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五 このままじゃ帰れない!
さて、三人が各々悩んでいる間、その時間を埋める必要がある。そこで、時は遡り、三人がデマイゴから脱出した直後の話だ。
三人が地底を出ると、外は紛れもなく朝だった。それは早朝で、薄暗くはあったが、それでも真冬の鈍い陽は、霧の向こうに確かに存在していた。戻りましょうか、そう口を開いたのは、やはり犬走椛だった。
「こんなに外が明るいと、寮につくまでに死んじゃいますよ」
雑木林、地底への入り口である洞穴の前、文とにとりは腕を組んで、「たしかに」を発音する。
「でもそんなこと言ったってさ。わたし、もうへとへとだよ。戻ったところで、酒をやれるような体力はないし、それにきっと、お店だって閉まってる」
「それは、たしかにそうなんですけどね。でも、椛の言う通り、朝なんですよ。空の明るさも恐ろしいですけど、なにより今の時間は、みなが起きて働き始める時間なんです。そういう方々と鉢合わせになることが、私は一番恐ろしいですけどね」
今度は、三人輪になって、腕を組み、唸る。
――このとき、三人は素面ではあったが、デマイゴでの出来事に疲弊していて、誰一人、まともに考える頭を持ったものはいなかった。加えて、髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、おまけにこいしから貰った“判子”で戯れたために、顔から首元付近にはキスマークが氾濫している。そんな姿で三人が各々の同僚と鉢合わせれば、一体どうなってしまうだろう。きっと殺される。
「――そうだ! とりあえず、今日は地底で眠りましょうよ。あそこは日雇労働者の天国で、たしか安宿が腐るほどあるとか。きっと宿で缶ビールぐらいは売ってるはずですから、それを飲んで、眠ってしまいましょうよ」
文の提案に、二人は「そりゃあいい!」と声を上げた。はしゃぐための酒を飲める体力は無かったが、眠るための酒ならば、三人には未だ魅力的に思えた。
「そうと決まればさっそく戻ろう! ああ、なんだかワクワクしてきちゃった。お酒飲んでも眠れなかったらどうしようかなあ!」
「ふふ、大丈夫ですよにとりさん。これだけ疲れてるんですもん。きっと、一杯で寝ちゃいますよ」
椛が嗜めてもにとりの気持ちが鎮まることはなかった。にとりの大脳辺縁系は睡眠不足が剰ってぐるぐるに空転していたのだ。それは、他の二人にも言えることだが、真っ先に所謂深夜テンションに突入したのはにとりだったというわけだ。
「歌をうたっていこうよ、歌を!」
にとりの提案にあまり乗り気になれない二人だったが、歌い始めればたちまち例のテンションに突入した。林では鳥や虫達が起床して、朗らかに日の始まりを歌っていたが、三人が選んだのは、日の終りの歌だった。鳥や虫たちは目を丸くして、再度洞穴へ潜ってゆく三人を見送った。
夕空はれて 秋風吹き
月影落ちて 鈴虫鳴く
思えば通し 故郷の空
ああ わが父母 いかにおわす
澄みゆく水に 秋萩垂れ
玉なす露は 芒に満つ
思えば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟 たれと遊ぶ
三人の言語中枢は疲労に焼き切れそうになりながらも、なんとか地底までもった。とすれば、明けの地底には「故郷の空」が響き渡る。朝だってのになんて歌をうたいやがる。あいつら昨日も来てたぞ。嫌がらせみたいなやつらだ。地底の住民達は怪訝そうに一瞥をくれ、通り過ぎていったが、三人がそれに気がつくことはない。三人の視覚と聴覚は生きていたが、他は死んでいたため、既に目は節穴に、耳はただの穴と化していたのである。
「あー、ここまで来ればあと少しですよ。たしか、繁華街を抜けて、ちょっとした裏道に入れば、宿はごろごろ転がってるとかなんとか」
三人はほぼ無意識に道を折れ、適当な裏路地を徘徊した。そのうちに宿の看板を見つけたが、その路地はどうも、三人にとって見覚えのある路地だった。
「お、宿だって。宿の看板があるよ。ほら」
「やっと見つかりましたか。随分歩きましたね」
「そうでもないですよ。それよりお二人とも、このお店って……」
椛が指した指の先にはボロい面構えの店があり、その店の大きな木製の看板には「胎」という文字が達筆に踊っていた。
「うわ! この宿、デマイゴの隣じゃないか!」
「ちょっと、嫌ですね。ほかを探しますか?」
文が提案をするも、みな渋い顔をする。三人が考えあぐねていると、不意に、椛がなにかに気付いた。
「……なにか聴こえませんか」
耳を澄ませば、物音があった。それは間違いなくデマイゴから響いてくる音で、デマイゴから響くというだけで、三人にとってそれは怪音他ならなかった。
それはどたどたや、ばたばたといった音色と似て、きっと何者かが、のたうつ音だった。
「なんだろうね」
「……ちょっと、確かめてみましょうか」
三人は恐る恐るに、デマイゴの扉へと近づく。すると、入り口に声が漏れてきた。
――……ぼれ……る……お……れる……!
扉から漏れる声に恐怖する三人だったが、それでも気になって、どうしようもなく気になって、扉を開けて、声と物音の正体を確かめたかった。とすれば、無言のじゃんけんは必然で、文と椛はグーを出し、にとりはチョキを出す。にとりは口内に舌打ちを溶かして、ゆっくりと、僅かに扉を開けた。
「ああ、これはみないほうがいいね」
僅かに開いた隙間はにとりに独占され、他の二人はやきもきした。加えて、意味深な「みないほうがいい」である。文と椛がそれを堪えられるはずもなく、僅かな隙間は二人の手により解放され、音の正体が三人の視界に現れた。
「お、溺れる、溺れる! 溺れてしまうよぉ!」
そこには、床の上をのたうつ女の姿があった。女は苦しそうに顔を歪めて、全身をがむしゃらに動かしては、酸素を求めている様子だった。
ああ、見なければよかった! 三人がそう思ったのには二、三の理由があった。まず、そこにあるのは何の変哲もない床と壁、実況席のようなテーブルと、その上に置かれた「胎」の空き缶。溺れると悶え苦しむ女の言葉を肯定する材料である水は、どこにも見当たらなかった。続いて、女の容姿だ。女はなにやら“セーラー”を纏っていて、場末の色街の感と相まって、セーラーを着た女の苦悶の空間は、三人に、なにかそういった変態的な行為を彷彿とさせた。こいしのいないことから、これは放置等に類したそういうアレなのではないか。三人は無意識下で想像しては、顔を赤らめる。しかし、三人には女が幻覚を見ているであろうことも察していた。席の上の缶、そのプルタブは開け放たれて、中身の無いことをありありと語っている。三人は女の、ある種の滑稽さに、自分たちの姿を重ねていたのだ。
ああ、自分たちも、こんなふうだったに違いない。
思い出されたのは数刻前の、こいしの言葉だった。
――『おつかれさまでした! 途中からだけど、おにいさんたちのこと、ちゃんと見てたよー』
――三人は湧き上がる羞恥にピリオドを打つように、勢いよく、扉を閉めた。バン! という音と同時に、扉の向こうから悲鳴が響いたが、三人はそれを聞かなかったことにして、扉から離れた。
「宿に、行きましょうか」
「そうだね」