ナナシは神殺しとなる数日前から、夢を見ていた。悪魔討伐隊の拠点から岩盤が覆われる様子を目撃したことに始まり、東のミカド国建国を決意するまでをアキラ本人の視点から経験してきた。
変化が生まれたのは、2度目の打ち上げの翌日からだ。
アキラと周囲の人々に重点が置かれ始めたのである。ある時はツギさんと共に悪魔の軍勢に取り囲まれ、ほかの仲間たちを誘導する役目を果たすため離別。再開したツギさんが仲魔に逃げられた上で大立ち回りを演じ、死んだ仲間の皮膚を自らに移植してツギハギになってしまった。一見すると恐ろしい形相になったツギさんをツギハギと呼び始める。
またある時は同じ学校に通うはずの姉が帰ってこないということで、姉と特別な仲だったキヨハルと共に探し回る。繭が打ちあがるのを阻止するためにケンジと天使を殺戮し、墜落した繭をかき分けて必死で姉を助けようとしたこともある。フリンによく似た青年に親しげに呼びかけられ、手を取ろうとする。共通点はいずれもアキラと呼ばれており、ナナシもそれを当然としていること。それ自体は神殺しの時代からあった。問題は、その感覚が抜けないということだ。しかも時間を重ねるにつれて記憶や想いが鮮明になり、ナナシの頭の中で混じり合い、融合し、昇華しようとし始めている。正直、ナナシは今感じていることがどこまでアキラとしてなのか、ナナシとしてなのか、わからなくなりつつある。迫り来る恐怖と葛藤しながら、仲間たちを思い描くたびに知らない誰かと重なり、無性に泣きたくなる衝動に駆られる嫌悪に苛まれながら、ナナシはここにいる。
そこに現れたのが、白い男だった。難しい話をした。よくわからなかったが、東狂にくれば解決の糸口がつかめるだろう、といわれた。夢に恐怖すら覚え始めていたナナシは、慢性的な睡眠不足になっていた。そこで足は自然と湾岸エリアに向かったのである。
ここにくるのは3度目だ、とナナシはいった。
「今度こそ、ケリを付けようと思ってたんだよ」
「そんなに強い敵なのか?」
「ああ、初見殺しにもほどがある」
「仲魔はどうして召還しないんだい?」
「そのせいで負けたんだよ」
「なんだって?」
「フリン、絶対悪魔を出すなよ。そんで近づくな。攻撃すんなら銃か火炎だ」
ナナシは足を止めた。悪魔が巣くうために異界と化した結界を突破すると、そこにいたのは、ただ荒廃しきった街並みが広がる。フリンがアサヒに聞いていた東狂の風景そのものだ。場所を特定できるようなものは残されておらず、わかるのは誰もいないことだけだ。人間はいない。ただ蟲毒状態となった世界で生き残るために融合し続け、恐ろしいほど強化された悪魔が跋扈するだけだ。話には聞いていた。この先にはそれぞれの拠点を支配する魔人がいる。
『アキラ』
フリンは顔を上げた。どこかで聞いたことがある声だった。目を走らせる。フリンの動体視力でかろうじて姿をとらえることができるほど、高速で動く影。人型のようだ。いや、人間から変質した異形、コープスを連想させるような外見をしている。
ナナシは一度突破したことがある悪魔の為か、対応が迅速だ。フリンは銃を構えた。ナナシが精神を統一し始めた以上、前衛を守るのはフリンの役目だ。
『アキラアキラアキラ』
数日、幻臭に悩まされるとナナシが愚痴るのも納得の刺激臭である。本来あるべき目がなくなり、穴があいているところから、液体が垂れ流されている。喉をふるわせるオゾマシい声が脳内にがんがんと響きわたる。フリンが引き金を引くたび、ただれた部位が弾け飛ぶが、影は構うことなくフリンの前に近づいてくる。
どろりとしたものは近くにあったすべてを飲み込み、周囲は黒い水たまりとなる。物質に関係なく泥の中に溶けてしまう。飲み込んだ物をマグネタイトに変換するふざけた性能があるらしく、ナナシは1度仲魔をすべて溶かされて敗北を喫したらしい。機動を遅くしようと足の部分を重点的に攻撃するが、あり得ない体格になって近づいてくる。
『どこ、どこ、アキラ』
アキラを探しているらしい悪魔を見つめるナナシは、悲壮感に染まっている。流れるものがある。フリンは見ない振りをした。
ナナシから放たれた魔砲はすべてを焼き払う。
女によく似た悲鳴が聞こえた。アキラを探し回る死屍と化した人間である。目がある場所から出る黒い液体は、這いずり回る体制になってもあふれ続けている。その泥をすべて蒸発させるほどの超火力が襲う。これでマグネタイトを補給する手段をたたれた。
「フリン!」
ナナシの声が飛ぶ。いいのか、と振り返ると、早くしろとナナシは口走る。
「ああ、わかった。君の期待に応えてみせよう」
刹那の思考の後、フリンの一閃が死屍を一刀両断した。血をきれいに払いのけ、愛刀を背にやったフリンはナナシを振り返る。
「ナナシ、あれは・・・・」
「まだだぜ、フリン。あれは本体じゃない」
きっぱりと告げたナナシは物言わぬ亡骸に一別もくれず、歩き出す。
「昨日はここで死んだんだ」
「そうか、わかった」
フリンは後を追った。ナナシの肩がふるえていることには、気づかない振りをした。
この異界を形作っている主が見えてきた。ここまでくれば、薄々脳裏をよぎる光景があったフリンはさして衝撃を受けることなくその光景を見上げる。フリンはこれを2度見たことがある。時空も時間も場所も違うが、ひとつは東のミカド国のシンジュク村で。もうひとつは東京の新宿御苑で。
ナナシは歩みを止めない。フリンが出会ったアキラの経歴が確かなら、ナナシはすでに知っているのだ。この包帯に巻かれた巨大な繭の中に広がる蜂の巣の空間がどういうところなのか。人間がひとつひとつの穴に閉じこめられ、環境に適応できるように強化し改造を施した場所。植物の種子や動物も運んだ巨大な選ばれし者を運ぶための船。墜落し、形を成していないもの。あるいは建築途中だったもの。どちらかしか見たことがなかったフリンは、完成品のそれに乗り込むのは初めてだった。
正六角形を隙間なく並べた空間が広がっている。その中はどれも空っぽだ。回遊型の階段をぐるぐると上っていくと、中央に位置する動力源不明の発光体があたりを黄金色に輝かせた。その真下には大きな球体が浮遊している。わずかに揺れているのがわかる。ナナシは何もいわないまま、精神を統一しはじめた。
ガラスが砕け散るような、きれいな音がした。球体の中に満たされていた、この繭の中にいたはずの人間のスープが溶けだし、すこしずつ形を作り始める。体が組成される。すみからすみまでスープが流れ込んでいき、とけ込み、一体の悪魔、いや魔人として一体化していく。とても静かな空間だった。
「我ガ名ハ魔人サトゥルヌス。誰モガ同ジ量ノ時間ヲ持ッテイル。貴様ラ人間ハ過ギサッタ日々を思イ出スノデハナク、過ギ去ッタ瞬間ヲ思イ出スノダ。過去ノコトハ過去ノコトダトイッテ、片ヅケテシマエバ、ソレニヨッテ、貴様ラハ未来ヲモ放棄シテシマウコトニナル。サア、【次コソハ】ト自ラヲナグサメヨ。ソノ【次】ガ貴様ラヲ墓場ニ送リ込ムソノ日マデ」
「フリン!」
「ああ、ナナシ。共に往こう!」
救世主たちの戦いは始まる。
熾烈を極めた激闘の果てに、雌雄は決した。
呪怨を残し、魔人サトゥルヌスは姿を消した。フリンは大きく息を吐く。
「大丈夫かい、ナナシ。一度本部に戻ったほ・・・・・ナナシ?」
じわりじわりと目尻から熱いものがこみ上げてくる。ぬぐってもぬぐってもあふれてくるそれに、感情の高ぶりも押さえきれなくなってきたようで、ナナシはそのまま崩れ落ちた。フリンが初めて見たナナシの泣き顔だった。わあわあ泣きわめくナナシに近づき、衝動がすっかり引くまで背中をさすってやる。優しい眼差しのまま、フリンは何もいわなかった。うぐ、ひく、と嗚咽をもらしながら、もらった布でぐしぐし乱雑に顔を拭い、目を真っ赤にしたナナシは何もいわない。帰ろう、と手を差し出され、こくこくうなずいたナナシは手を取った。