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一 喫茶デマイゴ
そこは、天狗の寮の前だった。青く冷たく透き通った空に浮かぶ肥えた雲は、穏やかな白昼を讃えている。姫海棠はたてはゴミ置き場でもみくちゃになった三人の前で、額に手を当て、ため息を吐いた。ああ、椛とにとりがこうなったのも、みんな文のせいよ。ふたりとも、ちょっと前まではおとなしくて、いいこだったのに。はたては暫し考えて、大きく息を吸い込んだ。
「起きろ! このアル中妖怪共!」
三人は急な怒声に各々呻いて、目を擦り、頭を抱えるように耳を塞ぎ、冷えた体温に涙目となった。
「あんたら揃って仕事サボってんの、あたし知ってるんだからね。そんなんじゃそのうちほんとにクビになるわよ」
三人が自身の職務をおざなりに飲めば、寮で生活する天狗達から小言を聞かされるのははたてだった。あの三人をどうにかしてくれ。ゴミと一緒に回収されてしまえばいい、等々。はたてには、三人をどうにかしてやりたい友人らしい気持ちと、ゴミと一緒に回収されればいいという、半ばあきらめに似た気持ちが在った。それでも諦めずに、こうしてゴミに塗れる三人を叱責するのは、やはりはたてにとって三人は友人であるためだ。
しかし三人は、そんなはたての想いなぞには頓着することもなく、起き抜けに、怒声と冷たい外気に苛まれる己の悲運に涙することで精一杯だった。
「ほら立ちなさい! 立て! 立った、立ったわね。そしたらとっとと仕事をしなさい。文は部屋に戻って原稿を書く! 椛は哨戒に行く! ほらにとりも!」
起き抜けのぼんやりとした三人の頭では、その怒声の内容も、声の主も判然としなかった。自分たちはただただ理不尽に起こされ、不条理に怒鳴られている。
「こわ……」
三人は寒さに耐えるよう、やおら肘を抱いて、それぞれ今際の際の命乞いめいた情けなさで呟きながら、おもむろに歩き始めた。
「あ、こら! あんたらどこ行くのよ!」
背後から聞こえる謎の怒声と、空の青さに怯えながら、三人は「こわ……」と繰り返し、宿酔に足を取られつつ、歩き続けるのだった。
「今日はどこに行きましょうか。昨日の店でもいいんですけど、多分まだ開いてませんよね」
「えー、わたしはいやだな。開いてたとしても。あの店さ、酔ってるときは気にしなかったんだけど、知り合いがいたんだよね。昨日」
「部屋はどうですか? 誰かの」
三人は里にあるちょっとした広場で作戦会議をしていた。相変わらずに青い空の下、そこには子供達のはしゃぐ声が響いている。にとりと椛はベンチに座り、文は立っていた。にとりの右手は左肘で挟まれており、左手には缶ビールが握られている。文の左手はジーンズのポッケに突っ込まれていたが、右手にはやはり缶ビールが在った。椛にしても大差はない。強いて挙げるとすれば、椛は二人と違い、一本の缶ビールを両手で握っているという点のみだ。
「部屋! 椛さん変なこと言わないでくださいよ。どこに昼間っから働きもせず寮で騒げる天狗がいるんですか。椛さんも同じとこに住んでるのに、よくもまぁそんな提案ができますね」
「うーん。わたしもいやだな、部屋は。仕事道具だらけで、どうしても目につくだろうから」
椛はうーんと唸って、口を開いた。
「やっぱりそうですよね。でも私、早くどこかに行きたいんですよ、こうして空が明るいと、どうも落ち着かなくて」
たしかに、と腕を組み、にとりと文は考える。椛の言うことは二人にも分かった。昼間っから酒を飲む至福は、三人の中から随分前に消えていた。
――ときに、夜の視界はとても狭い。もし自分の目の前に鏡があったとしても、自身の表情がわからないほどに、暗い。それでも朝になれば鏡には、明瞭に、映し出される。たとえ自身がどんな表情をしていたとしても、どれだけ気分と裏腹な顔をしていたとしても、朝がくれば必然、映し出されてしまうのだ。それはとても残酷な話である。しかし、これは酒を飲めば目の潰れることを知っている三人には、まったく、関係のない話であった。
「――そうだ! 地底ですよ、地底に行きましょう。このところ全然行ってなかったものだから、すっかり忘れてましたけど。やぁ、あそこは常夜の国ですよ」
朗らかな文の声に、そりゃあいい! と二人は立ち上がった。
「そうと決まれば早速行こう! あの子供達を見てると、なんだか死にたくなってくるんだなあ、わたしは」
「地底といったらお肉ですね、お肉。ああ、楽しみです」
三人は勢いよく缶ビールを空にして、ベンチの隣のゴミ箱に放ればすぐに歩き始めた。
数歩進むと、不意に、にとりの足にボールがぶつかった。にとりは、なんだこれ、とボールを拾い上げ、やおら地面に弾ませた。意外と面白いぞ、と夢中になって繰り返すにとりをよそに、二人は上機嫌で『おお牧場はみどり』を朗らかに歌っている。三人はもはや夢中だった。遠い背後でボールを返せと叫ぶ子供の声に気づけないほどに夢中でいた。地底に着くまでの間、空の青さを忘れるためには、何かに夢中にならなければいけないと、三人は無意識下に悟っていたのだ。
にとりに訪れた空前の鞠つきブームは広場を出る前に――跳ねたボールを取り逃した瞬間に。――終焉を迎えた。にとりは茂みの方へと転がっていくボールを暫しつまらなさそうに見つめ、ボールが茂みへすっかり隠れてしまったころ、すっと前に向き直っては、元気よく、「ホイ!」と口を切った。
おお牧場はみどり 草の海 風が吹くよ
おお牧場はみどり よく茂ったものだ ホイ
雪が解けて 川となって
山を下り 谷を走る
野をよこぎり 畑うるおし
よびかけるよ わたしに ホイ
おお聞け歌の声 若人らが歌うのか
おお聞け歌の声 晴れた空のもと ホイ
雪が解けて 川となって
山を下り 谷を走る
野をよこぎり 畑うるおし
よびかけるよ わたしに ホイ