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二 胎宮で迷子
その空間は黒だった。地面はピンクと赤が混ざり、妙にざらざらと、ラメのような粒が散りばめられている。夜と形容するにはあまりにも虚しい空には一つ、人面の月が浮かんでいた。月は優しく微笑んで、壁のない迷宮をあてもなく歩く三人を見下ろしている。
「なんだったんでしょうね。あの点滅。相変わらず暗いままですし、月だって浮かんで、結局、地面以外は元通りじゃないですか」
「こいしちゃんとやらも、手の混んだことするもんだよ、全く。出口について、さっぱり聞けないまんまだし」
「それにしても、壁がないと不安ですね。踏み外したらどうなるんでしょう」
道の両端は暗闇に飲まれ、暗闇は三人を手招きするかのように、深かった。「もしかすると、落ちればここから出られるかも」にとりが呟いたが、そんな恐ろしいことを試そうと思う者はおらず、相槌は苦笑に溶けた。
そういえば。文がふと口を切る。
「椛さん、点滅の前に、なにか言いかけてませんでしたか?」
ああそういえば、と、にとりも続く。椛は少し困ったように笑いながら答える。
「ああ、ええと。その、気のせいかもしれないので」
「いいですよ。どうせ出口も見当たらないわけですし、話題になればそれで」
文の言葉に、椛は自信なさげに頬をかいた。
「いや、その。なんていうか、あの缶ビールを飲んでから、なんだか、変じゃないですか?」
「缶ビールって、点滅の前に飲んだやつ? うーん、変か。たしかに。言われてみれば、なんだか懐かしい感じがするんだよね。さっきから」
にとりの言う“懐かしい感じ”は、文にもわかった。文も「たしかに」と嘯き、椛に話の続きを促した。
「ですよね。お二人も薄々気付いてるかもしれませんが、その。……お酒抜けてませんか、私たち」
「あ、言われてみれば! ぜんぜん酔ってないよ、わたし」
「ほんとですね。でも、どうしてでしょう。地底であれほど飲んで、さっき、缶ビールを飲んだばかりなのに」
三人は歩きながら、唸っては頭を捻る。
「うーん、でもなあ。だからどうした、って話なんだよね。結局、ここから抜け出すにはどうしたらいいか、ってとこなんだよね、問題は」
「うーん」
三人はただ歩く。歩けば、足音のみが、三人の何も浮かばぬ脳裏を叩く。暗い世界の静寂は、足音によって殊更際立ち、三人の聴覚は従って過敏になった。足音以外の音がすれば、それを聞き逃す者はこの場にはいない。
だから、誰もが一瞬にして、背後から迫る“それ”に気付いた。
三人の背後に突如響いたその音は、発生と同時に、三人へと急接近した。それはまるで、濡れ雑巾を高速で、何度も、地面に叩きつけたかのような音だった。
発生と同時に振り向き、音の正体を確認した椛は瞬時に駆け出し、二人にもそれを知らせるように声を上げた。椛の慌てた大音声に驚いた二人が振り向くと、二人の視界に、奇妙な動物が映った。
「わ、わわわ! や、やばいよ射命丸! なんだよ、あれ!」
「し、知りません! 私、知りません!」
動物は四足だった。姿形は犬、狼等に類似していたが、他がまるで違った。動物に体毛は無く、ところどころは外皮もない。ぬらぬらと水気を帯びた皮膚は爛れて、そこかしこに肉が覗いている。何より特徴的なのはその四足だった。足はぶよぶよと、犬狼の姿形に似つかわしくない太さで、腐った象の足に酷似していた。その足で、動物は俊敏に、三人へと迫る。四足の一本一本が躍動すれば、地面に体液が弾けた。爆ぜた飛沫がにとりと文の頬を濡らしたとき、犬は一つ吠声を上げた。
「いいから、早く走って!」
椛が叫ぶと、二人は短い悲鳴を上げて一目散に駆け出した。動物はBowともquackともつかぬ奇妙な声で吠え、三人を追い立てる。
「な、なんですか、あの犬! 椛のお友達ですか!」
「射命丸お前、あれが犬に見えるのか! どうかしてるよ!」
「ふざけたこと言ってないで、ちゃんと着いてきてくださいよ! こんな迷路みたいな場所でバラバラになったら、一巻の終わりですから!」
先頭を走る椛の視界には、混乱に似て絡まって散乱した道がある。進めども曲がれども、いつ行き止まりに遭うかもしれない、行き止まりのあるかどうかもしれない道は、即ち迷宮だった。椛に遅れぬよう、二人も必死に食らいつく。しかし、奇妙な動物は無慈悲にも、追跡をやめることはない。
しばらく走り、背丈の短いにとりが息を切らし始めたころ、にとりの消耗とは裏腹に、椛は多少状況に慣れて、走りながらに口を開いた。
「変じゃないですか。向こう、全然疲れてる様子でもないのに、追ってくるスピードが、全然、変わらないのは」
にとりは息を切らして、なんとか疑問符を吐き出す。文も文で大変だった。
「なにを、冷静に、喋っちゃってるんですか。こちとら、さっきからなんだか走りにくくて、もう、大変だってのに!」
「そうなんですよ。私はにとりさんと文さんに合わせて、走る速度を少し落としたんです。でも、向こうとの間隔が変わらない。あの動物、こっちの速度に合わせて付いてきてるみたいなんです」
椛はにとりの消耗にも、文の異常にも気付いていた。背丈の短いにとりの消耗は必然として、椛が見澄ましたのは文の異常だった。
いくらこのところ酒浸りとはいえ、そこまで運動神経が鈍っていることもないはず。椛が後ろを走る文を振り返り見やると、直ぐに異常が判った。文の踏みしめる地面のみが、ぶよぶよと、肉の様相を呈していたのだ。ピンクと赤の色合いも相まって、踏みしめるたびに足の沈む地面は、何かの肉のようだった。
「それがどうしたってんですか! 止まったら向こうも止まってくれるって、そういう話じゃないですよね! こちとらもう、足元がぶよぶよしてて、走りにくくて、疲れちゃって! ああ!」
当然、地面の異常には文自身も気が付いた。のみならず、文は薄っすらと、自身の踏みしめる地面“のみが”肉と化す理由も、なんとはなしに察していた。素面ならば、三人の中で一番勘の冴えるのは文だった。文がそれを言い出さない理由は三つ。考えが未だ憶測であること。必死の二人が聞く耳を持たぬこと。仮に考えが真実であったならば、糾弾は免れない、ということ。必死な振りをして、その実、既に文の心には余裕があった。これたぶん平気、無問題。しかし、必死な振りをしなければならない理由もまた、存在していた。繰り返しにはなるが、必死な二人に真実を話せば、仮にその憶測が真実であったならば、必然に、糾弾される。文はただ、それのみを恐れていたのである。
「でも、このままだとどうなるとも分かりません。こうなったら、私が一か八かで……」
椛の動かす口を、息絶え絶えのにとりが、大声で遮った。
「わたし、もうつかれた!」
にとりは言い終わると同時に勢いよく、前のめりに転倒した。それは、故意ではなく偶然の、本当の転倒ではあったが、なんとも、律儀で潔い転倒である。
「にとりさん!」
文と椛は同時に叫んだが、救いに動いたのは椛のみだった。椛は咄嗟に倒れたにとりへ覆いかぶさり、身を挺した。
「にとりさん、大丈夫ですか!」
にとりは転倒の衝撃を堪え、覆いかぶさる身体の隙間に目を開いた。
「あ、わわ! 椛ぃ!」
視界には迫りくる怪物が在った。椛の背後に迫る怪物が、BowともQuackともつかぬ音で、大きく吠える! ああ、喰われる! そのように、ギュッと目を瞑り体を硬める二人を、文は、「ああ、これはまずいぞ」といった心持ちで、寒々と、白々しく、見かえしていた。
「……あれ?」
恐る恐る、にとりはまぶたを開く。椛もにとりに続いて、やはり同じく、「あれ?」と発生した。間近に迫っていた怪物の姿が見当たらず、二人はぐるりと視線をまわす。
「わ、わー! 二人とも、た、たすけてー! 助けてくださいよー!」
怪物は、やや大根気味に叫ぶ文を、付かず離れず緩やかに追いかけていた。二人はすくと立ち上がり、緩やかなペースの怪物に続いた。
「椛、これどういうこと?」
「さあ。でもあそこに、何か知ってそうな人がいますね」
二人は、文の体力が尽きるまで、怪物に続くことを決めた。