恥ずかしさから逃げるよう宿に駆け込むと、受付にはこいしの姿があった。ああ、この子に全部見られていた。あの、セーラーの女のような醜態を、全部! 三人は脳髄に翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ衝撃に卒倒してしまいそうだったが、こいしがそれを許さなかった。
「あれ? おにいさんたち戻ってきたの? てっきり、帰ったものだとばかり思ってたのに」
文とにとりは醜態の観測者の出現に脳をかき乱され応対どころの話ではなかったが、椛は違った。椛はこういうときに居直れる強さがあった。
「ここ、宿ですよね。一泊したいんですけど、三人。今から泊まれますか」
「うん、いいよ」
文とにとりは仰天した。二人は羞恥から逃れるためならば、また、どこにあるとも知れない宿を探すことを厭わない所存でいたのだ。それをこの白狼天狗は! しかし、ここで日和ってしまってはメンツが立たないと、二人は椛に負けじと言葉を紡いだ。あのとき慌ててましたよね、焦ってましたよね。二人は、友人にいつかその言葉を吐かれることを嫌ったのだ。
「あ、ああ。こいしちゃんじゃないですか。さっきぶりですね。い、いやあ、宿なんかもやってらっしゃるとは、手広いですねぇ。さすが、さすが……なんでしょうね」
「えへへ、そうでもないよ」
当たり障りのない文の言葉は、友人たちに対し、自分は平静であることをアピールするための言葉としては及第点だった。
「あ、ああ! そういやさっき、デマイゴで、床をのたうってる女のひとを見たんだけど。も、もしかして、わ、わたしたちもあんなふうだったのかな」
「うん、あんなふうだったよ」
ああこの河童は! なんてことを聞いてくれるんだ! にとりの場合は大失敗、赤点もいいとこだった。にとりのそれが、紛れもなく羞恥を引きずっての発言であることを二人は察した。そして、こいしの肯定は平静へと這い上がらんとする三人を再び羞恥の渦へ引きずり下ろした。
「部屋は別々がいい? うちは一部屋にみんな入れちゃっても問題ないんだけど、どうする?」
――あ、ええと。……一緒でお願いします。
通常、こんなに恥ずかしくては各々別の部屋に宿泊するのが常軌というものだが、三人はそれをしなかった。三人はこのあとに“おわりの会”を控えていて、今日の出来事や現在の恥ずかしさを、その際の肴として消化しようと考えていた。つまるところ、受付の横に陳列された缶ビールが、三人を繋ぎ止めたのだ。
「はい、じゃあこれ。部屋の鍵ね」
「ありがとうございます。あの、あと、そこのビールを買いたいんですけどね」
「いいよ。何本にする?」
鍵を受け取った文は二人に向き直って、「どうしますか?」を発音する。暫しごにょごにょと話し合って、文は再びこいしに向き直る。
「ワンケースおねがいします」
「え! ワンケース! ……まあ、いっか。こいし、何も言わない。じゃあ、ちょっと待っててね、ケースごと持ってきちゃうから」
三人はケースを受け取るが早いか部屋に入って、缶の一本を空けた。部屋は畳約三畳ほどの広さで、小さなテーブルが一つ置かれていた。端のほうに布団が一組たたまれていたが、気にも留めずに、三人は二本目を開ける。ワンケース、即ち一人八本の至福は、三人の脳皺一本一本に染み渡った。
「あー、これだけ疲れて飲むお酒ほど、美味しいものはありませんね」
「ほんとほんと! それにしても疲れたよ、今日は。いろいろあったよね、ほんとに、いろいろ」
「ゴミ捨て場で起きて、里の広場で飲んで、地底に下りて、映画館で飲んで、お店で飲んで、こいしちゃんと会って……ああ、あそこの出来事も、今思えば、ちょっと楽しかったかも」
回想する椛に、文とにとりは「そんなわけ!」と嘯いて笑った。それからというもの、三人は狭い部屋で、昨日起きてからの出来事を和やかに消化することに努めた。その日の出来事をその日のうちに、肴にして、消化する時間が、陽光から逃げ続ける三人にとっての至福だった。
――でもやっぱり、こいしちゃんは――たぶん、わたしのことを一番――。
――いや、私の欲求が――きっと彼女は――母性愛ってやつが――。
――そんなことより――彼女の――無料よりこわいものって――。
――危険思想――わたしね、ちょっと考えたんだけど――椛――危険思想――。
――。――――。
三人の酔宴は、三人が眠りに落ちるまで続いた。
と、結べればよかったのだが、そうはいかなかった。部屋には既に二十を超える空き缶が散乱しており、三人は銘々、目をギラつかせて、最後の一本に口をつけていた。
「だいたい、なんで私達があんな目に遭わなきゃいけないんですか。あのセーラー服の女の人みたいな姿を、どうして他人に見られなきゃいけないんですか! しかも、自分のコンプレックスの打ち明けまでさせられて、災難ったらないですよ。なんだかもう、苛々してしまって仕方ありませんよ、私は」
「ほんとだよ! こいしちゃんはかわいいけど、残酷だよな。残酷。目的が見えないもの! なんのために他人の醜態を眺めるような生業に手を染めてるわけさ、しかも、無料で! 考えれば考えるほど、あの子の性格が捻じくれて見えるよ。もう、いやだ、わたしは」
「許せませんね」
疲弊した三人の身体に、悪い酒が入った! 一、二杯で眠りにつければよかったものを、初め、一杯、二杯、三杯と、殆ど一瞬で飲み乾した所為で、酒が眠気を呼び寄せることはなく、逆に、三人の大脳辺縁系を覚醒させたのだ。文、にとり、椛と一巡して、再度文が口を開く。
「今度、はたてを連れてきましょうよ。それで、私たちは「胎」の缶ビールを飲まずに、はたての醜態を眺めるんです。どうですか、面白そうだとは思いませんか」
「射命丸、おまえは天才だよ。あの人を人柱に立てることによって、わたしたちの羞恥を薄めようって、そういう腹積もりだな。射命丸、おまえは天才だよ!」
「私は、基本的に、文さんには常に、黙っててほしいと考えてるんですけど。でもやっぱり、ここまで一緒にいてよかったです。やっぱり、文さんは、ひと味ちがう」
そうと決まれば! と文が口を切る。曰く、はたてを辱める計画の実行は明日で、明日のために今日は眠って、英気を養おうという話だった。にとりもそれがいいやと同調したが、椛は違った。椛の口から放たれた、訥々とした語り口を予感させる「でも」は空き缶だらけの空間に浮いて、場を支配した。
「でも。……なんでしょう、私、どうも目が冴えちゃって。お酒の所為で、逆に、目が冴えちゃって。……つまり、眠れないと思うんですよ。実際、こんなに盛り上がった気分のままでは」
二人はハッとして、腕を組み、「たしかに」を発声する。
「うーん。そんなこといったってさ。みんな、疲れてるのはたしかだろう? もう今日の出来事も消化し終わったし、これ以上起きてたって、仕方ないから、眠ってしまうほかないと思うんだけどな。わたしは」
「それは、そうなんですけどね。しかし、椛の言うこともわかるんですよ。たしかに今、気分は盛り上がってて、とてもじゃないけど、このまま眠れるような状態ではありませんし。なにより、明日の計画が楽しみすぎて、もう、ワクワクしちゃって。余計に、眠れませんよね」
三人はやおら唸りをあげて、考え込んだ。三人の心にはなにか、焦燥があった。それは言うなれば、“宿題やってないのに眠る”的焦燥だった。紛れもなく疲労と酒がもたらした偽の焦燥ではあったが、自分の心に気が付いてしまった文の口切りを止める者はいない。
「わかってしまいましたよ、私! この眠いのに眠れない状態の原因が! 要するにこれは、宿題をやっていないのに眠る、的な焦燥なんですよ。そりゃ、眠れるはずがありません。だって、やり残しがあるんですから!」
にとりと椛は「天才、天才」と手を叩いて、文に称揚の拍手を送った。
「そうと決まればさっそく行こうよ! あ、でも……。わたし、あの人とあんまり仲良くないから、なんだろう。どうしようかな」
「……そういえば、私も。はたてさんは、文さんのご友人ですもんね。私たちが誘ったら、不審に思われるかも……」
にとりと椛にとって、はたては友人の友人だった。今更になって怖気づく二人に対して、文は朗らかに口を開く。
「任せてくださいよ! 二人はデマイゴの前で待っててください。すぐに連れてきてやりますから!」
言うが早いか、文はバタバタと部屋を飛び出していった。取り残された二人は、「やっぱりあいつ、頼りになるな」と感心して、残った酒に口をつける。
それから、二時間ほどが経過した。部屋は通り沿いに窓が付いていたので、二人は何度か窓の外を見やったが、未だ、文の姿は見えないままでいた。
「あいつ、手間取ってるみたいだな。ふぁーぁ。わたし、眠くなってきちゃったよ」
「ええ、私も。それに、なんだかどうでもよくなってきました」
寝よっか、という軽薄な一声を同時に発して、二人は床についた。一組の布団は二人で眠るのにちょうどいい大きさだった。
「射命丸が出ていってくれてよかったね」
「ええ。……あっ、にとりさん。いま思い出しました」
「何を?」
「とりわさって、鳥肉ですよ」
「ああ……」
そうして、二人は眠った。
一方、文は職場の、会議室前の長椅子に座り、腕を組んでは、ひたすらに貧乏揺すりをしていた。寮に戻りはたてにはすぐ会えた文だったが、その後が辛辣だった。会話を再現するなら、こうだ。
――うわ、文。なによその顔。どこで遊んできたらそんなふうになるわけ。
――はたてさん、ちょっといいお店を見つけたんですよ。行きませんか、今から。
――なに言ってんのよ、これから会議なの。行くにしても、会議が終わってからでいい? すぐに終わるとは思うけど。
――待ちますよ。
会議はすぐには終わらなかった。会議室前、通路には既に夕暮れが差し込んで、通路に舞う埃を感傷的な橙で照らしている。文は腕を組み、寝不足の目を血走らせて、はたてを待った。あともう少しで終わるだろう、あともう少しで終わるだろうと繰り返し、気付けば夕暮れていたので、文はもう引き返せなかった。だから、ひたすらに待った。
……。…………。
「なによこの店。閉まってるじゃない。それに、なんだかいかがわしい感じがするし。どうせならもう少しまともな店に連れてきて欲しかったわ。それじゃあね」
路地の向こう、繁華街は再び色めいて、猥雑で、無秩序な、騒がしい喧騒が跋扈していた。文とはたての立つ路地は裏路地然として物静かなものだったが、はたてはつまらなさそうな面持ちで路地を出て、通りの人混みに帰っていった。取り残された文はもはや、疲労が剰り、無意識のみで動いていた。やけに鮮明な視覚を操作して、文はきょろきょろと、にとりと椛の姿を探す。当然、二人は眠っているので、見つかるはずがない。文はそうそうに諦めて、宿に戻り、眠ってしまおうと脚を動かした。
宿に入り、受付を見やる。こいしも、どこかに行ってしまっている。だからといって、何の感慨を浮かべることもなく、文はそのまま部屋へと歩く。部屋の戸を開けた瞬間に、文は、にとりと椛の、健やかな寝息と寝顔を知覚した。しかし、だからといって、何の感慨を浮かべることもなく。文はそのまま、二人の間に体をねじ込んでは、その空間に、無意識下で母の胎内を察し、眠った。
目を覚ました二人は酒を飲んで文の起きるのを待ち、文も目を覚ましたら酒をやった。二人が反故を文に謝罪することはなかったが、文も二人を恨むことはしなかった。つまるところ、三人はやはり“三人”で、諍いはあれど軋轢はなかった。しかし現在、そんな三人が疎遠になっている。それを気にするのは当人たち程度なものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。要するに、そろそろなにか、現在の三人にも進展があったようだ。目を覚ました三人の話にはまだ続きがあったのだが、それはまた、別の機会となる。