Muchas gracias amigo!!
永遠のような落下の最中、椛の視界、その遠くに、不意に月が現れた。月は人面を持ち、微笑んで、何かを優しく見下ろしている。椛は月の視線を追って、落ちながらも、なんとか下方を見やる。すると、そこにはピンクと赤の混じった、ドギツい原色の地面が在った。地面には文とにとりが立ち、無事に、何かを話し合っている様子だった。
「あれぇ」
落下の衝撃というものは然程無く、椛は想像以上のふわりとした着地に素っ頓狂な声を上げた。
「困りましたねぇ。私は怪しいと思ってたんですよ。店の名前にしたって、デマに違期と、なんだか当てつけみたいで、嫌な感じがしてたんですよ」
「よく言うよ。客引きの子にあれだけ鼻の下伸ばしといて。だいたい、お前が悪いんだからな射命丸。お前と飲むといっつもこうだよ。調子乗って色街なんか歩いてさ、それで、失敗するんだ。いっつもこうだ」
予想を上回りピンピンしている二人を見て、椛も調子を取り戻した。酔っ払いなぞそんなものである。
「ねえねえ聞いてくださいよ。私、あの子に名前、教えてもらったんですよ」
二人は椛の言葉に「え。まじ」系の言葉を発音し、なんだよ椛だけ、といった具合にむにゃむにゃとした。自分にも教えてくれとは言えない押しの弱さが、いつもの色街での失敗を生んでいる、ということに、気がつく日は遠い。
『いらっしゃい! デマイゴへようこそ!』
突如、空間に声が響く。三人が声の主を判別するのに時間はかからず、椛は一寸のうちに嬉々として「あ、こいしちゃんだ」と嘯いた。二人は突如降ってきた声を警戒しつつも、横目に、椛の口から発せられた少女の名を心に認める。
「やい。こいしとやら! わたしたちはただ楽しく飲みたかっただけなのに、こんな目に遭わされるなんて! いくらその、かわいいからって、許されることと許されないことがあるんだぞ!」
にとりは、見つけ次第ぎったんぎったんにしてやる、と息巻いて虚空に叫ぶ。文と椛は「いくらかわいいからって」の部分のみ復唱した。こんな状況に落とされてなお点数稼ぎをやめられない愛嬌が、三人を酔っ払いたらしめる要素のうちの一つだ。
『あれ、なんかそっちの声が聞こえにくいな。まぁいいや。お店のシステムは至ってシンプル。飲み放題食べ放題のオールフリー、ずばり無料です! そこらへんのもの、すべて勝手に飲み食いしてくれてかまいませーん!』
三人は目を丸くして、「え、まじ」を呟いた。しかしにとりは頭を振って、邪念を払う。
「やいやい! そんなこと言ったって、わたしは騙されないからな! だいいち、食べ物や飲み物なんて、どこにもないじゃないか!」
にとりの喚いてる間、文と椛はなんとはなしに辺りを見やった。だがにとりの言う通り、見えるのはドギツい色の地面のみで、空間にはただただ闇が広がっている。そんな地面を見て、文は側頭葉上即頭回在中ウェルニッケ野に朧く浮かんだ、「ピンクの肉」という謎の言葉に苦笑した。それが文自身の無意識下に蔦を巻く、胎内回帰の願望に根差した言葉だということに文が気がつく日は、きっと、永遠に来ない。
『うーん。店を出るまで何も見つけられない、ってお客さん、意外に、けっこういるんだよね。でも大丈夫! そんなひとたちのために、こいしはなんと! ウェルカムドリンクを用意しておりまーす!』
こいしと名乗る妖怪が「じゃじゃーん!」と声を上げると、三人の目の前にぱっと、テーブルが現れた。ちょうど、プロレスや野球などによく見る「実況席」のようなテーブルだった。テーブルの上には缶ビールがあった。ラベルには「胎」という文字が達者に踊っており、また、ラベルは冷冷しく汗をかいている。
缶ビールは文と椛の目を輝かせた。懐疑的に、語気を荒げていたにとりでさえも、それを見れば、他の二人と同様に、否応なしに、瞳を輝かせてしまう。
「み、見たことないラベルですね。地酒でしょうか」
「ひ、冷えてる?」
「ひ、冷えてます、冷えてます」
ちょうど三人分の缶ビールをそれぞれ手に持ち、手に伝わる冷たさを確かめるよう、目を丸くして、じいっとそれを見つめる。にとりは目を細めて缶をしげしげと舐めるように見、口を開いた。
「これ、ほんとに、飲んでもいいの?」
『え? ごめんね。もっかい言ってくれる?』
「飲んでもいいの!」
『え?』
「これは! 本当に! 飲んでもお金、取られないのかって聞いてるの!」
ときに、三人の財政状況についてだが、所持金は、椛、にとり、文の順。給料は、文、にとり、椛の順。吝嗇家は、にとり、文、椛の順だった。要するに、文は給料のかわりに浪費が恐ろしく激しく、椛はその逆だった。
にとりはそれなりの給料で、それなりの出費だが、恐ろしくケチという性質を持っていた。ともすれば、臆面もなく「これは無料か」といった内容を叫べるのも、何ら不自然ではない。三人で店で飲む度に、にとりが何かと理由を付けて三等分の支払いを渋るために、いつしか文と椛の間には「四、四、二」という不文律が出来上がっていた。
『もー! おにいさんってば疑り深いんだから! 大丈夫だって、それはタダだし、それに! 今後どんなにたくさんの食べ物や飲み物が出てきても、それは全部、おにいさんたちの好きにしていいの。そういうシステムなんだから』
それでも、にとりは目を細め、むむむと缶を見つめることをやめかった。しかし、文と椛はこいしが話終わるが早いか、プルタブを引き放ち、上を向き、中身を胃の中へと勢いよく降下させていた。
二人が「これ、おいしい」系の驚嘆を口にすると、ようやく、にとりも堪えきれずにプルタブを引く。そうして三人は、一寸の間に、それを飲み終える。
「あれ。ゴミ箱が見当たりませんね」
文の一声に椛とにとりは一どきにゴミ箱を探し始める。
「ほんとだ。ゴミ箱、ないですね」
「え。それじゃあどうするのさ、この缶! まさかポイ捨てなんて、とんでもないぞ!」
それは三人の習性だった。しかし、そんな習性に頓着する様子もなく、虚空からこいしの声が響く。
『飲んだ? ……飲んだね、おにいさんたち。……それじゃあ。肝心なこと、今から説明するから、よく聞いてね』
缶は、と威勢よく文が叫ぶ。椛は文に同調し、にとりも、胸中にさんざめく「やっぱり騙された」の感慨をなんとか堪え、二人に続いた。
『缶はテーブルに戻しといて!』
大人しく缶を置く。にとりもそうした。
『じゃあ、説明するね。これからちょっとすると、地面が狭まって、道になります。道というか、迷路というか、なんというか。まあ、道の形は重要じゃなくてね、重要なのは出口についてなんだけど……お燐どうしたの? え、お家でお姉ちゃんが呼んでるの? それ、今じゃないとだめ? あーわかった! わかったから、引っ張らないでよー。…………』
三人の間に沈黙が訪れた。永遠のような沈黙を、虚空に浮かぶ月のみが、優しく微笑み、見守っている。
「文さん、あの、私ちょっと」
椛が言いかけたその瞬間、世界が唸った。それは、地鳴りのような、電話のベルのような、はたまたサイレンのような、或いは赤子の鳴き声のような、怪音であった。
世界はフラッシュの様相で七色に点滅し、地面はアメーバの如く蠢いた。鯨飲に見る悪夢に似た光景に、三人を唖然とした猫のように身を固める。
赤、緑、白、黄、ピンク、橙。
地面はアメーバに似て、蠢く。
赤、白、緑、黒、ピンク、黒、黄。
アメーバに似て、増殖する。
ピンク、黄、白、緑、黒、黄、白。
月は点滅のさなかに、百面相を、する。
赤緑黒黒白黄黒。
黒白白黒赤黄黒。緑、白黒、白白黒白黒白白白黒黒白、黒。
そのまま、世界が固まった。
月さえも消えた黒の世界には、三人の、きょろきょろと泳ぐ目玉のみが浮かんでいた。