何も、なかった。
全快した春良は、本の整理と美鈴との訓練に勤しみ、それなりに充実した日々を過ごす。
しかし、本をある分全て整理しても、それなりに強くなっても、腕の印が染められる事はなかった。
「レミリアさん。いろいろ迷惑を掛けました」
「また、時間が空いたら来なさい。フランが待ってるわ」
「待ってるよ!」
門の前。
赤い館を背景に、春良は紅魔館の面々に別れの挨拶を告げていた。
「美鈴さんも、訓練ありがとうございました」
「筋は悪くなかったですよ。また鍛えたいときに来て下さいね」
「パチュリーも、スペカとか、まだ使ってないけどありがとな」
「……図書館整理のお礼として、受け取って起きなさい」
「咲夜さん、今度料理教えてくれませんか?」
「……時間を取らないのでしたら」
意地悪を言うように微笑む咲夜に、苦笑いで答えると、次はこあくまに顔を向ける。
「こあ、誘い断ってごめんな」
「……いえっ…、私こそ…わがままを、すいませんでした…っ」
ぐずぐずと鼻をすすりながら答えてくれるこあくまに背を向け、ありがとうございましたの一言を添えると、春良は歩き出す。
そして、
「……貴方、なんでこちらにいるのかしら?」
その歩みは、すぐに止まった。
「……は、はい?」
振り返ると、パチュリーに顔だけを向けられたこあくまが、涙顔できょとんと目を開いていた。
「わ、私ですか…?」
「春良に、忠誠の儀をしたのだから、離れてはいけないじゃない」
「……えっと、つまり…?」
理解ができないようで、こあくまは春良とパチュリーを交互に見つめ、言葉を促す。
「……こあは、春良に付いていく義務がある。と言う事よ」
「で、でも、私がいなくなったら、本の整理が…」
「私が手伝います。時を止めれば造作もない事ですし」
「……だそうよ?」
後は、貴方の意志だけ。
そう言いたげな視線に押され、こあくまは春良を見つめる。
「……あ、あの…」
「……ん?」
「付いていっても、いいですか…?」
「……勿論、大歓迎だぞ?」
「…………っ!」
ぼろ、と一度は収まった涙が、また溢れる。
それを気にせずに、こあくまは春良の決して屈強とは言えない体に、自分の体を納めた。
「……ありがとう、ございます…っ!」
おぉ、とどこかで歓声が上がる。
春良と、こあくまの唇が繋がったのだ。
春良は驚きに、こあくまは喜びに、上海は嫉妬に包まれた何秒か後。
それは唐突に訪れた。
「おめでとう、春良」
レミリアの声が響く。
「…………っうお…っ!?」
輝く。
収束を知らないはずの輝きは、やがて腕に集まり、形として残った。
「証が一つ、染まった……」
「使命の証ですか!?ほ、本当に!?」
腕を出すと、確かに五芒星の右上側の丸が一つ、薄く染まっているのが確認できる。
「『かけがえのない絆を作る』事…」
「レミリアさん…?」
「それが、貴方の最初の使命よ」
進んでいた。
前に、確実に。
「……使命…」
何も変わっていないと思える無駄なことでも、前に進んでいたのだ。
「よし!帰るぞ。こあ、上海!」
「はい!」
この喜びを、まずは諏訪子に伝えよう。
そう思い、春良達は走り出す。
「……帰る、ね」
「……お嬢様?」
「いえね、あの子も随分と染まってきたじゃないと思って」
「染まった、ですか?何に…?」
「決まってるじゃない」
紅魔の主も、身を翻して我が城へと歩きだす。
その表情と感情は、
「……幻想郷に、よ」
誰が見ても、『歓喜』そのものだった。
「……そういえば」
紅魔館へ歩く途中、パチュリーが思い出したように呟く。
「何か伝え忘れたことでもあるのかしら?パチェ」
「……そうじゃないけど。……レミィは、何故パーティーにあれほどの人数が集まったか知っているかしら?」
「知らないわね」
そんなことには興味がないと言いたげに更に歩く。
ほんの少しの笑みを見せた後、パチュリーは解答を広げる。
「……戌井春良。彼が紅魔館中の妖精メイドやら『全員』に誘いを掛けたのよ」
「実は、私も声を掛けられました」
「あ、私もです」
「私はお嬢様に招待されていることを伝えたら、安心したように笑っていましたわね」
静かに手を挙げる咲夜と美鈴。
「……フランもかしら?」
「うん!わざわざ地下室まで来てくれたよ!」
「なるほどね…」
だからほとんどがいつも目にしている者共だったのか、と疑問が一つ晴れる。
「春良は、あの時言ったわね」
「……あの時?」
いつしかの、食事の時。
恐れ多くも夜の王にささやかながらに意見を見せたあの時だ。
「『食事は、皆で取るもの』……悪くはない言葉ね」
「……そうですね。お嬢様」
館は紅く、不気味に幻想を過ごす。
カリスマを顕現したような世界と人々。
それは見る人によっては、あまりにも荒んだ赤に見えるだろう。
しかし、その不気味の中に、確かな暖かい赤があることを、皆知っていた。
それが、紅魔郷。