……。
「あたし、やっぱり、怒らせちゃったかなあ。にとりのこと」
「大丈夫ですよ。にとりさん、八つ当たり以外でひとに怒ったりしないんです。きっと、仕事とかで、なにか嫌なことがあっただけだと思います」
一方、文とにとりが玄関前で話している間、椛はしゅんとしたはたてを慰めていた。ストーブはときたま不健康そうに埃を吐いて、鍋は炬燵の上でグツグツと煮え立っている。
「違うのよ、あたし。こんな、ああ、ちょっと飲みすぎちゃったな」
「わかってます、大丈夫ですよ。はたてさんが飲みすぎるのはいつものことですから。みんな、きっとわかってます」
椛は話しながら猪口をちびちびとやっていたが、やはり酔えないままでいた。
「あたしね、みんなに、三人にね。仲直りして、元気になって、また、昔みたいに頑張ってほしかっただけなの。ほんとよ。こんな、こんなつもりじゃあ……」
はたてはそのまま寝息を立て始めた。はたてのやさしい善良さも、酔った際のどうしようもなさも、しっかりと理解していた椛だったが、どうしても、はたての言葉が響くことはなかった。なんだか、自身がはたての計らいで久々に二人と会って、飲んでいる、という実感が、どうしても湧かなかった。山でぼんやりと散歩しているのと、地続きな感じがした。はたての用意したそこそこに値の張る酒や肉を啄んでも、なんだか味がわからなかった。そんな折、二人が戻ってきたようで、廊下の向こう、玄関の扉の開く音がする。そのまま足音が近づいて、リビングの戸が開け放たれる。
「ごめんごめん。……あっ。射命丸の言ったとおりだ。はたてさん、寝ちゃってるよ」
「やっぱりですね。そろそろ頃合いかなと思ってはいましたが」
にとりの「布団どこだっけ」に、文は「廊下出てすぐ右」と返す。勝手知ったる他人の家とは、よく言ったものである。文はそのまま炬燵に入って、自身の皿と、にとりの皿に鍋をよそった。椛は自身の皿から既によそってある野菜を咀嚼して、はたてのため、炬燵の横に布団を敷くにとりを待った。
にとりははたてを炬燵からずるずると引っ張り出して、布団に寝かせ、その後ようやく、炬燵に脚を潜り込ませた。
みなのお猪口に酒を注ぎ終えた文が、おずおずと口を開く。
「じゃあ、乾杯しましょうか」
「うん、そうしよっか。なんだか、はたてさんに申し訳ない気もするけど」
「そうですね。ふふ、でも、仕方ないですよ」
乾杯、と猪口を掲げて、三人はぐっと、猪口の中身を飲み乾した。そうして生まれた沈黙の輪郭を、煮立つ鍋の音が粛々と縁取る。
「いやあ、なんというか」
気まずそうに口を切ったのは文だった。にとりも椛も、文の言わんとするところがわかった。三人は今になってようやく、ほんとうに、久々に再会したような気持ちになったのだ。
「どうだ、射命丸。わたしたちに会えて嬉しいだろう。あのときは随分と冷たくしてやったからな」
「文さん、はたてさんに聞きましたよ。公園で暮らしてたらしいですね。お風呂とかどうされてたんですか」
ええと、なんというか。歯切れ悪く、文が言う。
「里の、大衆浴場を、使ってましたね。はい……」
ああ、妥当だな、普通だな、と、にとりが鍋をつつきながら相槌を打つ。椛も椛で、次から次へと絶えることなく、文に質問を繰り出した。文も質問の度にええと、と、どこか乗り切れない様子で口を動かす。
そんな時間がしばらく続いたが、やはり盛り上がるはずもなく。三人は諦めたように鍋に蓋をして、口を閉ざした。誰かが目盛りを切に合わせると、煮立つ鍋は静まって、場ははたての穏やかな寝息に支配された。
二人に会えたのは嬉しいけれど、なんだか二人とも、元気がない。それに、再就職の目処だって、結局ない。なにより、やっぱりなんだか、なにもどうだっていいように思える。
文は未だに、クビになったあの日、椛の家を出たときの気持ちのままでいた。
にとりにしても、頭の中は辞めた仕事のことばかりで、聞くところによると、自分の後釜が決まったらしく、そこに据えられたのはあの後輩河童という話だった。ああ、わたしは、きっと恨まれているに違いない。考えるのは、そればかりだった。
椛は気分の乗らない様子の二人を見、二人がなにか悩んでいることを察する。二人はきっと、仕事とか、そういうことで悩んでいるに違いない。それに比べて自分は、悩むような仕事もなければ、甘えたかったり、背の低さを厭ったり、そういった二人のようなコンプレックスすら、自分の中に見当たらない。私には、本当になにもないんだ。と、やや卑屈になって、白けてしまっていた。それを自覚しないわけでもないので、余計に、椛の気分はさめざめとした。
長い沈黙を打ち破ったのは、三つの大きなため息だった。どうも、だめだ。みな、そんな感慨がそれぞれの胸に渦巻いていることを、瞬時に悟った。
「いやあ、どうも、ダメですね。なんというか、おもしろくない。こんなに良いお酒と鍋をただでやれるというのに、なんとも、乗り切れないでいますね、私は」
「わたしも。なんだかな。どうしても、楽しめない。久々に三人で、ああ、それとはたてさんと飲めるっていうのに、ぜんぜん。なんだかつまんないよ」
「私は、その。お二人と会えたのは嬉しいんですけど。ええと、なんというか。……はい、私もあんまり、よくない気分です。……あはは、どうしたら、いいんでしょうね……」
椛の言葉に、二人は腕を組んで考える。腕を組み悩む二人を、椛は申し訳なさそうに見つめるのみでいた。しかし、いくら二人が考えても、部屋にははたての寝息が響くのみで、いつものように、誰かが名案を叫ぶことはない。にとりは諦めたように、組んだ腕を解き放って、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
「あーあ。だめだ、なんにも思い付かないや……ほんと、どうしたらいいんだろうね。わたしたち」
文は諦めたように、ですね、と嘯くのみだったが、椛は違った。椛は、にとりの放った“わたしたち”の部分が、どうにも嬉しくなった。それはそれで、諦めに似た気持だったかもしれないが、とにかく、椛は腕を組んで唸った。
「お、椛がまだ考えてくれてますよ。にとりさん」
「ほんとだ。頑張れ椛、なにか名案を出してくれ」
出たか! まだか! いや、出たか! おっとまだ出ない! 二人は徐々に悪乗りを始めたが、それでも、椛は必死に頭を捻った。
「さあゼッケン一番、椛選手考えております。にとりさん、雰囲気いかがでしょうか」
「とても力強く考えていると思いますよ。というのは椛選手目を瞑っております。加えて眉も潜めているというのは、実に印象が深いですね」
「ありがとうございます。さあ引き続き、椛選手頭を捻っております。ゼッケン二番三番と大きく差を広げていますね。いい雰囲気です。うーんうーんと唸っては、おっと、ここで息継ぎが入りました。さて引き続いて唸りをあげます。うーん、うーん」
にとりが文のそれっぽさに苦笑していると、椛があっ! と声をあげた。
「おっとぉ! ここにきてようやく何かを思いついたようです! さて次の問題はどのように口を切るかといったところですが果たして――」
「だまれよ射命丸。ひとの話は黙って聴くもんだぞ」
勝手に盛り上がる文が止まることはなかった。にとりが肩をすくめて首を降り、椛に開口を促す。椛は文の矢継ぎ早に紡がれる無意味な言葉の数々に開口のタイミングをしばらく図って、そのうちにあきらめ、少し大きな声で話し始めた。
――切るか、切るか! 口を、いま切るか! 切ったぁ!
「こいしちゃんのお店に、あの、デマイゴに行ってみるというのは、どうでしょうか。あそこは、酔ったときの欲求を具現化する場所という話でしたよね。いま、私達はお酒を飲んだから、酔えてないけど、酔ってはいるはずなんです。みんな、どうしたらいいかわからないけど、きっと、何かはしたいはずなんです。あそこに行けば、その何かがわかるかもしれないって、思うんです。だから、行ってみませんか。ダメだったらダメだったで、しかたないですけど。でも、どうせ、何がしたいかわからないなら、何かしてたほうが……文さん! 私の話、ちゃんと聞いてくださいよ!」
椛が二人に何かを提案するのは、殆どこれが始めてだった。はじめての提案は思いの外恥ずかしく、自分の言っていることがズレているのではないかと、喋りながら、心配でたまらなかった。だから、悪乗りで実況を続ける文は、誰かに八つ当たりをしたいほどの羞恥のやり場としては、絶好の的だったというわけだ。
「そんな、怒ることないじゃありませんか。ちゃんと聞いてますって。さっそく行きましょうよ、あのお店。どうせ、何がしたいかわからないなら、何かしてたほうがマシ。椛の言うとおりだと思いました」
「こいつ、ずるいよな。あれだけくっちゃべっといて、わたしの台詞まで取るんだから」
言いながらせっせと外套を着込む二人を見、椛は思わずはにかんだ。そんな椛を、二人はきょとんと見つめては、椛にも外出の準備を促す。
「どうした椛、早く行こうよ」
「ええ、いま、いま準備します!」