「なっとらん、実になっとらん!」
勝手にナナシのスマホから出てきたアザゼルは、憤怒の形相でアサヒをにらむ。え、え、と戸惑いがちに瞬きするアサヒとぎょっとするナナシを見比べて、アザゼルは鼻を鳴らした。
「まだ神に盲目だった頃、男には争いを女には化粧を教えて堕落させたものだが、その末裔がこのざまとは実に嘆かわしいぞ、小娘!もう我慢ならん、貴様には化粧の基礎からたたき込んでやる!覚悟しておれ!」
俵担ぎされたアサヒは悲鳴を上げる。必死でスカートを押さえながら、降ろしてよ、と抵抗するが、天使長も勤めたことがある堕天使に勝てるわけもなく視界が高くなる。ずかずかと入ってきた悪魔に同居人の少女は悲鳴を上げるが、ナナシの仲魔だとアザゼルが自己申告するものだから、目を丸くする。いったいなにをしてるの、と彼女から投げられた問いに、ナナシはアザゼルに聞けと返すほか無い。突然スイッチが入ってしまった堕天使の暴走をナナシと少女はみているしかなかった。
なにやらがちゃがちゃと奥にある棚を物色していたアザゼルだが、お目当てのものが無かったようで引き返す。おろしてえっと羞恥に染まる幼なじみを担いだまま、アザゼルはナナシの前に戻ってきた。ちなみにナナシはさっきから見えそうで見えないアサヒの太股をガン見している。
「おい、ナナシ。しばらく借りるぞ、小娘をな。物資が足りんのなら調達するまでよ。なに、貴様の手はわずらわせん、ちいとばかし休暇をもらうぞ」
「暗くなるまでには帰れよ」
「あいわかった」
「なんで平然とおっけーしちゃうの、ナナシ!?助けてよおっ!!」
「この際化粧の仕方教えてもらえよ、アサヒ。オレはきれいになったお前がみたい」
「え、あ、そ、そう?ならがんばっちゃおっかなあってそうじゃなくてええっ!」
いやああっという悲鳴が遠ざかっていく。ナナシは一部始終を傍観しているしかなかった同居人の少女に目を向ける。
「洗濯物くれ、洗うから」
「あ、うん、お願いねナナシ」
悪魔の奇襲によって4人から2人になり、だいぶん軽くなった洗濯かご。ナナシは平然と回収すると女の子部屋から出て行った。
「アサヒ、×××、いるか?」
「いるよー。なにー?」
「洗濯物。両手ふさがってんだ、開けてくれ」
「はいはーい、お疲れさま」
同居人の少女が開けてくれた瞬間、ものすごい勢いでアサヒが飛び込んでくる。
「もういやああっ!ナナシ助けてよおっ!私、お嫁さんにいけなくなっちゃうーっ!」
洗濯かごで前がふさがっているのをいいことに、アサヒはナナシの後ろに隠れる。はあ?と振り返ろうとするが、アサヒはその後ろ姿にひっしと抱きついて離れない。同居人の少女はくすくす笑っている。どうやらアザゼルの化粧指南はなかなかのスパルタなようだ。
「遅かったな、人間」
「なにしてんだよ、お前ら」
「なに、基礎化粧品についてレクチャーしていただけだ、気にするな。興味を持ったなら少しでもなれておかねば、困るのは貴様だぞ女。さっさと出てこい、深夜まで掛かる気か」
「もうやだっていってるのにっ」
ううう、と消え入りそうな声で抗議するアサヒだが、アザゼルの教育的指導と同居人の少女の助けが入らないところからして、正論の嵐だと頭はわかっているようだ。わけのわからないことに巻き込まれたと他人事のように思いながら、ナナシはいつもの場所に洗濯かごをおく。いつもありがとね、と少女は笑った。ナナシが入ったことで化粧教室に逆戻りしてしまったアサヒは若干涙目である。
「せ、せんたくもの、洗濯物畳むからちょっとまって!お願いだからまって!ちょっと休憩しよ、ね?」
「仕方あるまい、早くすませろ、女」
アザゼルのおーけーが出たことでアサヒは大きくため息をついた。なにやってんだか、とナナシはあきれ顔である。そそくさと洗濯かごから自分のものを選別しはじめたアサヒと少女を見届けて、きびすを返そうとしたナナシの後ろで黄色い悲鳴が上がる。
「なにこれ?なにこれっ!?ナナシ、どうしたの今日の洗濯物すっごくふわふわだよ!?」
「すごい、しかもすっごくいい匂いがする!ね、どうしたの?なにしたの?魔法みたい!」
「汚れ落ちてるー!すごい、もうとれないって諦めてたのに!」
タオルやお気に入りの洋服を持ったまま、ナナシのところにやってくる彼女たちの目は輝いている。
「すごい、すごい!ヘアリージャックの毛みたい!ふっわふわー!」
「すっごい着心地よさそうだよね、明日が待ちきれないんだけど、アサヒ!」
口々に賞賛の嵐である。ナナシも満更でもなさそうに口元をゆるめる。
「ね、ほんとにどうやったらこうなるの、ナナシ!」
アサヒの、もっともな疑問にナナシは答える。
「東のミカド国に行ってきたんだよ」
「あ、わかった!あの国でいい洗剤とか柔軟剤とか買ってきたんでしょ?天然のなんとかっていうの売ってた気がする!」
「はずれ」
「え、ちがうの?」
「ちげーよ。いい天気だったから、あの湖の畔で干してきた」
「えっ、わざわざ?」
「わざわざ」
「洗濯物干すために?」
「フリンから釣りに誘われてたからついでにな。昼寝したかったからちょうどよかったんだ。気にすんな」
「そっかあ、ありがと、ナナシ!」
「え、ちょ、ちょっと待ってえっ!フリン?フリンって言った、ナナシ!?フリンってあの救世主の?希望の星の?嘘でしょ?」
「うそじゃねーよ。ちゃんと釣れた魚も持って帰ったしな。ほら、みやげ」
クーラーボックスには下処理をすませ、あとは調理するだけの状態になっている魚が入っている。同居人の少女は赤くなる。不思議そうにアサヒとナナシは少女をみる。
「いやああっ!よりによってフリンに私の下着見られるなんてええっ!!」
「別にフリンは気にしてなかったけどな」
「私は気にするのーっ!っていうかその情報はいらなかったよ、ナナシ!普通に傷つくからね、私の乙女心が主に!」
取り乱す少女の言葉に、ようやく状況を悟ったアサヒもつられて顔が真っ赤になる。
「ふん、その感性があるならば、今すぐにでも着飾る術を学べ女。オレが言っていたマナーというのはそういうことだ」
意地の悪い笑みを浮かべるアザゼルに、アサヒはこくこくうなずいた。
「それにしても大荷物だな、人間よ」
「せっかくならと思って、あらかた持ってったからな」
アサヒたちの部屋の前にはナナシの仲魔が鎮座している。山積みの洗濯物、そして布団、毛布、カバーなんかが乱雑に積まれている。どうやら荷物持ち要員のようだ。
「オレガホシタンダ、ニンゲン。キョウハグッスリネムレルゾ!オヒサマポカポカイイキモチ、コレサエアレバヨルモアンミン!」
得意げに笑うのはヴァスキである。
「アムリタツクルトキトクラベタラ、トッテモラクチンナシゴトダッタゾ、ニンゲン!オレサマオヒルネシテゴキゲン!ニンゲンモツリデキテゴキゲン!センタクモノカワイテ、ミンナゴキゲン!アオーン!」
ほめろ、ほめろ!とじゃれつくヴァスキにナナシはぽんぽん頭を撫でた。ヴァスキはうれしそうに笑う。すり寄るたくさんの手を適当に相手していたナナシは、後ろで広がる阿鼻叫喚には振り返る気もない。無情にも閉められた扉に、アサヒは崩れ落ちる。
そそくさと自分の部屋に帰ったナナシは、はやく食わせろとうるさいヴァスキに片づけを手伝わせる。カセットコンロを準備しながら、二段ベッドに常設している隣の部屋専用の盗聴カップに手を伸ばした。