 ピトーも冊子をしまい、それに振り向く。

 

「じゃあ、行きましょっか。悪魔が支配してるっていっても州全部じゃないだろうし、とりあえずは住宅街を出て――」

 

「いっそのこと『ビル』ってのを見に行こうよ。オークションの代わりにさ!」

 

「まあ、いいんじゃない?この吹雪で見えればだけど」

 

 コートに着られながらの提案に、反論する気にもならず了承する。ピトーはにんまりと得意げに口角を上げ、そして暖房の上の窓を押し開けた。

 

 部屋の中にすさまじい寒気がなだれ込む。剥き出しの顔と足元がやっぱり寒暖差に身を震わせて、たじろぐ私を尻目にピトーは窓枠を潜り、飛び降りた。

 

 一歩遅れて私も窓枠に手をかける。吹雪に紛れ、下にうっすらとピトーの姿が見えていた。二階か三階か、そう高くはなさそうだ。

 

 一通り確かめて、今度こそ私も宙へ身を躍らせた。その際、窓を閉めることも忘れない。

 

 ぼすっと、雪の上に降り立った。いかにも安宿が店を構えていそうな狭い路地だ。雪で汚れが見えないことだけが不幸中の幸いだろう。もちろん人っ子一人見当たらない。

 

 さてどちらへ向かえばいいのやら。先導する腹積もりであるピトーの頭にフードを被せてやりながら、私は白い息を吐き出した。

 

「耳と尻尾は隠しておいてよね。あとできれば手も。人間に見られたら珍獣扱いからの闇オークション行きだから」

 

 他愛もない軽口だ。いくらなんでもその手合いにピトーが掴まるとは思っていない。

 

 いつものように益体もない会話を期待していた。だが、ピトーは私をちらと見もせず、フードを取り払ったのだ。

 

 あれ、さっきまで上機嫌だったじゃない。と内心で動揺し、首を傾げる。ぴたりと静止するピトーに、ややあってから耳に当たるのが鬱陶しかったのかと思い直し、それでも文句を言ってやろうとその肩に手をかけた。

 

 しかし次の瞬間、私は言葉の一つも発することなく、緊張に慄いていた。

 

「クロカ……何かに見られてる」

 

 反射的に私は仙術を行使していた。範囲を限界ギリギリまで広げて探る。ほんの小さな生命の揺らぎすら見逃さぬよう目を凝らし、隅々まで見回して、そして――

 

「だれも、いないわよ……?」

 

 少なくとも、私たちに視線が通る場所に人間は一人もいない。吹雪の目隠しを抜きにしてもだ。

 

 ピトーがゆっくりと自然体に戻り、顔だけで私に振り向く。

 

「でも、一瞬だったけど確かに感じた。クロカ、ボクたち……」

 

 その先をピトーは言わなかった。が、その焦燥感に満ちた表情が意味することは、嫌が応にも伝わった。

 

 息を飲むと、同時にピト―に手を取られた。

 

「ビルはやっぱりやめだ。クロカ、走るよ。ちゃんとついてきてね」

 

 悪魔の聴覚を以てしてようやく聞こえるくらいの小声で言うと、ピトーは私の手を引いた。我に返った私の脚が遅れて一歩踏み出すと、それを待たずにどんどんギアを上げられる。

 

 前後から風に打たれながら、私たちは人間のざわめきから離れ駆けていった。




当初の予定ではここまでを一話にまとめるつもりだったというアレ。次話こそ話が動きます。
感想とかとかはいつでも募集中ですください。
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