平日は無論、休日とともに、朝ともなると交通アクセスが回る市内のほぼ全域が騒がしくなる、しかしその前、霧さえ立つ時間ともなれば、話は別である。
とてつもなく静かな街は清々しい朝、と形容するには少々不気味にも思えるほどである。ひんやりとしながらも、早朝と呼ぶに相応しい独特の空気を肺に大きく吸いながら俺は境内の掃除に励んでいた。
「これはこれは、精の出ますな」
そこへ昨晩ここへ泊めてくれたこの寺の住職が僧房からこちらへ歩み寄ってきた
「一宿の恩、返さずして足の泥を置いていけましょうか」
住職は優しげな笑みを崩さぬまま
「えらくしっかりされておりますな、良いお心をお持ちだ」
「いえ」
昨晩からなにかと手をかけてくれるが、そんなに人が訪ねるのが嬉しいのだろうか。しかしここを紹介してくれたお姉さんのお陰で助かった。別れ際に渡されたメモには彼女の携帯番号と、困ったら助けを求めてくれという内容が走り書きで書かれていた
お礼も伝えたいのだがどうもこう、昨日初対面の相手に会って伝えるのは流石に、だがこの番号にかけて口頭でただありがとうと言って終わり、というようなものでもない気がする
多少考えすぎな気もするが宿も恩義への返礼も大切なことだ、ろくすっぽな真似をして泣きを見るのは嫌なものだ。しかし
「とりあえず宿だな」
そそくさと寺を後にした俺は、道端の自販機から微糖の缶コーヒーを手にまた近場の公園のベンチに座り、携帯で宿を検索し始めた
意外と宿が多いのは驚いた。その中で、少し遠いが地元近くの旅館が目に留まる
「十千万?へぇ」
なんとなく良さそうな雰囲気にひっかかったのも手伝って、トントン拍子で決めてしまった
「よし、決まったなら行くか」
思い立ったが吉日と、すぐに立ち上がって空の缶をゴミ箱へ放り込む。缶用のゴミ箱は口が広いので入りやすい、そのためかめちゃめちゃな投げ方でもがしゃんと缶同士のぶつかる音が、しっかりとホールインワンを伝えてくれる
「……?」
少し歩くなり感じる違和感、えらく気になる足音。仮にもアサシンとしての教育は受けているのだ、これがただの考えすぎというには危機感欠如もいいところだろう
「…気のせいでありますように」
ささやかな祈りを呟き、目の前の路地裏に入り、そこから動く。相手は不自然な尾行をするわけにはいかない分、一瞬遅れて路地裏に顔をだすのを狙い、壁にかかっているダクト目掛けて壁を駆け上がり、相手が過ぎ去るのを待つ
追跡者は三人、顔はわからない、性別は恐らく二人男一人女、走り方からしか断定はできないが三人ともフォームは正しく無駄がない、訓練されている、欠点は
「注意散漫ってところかな」
やれやれ、と思いながらダクトの上を進み、路地を抜け商店街に入る。相手と同じ方向ではあるが相手は走り、更には追跡もしていた分、こちらがダクトを壊さない用にちまちま進んでいたのでは距離が開ききっているはず
路地裏を抜ける直前で飛び降り、そのまま涼しい顔で商店街に入り、駅へ向けてすたすた歩く
そこからはとんとなにもなく、実に平和に駅まで到着することができた、気を張りながら進んでいたことを思うと、拍子抜けしてしまったが、なにも起きないのが一番だ。バスと電車を乗り継ぎ、内浦に到着することができた、ここまで完璧だった
しかし今はまだ昼過ぎ、宿に入るには少し早いだろう、気は進まないが、今は亡き実家にでも顔をだそう
昔より舗装が進んだ道を歩きながら海に目をやる
なんとなく、ただそれだけだがどこか懐かしさと寂しさを感じる。思い出は、体もしっかりと覚えているようだった。ただただ痛んだだけだが
しばらく歩き山道に入る。山の中腹にある家を目指してまだまだ歩く。正面の無機質なコンクリートを視界に入れながら
風は穏やかで、どこか涼しさも感じるが、あまりにそんな感覚は早いだろう。ここでの最後の思い出は夏の日だった、忘れたくて仕方ない
「…ん、ついたか…」
例え悪いことであろうとも、考えごとをしながら歩くのは距離と時間の感覚を鈍らせてくれる。今はそれがありがたかった
まさしく田舎の家、それに相応しい佇まいをした木造家屋、幽霊でも出そうな、夏の肝試しにも使えそうなくらいに荒れている。原型が保てている理由が思い付かない程には酷いものだ
立て付けの悪い引き戸に手をかけ、力を込めて引くが、ガタガタ音を立てるだけで開きそうにない。今度は戸を軽く持ち上げながら引くと、ようやく少しだが隙間ができた。そこに手をかけて押し、ようやく快適に通れるような程に開いた扉の先、苦労の先にあった玄関もがらんと寂しいものだ、靴はまだいくつか残っていて、あたりに散乱している。
靴箱の上の熊の置物から視線を感じるような気がして、すぐに目線をそらし、靴のまま段差を上がり、入ってすぐ右手の襖を静かに開ける。埃と澱んだ空気は酷いが、立て付けはまだマシなようだった
本当に生家なのか疑わしいほどに居心地が悪い。最悪だ
かつては居間として活用されていた部屋の真ん中には大きな漆塗りの台があり、ペンと紙、うちわに線香の跡、折られている途中の折り紙が残っている。最早面影ではなく不気味さを強調するオブジェクトの一種と化している台や遊んだままの床の物を避けながら押し入れを開け、下段の奥の壁を押す
軽い手応えと共に壁が沈み、向こう側への押戸に変わる。屈んだ姿勢から、今度は埃を被り、這いながら奥へ進む
その先は小さな部屋がある、とても小さく、子供一人の寝室程度、というくらいの広さしかない。
しかし、そこは長い年月を経ているとは思えない、少なくとも俺はそう思った 。綺麗なままだった、いや、なにもかもが、空気さえもが流れていない、全てがあの時のまま、ここだけが、時間の止まっていた様だった
沖田家が、常に明かさないアサシンとしての側面を、ここに収束していた場所。忌避してやまない場所が、一番心地良い場所である事実に、とてつもない困惑を覚えた。ここを知るのが、もう俺だけなのも