アザレアの花束 作:暮れ
敬語かのちゃん先輩概念が浮かんだので。
あれだけ積もっていた雪が溶け始めた。
朝、息を吐いて、それが白くないことに少しだけ寂しさを感じている。こんな歳になっても、白く凍りつく吐息は何故か面白く見えていた。
二月下旬でも、もうこの地域は最高気温が一桁後半になる程度には暖かい地域だった。進学先はもっと寒い地域なので、体調を崩さないかとよく親に心配されている。
冬は、空が白く見える。
あるいは、夏の空が青く見え過ぎるのかもしれない。
どちらにせよ、冬の空は白んでいる。雪が降っていなくても、曇りでも、青空でも。
元々白いキャンパスに、色鉛筆で青空を描いて、その上からまた白い絵の具で塗ったみたいに、冬の空は白い。
─花音。
でも例えば、彼女の髪はいつだって水色だった。少しウェーブの掛かった髪の毛は、彼女の色を表している気がした。
モノトーンとは言い切れない、けれど彩度の限りなく低い景色の上で、彼女の水色は揺れている。水を多く含んだ絵具のように、景色を洗い流して、塗りつぶしている。
その水色が、目の前で揺れた。
別に家が近所だとか、そういうわけではなかったけれど、僕は花音を学校近くまで送る、ということを時々していた。
いつもは友達が一緒に登校している、と彼女から聞いていた。
僕の通学路から外れてだいたい五分ほど歩くと、花音の自宅があった。
七時と、二〇分。それくらいに彼女の自宅の前に行くと、ほんのたまに、彼女が立っていることがある。
「あ……おはよう、ございます」
彼女は返して、こちらに近寄ってくる。
今日は僕が送る日、らしい。
高い塀に囲まれた玄関を覗くまで、その日なのかどうなのかは分からない。
学校に提出した通学路は、一度も書かれたその通りに歩いたことはなかった。特に悪いことだとは思っていないけれど、実際はまずいことなのかもしれない。
僕は、すっきりと朝を迎えられる方ではない。
目覚ましが鳴ってから、大体五分ほどでやっと布団から出てくるくらいに、寝起きは悪い。
気を抜けばふらりとしそうな眠気と、少しの倦怠感に包まれて、僕は彼女に挨拶をする。
だからなのか、彼女の声は、やけに頭のなかで反響する。
それが少しだけ心地良い。
「先輩」
─……ん。どうしたの。
「どうしたの、はこっちの台詞です。やけにボーッとしてますよ」
─眠いだけだから、気にしないで。
「……そうですか」
彼女も眠そうにしている。いつもよりも、瞼が下がり気味だった。
コンクリートの黒を見つめているうちに、それが明るくなっていくのが分かった。後方から差す朝日だった。
影が濃くなって、僕が見つめている場所だけが、まだ黒いままになっていた。
一度だけ、彼女の友人に会ったことがあった。
一年前の、まだ息が白く凍りついていた時期だった。
僕は、敬語を話す花音しか知らなかったから、崩れるように丸くなる彼女の声を、やけに物珍しく感じていたのを思い出す。
「卒業式、明後日ですね」
─……ああ、うん。
「えっと、受験、お疲れ様でした」
─まだ合格したわけじゃないけどね。ありがとう。
歩調を花音に合わせて、半歩だけ花音よりも前を歩く。
そうしないと花音は迷ってしまう。
住宅街は迷路のようで、彼女はよく迷う。けれど、住宅街を抜けてしまえばあとは一本道だった。
住宅街を抜けて、まっすぐ。お寺の前に繋がる急勾配の石造りの階段。
僕はその手前を右に曲がり、彼女は階段を上っていく。
一五分くらいの長くも短くもない道のりの、そこが最後だった。
「──先輩」
─……ごめん、またボーッとしてた。
「大丈夫ですか? 受験が終わったから、体に来てるのかも」
─そんなに心配することじゃないよ。大丈夫。
苦く笑ってはぐらかす。感慨に耽っているとは言えなかった。
誤魔化すために、舌の上に乗った言葉を連ねてゆく。
─花音こそ、来年度は受験生だろ。進路とか決まってるのか?
「……方向は、はい」
─優秀なことで。
「釘を刺したのは先輩じゃないですか」
─そんなことあったっけ。
「ありました」
白く空を覆う雲の中に、一際重たい、鈍色の雲を見つけた。海月は、あそこまで気味悪くはないなと思って、口を開く。
─また海月見に行こうか。
「──行けるんですか……!?」
眠気眼だった花音の表情に白が差して、少し明るくなった。
さっきまでお互い前しか向いていなかったのに、花音がこちらを振り向くものだから、反射的に僕も花音の方を向いてしまった。
─……ん…………まぁ、来年帰省したときとか。
「……遠い……」
─遠いか。ごめん。卒業後は時間取れそうに無くてな。
「いいんです。けど、楽しみにはしてますね」
彼女が静かに笑う。笑って言う。
透き通った吐息が舞って、彼女の前髪がふわりと揺れた。広がっていく筈の白い残り香は、やはり見られなかった。
風が吹く。そよ風に似た、春を告げる優しい風なのに、まだマフラーに顔を埋めていたかった。
─……まだ、寒いな。
「早く、暖かくなるといいですね」
緩やかな坂道の向こう側に、灰色の階段が見えた。
傷んだコンクリートの階段と、錆び付いた赤い手すりの、よく見慣れた分かれ道。
「先輩」
─ん。
「その、卒業式、袴とか着るんですか?」
─うーん、それはお楽しみで。
「むぅ、意地悪ですね」
─意地悪って程でもないでしょ。
歩調を緩めたりはしなかった。緩めたりしたら、きっと惜しくなって、立ち止まって、そう、遅刻してしまう。
手すりの右側から、彼女が階段を上り始める。僕は初めて立ち止まって、その様子を見ていた。
いつも通りの光景に少しだけ飽きてしまって、四段目に足が掛かったのを見て、僕も背を向ける。
「先輩」
歩き始めて間もないところ。彼女の髪を横凪ぎに仰ぐ風が吹いたところで、彼女に向かって振り返る。
階段は、八段目に足が掛かったところだった。だから僕は彼女を見上げている。そして、横に太く手足を伸ばした樹木のせいで、彼女があと一段階段を上るともう、彼女の顔が欠けてしまうような位置だった。
「その、ご卒業、おめでとうございます」
振り返った直後に目が合って、思わず瞬きをした。もう一度目を見たときにはもう目線はズレていて、そんな言葉が飛んできていた。
僕が何も言わず、しかも歩き出さないうちに、彼女は小さな歩幅のまま急ぎ足で階段を上っていった。
そのまま靴音が小さくなっていったのを聞いて、僕は彼女を追いかけるべきだったのだと、やっと気が付いた。
一度やり損ねたことをやろうとするのは僕にとっては凄く億劫で、散々迷った挙げ句、全部明日の僕に任せることにした。
そうやって思考が纏まる頃には、既に階段から遠ざかっていた。
三月はもう、明日だった。
もう吐息も白くないことを、やはり寂しいと思った。
◇
筒型の卒業証書ホルダーが好きだった。
卒業証書を二つ折りにして明確な折り線を付けてしまうのは、なんとなく、ガラスにヒビを入れてしまうような背徳感がある。
そんなことを小学校からずっと思っていて、でも結局は、四つ角をきちんと嵌め込んで、パタリと綴じ込んでしまう。
あまり綺麗にできなかった折り目を見て、晴れの卒業式なのだから、となるべく考えないように、気にしないことにしていた。
僕らの部活の同期は、他の所と比べても袴を着る人が多かった。
逆に僕のスーツは浮いている気がする。白いワイシャツにしなかっただけ、まだ溶け込めていると思いたかった。
可愛がった後輩たちと、沢山話をして、沢山写真を撮った。
同期と、近いうちに旅行に行こうかと約束をして、互いの合格を祈り合った。
別れを惜しむように皆と話をして、皆で笑い合っていた。
『学校、着きました』
皆にさよならを告げて、人混みの中を掻き分けて進んでいく。ある一点を過ぎた辺りで景色が明るくなって、白んでいる。
思っていたよりもとても近いところで、水色が揺れていた。
親には、せっかくなんだから、と言われていた。さっさと帰って、豪勢な夕食準備しておく、とも言われていた。
─花音。
僅かに反応して、彼女がそのままこちらを振り返った。
先輩、とこちらに呼び掛ける姿は、制服のせいで周りよりも一際目立って見える。
桜の蕾が膨らんでいるのを、彼女は見ていた。もう三月なんですね、と呟いていた。
─校門前でも固まってるのもマズいし、帰ろうか。
「はい」
頷いて、隣に彼女が立つ。
三月になって、何かが変わったわけではないと思っている。
桜の蕾は昨日も同じくらい膨らんでいた。
三月なんですね、と言った彼女の真意は違うところにある。それがなにかは、あまり知りたいことではなかった。
「先輩、卒業証書見せてもらっていいですか?」
─ああ、いいよ。
脇に抱えていた藍色のホルダーを渡す。それを両手で受け取った彼女は、表紙を見て、卒業証書と象られた金色の文字をなぞる。それから丁寧に表紙を捲る。
彼女が卒業証書を見つめたまま立ち止まったので、僕も立ち止まって彼女を見つめる。
「……」
未だ寂しい街路樹、冷たい枯れ葉が風になびいている。
彼女を見飽きて、空を見上げて、でも空はやはり白いままだった。
空に向かって吹いた吐息は白ですらなかった。
「ありがとうございました」
パッと顔を向ける。丁寧に差し出された卒業証書を受け取って、また脇に挟む。
革靴とローファーの底が硬い音を鳴らしているだけ。
─海月を見に行く約束だけどさ。
花音の目がこちらを向いた。
─もしかしたら、今月中に行けるかもしれない。前期で終われば。
「…………本当、ですよね?」
随分と訝しげな目をする。
特に何も言わずにいると、安心したように表情を柔らかくした。
「それは、良かったです。もう会えないかと思ってましたから」
─受かれば、だからね。
「先輩なら、受かってますよ」
─そりゃ、どうも。
「本気ですよ。買い被ってなんかいませんからね」
─わかってるって。ありがと。
◇
それから五日後。
彼女の輝く瞳を裏切ることにはならなかったようで、胸を撫で下ろした。
その、七日後。
彼女と、水族館に行った。
◇
荷物は全て送り終わっていた。
貴重品を詰めたバックだけ持って、インターホンを押す。
「──あ、先輩」
─寝てたらいいって、昨日も連絡したはずなんだけど。
「ダメですよ。暫く会えないんですから、挨拶くらい」
未だ寝間着で、寝癖の跳ねた頭のまま。眠気眼を擦って、そう言う。
最近、花音は随分とはしゃぐようになった。
こんな格好を見るのは、前までとても珍しいことだった。
「準備、しますから。待っててくださいね…………あ、やっぱり上がっててください」
彼女は廊下の奥に消えていく。紐靴を脱ぐのが面倒で、扉をくぐった玄関で時計の針を見つめていることにした。
規則正しい針の音に瞼が重くなり始めた頃、お待たせしました、と目覚ましが鳴る。
「行きましょう、先輩」
─……ん。
未だ乱れかかっていた水色を梳いてやる。
長い睫毛の瞳を閉じて、開いて、彼女は感謝を述べた。
「行ってきます」
それに重ねて、行ってらっしゃい。
玄関をくぐり抜けた先、道ばたのコンクリートの隙間から黄色い花が顔を覗かせる。
いつの間にか冬は終わっていて、空は青く、草木は緑に繁り始めていた。
「じゃあ、行きましょう、先輩」
彼女の髪は、春になっても目を惹く。
色づく景色の中で、風に揺れる水色を追いかける。
─花音。
「なんですか?」
─また、海月見に行こうか。
彼女がふわりと笑う。
応えるように水色は揺れて、彼女と目線がぶつかった。
「──はい。約束ですよ?」
今日は、別れ道はない。
目的地に着いてしまうまで、沢山、惜しみ無く話をしよう。
そう呟いて、手を繋ぐ。
確かな楔を一つだけ。
決して、離れることのないように。
フェリチエート。
日本語で表記するなら「フェリチェート」が適切なんですけど、語感的にこの方がいいな、と。