21世紀初頭、南極に突如シュバルツバースと呼ばれる謎の巨大空間が出現した。あらゆる物質を飲み込み、拡大を続ける超常現象の脅威に為す術はなく、事態を重く見た国連は、有人探査機を送り込む最終プランを決行。シュバルツバース調査隊を設立し、4隻編成の最先端揚陸艦隊は人類の運命を決める奇妙な旅に赴いた。残念ながら帰還したのはたった1隻、殉職したゴア隊長の遺志を引き継ぎ、帰還したタダノヒトナリという日本人を中心としたレッドスプライト号だけである。彼らが持ち帰ったデータは直ちに解析され、シュバルツバースを縮小させる計画は順調に進行し、世界の危機は去ったかに見えた。
しかし、裏ではその機密情報についてA国とC国の対立が激しさを増し、国際情勢は不安定になりはじめる。A国の苛烈な要求とC国との関係悪化による経済的な不安定さに挟まれた日本の将来を憂いたある男が、A国とつながることでその機密情報を入手。それを利用して日本を変えようとした。世界はすでにシュバルツバースの時代から悪魔の手に堕ちているとも知らないまま。
そして来る201x年、東京を未曾有の惨禍が襲った。男があらゆる手段をもって完成させたはずの未来の日本の希望となるはずだった永遠のエネルギー生成機が暴走、魔界と人間世界をつなげてしまったのである。突如、あふれ出した悪魔の大群。それらを強引に解決しようと東京に打ち込まれた核兵器。ある青年の犠牲によって空が岩盤に覆われ、人々は辛くも核の脅威から救われた。しかし、悪魔と共に幽閉されてしまった人々は、地下での生活を余儀なくされる。
そして時は流れ、203X年。人々は25年ぶりに太陽を拝む。天使と悪魔の最終戦争は終幕し、人々はようやく、これから、を考えることができるようになった。これはそんなある日の出来事。
湾岸エリアと呼ばれる場所がある。かつて行政、商業、文化などの広域的な拠点として栄える中心地のひとつだった。しかし、今は悪魔が跋扈する無法地帯である。隆起した岩盤が北から東に迫り、南から西にかけては海。公共機関が破壊され、老朽化が進む一方の海上を走る道路と地下鉄を徒歩で移動しなければほかのエリアに行けない湾岸エリアは、まさしく人工の孤島だった。悪魔の軍勢が魔界から沸き出してきた時の惨状は25年たった後も残されたままだ。下町情緒あふれる古きよき江戸の風情と、新しい町並みが混在し、高層マンションが映えた町は、当時を偲ばせるものは皆無だ。人がいなくなった街は風化もはやい。
人間がいない湾岸エリアは、もともと悪魔しかいない有様だった。しかし、スカイタワーを天使勢力が占拠したことで、もともと住み着いていた悪魔は追い出され、ここに流れ着く。最終戦争にまで至ると日を重ねるにつれて、悪魔が増えすぎて蟲毒状態となり、おぞましいほどに強い悪魔が跋扈するようになった。かつて4万人もの人間が住んでいたとはとうてい思えない。そんな、人が住めない土地となったにも関わらず、この先にある南砂町にはターミナルが設置されていた。主な利用者は高レベルの悪魔を退けることができる腕利きの人外ハンターである。早々に放棄された湾岸エリアは、慢性的な物資不足に悩まされる東京の人々にとって、ある意味で宝の山なのである。
今日もまた、ターミナルが起動して、ハンターが降り立つ。
フリンとナナシだ。フリンは久しぶりに足を踏み入れた南砂町を見渡す。
「なるほど。ここにできたのか、ターミナルは」
「フリンが設置しろっつったんだろ?なんでまた」
「それどころじゃなかったからね。フジワラさんに頼みはしたけど、まさかこんなに早く設置してくれるとは思わなかった」
「まあ、たしかにそうか。毎日、毎日、フリンのニュースばっかりだったしな」
たわいもない話をしながら、2人の足は東狂に向かう。
「ところで、誰の差し金だよ」
「なにがだい?」
「しらばっくれんな。あっちが忙しいのわかってんだぞ」
「それはお互い様だろう?」
「オレはいいんだ。やること変わらないし」
「でも、前は一人じゃなかった」
「あれが特別だっただけだろ」
「僕はそうは思わないよ、ナナシ。みんな心配してるのは知ってるだろ?」
「知ってる。ほっといたら一日通知が鳴り止まないから切るくらいには」
15年間太陽をあびたことがなく、主食が悪魔の肉のナナシは東京の民に漏れず、ミカド国の民と比べて非常に脆弱だ。やせて頼りないラインには、致命傷を負うたびに蘇生されてきた名残が残っている。箔をつけるために残されたのか、ふさがれた傷のぶんだけくぐり抜けた修羅場の数を物語っている、とフリンは思う。
たった1ヶ月で名をあげた新たなる希望の星は、平和になった東京で一人クエストをこなす日々が続いているらしい。なんとかしてくれ、とイザボーに泣きついたアサヒのメールを受けて、フリンは今ここにいる。マスター見習いとして働き始めたアサヒを始め、ほかの仲間たちも所属している組織に戻り、抱えている問題を少しでも前に向けるために歩み始めている。かつてのように集まることは難しいが、連絡手段は多い。ナナシがクエストに尋常じゃないほど数をこなしているとなれば、休めと仲間たちがうるさいのは目に見えていた。東京から悪魔の脅威を取り除き、復興を加速させるため、各地を奔走するナナシの現状は、部外者はかねがね好意的だが、仲間内にはもっぱら不評だ。
「よけーなことしやがって」
ナナシはぼやく。
「なにを焦ってるんだい?」
「焦ってねえよ」
「でも、顔色が悪い。寝てないだろ、ナナシ。もう君は人間なんだ、ノゾミさんとは違う」
「わかってるよ、そんなこと」
「なら、ナナシ、君をそこまで駆り立てるものは何だ?」
ナナシは答えない。黙秘権を行使する、とやけに鋭くなった眼光が見上げてくる。アサヒの事前情報がなければフリンはナナシを捕まえられなかったし、ナナシはいつものように一人で東狂に赴いていただろう。
東狂、という異空間が出現した、という話はアサヒから聞いていたフリンである。白い男が言うには、フリンやナナシ、あるいはアキラやフリンの前世が現れずに人類が滅び、魔人だけが闊歩する平行世界らしい。白い男と聞いてフリンは背筋が凍ったのだ。旧世代の人類の意識の集合体との邂逅は、フリンにとってヨナタンとワルターと敵対することが決定した重要な局面だった。すべてを無にかえしてほしいという嘆きを退けた先で、フリンはイザボーとミカド国と東京を救う中庸の道を選び取った。ありえたかもしれない未来、前世の因果、すべてを見せられた先でフリンが選んだのは救世主としての道だった。あらゆる想いを内包してフリンはここにいる。
だが、ナナシはどうだ。神殺しとしてダグザと契約したのも、アサヒを助けたいという想いひとつだった彼の前に現れる理由は。どうして白い男がナナシの前に現れる必要がある。ナナシはフリンとは違う立場で物を見る少年だ。彼はいつでも自分や周りにいる人間といった個人を優先する。たとえ全体的にみれば不利益であったとしてもだ。フリンはできない。救世主である、と自覚した時点でできなくなった。自制している部分もある。フリンは全体を優先することが課せられ、それを苦としない思考をする人間だ。だから白い男たちが現れたとフリンは思っているため、ナナシの前に現れたというその意図が全く読めない不気味さと、ナナシの行動の関連性が克明で、フリンはいてもたってもいられなかったのだ。
ナナシはここだ、と立ち止まる。誰もいない。珍しいこともあるもんだ、とナナシはつぶやいた。いつもはこの辺にいる、と指さす先には虚空。時空がゆがみ、空間がねじれ、いびつな周囲は時間の流れがおかしい。シェーシャと初めてあったときのような、違和感がある。どうやらここでナナシを待っている白い男は、フリンがお呼びではないようだ。東狂に入ったら別の場所に飛ばされることも念頭に、慎重にフリンは初めての東狂探索に突入したのである。
わずかな浮遊感の先で、フリンが見たのは、ありし日の東京だった。
「これ、は」
アサヒから聞いていた世界ではなかった。荒廃しきった街並みでも、脈打つ悪魔の体内のように不気味な血塊の山でもない。映像でしかみたことがない。ありし日の東京だった。フリンは息をのむ。雑踏のただ中に彼はいた。
「ナナシ、これ、は」
激しい頭痛がフリンを襲った。そこにいたのは、ナナシではない。フリンはよく似た男を知っている。面影がある。ただ酷く幼い。年齢はナナシくらいだろうか。
「だから言ったんだよ、くるなって」
ぽつりとつぶやいたナナシの声は、今にも消え入りそうだった。
「あんたが今ここにいるのがたまらなくうれしくなるから。だから嫌だったんだ」
「・・・・・・君、は」
「どんどんアキラに浸食されてんだよ。オレはオレだ。アキラじゃない。でもここはそういう世界なんだ。終わらせなきゃいけない。オレがナナシである間に」
ナナシは何度もここに赴いているのか、どんどん先に進んでいく。どうやらナナシはこの世界に入るたびに、判断に必要な情報はすべて頭の中にある状態で始まるようだ。今のナナシと同じ服を着ていることに、ようやく気づいた時には、悪魔討伐隊の拠点にいた。ナナシはフリンがみたことのない表情になる。ノックを数回、ずいぶん若い男の声がする。ナナシはノブを回した。なれた様子で様々な所作をこなしたナナシは、男を見上げる。フリンは知っている。おそらく若かりしころのツギハギだ。
「アキラ、どうしてそいつがいるんだ。一人で来いと言っただろう」
「仕方ないじゃないですか。僕だって不本意ですよ。でも様子がおかしいって入り口で張られたらどうしようもないじゃないですか」
「もっと慎重にやれとあれほどいっただろう。やはり手を引くか?」
「いやですよ。絶対に手を引いてなんかやるもんか。ツギさんが協力してくれないなら、フジワラさんのところに行くまでです」
「部外者に情報を漏らすなと何度も言ってるだろう」
「そもそもせっかくの非番に呼びつける方が悪いんですよ」
「そう拗ねるな、アキラ。おまえがやると言ったんだろう、男なら有言実行だ。いいな」
「はいはい、わかってますよ。ケンジさんとキヨハルさんが来てないだけまだいいじゃないですか。この人の口の堅さはツギさんだって知ってるでしょう?」
「昨日の今日だ。謹慎くらってる間はさすがにアイツラも大人しくしてるだろう。仕方あるまい、ここにつれてきたということは、話す覚悟はあるんだろう?」
「ええ、もちろん。ところで、その情報は確かですか?」
「諜報部が特定した情報だ、信憑性は折り紙付きだ。安心しろ」
「了解です」
ナナシのガントレットが情報を入手する。ナナシはフリンの見たことのない笑みを浮かべた。
「さあ、共に往きましょう、××××さん」
差し出された手をフリンはその手をとった。