「た、たすけてー! たべられちゃいますよー! ……って、ああっ!」
這々の体ならぬジョギングの体で棒を読みつつ、文はふと振り向いた。
「椛さん、なんで犬と一緒に追ってきてるんですか! やっぱりお友達だったんですね、ひどい!」
「にとりさん、文さんがなにか言ってますよ」
憮然とする椛をにとりがたしなめる。
「いいよいいよ。放っておこうよ、あいつはああいう奴なんだから」
「にとりさんまで! あ、あんまりですよぅ!」
文はひぃひぃと息を切らしながら、犬に追われる。犬はどこか上機嫌で文を追う。文の必死の逃亡は、にとりにとっても、椛にとっても、そろそろ見飽きた光景だった。侮辱と文のしつこさに耐えかねた椛が不意に、
「ワン!」
と叫んだ。
「ひっ」
急な大音声に短く悲鳴を上げたのはにとりだった。隣にいる白狼が急にワンと叫べば、河童だって驚く。しかしそれ以上に驚いたのは天狗だった。天狗は驚きのあまり声すらあげずに、足を縺れさせて転倒した。
追って吠えたのは怪物だった。尻尾を振って文に飛びかかる怪物の姿は、もはや犬と形容しても差し支えがない。
「あ、やめて! ちょっと、くすぐった……やめてくださいよう」
犬は転倒した疲労困憊の文にじゃれつき、その顔面を無遠慮に、嬉々として舐め回した。見た目こそ醜悪ではあったが、尻尾の振り方や上下する鼻先は、愛玩動物のそれと遜色がない。
「おうおう射命丸。これはどういうことなんだ? そのワンちゃんはお前のお友達かなぁ?」
疲労とくすぐったさに弄ばれる文に対し、にとりは「上手いこと言ってやった!」の顔で言い放つ。当然、それは本来であれば椛の台詞なので、椛はにとりに同調しつつも、幾許かの不条理さに眉を顰めた。文は話すかわりに犬をどけてくれと要求。対する二人は無視で応答。文にとっての次善の案は、呼吸の整うまで待ってくれ、というもので、にとりと椛はこれまた無視をすることで、文の要求を飲み込んだ。
「ああ、じゃあそろそろ話しますがね」
犬に乗っかられっぱなし、舐められっぱなしの文が口を切る。二人は仰向けの文を見下ろしながら腕を組む。
「話すと言っても、全部憶測にはなってしまいますが、こうなっては仕方ありませんからね。……結論から言えば、この水棲めいた四足のワンちゃんは私の、その、欲求です。たぶん、酔っ払ったときの。あ、黙って聞いてくれるんですね。なんだか恥ずかしいなあ。いて、蹴らないでくださいよ」
「じゃあ、そうですね。わかったことをお話します。といっても、わかったのは先程言ったこの犬の正体程度なもので、他はあんまり分かってません。この世界もよく分からないし、出口についても、もちろんわかりません。いて、蹴らないでくださいね。しょうがないじゃないですか。わからないものはわからない」
じゃれつく犬の顔を撫でながら、文は淡々と語る。
「わかっていることのみを話すように」
文のみが何かを知っていて、それを二人に説明する際、文はいつもこんな調子だった。遠回りを介さず話せないものか、二人は七味程度の苛立ちを感じながら、説明を促す。
「私が思ったのはですね、あのウェルカムドリンクの、缶ビールですよ。アレが怪しい。私はアレを飲んで酔いが覚めたというよりは、アレを飲んで、世界に酔いを“吸われた”と考えているんです。そして、その酔いに含まれた欲求が、世界に影響を与える。私の足元のみがぶよぶよしたのも、この水棲めいた……河童めかしたこの犬も、そうであるなら、説明がつきます。世界の点滅は、それに付随する手続きか何かだったのではないでしょうか。根拠としては、こいしちゃんの発言です。覚えてますか?」
――『うーん。店を出るまで何も見つけられない、ってお客さん、意外に、けっこういるんだよね。でも大丈夫! そんなひとたちのために、こいしはなんと! ウェルカムドリンクを用意しておりまーす!』
「――着眼すべきは、『意外に』。この点です。何を持ってして『意外』だったのか、そこが重要なんですよ。まず、こいしちゃんの指す『お客さん』とは、どんな人物を指すでしょう? ここが私の言う通り『酔いに含まれた欲求が具現化する世界』だったとしたら、答えは一つですね。酒飲みですよ、こいしちゃんは酒飲みを相手に、商売をしているんです」
「ではその酒飲みが何を持って、こいしちゃんに『意外』と言わしめたのか、重要なのはそこですね。……ときに、世間一般の考える“酒飲みの欲求”とは何でしょう。そう、お酒ですね。酒飲みは世間一般では、ひたすらにお酒を求めているから、酒飲みなんですよ。さあここで、こいしちゃんの『意外』が、どういう気持から出た言葉なのか、わかってきますね」
たしかに、と二人は首を傾げる。
「私たち、あの点滅の後に、一本でもお酒を見ましたか? 見てませんよね。ずばり、そこなんですよ。私たち酔っぱらいの欲求が具現化されるはずなのに、『意外にも』、お酒は一本も見つからないんです。まあ、実際は私たちにウェルカムドリンクを飲ませるための方便という側面もあったんでしょうけど、仮説を立てるなら、あれはそういった背景の元から出た発言と取るのが平和ですね。おーよしよし、よしよしよし」
話は終わりと言わんばかりに、文は犬と戯れ始めた。にとりは今ひとつ解せなかった様子で、椛に耳打ちをする。
「椛、なんの話だっけ。わたし、途中から聴覚が故障しちゃったんだ」
「ええと、つまりこの世界は『酔いに含まれる欲求を具現化する世界』で、あのワンちゃんは文さんの『欲求』って話ですね。たぶん」
椛が言い終わるが早いかハッとして、にとりは腕を捲って文に吠える。
「やい射命丸! おまえ、全然なんにもわかってないじゃないか! わたしはてっきり、お前が全部の黒幕で、どうすれば出られるか、とか、そういうことが聞けるかと思ってたのに。それに、どうしておまえの欲求で、そんな犬っころに脅かされなきゃいけないのさ!」
「それは、そのう。言いたくないなあ」
お前のせいで恐ろしい目に遭った。吐け。文の眼前、ヤンキーの座位で凄むにとりをよそに、椛はふと、何かに気が付いたように、慌てて、口を切った。
「その、いいじゃないですか、にとりさん。文さんも言いたくないって、言ってることですし。何より、私もあんまり聞きたくないというか、考えただけで鳥肌が立つというか、気色が悪いと言うか」
吐かねばこいつは死を免れぬ。にとりは椛をたしなめて、文に言い放つ。
「こないださ、凄い物を考えついたんだ。わたし、これでも技師だからさ。それは、椅子なんだけどね。ただの椅子じゃ、ないんだよ。座った瞬間、椅子は拷問器具に変わるのさ。一瞬で全身を拘束してしまうんだ。そして、腰から下を切り落とさんとする丸鋸がね、迫るんだよ。刃が肉に接触するまで十五分。上半分から下半分がさよならするまで十五分。計三十分の小さな冥府だよ。射命丸。長話を聞かせてくれたお礼にさ、お前の長い脚で、試させてくれよ。椅子の、座り心地ってやつをさ」
犬も文もくうんと鳴いた。人を舐めた鳴き声に血管の危機を感じたにとりが文の首に手をかけると、文は観念したように口を開き、椛は耳を両掌でパタパタとし、「あー、あー」と発声し、聴覚を支配した。
「それじゃあ、その、白状しますがね!……私の足元だけぶよぶよしたのも、この河童めかした犬にしても、そのう。なんていうんですかね。私が、二人に、ええと。……甘えたかったからというか、甘えられたかったというか。構ってほしかった、というか……!」
極力平静を装い発声した文だったが、だんだんと声が震え、結局は恥ずかしさに涙ぐんだ。椛は「あー! あー!」と叫び続けていたが、間近で聞いてしまったにとりは自分の愚かしさを悔やんだ。文は酔うと、酔った上で泥酔したフリをする癖があり。木と語らう等をして、二人の気をひく。文のそういった〝甘えたがり〟の性質は、椛もにとりも、薄々気が付いていたことではあった。しかし、カミングアウトなぞ行われるべきでないこともまた、確かだった。
しかし、三人の羞恥とは裏腹に、カミングアウトは脱出への足がかりとなった。文が言い終わると同時に、犬が消え、かわりに、道の端に扉が現れたのだ。それを把握しない三人では無かったが、赤面に硬直に咆哮と、感情の着地点を見失った三人が扉の出現に言及するのは、ちょうど、十五分が経過した頃だった。
「これは、あれかな。出口ってやつかな」
「でも、こうして離れて見ると、普通に裏側が見えるのが怪訝ですね。なんたらドアみたいです。あ、なんたらドアだったら、即ち出口となりますね。早速誰か、開けましょうよ」
「しかし、開けたらさっきみたいなワンちゃんが飛び出してきて、今度は本当に食べられてしまうかもしれません。何にせよ、警戒するに越したことはありませんよ、文さん」
何事もなかった、という共通認識で結ばれた三人は扉に向き直り、腕を組んだ。こうなるとじゃんけんへの発展は必然で、にとりはチョキを出し、文と椛はグーを出す。にとりは「ちぇっ」と嘯いて、恐る恐るに、扉を開けた。