アザレアの花束   作:暮れ

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奥沢さんの書くラブレターは長文だと思います。



喧騒、便箋、水溶ラブレター。《奥沢美咲》

 

『一成へ

 

 手紙なんて初めて書くから、変だったらごめん。

 どうしても伝えたいことがあって、こうやって手紙を書きました。』

 

 寿命の近い、少し暗くなった電灯の元で手紙を読む。

 手紙を読むときは自然と姿勢が正される。

 文章に込められた思いを理解しようとして、なんとか真摯に応えようとして、昔からそうなってしまう癖があった。

 

『正直、手書きで書くのは嫌だった。

 一成、やたら字上手いし。なんか負けた気がするから。

 でも、こういう手紙にワープロで打ち込んだ文字をなんて、それはダメな気がするでしょ。

 

 一生懸命書いたから、読んでくれたら嬉しい。』

 

 三つ折りの便箋に、びっしりと二枚分。インクで書かれていたのは驚きだった。返事をするときに何枚書き損じたのか聞いてみようと思う。

 

『小学校のときの、夏休み前のことはよく覚えてる。

 時々聞いてくるから言っておくけど、あの時一成の字が綺麗って言ったこと、本当のことだから。』

 

 少しの混乱と、期待と、結構な気恥ずかしさを混ぜた、神妙な心持ちで、手紙を読む。

 

 彼女が初めて書いた、ラブレターを読む。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「あっ」

 

 小学校のクラスは、それこそうるさいものだった。

 授業中も休み時間も、給食の時間だって、元気の有り余るクラスメイトたちが大騒ぎしていて、耳が痛くなる。

 ましてや、夏休みを目前に控えた三年生の教室。浮足立つ児童たちの声は、いつもよりも煩く響いていた。

 そんな喧騒の中では、その声は一瞬で飲まれてしまうほどに小さかった。

 

 しくじってしまった。

 夏休みの宿題のために一冊新しく配られた漢字ドリル。

 真面目に記名をしていたときに、乾いたかと思って親指でなぞった名前が変に滲んで汚れてしまった。

 油性と水性の違いなど分からなかった年頃に、家族で共有していたペン立てからくすねてきたペンだった。

 

 当時の僕は、取り立てて繊細な性格でもなかった。

 インクの黒いシミなど特に気にすることはなく、その上からだろうと堂々と記名はできた。

 

「それ、水性でしょ」

「え?」

「書いても、消えちゃうよ」

 

 再び名前の一文字を書き終えたところで、前から声が掛かってきた。ニ学期前に席替えしたばかりだったけれど、名前はよく覚えている。そう、奥沢美咲、美咲ちゃんと呼んでいた。

 

「消えちゃうって、どういうこと?」

「水性だから、消えちゃう」

「……そうなんだ」

 

 物知りだなぁと思ったものだ。

 その頃から美咲は落ち着いていて、俺は彼女の大きな声なんて聞いたことないまま卒業を迎えたのを覚えている。

 彼女と近い席になったのは、確かこの時と、もう一回だけだったと思う。

 

「これ、貸すよ」

「これは……えっ、と……ゆせい?」

「うん、これで書けば消えないから」

 

 窓から差し込む日光にやられて、お互いけだるげに話していた。

 彼女の筆箱から取り出されたペンには、簡素なシールが貼り付けられていて「おくさわ みさき」と綺麗な字で書かれていた。

 

「ありがとう、みさきちゃん」

「うん、どういたしまして」

 

 彼女は、何が面白かったのか、僕が漢字ドリルに名前を書くところをずっと見ていた。

 僕が覚えていることと言えば、ペンに書かれた綺麗な字に気圧されて、頑張って綺麗に名前を書こうと努力したことぐらいだった。

 繊細な性格ではなかったはずなのに、この時ばかりはペンを持つ手に力が入っていた。

 

 鉛筆と違って、失敗できない。そう思うだけで、指先が震えて、上手く字が書けないような気持ちになる。

 そんな恐れのせいでゆっくりと書いていると、インクが出すぎてしまう。名前にある小さな「つ」が潰れそうになって、慌ててペンを離したりした。

 彼女の名前と同じ長さの名前を書いて、一息つく。

 息でインクを乾かすよりも先に、彼女にペンを返そうとキャップを締めた。

 

「いっせいくんさ、字、きれいだね」

 

 とても驚いた、と同時に、そんなことはないとも思った。僕は彼女の字を見て、綺麗に書こうと思っただけだったから。

 そんな思いが口をついて、ポロリと溢れる。

 

「そう、かな」

「うん、私よりきれいだよ」

 

 ニコニコと笑いながら、彼女は繰り返しそう言う。

 若干の疑念と、嬉しさと、沢山の恥ずかしさのせいで、彼女の表情を伺うことができなかった。

 

「……ペン、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 ペンを返してから、また親指で字をなぞってみる。今度は掠れることなく、インクは乾ききっていた。

 夏休みを挟んで、二学期。登校日の一番長いその時期の中で、美咲と沢山の会話をした。

 彼女と仲良くなったのは、その頃だった筈だ。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ふらり、ふらりと流麗な字で思い出が書かれている。

 

『夏休みに遊んだりとかは無かったけど、それにしてはよく話したなって思う。喧嘩とかも全然なかったね。

 中学からは別々だったし、正直会うこともなくなるかなとは思ってた。

 一成の方から連絡先聞いてきたの、結構驚いてたよ。』

 

 ほとんどこちらが忘れてしまったような、そんな出来事ばかり書かれている。

 連絡先の話なんて、あったかどうかも定かじゃなかった。

 

『部活も、結局たくさんの試合を見ることになっちゃったし。

 幼馴染でもなくて、恋人でもなくて。腐れ縁ってこんな感じなんだね。』

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 彼女の出ていた試合に、応援に行ったことがある。

 中学入学当初にテニスを始めたと聞いたときは驚いたけれど、いざ眺めてみると、中々様になっているなと失礼ながら思った。

 

 大会の日程は去年に聞いていた。一年の頃はペラペラと喋ってくれていたのに、いざ自分が試合に出るとなると全く喋らなくなるのだから困る。

 

『知り合いならともかく、一成に見られるのとか、絶対無理だから』

 

 試合は見てみたい、けれど彼女の邪魔になるようなことは避けたい。ならばせめて目立たぬようにと場所と帽子で隠れるようにした。今思えば、サングラスでもつければ良かったと思う。

 それでもバレていたかもしれないが。

 

 プラスチックベンチと、簡単な日除けが設置された客席に座る。

 今年の夏も暑すぎる。直射日光が当たっていたベンチに触ったときは、本気で火傷したのかと思った。

 

 彼女の背中が見える位置、ここならば目をやることも少ないだろうと試合を眺める。

 日陰に居てもじわじわとした暑さに纏わりつかれる日で、直射日光を浴びる彼女のことがそれなりに心配になった。自分の知る限り、彼女も日を浴びるのはあまり好まないと思っていたから。

 

 二ゲームが終わったところで、不意に焼かれるような暑さを感じた。

 西日になり掛けた太陽が、日除けの端から足を照らしていた。

 サンダルで来ていたものだから、日の光が直接足を焼いている。

 仕方無しにもう一段後ろのベンチに座り、持ってきていた水を飲む。自販機から出てきたばかりのはずのペットボトルはすっかりぬるくなっていて、捨てようかとも思っていた。

 

「え」

 

 からりと乾いた喉に、水が染み渡る感覚を享受しているところに、聞き慣れたような声が聞こえてくる。

 やけに静かだと思っていたが、どうやら自分が座っていたベンチは不人気だったらしく、人がほとんどいなかった。

 

 先の声に嫌な予感を覚えて、上に傾けていた顔を戻す。

 懸念材料である彼女のベンチに目を向けると、ばちりと彼女と目があってしまった。

 固まったままの彼女は、こちらを凝視したままわなわなと口を震わせていて、思わず吹き出してしまいそうな表情をしていた。

 諦めて、手を振る。

 

「な、なんでなんで」

 

 困惑したまま、彼女の休憩時間が終わる。

 さぁ、ラケットを持って、コートに立って。

 それでも試合に勝ってしまうあたり、流石だなとも思っていた。

 

 

 

 

 

「……久しぶり」

「ん、ちゃんと合うのはかなり久しいな」

 

 試合終了直後、誤字に溢れた文面で『あの』だの『ちょっと』だのと連投されてきた後に『後で話あるから』と送られてきた。

 全体スケジュールの後、彼女の学校は各自解散となったらしい。

 コート入り口近くのベンチでぼーっとしていると、上から彼女に覗き込まれた。

 嬉しいような申し訳ないような、微妙な表情のまま彼女を迎える。

 

「いや、ホントさ…………」

「勝ってたじゃん。練習頑張ってたんだな」

「ん……ありがと。いや、それはそれとしてだよ」

 

 こちらから少し離れたところに彼女が座る。

 夏真っ只中では六時でも十分明るいし、風もまだまだ涼しいとは言えなかった。

 

「みんなに心配されたんだからね」

「いや、その件はすまん。バレるつもりじゃなかった」

「帽子程度でバレなかったら楽なもんだよ……」

 

 唇を尖らせて咎められる。

 彼女と会って話すのは本当に久しぶりで、表情の一つ一つが新鮮味を帯びていた。

 

「そっちは今何やってるの?」

「あー……」

「ここまではぐらかしてきたんだから、いい加減教えてよ」

「……いや、部活はやってないんだけど」

 

 空色に似た青い瞳がこちらを向く。

 

「まぁ、書道はやってる」

 

 パチリと大きく一回、彼女が瞬きをした。少し驚いたような表情で、でもすぐに微笑ってずいっとこちらに寄ってきた。思わず仰け反る。

 

「展覧会とかやってるの?」

「ああ、一応あるけど」

 

 途端に、彼女の顔が悪戯っ子の顔になる。小学校の頃より表情豊かになった気がして、花が咲くようだった。

 

「今度いつ?」

「そんなうまくないんだけど」

「いいから。見たいの」

「…………わかったよ」

 

 観念して、素直に日程を伝える。してやったと言わんばかりの彼女の表情が可愛らしかった。

 

 彼女とは対象的に、どうしたものかと空を仰ぐ。

 夕焼けは背中のテニスコートに隠れているけれど、上を見れば空が仄かに赤く染まっている。

 それと同時にうっすらと見える藍色が、空を少しずつ夜に染めていた。

 

「あのさ、また試合見に来ていい?」

 

 空を見上げたまま、隣の彼女に訊ねる。視界の端で少しだけ、彼女のうなずく様子が見えていた。

 

「あー、うん、まぁ、絶対無理とか言ったけど」

 

 それでも、と続けて。

 

「今度からは、見てみたいとか言ってくれればいいよ」

 

 ちゃんと対価も貰ったから、とまた得意げに笑う。

 それを横目に見ながら、夕焼けに染まる天蓋を眺め続けていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『ずっと一緒だったし、ずっと噛み合い続けてきたし、このままでいいかななんて思ったこともあったけど。

 

 やっぱり、これはきちんと伝えないといけない事だったし、伝えたいことだったから、ちゃんと書きます』

 

 

 

 ◇

 

 

 

 雨の時期、彼女はいつも通り無気力に見えていた。

 

 梅雨の真っ只中、天気図を見ても梅雨前線が日本を横断している時期。

 放課後にふと教室から窓の外を覗いて、窓ガラスにびっしりと雨粒が張り付いていたのには辟易した。

 どうしたものかと刹那思考したが、置き傘、というよりは使わなかったまま持ち帰り忘れたままの傘があることに気がついた。

 しかも、部活終わりには雨脚自体かなり弱まっていた。

 

 ズボンの裾が濡れない程度で、でも傘を差せば小気味の良い雨音が弾ける空模様。

 差し渡し一○八センチ。大きめの傘の骨から雨粒が滴る。

 考え事をするには最適で、人々の喧騒も静まるこの天気が好きだった。

 商店街を縦断する。雨天でも、そこらを歩く主婦の表情は明るい。この程度なら気にしないと言わんばかりに、小さな長靴を履いた子どもたちが路を駆け回っている。

 

 夏至も過ぎた頃で明るいはずの空も鈍色の雲には負けて、既に夜闇が空の端から手を伸ばし始めていた。

 前から吹き付ける風に合わせて傾けていた傘を、少しだけ持ち上げる。

 目の前を駆けて行った子供たちの足並みに合わせて、パシャリ、パシャリと水溜まりが踊る。

 それに足を止めながら、急ぐことなくゆったりと歩く。

 

「……あ、一成?」

 

 声が掛かったのは右から。それなりに暗い視界のせいで、きっと顔は隠れているだろうと思っていたのだけれど。

 

「────雨宿り?」

「うん、急に降ったから」

「折り畳みとか持ってないの?」

「この前骨組みが壊れたばっかり」

 

 シャッターの閉まった店の前、未だに突き出たままのテラス屋根に隠れた彼女に傘を被せる。

 

「一体いつから雨宿りしてんのさ」

「雨脚が多少弱まってから出てきたけど、意外と濡れちゃった」

「弦巻さんとか、放っておかないと思うんだけど」

「あー、こころは……うん、ちょっと今回は断った」

「はぁ……」

 

 やけに濁した返事だったけれど、詮索は悪いだろうと打ち切る。

 少なくとも次のライブまでは会えないだろうと思っていたから、数ヶ月ぶりの対面には驚いた。

 

 とりあえず、と呟いて、また少し傘を深く被せる。

 

「帰るか。一緒の傘で悪いな」

「──ん、うん。ありがと」

 

 飛び込むように、彼女が傘の下に入ってくる。一瞬こちらを見上げたのを見て、彼女がずっと俯き加減だったことに気がついた。

 

 高校生になってから、彼女との身長差は開く一方だった。

 二○センチ弱の身長差では、傘にちゃんと隠れられているかと心配になる。

 差し渡し一○八センチの傘でも二人で入るには少々狭くて、ワイシャツを透過して肩が濡れる。

 

「あ、肩」

「ん、まぁ半ば様式美みたいなもんでしょ、これ」

 

 街路樹から落ちる大きな雫が、一層大きな音を立てて傘の上で踊る。

 風向きに合わせて傾けてやれば、張り付いていた雨粒がパタパタとコンクリートの歩道に落ちていく。

 言葉数は少なめ。晴れていても、晴れていなくても、たまたま一緒に帰るときはこれが普通だった。

 

「雨、長続きするらしいよ」

「前線が全く動かないんだったか?」

 

 そういえばと覗いてみたが、彼女の髪はスラリと降りている。癖っ毛の俺とは対照的に、彼女の髪はとても素直だった。

 小学校の頃からいつも同じシルエットに見えていたのは、そのせいなのかもしれない。

 

「──で、今回はなんでまた」

「あー……」

 

 商店街の喧騒を抜けてから、住宅地を縫う様に歩く。彼女の家は知っているのだから、わざわざ尋ねたりしなくても良かった。

 視線は変えずに前を向いたまま、尋ねる。

 

 いつの間にか灯り始めた街灯が雨に濡れた地面に光を落とす。月を池に落としたみたいに、ぬらりと黒光りするコンクリートに波打った黄色い光が映っている。

 

「いつもなら勢いよく楽屋での事とか話してくれるけど」

「あーいや、今日はそれとは別件で……」

 

 こうやって鉢合わせたときは、大体彼女から沢山話があるときだった。

 弦巻さん他バンドメンバーのこと、ライブのこと、着ぐるみのこと。

 高校になってからバンドを始めたと聞いたときは、テニスの事を聞いたときより驚いた。

 度々ライブチケットを買っては、全ライブの数回に一回くらいは行かせてもらっていた。

 

 今日はその話がなくて、またはライブのお誘いかと思えばその予定はないはずだった。

 さっきから彼女の言葉が独特な質感を持っていて、靴が濡れていることを忘れる。

 歩き続けたまま、彼女は何度か言い淀むように言葉を詰まらせて、やっと声が聞き取れたのは二分が経った頃だった。

 

「あのさ、一成、これ」

 

 突然立ち止まるものだから、彼女から雨ざらしになりそうで焦って傘を突き出してしまった。

 傘の縁から溢れた雨粒が髪に掛かる。随分と大粒なせいで、皮膚にまで到達してしまっていた。

 

「う、わっ、冷た」

「あ、ごめん」

 

 彼女にしては珍しく、随分と早口で取り乱していた。

 手で雨粒を払いのける前に、彼女が差し出したものに目が向かった。

 

「……手紙?」

「うん」

「はぁ……これはまた、珍しい」

 

 少々混乱した。珍しいどころではなく、彼女が俺に手紙を書くなど初めてのことだったはずだ。

 口頭でも、ラインでもなく、手紙。それも手書き。

 雨粒を払い、それとは逆の濡れていない方の手で手紙を受け取る。

 手紙を受け取ってから、雨音が大きくなったような気がした。

 けれど、ただ雨のことなど気にも止められなくなっていただけだと気付く。

 

「……あー、まぁ、家で読むわ」

「ん、ありがと」

 

 なにを書いたのか、なんで書いたのか、それを聞くのも憚られて。彼女も答える気はなさそうで、黙り込んだまま帰路を歩き出す。

 傘に当たる雨粒の勢いはそのままに、パラパラという雨音が精細に聞こえている。

 

「あのさ」

 

 次に声が聞こえたのは隣からで、ハッとして見渡すと既に彼女の家の前にまで来ていた。

 危うく通り過ぎてしまいそうで、彼女に裾を掴まれて、やっと気が戻ってきた。

 

「あの手紙、なんだけど」

 

 急激に雨脚が弱まっていく。霧の様な雨になっていて、傘に響く雨音がとても、とても小さくなっていた。すぐにでも止んでしまいそうな雨だった。

 もう少し待っていれば、彼女は傘がなくても帰れたのだろうかと思う。

 ほのかに空が明るい。

 まだ日は沈む時間ではなくて、雲間から手を差し込むように光を落とそうとしていた。

 そう、その光に当てられて、少しだけ彼女の瞳がちらりと光った気がした。

 

「……それ、ラブレターってやつ、だから」

 

 遠くで、セミの鳴く声がする。この時期の雨上がりにはよく聞こえていたような気がする。

 湿気に当てられたせいなのか、手汗のせいなのか、手紙が湿っている気がする。

 

 晴れ間が差してきて、それでも霧雨は止まない。

 そうして、傘を下ろすこともせずに、夏の予鈴を聞いていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『私は、一成のことが好きです。』

 

 

 

 ◇

 

 

 

 下駄箱に挟まれたラブレターを見つける。高校の頃、そんな青春に思いを馳せたことがあった。

 けれど、公立高校の下駄箱は思っていた以上に汚くて。

 こんなところにラブレターなど入れたならば、それはそれは砂と泥にまみれてしまうだろうと落胆していた。

 

 高校までは毛筆も硬筆を嗜んでいたものの、最近はめっきり筆を持つことが少なくなった。

 鉛筆を持ったり、万年筆を持ったり。太い線と細い線、ふたつを行き来しながら手紙を書いていた。

 

 手紙を書くのは五回目、送り出すのはこれが初めてになる。

 ラブレターを受け取ってから、彼女に合う機会はめっきり減っていった。彼女のバンド、自分の受験。予定が交互に重なり合って、春までに書き溜めた返事は四通あった。

 一度書いてから一月、見直しては書き直して。結局使った便箋の数は彼女のそれを上回ってしまった気がする。

 

 何度か下書きを重ねて、便箋何枚かにびっしりと連なるくらい綴ったこともあったけど、結局はシンプルに一枚にあまりが出るくらいに纏まっていた。

 

 前々から買おう、買おうと言っていながら、ついに万年筆に使っていた染料インクを切らしてしまった。

 そんなに使わないだろうと高を括って一本しか買っていなかったのが問題だったのだろう。こういう肝心なときに切らしてしまう。

 あと一文で完成だったのだ。無理矢理にでも書かなかったのは、それが一番大事な文章だったからで。

 どこかに換えは無かったかと机を漁ってみると、ほとんど未使用のインクが出てきた。

 これは僥倖と眺めてみれば、あまり見慣れないパッケージをしている。

 

「顔料インク……」

 

 思い出した。一度書き心地を試したくて買ってみたものの、手入れの手間を考えて放置していたインクだった。

 開封日時はまだ数ヶ月前で、十分に使えるインクだった。

 

 蓋を開ける。

 水洗いしたばかりの万年筆をまた後で洗い直すのは気が重いけれど、きっとこれなら雨に濡れたって滲んだりしない。

 試しに裏紙をなぞってみれば、やけにくっきりとした弧線が描かれる。

 

『美咲さんへ』

 

 時候の挨拶もなく、結びもなく。そんな手紙を書くのは初めてだと思う。

 

『手紙、きちんと読ませていただきました。

 長い間お返事できなくてごめんなさい。

 

 貴女からの手紙で、夏休みなどに二人で遊んだことがなかったのだと初めて意識した気がします。あまり、離れているような思い出がありませんでした。』

 

 頻繁に遊んだりしたこともなかったはずだけれど、特に疎遠になった時期もなかった。

 そんな曖昧な距離感は、そう、高三まで続いていて。

 

『こちらはもうすぐ夏休みです。二月と長い休みなので、そちらに帰省する期間も長いもので。

 よければ海にでも行きませんか。』

 

 思い返せば、ラブレターを貰った日は相合い傘をしていたのだった。こういう時になって、そういう思い出はちらちらと頭を過っていく。

 

『ラインでも、電話でも話していなかったこともいくつかあります。そんな話もしたいし、貴女の話も聞いてみたい。』

 

 そう、あのラブレター。

 ずっと伝えていなかったことだけれど、ところどころ字が滲んでいた。

 肝心な文字が潰れていたりして、本当、彼女がラブレターだと言ってくれなければ困惑していたに違いがなかった。

 

『手紙の返事ですが。』

 

 そう、ここで染料インクが、水性のインクが切れてしまったのだった。

 そこから一行空けて、一層強く光を照り返す一文。

 

『私も、貴女が好きです。美咲さん。』

 

 句点まで丁寧に繋いで、万年筆を離す。

 罫線に従ってまっすぐ、我ながら綺麗な字で書けたと思う。

 

 便箋を折り曲げる。封筒に入れる。

 窓から外を覗く。山から入道雲がせり上がってきていて、急いで外に出る支度を始めた。

 梅雨明けは近い。梅雨前線もこの地域は通り過ぎてしまった。

 

 ピロンとスマホが鳴る。

 通知から覗けば、彼女からのラインだった。

 

『今年、海にでも行かない?』

 

 思わず笑ってしまう。

『ずっと一緒だったし、ずっと噛み合い続けてきたし、このままでいいかななんて思ったこともあったけど』なんて彼女の手紙の一文を思い出した。

 

 スマホをポケットに滑り込ませて、ドアを開ける。

 思った以上に日が照っていて、眩しさに思わず目を覆った。

 

 夏が近くて、雨が降る機会が少なくなっていた。

 そういえば、今年はまだ虹を見ていなかった気がする。

 そう、例えば今日、夕立の後にでも掛かってくれるだろうか。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 相変わらず、字が綺麗だと思う。

 あの手紙だって頑張って綺麗な字で書いたつもりだったけれど、宛名に書かれた住所と名前の時点で敵わないなぁと思ってしまった。

 

 手紙を書くのは初めてだったし、手紙を読むのだって慣れてはいなかった。

 どんなことが書かれているんだろう。どんな彼が書かれているんだろう。封を開けるときはそんなことばかり考えていた。

 

 三つ折りの便箋、一枚分。綺麗な楷書で、でもいつもより細い線で、一行空けで伸び伸びと書かれている。

 万年筆を買ったと言っていたから、きっとそれの字だろうと思った。

 

 少しの不安と、それよりも大きな期待、そこに僅かな気恥ずかしさを込めて、手紙を読む。

 

『美咲さんへ』

 

 彼が書いてくれた、手紙を読む。

 


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