創造主が明確な意志を示さないことは、大天使に救済の解釈を強いた。人間を徹底的に管理するのか、人間の統治を見守り不干渉を貫くのか。どちらが神の意志なのか対立は深まり、四大天使とマンセマットの勢力は決裂した。その岐路は、天使の国に現れたアキラという少年である。
メフィストフェレスがその話を聞いたのは、新たに勢力に名を連ねることになった堕天使の長からだ。人間世界を視察に行った天使長が人間の女と結ばれたことで堕天した。率いる天使たちもみんな堕ちたものだから、天使勢力が抹殺にきた。ほんの1割はマンセマットに下り堕天を免れ、ほとんどがルシファーの勢力に下った。元天使長はマンセマットの元に下った派生から伝播する情報を得て、メフィストフェレスに提供したのだ。
元天使長は人間を神の望む姿に作り替え、その人間のみが永遠に神を信仰する国を作ろうとした計画のため地上に降りていた。無垢な子供を選別し、誘拐した。動きやすくするために宗教法人の形で東京に根を下ろし、表向きは新興宗教の活動に尽力。裏では人々の意識を根本からねじ曲げる賛美歌の蓄音機をならし、その賛美歌に反応する人間だけを狙った。賛美歌を聞き取ることができるのは、無垢なる魂になる可能性がある人間だけだ。反応を示した子供を中心に誘拐し、秘密裏に建造した繭に幽閉した。巨大な蜂の巣である。六角形の部屋で子供達は問答無用で遺伝子操作を施され、来るべき環境に備えて改造、強化、が行われた。自我を持たない人間ができあがる。神を信仰するためだけに生まれた人間ができあがる。動力源は天使だ。人間でありながら、天使と同じ構成の人間の誕生である。
神を盲信する人間にするため、自我を奪う徹底したギミックには、光に対する未練も大いにあるメフィストすら感服するほどの無慈悲さだ。さすがは火から生まれた天使、愛すべき元同志。土から生まれた人間が神に愛されたことがよほど気にくわなかったらしい。神は人間を自らを模して作ったから愛すべきなのに。その人間から自我を奪ったらそれは神が自らを模したという事実を貶めていることにも気づかないとは。自我が芽生える、もしくは大天使がいない状況下になると、自動的に神に愛される前の土人形に貶め、強制的に神に盲目にさせるギミックは神を冒涜するにもほどがある。
天使に造られた子供達は、文明を放棄し、原始的な生活をする選ばれた始まりの民として繭から出され、生活をはじめた。もう300年ちかくたっている。赤子のように無知で、無垢で、真っ白な人間の世界に、突然汚れた旧人類が接近し始めた。神の御心に沿うような人間として生まれ変わる価値もない、汚れた人間だ。異分子は排除されるべきだ。ケガレビトと天使は戦争状態にある。膠着しているのは天使勢力の一部が秘密裏に支援しているから。そんな話だった。
このときルシファーは柱となるべき人間が討たれ、冷獄に封印されることになったばかり。従者の一人として、その代行を分担して職務にあたる高位な悪魔だったメフィストは、その人間に興味がわいたのである。元天使長は狂言回しを得意とする自分よりもこの職務に向いていると推挙し、道化師の振るまいと変幻自在な術をもつ自分が偵察にあたると自薦した。
メフィストがアキラに出会ったのは、このときだ。四大天使と背反する思想から神の意志を示そうとするマンセマットがその支援の中心だと判明した時点で、メフィストはアキラが気に入った。マンセマットは大天使でありながら堕天使や魔神の軍勢を率いることを神に許されている。人間を誘惑し、迷わせる、試練を与えることで神への信仰を示そうとする特異な天使だ。天使勢力にいるにもかかわらず、メフィストが忠誠を誓うルシファーに宿命づけられた定義と同じ存在である。そんな大天使がアキラを気に入っている。きっとルシファーも気に入るはずだ。そう思ったのだ。
マンセマットはメフィストがアキラに協力することに咎めはしないし、なにも言わなかった。ただ光を嫌いながら光に焦がれている難儀な性格を揶揄しただけである。
「なあ、アキラ」
「なんです、××」
「頼みがあるんだよ。何年かかってもいい。何百年かかったっていい。俺たちの孫が、曾孫が、ずっと後の世代でもいいから、人間が人間らしく暮らせる国を造ってくれ」
「約束します。絶対に、絶対に造ります。僕が王になった暁には、必ず」
「それはよかった。俺は、その国の民になってやるよ、アキラ。だから、しばしのお別れだ」
「はい。お疲れさまでした。ほんとうに、今まで、ありがとうございました」
アキラの手の中で冷たくなっていく仲間の手のひら。簡素な邸宅にはいつも静寂があたりを包んでいる。メフィストはいつまでも手を離さないアキラを背後から眺めている。
「なんだ、メフィスト。一人にしてくれって言っただろ、入ってくるな。ぼくは今君の相手をする気分じゃない」
「いやですねえ、私は貴方の願いを叶えて差し上げようと思っただけですのに」
「彼はそんなこと望んでない。彼は人間のまま逝かせてやるべきだ。余計な口を挟むな」
「一人にしないでくれ。寂しい。そう思ってるのはほかならぬ貴方でしょうに」
「うるさい」
流暢な英語が氾濫するこの国で、ケガレビトの言葉だと禁忌とされている日本語がどれだけ強烈な郷愁を呼ぶか、手を取るようにわかる。メフィストは悪魔だ。わざわざ音を発さなくとも意志疎通は可能だが、取り入るのに必須なものなど知り尽くしている。目尻が潤むアキラをみるたびに、歪な感情が浮かぶ。堕天したことで得たおぞましい本性をさらせば、今のアキラは抵抗しようがなくなるが、それは意味がない。常にメフィストがアキラの前に現れるのは、アキラの姉を誘拐した犯人の姿だった。憎悪と信頼がない交ぜになった複雑な感情は、メフィストを満足させた。
人間の皮をかぶったその天使は、おぞましいほどに美しい男だったらしい。魅入られるほど妖艶で玲瓏な青年だ。同時に恐ろしい。いつもするりと心の中に入り込んでくる上に、人付きのする穏やかな笑みをたたえていながら、見下している。ただ、メフィストが再現すると、その瞳の奥に欲望を解放することを是とする矛盾した信条が浮かび、抵抗することを待ち望む恐ろしさが付与される。似ていながら全く違う。それがアキラの感情を激しく揺さぶっているようだった。
アキラの目に濁流のような高ぶりがちらつく。そのくせ怒りでもない、悲しみでもない、ただ驚くほど凪いでいる。そのゆらぎをみるたびに、メフィストの顔は楽しげにゆがんだ。
「忘れないでくださいよ、アキラ。私はどうあがいても絶望的なこの状況の中でも、最後まであがき続ける貴方が美しいと思っているから協力してさしあげるのです。どうか最後まで私を楽しませてくださいね。くれぐれも私を興ざめさせないように。契約はすでになされました、対価はお忘れなく」
「わかってる。アンタの協力がなかったら、ぼくは姉ちゃんの子孫まで殺すところだったんだ」
「ええ、ええ、そうですとも。まさしくその通り。ですが貴方は最適解を常に提示してきたではありませんか、なにを悔やむ必要があるのです?」
「最適解が幸福とは限らない」
「大いに悩んでください、アキラ。その生を終えたとき、時を忘れる最高の瞬間でもって永遠に貴方をもてなして差し上げましょう」
「好きにしろ、ぼくは興味ない」
「貴方は私と契約したのですからね。貴方の魂は私が貰い受けるのです、くれぐれもお忘れなく」
封印することしかできなかった大天使の残党に暗殺され、東京の女神に契約の報酬である魂をかすめ取られるとは思わなかったメフィストである。マンセマットがアキラと死後も含めた契約が交わされていることを知ったメフィストは、もっと早くにアキラに近づくべきだったと後悔した。まだ飽きていないお気に入りの玩具が取り上げられた気分である。人間の国の建国を見届けて、メフィストはルシファーの配下に復帰した。
それから時は流れ、ルシファーが核となる人間を軸に無事東京に復活することに成功し、メフィストは代行の職を辞することになった。その報酬としてルシファー陣営から離脱することが黙認されたメフィストは、さっそく継続している契約をたどってナナシの前に現れたのである。
「遥か時の彼方、大いなる神が現れた瞬間から、光と闇は戦いを続けてきました。ですがねえ、アドラメレク。貴方はカオスの神髄をわかってはいないようだ。カオスとはすなわち力の信奉なのですよ。我々が価値がないと蔑むのはなにもせず流されるままの者達のはず。数の暴力という弱者の力、抵抗しようとする力、権力、暴力、あらゆる力は許容される。少なくても、ここにいるナナシとアサヒ、2人は価値のない人間ではないはずです。その目に光がある以上はね?」
「これはこれはメフィスト様、まさかそのガキをかばうおつもりで?」
「かばう?なにを言っているのです?私が聞きたいのはそんな言葉ではありません。アドラメレク、私がほしいのは貴男方がナナシ達に対する攻撃をやめるという契約とその保証です」
「またいつもの気まぐれですか?」
「いいえ、これは本気ですよ、アドラメレク。私は本日を持ってルシファー陣営から離脱いたしましたのでね?」
「なんと。それは初耳ですねえ」
「よく聞きなさい、アドラメレク。今は大変な修羅場です。言葉を選んで慎重に発言しなさい。ナナシとアサヒへの攻撃をやめろ。そしてその保証をしろ。でなければ今ここで私は貴男方を殲滅する。ナナシの憂いがないよう徹底的に」
「ルシファー陣営から離脱したなら私は貴方の命令を聞く理由はないのでは?」
「残念ながらこれはルシファー様も許容している。私がなにをしようと勝手だとね」
「なんとまあ」
「私は謝罪など求めていない。二度目だ、よく聞け。攻撃をやめろ。でなければ攻撃する。時間稼ぎの曖昧な返事は認めない」
「これでは交渉の余地がないのでは?」
「三度目だ。交渉も対話も終わった。お前が終わらせた。この場に及んで俺の本気がわからないか」
「なぜそんなガキにそこまで」
「口先でこの俺を誤魔化せると思うなよ。5、4、3、2、1」
「仕方ありませんね。しかし、わかりませんね、どうして貴方が」
「黙れ、アドラメレク。これは命令だ。実力でねじ伏せられるか、穏便にねじ伏せられるかという選択だ。お前は後者を選んだ。さっさと行け。不満があるなら今すぐにでも殲滅を開始する」
呆然としているナナシとアサヒの前に降り立ったメフィストは、おそらく彼らが信用おけるであろう人間によく似た皮をかぶったまま笑った。ダグザが鼻で笑う。メフィストは舌打ちをした。今度は3番目か。
残念ながら契約こそ前世から続いているが、そもそも格上の魔神と東京の女神の契約を前にしては効力が薄い。せいぜい前世との因果でナナシに魂の記憶を想起させる程度だろうか。だが構わなかった。メフィストはナナシの感情の高ぶりを見るのが好きなのである。契約はすでになされている。いつかはナナシの代でも、次の代でも構わない。ナナシの魂が存在する限り、とぎれることはないのだ。
「私はねナナシ、貴方がやらかすことに興味などないんですよ。貴方がどう立ち上がるか、ただ一点にのみ関心があるんです。おわかりですか?」