その空間は黒だった。地面はピンクと赤が混ざり、妙にざらざらと、ラメのような粒が散りばめられている。夜と形容するにはあまりにも虚しい空には一つ、人面の月が浮かんでいた。月は優しく微笑んで、悲鳴を上げる三人を見下ろしていた。
「ああ! にとりさん、早く言ってくださいよ。にとりさんが吐かないと、私達の足、本当に!」
「わ、私はにとりさんの考えてること、なんとなく分かってますから! 白狼天狗はハナが利きます! だから、いまさら言われたって、おどろかないし、笑わないし、だってなにより知ってたし!」
「えっと、その、わたし、だって、そんな!」
錆びた拘束椅子に身体の自由を奪われた文と椛は必死でにとりに懇願する。二人の顔は青ざめて、にとりの頬のみが紅潮していた。
三人の太腿の上に、けたたましい駆動音が在った。原理は不明だが、凄まじい速度で回転する丸鋸は、拘束椅子に備え付けられた機能の一部だった。
「ああ、にとりさん! 早く、早く!」
「に、にとりさん! 言ってください! 後生だから!」
目に涙を浮かべ、紅潮した顔をぶるぶると震わせて、にとりは意を決して口を開いた。
「あー! わたしは、わたしは二人が! 二人のことが――」
序
「もう一軒! もう一軒いきましょうよ! ねぇいいじゃないですか、ね! もう一軒いきましょうってばー」
虫も寝静まる丑三つに、射命丸文は、木へと陽気に語りかける。少し離れたところには水銀灯が立っており、薄青の灯は文の醜態を引き気味で見つめる河城にとり、犬走椛両名の頭のてっぺんを、淡く、照らしていた。
「にとりさん、文さんたらあんなことになってますけど、どうしましょう」
「いいよいいよ、ほっとけって。あいつは構って欲しくてあんなふうに愛想振りまいてるだけなんだから」
にとりの口元には煙草が咥えられており、朱く燃える先端から白紫の煙が立ち上っていた。煙は水銀の灯に曖昧に溶け、群がる蛾達は煙に噎せるようにはためいて、破裂音を奏でている。
「あれぇ。にとりさん、煙草なんて吸ってましたっけ」
「最近始めたんだ。そうそう、それで、ちょっと考えたことがあってね」
え、なんですか。と、興味ありげな椛に対し、にとりは自信満々の顔つきで語る。
「射命丸。あの酔っぱらいに似てるものはないかをさ、考えてたんだ。それで考えついたのが、これ」
にとりは言いながら、組んだ腕の片方、人差し指と中指に煙草を挟む左手をゆらゆらと振った。しかし椛はにとりの言わんとするところを今ひとつ解せず、期待の混じった微笑を貼り付けて、首を傾ける。にとりはすかさずふふんと笑って、左手を揺らしたまま、言った。
「煙草だよ、煙草。射命丸、あいつはね、タバコのフィルターと似てるんだ」
椛は相変わらずに首を傾けたままでいた。
「煙草ってさ、タールとか、ニコチンとかさ、そういうのを摂取するために吸うもんだろう? 煙を吸うためにあるんだよ。だけどさ、フィルターはそれを邪魔してる。椛、わたしが言いたいこと、わかる?」
椛はゆらゆら上下する烟草の朱い先端に夢中になりながら、「はい、なんとなく」とぼんやり答えた。
「つまり、つまりね。わたしが言いたいのは、射命丸、あいつはいらないってこと!」
椛はぼんやりしやまま、「おおー」と、小さな朱燃の軌道を追い続ける。
「今日だってさ、わたしと椛だけで飲もうって話だったのに、あいつが飛び込んできただろう? そしたらこのざまだよ。毎回だ、毎回。あいつが来るといっつもメチャクチャ。わたしたちも子供じゃないんだし、もうちょっと落ち着いて呑みたいもんだよ、ほんと」
つまり、にとりは椛をタールやニコチンといった、有害物質に擬えたわけだが、当の椛はそれに気がつくこともなく、にとりの口元に落ち着いた、朱い光を見つめていた。
一人の友人をこき下ろすためにもうひとりを毒に擬えるにとりにしても、それに気づかない椛にしても、ほんとを言えば酔っていた。木々に絡む文と同等に、酩酊していた。文は酔えば、二人の気を引くべく、酔った上で泥酔した振りをする癖があり、にとりは酔えば、タールに類似した気分を愛し、椛は酔えば、頭の片隅に浮かぶ世界の破滅を待ち望んだ。
「ねぇもう一軒! もう一軒行きたいんですよお私はー」
幸福の到達点めいて聞こし召した文の声で、椛はやっと朱燃の呪縛から解き放たれた。木に縋り付き駄々をこねる友人を一瞥し、椛は言った。
「たしかに。あの人と一緒にいると、気が触れそうになることがあります」
煙草を用いて三人の関係をそれぞれ通釈するならば、煙草を始めたばかりの、タールやニコチンが、自分の身の丈を伸ばしてくれるものと疑わないにとりにとって、椛はタール、文はフィルターだった。素面ならば煙を有害物質と断じて曲げない椛にとっては、にとりはフィルター、文が毒だ。そして、文にとって、二人はおしゃぶりだった。ただ、これはあくまでも、三人が出来上がったときにのみ浮かび上がる関係性で、素面ならばこの限りにはない。しかし、こと最近において、三人は酒の抜けることのない生活を送っていた。
たまに仕事をするにしても、それは酔いの気まぐれ他ならず、文は適当なデマを書き連ねては、違期に憤懣する印刷部に平謝りをし、にとりは技術者という肩書に纏わる職人の外套を隠れ蓑に納期を伸ばした。
椛も椛で哨戒の職務が在ったが、それは特に椛でなければ不可能な仕事というわけではなく、誰がそこにいてもいい、寧ろ、誰もいなくてもいいような仕事だったため、最近の椛は殆ど、その職務を放棄していた。
人生に対し上納するべき真っ当さの納期を悟らない三人では無かったが、直面するのはあんまりに辛いので、三人とも、酒を飲んでは騙し騙しに生きていた。
「にとりさん。私、眠たくなってきちゃいましたよ」
「ああわたしも。お、ちょうどよくふかふかしてる場所があるぞ。なんてお誂え向きなんだろうなあ」
にとりと椛は水銀灯の隣の、ゴミ捨て場の袋の山に飛び込んだ。
「なんだか落ち着くな。うわあ! 落ち着いたら嫌なこと思い出しちゃったよ」
にとりは、「あー! あー!」と声を上げ、点滅する納期の二文字をかき消した。それは三人に共通する発作だった。少し離れてにとりの発作を耳にした文も、すかさず共鳴するように声を上げた。
「あはは。終わりですよ、終わり」
自由の味を知ったばかりの椛にとっても、にとりの発作は辛辣だった。三人のかっ喰らう酒はいつも自由の味がした。自由はいつだって、発狂と、平熱と、身の破滅の味をしていた。しかし、三人は三人とも、酒を飲む事をやめなかった。二人が飲めば一人も来た、一人が飲めば二人が来た。三人は互いに、まるで何かに惹きつけられるように集まっては、酒を飲んだ。
ゴミに埋もれて叫ぶにとりを目掛けて、「わー!」と文が飛び込んだ。
「うわ! やめろ、触るな。気持ち悪いんだよお!」
にとりが本気で嫌がると、文はまた、「わー!」と叫んで、椛の胸に飛び込んだ。
「あはは。終わりですよ、終わり」
椛は文の頭を木魚にして般若心経を唱え続けて、そのうちに眠った。
頭部へと規則的に訪れる衝撃に、文は無意識に、母の胎内を想った。
二人が寝静まってからしばらく叫び続けたにとりだったが、急に、辺りの静けさが鮮明に感じられ、声を引っ込めた。それから間もなく、にとりは眠りに落ちたのだった。
水銀灯はぼんやりと淡く、青白く。コンクリートの低い塀に囲まれた、ゴミ捨て場を照らす。
寝息と、蛾の爆ぜる音。そして、夜風に靡く木々の音が、妙に静かな夜だった。