アザレアの花束 作:暮れ
彼女は、歌だって歌える。
彼女は、ギターを弾く。
中学生の──二年、その後半、一二月くらいからか。彼女は、エレキギターを弾き始めた。理由は知らない。
でも、人が音楽を始めるなんて、他人の音楽に魅せられたなんてのが大抵のことだ。彼女は誰かのギター捌きに魅せられたのだろう。
僕の行きつけの楽器屋、何度も何度もギターコーナーの前に来ては唸って帰っていく彼女に声を掛けてしまったのは、純粋に音楽に触れて欲しかったから。
実際にギターを演奏して見せたのはその二週間後。
家にまで上がり込んできたのは、今から一〇ヶ月前。
そして、今では立派に自分のギターを買って練習している彼女。
ギターを演奏しているときの表情はまだまだ固いけれど、その目はギターコーナーに目を輝かせていたあの時のままだ。
「……貴方のように、私も歌えれば良かったのですが」
囁くように響いていた僕の歌声がピタリと止まる。
僕が腕を預けたソレよりも遥かに薄い、深青に彩られたギターを肩から下げて、彼女はそう言う。
なかなか様になる格好だ。カラーリングも彼女の印象に合っていて、雰囲気が全体的に締まっている。
右手で撫でられたネックが、弦を通して掠れた音を立てた。
─だったら、君だって歌えばいいじゃないか。そんなに綺麗な声を持っているのに、勿体無い。
「……私はあまり歌は歌わないのですが」
気まずそうに目を背ける彼女。どうせ妹のことだろうと、勝手知ったるように予測する。いつまでも気にしていてはいけないと、彼女自身もよくわかっているくせに。
─それでもさ。上手さなんて努力すれば勝手についてくる。声の綺麗さは君が生まれ持った持ち物さ。君にしか出せないもの、君にしか出来ないことなんだ。
"君にしか出来ない"
彼女にとっての、魔法の言葉。
天才の妹がいる彼女にとって何でも真似してしまう妹は、まるで自分の上位互換のように自尊心にのしかかってくることだろう。
だから、妹に出来ないことを示してくれるこの言葉は、彼女にとって魔法の言葉。
言葉巧み、といえば聞きは悪いかもしれない。
少しばかり、個人的な願望が含まれていたことは否定しない。
僕は、彼女の歌声が聞きたかった。
長い時間、思案する彼女。
僕はその間に腕に抱えたモノ──アコースティックギター──で一曲、弾き終えていた。
最後のコード。その響きが静まる直前、彼女は意を決したように言った。
「……貴方の」
突然の声に驚きながらも、彼女の声に応える。
─僕の、なんだい?
「……貴方のアコギが合わせてくれるなら、
─練習。
「私も、バンドを組めばコーラスという形で歌うこともあるかもしれない、と考えたまでの結果です」
─そうかい。
なんて。
わかっているよ。もう二年も付き合ってきてるんだもの。表情の変化くらい造作もなく見抜けてしまうさ。
だから、イタズラしたくなっちゃうんだ。
─……ねえ、紗夜。
「……なんでしょうか」
─僕は嬉しいよ。君が、僕の前でだけ歌うって言ってくれて。
「~~~っ、い、言い方ってものがあるでしょう!」
─なんら変わらないでしょ?
「変わりますっ! わかっててやってますよね!?」
─それはそうだ。紗夜は反応がかわいいからね。
「かわっ………っうぅ……。質が悪いです……まったくもう……」
膨れっ面になる彼女。外ではこういう顔は見せないのに、僕の前ではこんな風に振る舞ってくれる辺り、心を許してくれてるみたいで心が踊ってしまう。
─さあ、早速歌おう?
「………わかりました」
そう言って、ギターをケースにしまう彼女。黒光りするギターケースの表面には、アクセサリーなどは見当たらない。
あ、でもジッパーのところにひとつだけ。青い薔薇の小さなストラップ。
ギターを買ったって聞いたときにプレゼントしたものだけど、大切にしてくれているみたい。
プレゼントしたものをつけてもらえるのは嬉しいことだな、とちらちら見ながら、僕も少しだけ移動する。
ベッドの前から、外がよく見える大きな窓の前へ。横を見たときに二人とも景色を見ることができる、いつもの場所。
背中に、トンと暖かいものがぶつかる。彼女の背中。
背中合わせで僕の演奏会。それが、いつもの僕らの時間。
ただ、今回は少しだけ違うみたい。
「何を歌えばいいのですか?」
息遣いが耳元で聞こえる。クラスメイトも、僕らの両親も知らない、僕らの距離。
─そうだなぁ。今は夕焼けが綺麗だし、これでもどう?
そう言って弦を
「…………夕焼けこやけ……ですか」
─そう。子守唄みたいに歌って欲しいな。
「……眠らないでくださいよ?」
歌ってくれる、ということだろう。素直じゃないな。
彼女の頭がこちら側に倒れ、二人の後頭部がぶつかり合う。彼女なりの演奏の催促の仕方。これが、僕らの演奏会の始まりの合図。
─ありがとう、紗夜。それじゃあ、弾くね。
部屋に響く柔らかい音。前奏の終わりに聞こえた、彼女の息遣い。
彼女は、歌も歌う。
◇
彼女は、青が似合う。
高校一年の夏。確か、入道雲が今年一高くて、蝉がやけにうるさかった日。
「……ちゃんと、今日も来ましたよ」
額に汗を滲ませた彼女は、少々うんざりしたようにこちらを見る。
─うん、えらいえらい。……ほらタオル。冷えた麦茶も用意してあるから、そんなところにいないであがってよ。
「貴方はそういう準備はいいですよね……」
─仕方ないでしょ?「学校で話題になるのは避けたいからー」って言って僕とスタジオ行くの避けてるのは紗夜じゃないか。
「……それは、そうですけど……」
歯切れ悪く返す彼女は、逃げるように視線を下に向けてうちに上がった。タオルで汗を拭き取りながら、あらかじめ用意しておいた麦茶をコップ一杯あおる。
「相変わらず片付いていますね」
コツン、とコップがテーブルに置かれる音。
ダイニング全体に広がった音の響きに反応して、彼女は呟く。遮るものがあまりないこの空間では、スリッパと床が擦れる音でさえやけに響く。
─リビングはあまり使わないからね。部屋に居たり、学校にいることの方が多いから。
そこまで喋ったところで、ひとつ思い付いた。
─そうだ、紗夜。
「……練習ですか? それなら部屋に……」
─その練習、今日はここでやらない?
「はあ……構いませんが、なんでまた」
─音、だよ。
「音……ああ、よく響く、ということですか」
そう。今思い付いた案。音のよく響くダイニングで演奏するならば、きっといつもより良い音が出せるだろう。
今日はご近所さんも出掛けていると聞いている。近所迷惑にはならないはずだ。
彼女は数秒考え込む。最初は納得したような表情をしていたのに、途中から怪訝な顔になって、そして意を決したようにうんと頷いた。表情の変化が随分分かりやすいけど、学校ではこういうことはないらしいのだから不思議なもの。
「…………いえ、やはり貴方の部屋でやりましょう」
……珍しい。彼女が他人の意見を却下するなんて。
─何か、あるのかい?
「………それは……その……」
純粋に不思議に思って投げた問いかけは、どうやら彼女を困らせてしまったらしい。
口を開きかけてはまた閉じる、という行為を繰り返す彼女。
─言うのが恥ずかしいなら、聞かないけど。
「いえ! ……その………いつもみたいに、背中合わせがいいな………と……」
段々と尻すぼみになっていった言葉も、音がよく響くダイニングでは、きっちりと僕の耳に届く。
彼女から発せられた言葉は、お互いの顔を紅潮させるのに十分な効果があった。
─…………。
「な、何か言ってください!」
─う、うん! えーっと……じゃあ、移動しようか。うん。
「そ、そうしましょう」
─そっ、そっか。なるほどね、あれがお気に入りなんだね……。
「………そ、そうですよ…」
お互い、歩幅をわざと合わせないようにして、階段を昇る。
胸のうちが熱くなるのを感じる。あの空間が好きなのは彼女だけじゃない。僕だって、静かに音を響かせるあの時間が好きなんだ。あの、彼女と背中合わせでいる時間が好きなんだ。
部屋に着いて、電気をつけずにいつも通り背中合わせで座る。
クーラーは効かせていて、部屋は適度に涼しいはずなのに、なぜだか今日は背中が熱くて。傾けられた彼女の頭がやけに重たくて。
背部を、彼女と癒合したかのような感じがした。
「…始めましょう?」
─うん、そうだね。
気にしてないような振りをしても、お互いの
今更、この背中合わせが恥ずかしいような気がしてしまった。そんなことで僕の心拍が早くなる度、彼女の心拍も早くなって。
互いに熱を持ったまま、外で鳴く蝉たちの喧騒が止むのを待つ。
残響を残して鳴き終えた蛁蟟が静まるのと同時に、僕が口を開いた。
─それじゃあ、今日は……
今日も始まる、二人だけの演奏会。
僕が奏者で、彼女が歌手。
僕しか知らない、彼女の歌声。
窓から覗いた青は、やがて蒼に。僕らは夜まで背中合わせ。
彼女には、夜の青が似合う。
◇
彼女は、恋だってする。
高校二年の秋。雨粒と屋根が心地よく音を奏でた日。
扉を開けた先にいる彼女は、いつかの時と違ってきちんと蝙蝠傘を掲げていた。
「バンド活動が落ち着いてきたので、歌いに来ました」
─歌いに来た、なんて君から聞く日が来るとはね。
……うん。いいよ、あがって。
「お邪魔します」
律儀なところ、本当に変わらない。
うちに上がるのは一年ぶりくらいじゃないかな。学校が違っても、ライブで会ってたから離れていた感覚は無いし、むしろ距離は近くなったと思う。
─突然だったから、お茶請けにはクッキーしか準備出来なかったよ。
「十分です。…突然、それも強引に来ることになってごめんなさい」
─いいって。僕も久し振りに紗夜の歌声が聞きたかったんだ。
ライブで彼女の歌声を聴くことは少ない。彼女の傍らにはいつも歌姫がいるから。間に入るコーラスが、彼女の歌声を聴く唯一の瞬間だった。
「…今日は、歌いたい曲があるんです」
─珍しいね。……でも、僕が弾けるとは……
「大丈夫です。貴方が弾ける曲ですから」
さて、どれなのか。どうやらタイトルは教えてくれなさそうだし、また背中合わせになってから聞くしかないのかな。
「……ほら、早く歌いましょう」
彼女はまるで何かを急ぐように僕を急かす。
彼女に押されて、またいつもの僕の部屋。換気のために窓を開け放っていたから、流れ込む空気が少し冷たい。
「…窓は、閉めないでください」
─どうして?
「……雨の音を聞きながら歌いたいんです」
今日の彼女は、なんだか注文が多い。
違和感を感じても仕方ないので言われた通りにしているが、一体何を画策しているのか。
─そっか。うん、紗夜の頼みなら断るわけにはいかないね。
「……ホントに、そういうところ」
小さく呟いた彼女の声は、雨にかき消されて聞こえない。僕はそんな声はいざ知らず、いつも通り窓を右側に、ギターを抱えて座り込む。
背中にそっと伝わる衝撃、そして人肌の熱。もう何回目になるかわからない、いつもの二人。
─さて、いい加減歌う曲を教えてもらえないと困るのだけれど。
数秒の静寂。彼女は答えない。
僕がもう一度催促をしようとしたとき、彼女の頭がこちらにぶつかる。
刹那、彼女が息を吸う音が聞こえた。
「──♪」
確かに、知っている曲だった。僕だって弾ける曲だった。僕が一番最初に憧れた曲だったから。
でも、これは──
「──♪」
彼女は歌うことを止めない。雨に消え入りそうな声でも、確かに僕には伝わる声。
僕は迷って、迷って、とりあえず伴奏を弾くことに決めた。
ちょうどAメロが終わる。Bメロの開始に合わせて、弦を
僕の伴奏が入ると、途端に彼女の声も鮮やかさが増した。
その色を持った声は、間違いなく僕に向けられているもので。嫌でもその歌詞は僕の心に訴えてくる。
彼女が歌い始めたのは、「恋」をテーマにした歌。
相手に思いを伝えるための歌だった。
彼女がこの歌を歌うということがどういうことなのか。そんな事がわからないくらい僕は朴念仁じゃない。
間違いなく。
彼女は「僕のことが好きだ」と言っているんだ。
もう、彼女との付き合いも四年目になる。
僕が彼女の感情を読み取れるなら、僕の考え方など彼女にはお見通しだということだろう。
……ああ、もうすぐサビだ。確かこの曲には男性のコーラスがあったっけ。
なら、答えようかな。弾き語りでコーラスをやるなんて珍しい事この上ないけど。
「「───♪」」
背中に張り付いていた暖かさが少しだけ揺れる。
それでも声は揺れずに、確かにメロディを紡ぎ続ける。
……ああ、そうだよ。
「「──♪」」
僕は、貴女のことが好きなんだ。
「「────♪」」
貴女が僕を思ってくれるように、僕も貴女を思っているんだ。
「「──────♪」」
そうして僕らは、淡くささやかに恋をする。
◇
いつの間にか歌は終わってしまって。
湿度の高い部屋に、ギターの音が反響し続ける。
背中の暖かさが揺らいで、離れる。
それに反応して振り向いたとき、二人の顔の距離は数センチを数えるほどになっていた。
「──好き。貴方のことが、 好き」
ふわり、と吹き込んだ風が彼女の髪をなびかせる。
彼女の口から放たれる、想いの結晶。そのすべてを受け止めて、僕も口を開く。
─ああ、僕も。紗夜のことが好きだ。
君にギターを教える時間が好きだ。君に演奏を見てもらうのが好きだ。
背中合わせで演奏するのが好きだ。背中合わせで一緒に歌うのが好きだ。
君が歌う、その歌声が好きだ。
彼女が、目をつむる。そういうことだろう、と半ば本能的に理解した。抱えていたギターを脇においやって、彼女の肩を掴む。
互いの息遣い、表情、そんなものを読み取る余裕なんてなかった。
ただ少しずつ縮まる距離を、顔を傾けて迎える。
響くのは雨の音。二人の息遣い。
その音の中で僕らは、初めてのキスをした。