アザレアの花束 作:暮れ
注ぐミルクは、想いの目安。
ハートを描くのは一度だけ。
商店街、十字路の一角。
静かに鈴を鳴らして、開き慣れた扉の取っ手を引く。
肌を包む暖かな空気を感じながら、背負っていたリュックの肩紐を片方外した。
軽く中の様子を一望。
椅子に
柔らかなアコースティックギターの音色が包む店内は、今日も橙色の照明に包まれている。
入り口のマットから足を踏み出し、数秒。後ろから扉の閉まる音が聞こえた。
足に嵌めたスニーカーが、ブラウンのフローリングとぶつかって僅かに音を鳴らす。
誰かが本のページを
陶器製のカップが、コーヒー受けに置かれる音。
それらを天井のスピーカーから流れる音と共に聞き流しながら、目指すのはいつものダークブラウンの丸机。
カウンターから見て、奥に二番目の壁際。どんなに日が傾いても、足元までにしか日が当たらない席。
丸机の足元にリュックを置いて、音をあまり立てないように椅子を引く。
扉の方──外の景色が見える、窓の方を向きながらゆっくりと椅子に腰かけると、急ぐでもなくポケットからスマホを取り出して、スリープ解除。
ロック画面に表示された時計盤は、午後五時を指していた。
─ん。
時計の示す時間に少し驚いて声を漏らせば、扉から差す光に陰りが生まれた。
「ただいまー!」
僕が開いたときとは幾らか勢い強く引かれた扉から、もう何回目になるかも数え飽きた声と言葉を聞く。
今日は僕も大分遅く着いた。
いつもはもう二○分ほど見つめる画面をそっと閉じて、流れるように足元のリュックへ。
扉の方を見やれば、その声の
微笑みを浮かべた彼女に、ただいつも通り一言。
─おかえり。つぐみ。
「えへへ……うん! ただいま!」
柔らかな初夏の風が、彼女の髪を揺らした。
◇
僕が彼女の自宅こと羽沢珈琲店に訪れる日に、決まって彼女は僕より遅れて帰ってくる。
─相変わらず、毎日忙しそうだね。高校に進学してからは、尚更。
「生徒会に入ったからね。時々練習日に仕事が入ったりするから、困っちゃうかな」
学校から帰ってきた彼女は流れるようにエプロン姿に着替えて、早速お店の手伝いを始める。
普段は忙しい彼女がこうして僕と彼女が話していられるのは、今日が偶々お客さんの少ない日だから。
─あまり、無理はしないでね? ……それじゃあ、オーダー、いいかな?
「はい。
──ラテアート、ミルク多め。
この言葉を使わなくなってから、既に半年経つ。
名前も、砕けた口調も、その笑顔も……いや笑顔は違うか。
それらは全て、僕がこの椅子に座った回数分積み重なって来たもの。
元気よく店の奥へと消えていく彼女を見送って、目を閉じる。
最初は、彼女の父親が淹れるドリップコーヒーだった。
限りなく黒に近い色をしたコーヒーは、残念ながら僕の口には合わなかった。
次は素直に、カフェラテを頼んだ。
胸にトレイを抱えた彼女の姿を見たのは、それが初めてだった。
次も素直に、カフェラテを頼んだ。
次も、その次も。
差し出されるメニュー表に目を通した振りをして、カフェラテを頼んだ。
数日おきに来店する度、僕はカフェラテを頼んだ。
そして、この椅子に座った回数が一六を数えた時。
─カフェラテ、ひと─
「カフェラテ、おひとつですね。承りました」
先を越されるように、注文の確認が飛んでくる。
驚いて顔を上げた時、僕は初めて彼女の笑顔を見た。
「いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます」
若干一五歳の僕の頭は、素直になったほうがいいことがあると知った。
それが、一年前。
葉桜の間から日の光が漏れ出す、梅雨前の初夏。
「──おまたせ!」
だんだん大きくなる足音、それと共に響いた声に目を開ける。
手前に置かれたコーヒーカップには、半年前よりも綺麗に描かれたリーフのラテアート。
僕だけの特別メニューは、カフェラテと同じ値段。
─ありがとう。
「えへへ……どういたしまして!」
柔らかい彼女の笑顔に、自ずとこちらも頬が緩む。
僕に出されるラテアートは、必ず彼女が淹れる。
ダークブラウンのテーブルに勉強道具を広げるようになった、去年の秋。
直径数十センチのテーブルの向こう側、僕がギリギリ手の届く位置。
そこに置かれたカフェラテは、いつも通り流し目で見るには
真っ白のカップの中心、そこに描かれた葉っぱの形。
─これは。
僕はいつも、カフェラテが運ばれてきた時、第一声に「ありがとう」と言葉を告げていた。
そこに返される「どういたしまして」の弾んだ声。
そのラテアートが届けられるまで、彼女と交わす会話はその二言だけだった。
「なんというか……サービス、みたいなものです。いつもお父さんのカフェラテを飲んでくれるから……」
─もしかして、これは君が?
「も、もちろん、お代はとりません! ……その、大切な友達に見せたいなって練習してたんですけど、味に自信がなくって……」
─それで、いつも店長さんのカフェラテを飲んでる僕に?
「………はい。……その嫌だったりしたら──」
その言葉を聞き終わる前に、陶器のカップを手にとって口に運ぶ。
………店長の出すカフェラテよりも、ミルクが多い。
残念ながら僕は、彼女が期待しているほど舌が肥えているわけではなかった。
つまり、普段飲むカフェラテとの簡単な違い、その程度の感想しか出てこなかったわけだったが。
─……いいな、これ。
ぼそりと呟く。
甘さがちょうどいい。自分が思うより僕は甘党だったのかもしれない。なぜ最初にブラックコーヒーなど頼んだのか。
「本当!?」
がばり、と顔を寄せられる。
吐息すら感じられそうな距離に、どくり、と心臓が跳ねた。
それが、半年前。葉を散らした木が商店街に並ぶ、冬の日のこと。
─うん、おいしい。……すっかり舌を掴まれちゃったな。
「この半年間、一番淹れてたのは君へのラテアートだもん。いつもおいしいって言ってくれるから励みになるよ」
─なんか、専属のバリスタを抱えた感じ。
「あはは! そうかもしれないね!」
彼女のことを呼び捨てにするようになったのが、三ヶ月前。
彼女の敬語が外れたのは、つい一ヶ月前。
ゆっくり、ゆっくりと縮まる距離は、まるでフィルターを通るコーヒーのよう。
「すいませーん!」
笑い合う僕らの方に向かって、声が飛んでくる。
彼女の後ろ、窓際の席のお客さんから注文らしい。
─ほら、呼ばれてるよ。
「……今日はこれまで、だね」
僕らと彼女が話せるのは、お客さんが少ないから。
長い時間話せることは
それでも。
─また、僕が来たときに、ね。
「……うん! それじゃあね!」
最後に笑顔を向けて、彼女が離れていく。
店内の時計を見れば、示す時間は五時二○分。外はもう暗くなり始め、強かった西日もその姿を隠し始めている。
今日のお話はもうおしまい。それでもきっと、数日後にまた会える。
彼女の笑顔に会うために、また僕はここに来る。
◇
街路樹の紅葉が眩しい季節。
すっかり夜の帳が落ち、外灯が商店街を照らす午後六時。既に人の居なくなった店内を眺めながら、文庫本に目を通す。
白い紙に、橙色の照明が落とされる。
あまり利用していなかった学校の図書館に頻繁に足を運ぶようになってから既に半年近く経つ。
羽沢珈琲店に閉店までいることが多くなったのも、ここで読書をするようになったから。
彼女の両親も、僕のことを随分と気に入ってくれているようで、特に咎められることもなく、逆に歓迎さえしてくれた。
「ただいまー……」
疲れた様子の彼女が帰ってくる。
今日は随分と遅かった。流石にラテアートを作って貰おうなどとは考えていない。
ただいつも通り、一言。
─おかえり、つぐみ。
「うん、ただいま」
それでも笑顔を返してくれる彼女。
僕は少しだけ眉をひそめる。
─今日はもう遅いし、ラテアートはお預けにしておくよ。とにかく、ちゃんと休んでね。
「だめだって。君のラテアートは、私が作るんだもの」
彼女は、この期に及んでラテアートを作る気らしい。
─つぐみに無理させてまで、ラテアートを頼みたくはないよ。
学校生活、生徒会、バンドと、様々なことをこなす彼女だからこそ、僕の前でくらいは働いて欲しくない。
「……君が、私のラテアートをおいしいって言ってくれることが癒しになる、って言ったら?」
僕がそう言っても、彼女は一歩も退こうとしてくれない。
何も言い返せない僕の様子に、彼女はさっきの疲れも見せずに得意気に微笑んでみせた。
─わかった、わかったよ。降参だ。
「それじゃあ、少し待っててね」
彼女はさっきよりも明るく笑って、店の奥へ。
─はぁ。
ため息を吐いて、栞を挟んでおいたページを開く。
さっきと変わらず薄く橙色に染まった紙に目を落としては、描かれた世界へと入り込んでいく。
六回ほど紙を
また栞を挟んで、本を閉じる。
「おまたせ!」
ああ、いつもの彼女の言葉。
─ありがとう、つぐみ。
一年前、延いては半年前よりも、上手くなった彼女のラテアート。僕の舌も、もはやすっかりこの味に染められてしまった。
対面の席に彼女が座る。
今日はもう僕以外にお客さんは居ない。
「こうやって話すのも、あまり珍しくなくなったね」
─閉店まで居座ることが多くなったからね。……迷惑でなければいいんだけど。
「全然! そんなことないよ。君と話すのは楽しいから、むしろ居て欲しいくらい」
言葉を交わす度に顔に浮かべた微笑みを大きくしていく彼女。
ほんのりと赤く染まった頬が、とてもかわいらしい。
─……そういえば、さ。
「ん?」
手に持ったカップを揺らせば、描かれたリーフも揺れ動く。
ずっと、というか、この数ヵ月間気になっていたことを、彼女に訪ねた。
─リーフ以外の形って、描いたりしないの? ほら、例えば……ハートとか。基本だって見たことあるけど。
そう言うと、肩をびくりと揺らして、ほんのりとだけ染めていた頬を真っ赤に染める彼女。
その様子を見て、初めて自分の言ったことに気づいた。
─……ごめん。異性にハートのラテアートを作れっていうのはまずかったね。
そもそも、彼女がラテアートを作る相手など僕か、
「あっ、いや……こっちこそ、変な反応しちゃって、ごめんね……その……っべ、別に練習してない訳じゃ……」
ぼそりと付け加えられた後半、その言葉を聞き取ることは、スピーカーから流れるアコースティックギターが許してくれなかった。
─……まぁ、気が向いて出してくれることがあれば、嬉しいよ。
相変わらず真っ赤なままの彼女に、さも気にしていない、というように言葉を掛ける。
その日一杯、というか僕が店を出るまでの数十分間、彼女が目を合わせてくれることはなかったけれど。
「……うん、いつか、いつか、ね?」
それでもはっきりとそう答えてくれた声に、僕は内心、とても嬉しくなっていたんだ。
◇
新年の騒がしい空気も落ち着き始め、多くのお店が営業を再開した、その夜。
─じゃあ、頼もうかな。
「うん、それじゃあ、淹れてくるね」
店の奥に消えていく彼女の姿を見るのは、一体何回目になるだろうか。
すっかり日も落ち、さっきまでの喧騒が嘘のように退いていった閉店後の店内。
お店の看板が「close」に切り替わるのと同時に、お店を立ち去ろうとすると、突然、彼女に止められたのが、つい十数分前のこと。
今日は、彼女の誕生日だった。
彼女の友人、お店の常連さん、その他、今日来店していた人々みんなが、彼女の誕生日を祝った。
もちろん僕も、その中の一人。
彼女が髪に着けているひまわりの髪止めは、数時間前に僕がプレゼントしたもの。
花言葉は───言うまでもない。
中心にいることに慣れない彼女は、持ち上げられる度に恥ずかしそうにしていて、見ていてとてもかわいらしかった。
──最後に、一緒にラテアート飲もっか。
そう僕を誘った彼女は、今二人分のラテアートを描いているに違いない。
いつもの席、ダークブラウンのテーブルの前に座って、何をするでもなく彼女を待つ。
商店街は静まり返り、ただ外灯が僅かに道を照らす。
営業を終えたこのお店も、普段のアコースティックギターの音色は響いていない。
やがて聞こえてきた足音。
珍しく声を掛けられる前に顔を上げた。
「──おまたせ」
─うん、ありがとう。
最早、大切にすら思えるほど交わしてきた、僕と彼女のやり取り。
そして僕の前に、綺麗にリーフの描かれたラテアートが───
─え。
置かれなかった。
驚きに、目を見開く。
いや、ラテアートは置かれているのだ。
ただ、そこに描かれた形は───
「……今日の私は、ちょっとだけ欲張りだけど、いいかな?」
─それは、いいんだけれど。
目の前に置かれたラテアート。
その中に描かれていたのは、正真正銘、ハートだった。
震える声で、恐る恐る尋ねる。
─……これは、友愛?
「ううん、違うよ」
そう答える彼女の頬は、いつかの時ほとではなくとも、十分に赤い。
──つまり、そういうことだろう。
目の前の席に、彼女が座る。
彼女の側に置かれたラテアートにも、ハートの形。
ああ、そういえば、彼女もブラックコーヒーは苦手なんだっけ。
じゃあきっと、唇に触れるのは甘い方がいい筈。
二人で一緒に、ラテアートを飲む。
口に吸い込まれていくハートの形。まるで彼女の想いを飲み込んでいるみたい。
ほっと一息つけば、彼女がまた口を開く。
「……いっこ、お願いしていいかな?」
─……いいよ。今日の主役は、つぐみだから。
カップを口に運んで、一口。
「……私、君の前だと、結構甘えんぼうになっちゃうみたいなの」
─うん。
「うちに帰って、真っ先に君の姿を見つけて、ついつい駆け寄っちゃって」
─うん。
「私が泣いちゃいそうな時だって、そういう時に限って、君は私の近くに居てくれた」
─うん。
「私には、沢山大切にしたいものがあって、もちろん、君のことだって、君とのこの関係だって、ずっと大切にしていきたいから」
─……うん。
また、一口。
カップに残るカフェラテは、あと少しで飲み干されるだろう。
リーフを描いていた時よりも、ミルクの量は多くて、とても、とても甘くて、おいしい。
「……だから君にはこれからも、私の隣に居て欲しい、です」
小さく、ぽつりぽつりと彼女の口から
どれも落とさないように、しっかりとカップに受け止めて、最後のハートを飲み干した。
─もちろん。
一言だけ。
この静寂を、声帯を震わせただけで崩れてしまいそうな、彼女の描いた
「……ありがとう」
二人のカップが
一息吐くのは、同時。
彼女の腕が伸びてくるのは、きっとお互いが予想できたこと。
刹那、目に映った時計の針が示すは、午後七時。
誰も知らない、二人きりの、お店の一角。
賑わう店内を忘れ、二人のための静寂が、縮まる距離を彩る。
アコースティックギターも響かない、橙色に照らされたお店の中。
触れるようなファーストキスは、甘い甘い、ラテアートの味がした。