一方、にとりと椛の日々は目まぐるしく流れた。久々の労働に目を回しているうちに、道の端で汚れていく初雪の上に、また新たな雪が覆いかぶさる。思いのほか姿を見せない文の様子がそろそろ気になりだした頃、二人は合った休日に集まって、酒をやるようになった。慰みのない労働には耐えきれない、というよりも、酒を楽しむために働くのだということを、二人はわかっていた。しかし、どうにも楽しめなかった。仕事を再開したにとりの部屋は整然とし、酒宴会場である椛の部屋にも、空き缶が溜まることはなかった。冬にしては、明るい陽射しが多かった。二人の部屋は小ざっぱりとして、白昼、平熱の風が吹き抜けて、カーテンを揺らす。休日の白球をその手に掴めば、二人はただただ、カーテンの挙動を追った。
そうしてそれからは、そんな、小ざっぱりとした日々が、暫く続いた。
休日、休日とは言ったものの、厳密に言えば、二人に休日は無い。椛の場合、それは非番で、にとりの場合は、毎日が平日にも休日にもなり得た。
にとりの仕事は、河童たちの製品作製の工程を最適化する、マニュアルの作成、ないしは改訂だった。にとりの技師という肩書は伊達ではなく、工程の最適化は、全てにとり一人に任されていて、にとりはその業務の全てを自室で行ってもよい権利があった。しかし、河童たちの生産効率はにとりのやる気に左右されるのだから、それは重要な仕事である。だから、にとりが久々に新しいマニュアルを提出したときには、河童全員が喜んだ。やっと河城が戻ってきた! ヨッ、谷ガッパのにとり! みなが、にとりをもてはやした。にとりが耳にした噂によれば、自身があと少しサボり続けていたならば、代役が立てられていたという話だ。代役は後のことを考えて、経験の浅い、若い河童から選出される予定だったようだが、若く繊細な河童の中には、誰も、そんな大役を引き受けたがる者はいない。なのでますます、このところのにとりは持て囃されていた。
以前のゴミ屋敷と比べて、ずっと整然とした部屋の中、にとりは機械を前に、ぼんやりとする。期待に応えよう、なんて、そんなやる気とは裏腹に、自身の心が空転しているのを、にとりは確かに感じていた。
なんだかな。仕事も今ひとつ、身が入らない。そんな折、不意に玄関のチャイムが鳴る。
あまりいい気分では無かった。最近、にとりはいろんな後輩と仲良くしていたが、なかでも一人、後輩よりも後輩らしい、あまりにも後輩然とした河童がいた。その河童はやたらめったらにとりを褒めた。にとりのことをこれでもか、というほどに褒め倒した。それは憧れと尊敬の入り混じった眼差しと一緒の色をした言葉で、悪い気がしないでもないにとりだったが、どうも、キラキラと輝く瞳を見ると、いたたまれない気分になってしまう。
おおかた、そいつがまた、訪ねてきたのだろう。あまり浮かない心で、にとりは玄関の戸を開ける。
「あれ、椛じゃないか」
少し照れたように、「どうも」とはにかんで、椛は玄関の戸をくぐった。
「にとりさん。お酒持ってきたんですよ、よかったらどうですか?」
「おお、いいね。ちょうど行き詰まってたとこだったから」
二人は酒を飲んだ。冬の明るい陽射しは縁側から差し込んで、嘘っぽく部屋を照らしている。そろそろ寒くなってきたね、の一声で換気は終わって、縁側の大窓は閉じられる。それでも、窓の向こうの遠い空には、鈍白の陽が青空にまぎれて光るので、二人はそれを、何の気なしに眺め続けた。
「それにしても。いいの、椛。今日、非番じゃなかったよね」
「いいんですよ。どうせ、やることなんてなんにもないし」
空回りしているのは、椛も同じだった。やる気を出して足を踏み出せど、椛の仕事は、誰がいてもいなくても変わらない、やりがいのないものだった。やる気のあるなしに問わず、山中をぼーっと散歩しているなら、友人のところへ遊びにいってしまっても、なんら問題はない。誰も困らない。実際、椛の不在に気がつくものは少なかったし、気付いていたとしても、気にもとめない者ばかりだった。それは、なにも椛に限った話ではなく、誰も、哨戒という職務をまっとうにこなす者はいなかったのだ。
「最近、射命丸はどうしてるのかな。もっと、こう。すぐに訪ねてきてさ、いつもの調子で、くるもんだと思ってたんだけど」
にとりは灰皿に灰を落としながら、「まぁ、忙しくしてたんだけどね」と続ける。
「ああ、そうだ。ちょっと考えたことがあってさ」
にとりのそれは、酔った際によく出る言葉だったが、今回は然程酔っていない。前よりずっと落ち着いた口調や、煙草でわざとらしく身振り手振りをしないことから、椛にもそれがわかった。にとりは口元に烟草を構えつつ言う。
「前まではさ、仕事が嫌で、たまらなくて、毎日飲んでたわけだけど。最近じゃあ、何のために飲んでるのかよくわからないんだよね。仕事もそれほど嫌じゃないし、かと言って、打ち込めるほど楽しいかといえばそうじゃない。ああ、なんだろう。椛、わたしのいいたいこと、わかる?」
椛はじっと、缶ビールを見つめて、うーん、と唸る。一寸の沈黙のあと、にとりはおもむろに口を開く。
「なんだかね。わたしもわかんないんだけどさ、まぁ。次は何を嫌いになれば、酒を楽しくやれるのか、って。そういう話だよ」
そこまで言って、にとりが煙を吸い込むので、椛はなんとはなしに、煙草をくわえるにとりの横顔を眺めた。なんだか、随分と大人びた顔をしているな、椛の胸中に浮かんだのは、そんな感慨だった。
「にとりさん。なんだか、似合ってますね、煙草」
「あんまり、うれしくないなあ」
それからは、静かな時間が流れた。
日暮れ、椛はにとりの部屋をでて、家路を辿る。寮への家路は即ち職場への家路で、椛が考えるのは仕事と、自分のことだった。枯れ木と、土の混じった雪が、椛に変わらない冬を教えていた。
山道は、目を瞑ってでも歩けるほどに、歩き慣れた道だ。いまこうして、本当に目を瞑っても、何にぶつかることもなく、歩き続けることが出来る。でも、それがなんになるというのだろう。あの二人は、きっと、仕事が嫌で、嫌でたまらなくて、お酒を飲んでいたのだろう。でも、私は。楽な仕事だし、隊のみんなのことも好きだ。だけど、楽しい仕事ではなかった。あの二人の仕事は、私のと違って、誰にでも出来る仕事ではないから、きっと、私なんかよりずっと、嫌で、嫌でたまらなくて、お酒を飲んだに違いない。
下を向いて、腕を組んで、考え続ける。道なんかみえてやしなかったが、椛は岐路を曲がって、寮まで遠回りする道を選んだ。
私は、何が嫌で、お酒を飲んでいたのだろう。
三人の中で、椛は唯一酔えなかった。いくら飲んでも、素面でいた。二人と違い、現実的な問題を忘れ、個人の本質に根ざしたコンプレックスに執心することなど、出来なかった。二人と違い、椛には、忘れたいほどに嫌なことなど、なにもなかった。椛はそれが、たまらなく嫌だった。それでも、椛はやり甲斐のない仕事にしがみついた。しがみつけば、しがみつくほどに、自身の何もなさが浮き彫りになった。二人と遊んでいるときは楽しかった。けれど、一人になれば、よりいっそう、世界の破滅が恋しくなった。しかしそれでも、椛は自身の何もなさを浮き彫りにするだけの仕事も、缶ビールも、手放せないままでいる。
「あれ」
椛は随分と、寮から離れてしまっていた。
考えたところで結局、何が変わるわけでもない。仕事はやめられないし、二人ともずっと一緒にいたい。遠回りして、考えることこそ、遠回りで、寄り道だ。意味なんてないんだ。ああ、隕石でも、落ちればいいのに。
椛は寂しく笑って、寮への帰路を急いだ。
それから三人は、にとりと椛でさえも、集まることをしなくなった。文は結局、妙なプライドと捨て鉢の心で誰に頼ることもせず、里の、ちょっとした広場の主となり、にとりは仕事と空転を続けて、椛は何もせず、ぼんやりと破滅を待ち望む。そんな生活が、しばらく続く。
しばらく更新止まります
待ってくれてたら嬉しいけど