我は悲しみの市への入口なり
我は永久なる悩みへの入口なり
我は滅びの民への入口なり
汝らここに入らん者
すべての望みを捨てよ
ーダンテ/神曲地獄篇ー
199X年に入ってから東京が、いや世界中がどこかおかしかったとフツオは記憶しているサンモール、エコービルでカルト集団の内紛と思われる猟期的な事件が起こった。ガス爆発によって軽子坂高校が突然消失してしまうという奇怪な事件も起こる。一瞬にして校舎ごと消え去ったこの事件でフツオは中学時代からの友人数名が消息不明なままだ。このあたりでネットサーフィンで情報を集めるのが趣味になっていたフツオは、ある掲示板にたどり着く。DDSネットという掲示板には、ウィンドウズが普及する前からパソコンが大好きな人たちが集まっていた。そこではフリーのゲームやプログラムが投下され、議論したり遊んだりする土壌ができていた。そんな掲示板の常連である。自作でパソコンが作れるくらいには技術者の卵だった。そんなある日、管理人であるスティーブンからデビル・バスターと呼ばれるゲームが公開される。友人の代理だというスティーブンはそれをたたき台に、常連達とブラッシュアップしたゲームにしようと提案してきたのだ。もちろん日夜やっていることである。彼らは飛びつき、フツオも寝る間も惜しんで行った。そして完成したDDS掲示板の名をもして作られたプログラム、通称DDSは配布されるにいたる。どうせならゲームのキャラと同じように腕に取り付けるタイプのパソコンを作ろうと言い出したのは誰か、もはやフツオは思い出せない。あっという間に賛同者が集まり、完成したことは知っている。もちろんフツオも参加していた。そして、フツオの元に、ハンドベルトタイプのパソコン、通称COMPが送られてきた。あとはCOMPにDDSをダウンロードするだけ。対応したプログラムを後日配布するという知らせのあと退出したスティーブン。すでに夜中を回っていた。
フツオは早く明日になることを願いながら眠りについた。奇妙な夢を見たが詳細は覚えていない。
「いつまで寝てるの、フツオ。休みだからって寝坊はダメよ?早く起きてらっしゃい」
父亡き後、女手一つで育ててくれた母の声がする。あわてて飛び起きたフツオはパソコンの電源を入れる。くるくる回る砂時計が恨めしいほど遅く見えた。メールが通信ファイルを受け取っている。差出人はスティーブンである。躊躇することなくフツオはメールを開いた。好奇心をそそる意味深なコメントとともに添付されているプログラム。警告するコメントは気にせず、フツオはダウンロードを開始する準備に入ったのだった。DDSは伝承で知られた悪魔と交渉して仲間にするDCS(悪魔会話プログラム)とANS(悪魔分析プログラム)で構成されているゲームだ。ようやくできあがったハンドベルトコンピュータ。うれしくなったフツオはそれを腕につける。そして母の待つ一階を駆け下りたのだった。
「おはよう、フツオ。夕べはよく眠ってたみたいね。パトカーがあんなにすごかったのに」
母は苦笑いしてご飯を用意していた。
「きっとあれは大きな事件ね。テレビでやってないかしら」
フツオがテレビをつける。緊急ニュースが入ってきたとアナウンサーの表情がこわばった。井の頭公園で猟期的な殺人事件が起こったらしい。またカルトの仕業かしらと母はぼやく。ここのところカルトの内紛と思われる事件が続発していたが、未だに新しい情報が出てこない。犯人がうろついているかも知れないから吉祥寺の周辺は道路封鎖をするという。半年もこう似たような事件が続くと人間慣れてしまうものだ。ましてカルトなんていう非現実内の内紛である。よほどのことがないと近隣住民はまきこまれない。母もフツオも気にもとめなかったはずなのだが、今日のフツオは違った。今日は出かけない方がいい。フツオが指摘すると、困ったように母は肩をすくめた。
「コーヒー豆が切れちゃったのよ」
フツオの食卓にいつもならぶ贔屓の個人経営の喫茶店で買っているものだ。そこでしか買えないし、個人経営だから配達はしてくれない。とりおきはしてもらえるが来店が前提だ。フツオはお使いをすると申し出た。めずらしいお手伝いの真意を悟った母は仕方ないわねえと笑う。
「それじゃ、いつもの喫茶店に行って買ってきてくれない?残りはお小遣いでいいから。はい、一万円」
もらったお札を財布にねじ込んで、亡き父の代わりにやってきたシベリアンハスキーにじゃれついてから、フツオは家を出た。
すぐとなりには幼なじみの少女、フツコの家がある。開業医をしているためだろうか。優秀な彼女はフツオと同じ高校ではなく、進学校に進んだため高校に行ってから会う機会が減ってしまった。それでもほのかな恋心を抱くくらいには好きな少女である。それをしってかしらずか、玄関前で枯れ葉の掃除をしていた隣の男性、フツコの父親はおはようと笑いかけてきた。
「やあ、フツオくん。げんきにやっとるかね」
おはようございます、とお辞儀したフツオに、彼は満足げにうなずいた。母子家庭ながら礼儀正しいフツオは幼少期から気にかけて貰っているのだ。
「フツコも元気だよ。残念ながら今日は出かけているがね。また顔を出してやってくれないか、フツコも家内も喜ぶよ」
はい、とうなずいたフツオは世間話もそこそこにお使いに向かうことにする。休日の土曜日だというのに、すれ違う人の数が明らかに少ない。地下街にある商店街を目指して階段を下りながら不思議に思っていると、きれかけの電灯の真下に誰かいる。思わず足を止めると影は顔を上げた。
小学生、いや中学生の少年がいる。フツオはその顔を認めると、足早に階段を駆け下りる。フツコの弟がいたからだ。
「おはよう、ナナシ。どうしたんだ、こんなところで?」
もちろんナナシは本名ではない。フツオと同じ掲示板の常連である彼は、ハンドルエームをナナシにしているのだ。仲間内特有の気さくさで、もしかしたら、の期待も込めて聞いてみるが、生意気な笑みを浮かべたナナシはフツオを見上げた。
「おはよう。残念だったな、フツオ兄ちゃん。姉ちゃんは来てないよ」
「そうなのか・・・」
「ひっでーな、あからさますぎるだろ」
「ああ、すまない。つい本音が」
「ばーか」
けらけらとナナシは笑った。
「ところでそれなんだよ、フツオ兄ちゃん!もしかしてCOMP?」
「よくわかったな、ナナシ」
「いいなー。俺まだ組み立てられないんだ。フツオ兄ちゃん、手伝ってよ」
「いいよ。そのかわり、最近のフツコのこと教えてくれ」
「わかった」
ナナシはいつものようにうなずいたのである。買い物に同行することになったナナシは、コーヒーの買い付けをすませたナナシを家に寄ぶ。フツコがいないのは残念だが、フツオはナナシにCOMPを作ってやったのだった。