普段は晴れた日の澄んだ水面のように照り輝いているアサヒの顔に恐れとも悲しみとも見える影が広がっていった。彼女の目は一瞬凍りついたように見えた。瞳がふっとその色を失い、静かな水面に木の葉が落ちた時のように表情が微かに揺れる。
「嘘だよね?嘘だっていってよナナシ」
目の前で自分を庇って死んだナナシを思い出したのか、アサヒはナナシ にすがりつく。
「ダグザがいってることは事実だぜ」
「そんな、ぁ......いつもみたいに、嘘だって言ってよぉ......ナナシ、ナナシ」
アサヒは別人のようにやつれていく。不安。悲しみ。恐れ。そうした押し隠すことのできない幾つもの感情が混ぜこぜになって、べったりと顔に張りついていた。
ナナシは瞼がひきつった。なんだか、すごく気持ちが悪い。ひきつった場所だけが痺れて自分の身体から剝がれ落ちていくみたいだ。
アサヒは生まれて初めて心の底から恐怖が這い上がってくる。黒々と光る地底の虫のような恐怖だった。彼らは目を持たず、憐みを持たなかった。そして地の底にひきずり込もうとしてくるのだ。云い知れぬ戦慄が、全身の皮膚を暴風のように這いまわり、駆けめぐるのを感じ初めた。歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止める事が出来なくなった。
怖くて動けなかった。言い知れぬ恐ろしさで涙がにじむほどだった。体が硬直して、ぎしっとこわばった。そしてか細い声で言うのだ。
「ダグザがいなければ......あのときダグザが......!」
アドラメレクによりナナシが死んでおり、ダグザの傀儡人形だと聞かされたアサヒは動揺する。
「アサヒ」
「だって、だってえ......ううう!」
頬を捕まえて上を向かされ、アサヒはそれでも泣き止まない。
「アサヒも俺があんとき死んでりゃよかったっていうのか?アサヒが死ぬかもしれないって思ったからダグザと契約したのによ」
「ナナシ......ナナシ、そんな、ううう」
手を重ねながらアサヒはいよいよ泣き出してしまうのだ。それだけナナシに想われていることがうれしくて、それ以上にナナシがナナシでなくなってしまっている事実が嫌でたまらない。でもどこにもいかないという約束をナナシが守ってくれたことも事実で。ぐちゃぐちゃにかきみだされる感情の中でアサヒはナナシを見ることしかできないのだった。
「お前にまで言われちゃ立場ねーな」
「ごめん、ごめんなさい、違う、違うのナナシ、いなくならないで!もう言わないから、言わないからお願い!」
ナナシの冷めた目が恐ろしくてたまらなくなる。そしてアサヒは遅れてナナシに対してとんでもない暴言を吐いていたことに気づくのだ。
ナナシは怒らない。一時期は彼の中に激しく息づいていた幾つかの感情も急激に色あせ、意味のない古い夢のようなものへとその形を変えていくのが見えるようだった。希望と闘志が影のようにうすれていく。気持ちの落ち込みが定期的に、まるでつむじ風の如く、丘の上からふっと襲ってきては、ものすごい勢いでやる気や自信を、根っこから吹き飛ばしていく。
ナナシは溜め息をついた。零れた溜め息がさらに自分の能力のなさを実感させるのか、感情が抜け落ちた先にはなにもうかがえない。虚無だけが存在している。吐いた息が地面に積もるのであれば、ナナシの身体はとっくに埋まっている。窒息死だ。
生ぬるい温度につつまれた期待や抵抗や欲望や不安などがいきなり吹き飛ばされてしまった。空虚で、がらんどうで、空気だけがそこに入れられているかのようにも感じられる。
アサヒは悟る。なにかとんでもない地雷を踏み抜いたことを悟る。ごめんなさいと繰り返すアサヒにナナシは笑うのだ。ぞっとするほど穏やかな笑みだった。
「意味もわかってねえくせに、ごめんなさいってバカにしてんのか?」
「ナナシ......」
「アサヒがこうなのは昔からだけどさ、ほんと変わんねえよなお前。ムカつくのも無駄だってわかってるのにイラついちまうのが腹立つ。まあいいや」
するりとアサヒの頬からナナシの手が遠ざかっていく。
「さあて、いくかアサヒ。人外ハンター商会の創始者様たちからの判決を聞きにいかなきゃいけねえからな」
向かうは歌舞伎町の喫茶店である。うん、とうなずいたアサヒはついていくのだ。ナナシという少年は待ってよと叫んでも立ち止まってくれたことはないがペースはあわせてくれることをアサヒは誰よりも知っている。