朝食後。鳩のリズミカルな囀りに耳を傾けていた中、海未が「そうだ」と何かを思い出した。
「長いことしてないですよね」
「なにを?」
「耳掃除」
「げ……」
平和なだらけを中断、ゆらりと立ち上がる。危機感を覚えたからに他ならない。移動しなくてはやられてしまう。捕まったら恐ろしい、耳掻きはあまり好きじゃないから。綿棒に侵入されたときの、痛みともくすぐったさともつかないアレが何よりキツイ。
逃避ではない。先延ばしだ。明日への一手だ。焦るな、悟らせるな。して確実に遠くへ行け。
「海未。トイレ――行ってくるわ」
「さきほど済ませたばかりでは?」
「まさかの残尿だよォ! 別に不自然なことじゃないよなあ!?」
「その必死さが一番不自然なのですが……」
「んじゃな!」
海未が考えかけるのを遮って話絶ち切り、いち早くリビング近くから床を渡って扉を出る。幸いにも海未が深追いしてくる様子はない。露骨な立ち去りに疑問を抱いてこそはいるようだったが。しかし! いつもみたく即刻連行されるくだりにはならない!
「ふふふ……」
閉じきった出入り口を背にほくそ笑む。これまで耳掻きにおいて、あえて海未に抵抗してこなかったことが功を成した。伏線は既に、ずっと前から張っていたのである。
さて、二階まで避難しヘルプを要請だ。ボロを出さぬようできるだけ音を殺して階段を上りきり、ポケットにあらかじめ入れておいたスマホを取り出す。スリープ状態を解除するなり素早く電話帳を開き、時間帯的に手の空いていそうな人物の名前をタップした。
相手は――海未の幼馴染にして大親友、南ことり。スクールアイドルグループのメンバーでもある。知り合ったつてはもちろん海未。
「…………でねぇ」
数コール待った先は無慈悲。忙しいってか。困ったなと、ぼーっと頭をひと掻いていたら。
――下の方から聴こえてきた。他ならぬ、ドアが閉まってたつ衝撃。
(え?)
心臓がホップし始める。海未が動いている。……いやいやここに上がってくると決まったわけではない。むしろうまく耳掻きの場を抜けた、バレている確率は低いのだたぶん。部屋を出てくる理由があるとしたら、玄関から外に出るか掃除するかくらい。
(掃除……?)
そういえば昨日、「そろそろ二階の清掃を」とか海未が言っていた気がする。タイミングが被ったのか?
これは――墓穴。
……あまりSOSする相手のタイミングを想像する時間はないらしい。直感で他を当たるしかない。少し画面をスクロールさせ、次に懸ける。静まれ、小さな声で話せば大丈夫だ。
一律で乱れない呼び出しの連鎖を、息が詰まるような焦りに追われつつ二ターンほど待った末。
『もしもし?』
「ナイス!」
勝利の女神は光のレールを敷いてくれた。相手は海未の元後輩&スクールアイドルメンバーの……
「星空さん! 私だよ私。急で悪いが、折り入って頼みたいことがありましてね」
『……なんとなくだけど、助けない方が良いような気がするにゃ』
星空凛である。すっきりした橙のショートヘアにしなやかな体躯と身軽さが特徴的な、そして語尾に「にゃ」をつけることがある猫みたいな女性。電波の先にいるから今はその姿を拝めやしないけれども。
「早速だけどね、ちょいと匿ってもらいたいんだ」
『……凛の話聞いてた?』
「追われているのさ」
『はぁ……』
親睦は南ことり同様、海未繋がりで深め。つまりワンチャンス助けを乞えるであろう一人なのである。
「事態は一刻を争うのですよ。すべてを今説明するのは困難だがね、具体的には……海未からの耳掻きを回避したい」
『丁重にお断りさせていただきまーす』
おそらく彼女は我が窮地に共感し、手を差しのべてくれるだろう。助かる、耳掻きをせずに済むのである。
「ってまてい!?」
『惚気話は受け付けてないにゃー』
うっかりスマホを落としかけた。まずいまずいまずいまずい!
「そうじゃない、どうか是非――つか絶対その通話終了ボタンを押さず留まってくださいやがれ」
『語尾がすごいことになってる……』
「君が言うか」
『やっぱり切るね?』
「とてもチャーミングな添え語尾かと星空様!」
たかをくくっていた。他にあてがないわけでもないが、ここを断られたらいよいよ猶予がない。乗り気とは程遠い星空氏を説得しようと、全思考回路をフルスロットルさせる。
ただ、彼女による予想だにしない却下(当社比)に戸惑うあまり、慎重に払い続けていた周りへの注意が乱れた。
「ね、5分でいいから!」
『えー』
次第にヒートアップしていく自分のボリュームにも、
「お願いです!」
『うーん……』
階段をひとつひとつ進んで響く小さな軋みも、
「星空さァん! あなたしかいない!!」
『あーもう……わかったわかった。今日は夕方から用事あるから、来るならできるだけ早くね?』
「っしゃあ! 愛してるぜ!」
部分的に聞いては誤解を生みかねない言葉を発している時に限って、自身の背後に誰かが到達したことも。
「楽しそうですね?」
右肩にポンと手を置かれて初めて、マイ警戒はお暇するのを止めた。やたら鮮明に、明るくもドスが効いてたまらない声色が届いたことで。
なるほど、南無。
おもむろに通話終了ボタンを押し、深呼吸して振り返る。すぐそこに、彼女は立っていた。
翳りある満面の笑み、試しに二歩後ろに下がってみるも彼女は一切動かない。……いけるか?
「まあ、な? ところで二階の掃除か? ほんじゃ邪魔者は下で待機するとして――」
ならばとぼんやり流しつつ、自然に海未の横を通りすぎ……
「いいえ。先に耳掻き……でしたよね?」
「あ、あぁ。そうだったなうん」
られなかった。再び肩を掴まれて。しかも地味に力が入っている。依然にっこりだ。
「そしてその前にっ!!」
「はい……?」
「『愛してるぜ』とは、どういうことでしょう?」
やんぬるかな。細く見開かれた眼差しと、下がりながらも固く結ばれた口元が海未を彩って。
「説明を……!」
「うわあああああああ!!!」
迫真の『違うんだ』は、断末魔として天井から世界へと抜けたのだった。
「はじめからそうならそうと……」
「言ったんだよなあ」
零れ陽差し込む部屋には、膝枕という極上のシートに頭を預けた元浮気者容疑者ぼくと、綿棒片手に暴走する気などなかったことを表明する海未。
押し問答、誤解弁解を経て紐解いた結果事なきでした。顔面脇に紅葉を残した以外は。
「かゆくないですか?」
「実にかゆいね、とても」
「もう終わりますから、あと少しだけじっとしていてくださいね」
「……へい」
相変わらず耐え難い拷問だ。が、それ以上に色々必死こいた疲れが襲ってきて眠い。時間帯的に暖かいのが拍車をかけている。堕ちるつもりはないのに、つい瞼を閉じてしまう。
……何もない。ただでさえ膝というスペースを埋められているのに、挙げ句仮眠までするのを海未は形容してくれるらしい。耳の中を掃除し続けてもらう中どんどん昏くなる意識なりに、感謝した。
運が良いのか悪いのか、完全にぐっすりする前にひとつ気が付いた。柔らかな圧力が、頭を擦っているようで。なんとか眠気に抗って、ほんの薄目を開ける。
「いつも寝坊助なんですから」
ちょうど独り言を溢す彼女を見た。端に映る影はきっと――――。
ああ。殊更睡魔にやられるのはそういうことか。どうりでか、納得した。
と、急にのしかかっていたものが離れる。働かない頭でどうしたのかと推測していると、ほぼ閉ざしている視界の先にあたふたする海未が。
「……み、見ました?」
なんとたまたま捉え合ってしまったか。ちょっと上体を退いて震え声で問う彼女は、うっかり耳掻きする手を止めてしまっている。
息を呑む海未に対し、口角だけ上げて応える。すると意味を察したか黙りこくった。
「……もう耳掻き、できないでしょ。代わろうか」
「結構です」
「違う違う。たまにはねってことで」
「絶対悪戯するに決まってます……」
「そうだよ」
「いい加減にしてくださいっ!」
最後は拗ねたように、だけど丁寧に海未は溜まったものを取り除いていく。
「…………その、あ、後でお願いします。やはり一人ではやりにくいので」
「承りましたよっと」
「変なことはなしですからね?」
「わかってるって」
それでもくすぐったいものは、くすぐったかった。
たくさん耳掻きライフを書くはずだった。しかし予定が狂い申し訳程度になってしまった許せ