幹まで緑色をした巨大な木々が生い茂る森林。否、厳密には木本ではなくシダ植物であった。後に産業革命から始まる人類の一大時代を支えることとなる大森林が一面に広がる。鷹ほどの大きさのトンボが大きな羽音を響かせて飛ぶ空の下では、ヘレン・カッターが水飛沫を上げながら沼地を走っていた。その後ろを、大蛇のごとき生物が倒壊したリンボクの上に乗りあげながら追いかけていた。
「くそ!しつこいわね!」
後ろに視線を配りながら、ヘレンが走る。その生物はヘビではなかった。むしろ、ヘビには存在しないはずの脚が無数に並んで動いていた。顎は大きく開いていたが、その方向は縦ではなく横であった。アースロプレウラ。化石証拠が残る節足動物としては最大級の、怪物級の多足類。金属板の上を滑り降りるドライアイスのように、滑らかな泥や巨木の上を巨体が流れてゆく。一方で前方にいるヘレンはぬかるみに足を取られてたびたびバランスを崩し、その速度は大きく落ちていた。ヘレンが一歩足を踏み出すたびに、アースロプレウラが距離を詰めていく。その遥か後方で、複数のメガネウラを押しのけるようにしてターディスが飛び出した。
「このばかでかいムカデは何なんだ!?」
「アースロプレウラだよ。厳密にはヤスデだけど、見た目は完全に筋肉増強剤を打ったムカデってところ。僕らも昔遭遇したことがある」
モニターの前に陣取って問うダニーに、コナーがすらすらと答える。
「これがアースロプレウラか。本物は初めて見た。本当にヤスデよりムカデに似てるなあ」
ドクターがフリクション調整器をいじりながら一瞬画面を覗き込む。すぐに制御盤に視線を戻したが、興味深そうな態度はそのままだった。
「そうなんだ。植物食だと推測されてるけど、僕らが戦ったやつは狂暴そのものだった。毒があるんだ、ムカデみたいにね。管を敵の体に突き刺して毒液を注入する」
「肉食なのか?」
「それは分からない。興奮状態で襲ってきたのかもしれないし、今ヘレンを追いかけてるのも縄張りに足を踏み入れたからかもしれない。まあ毒がなくても十分危険なんだけど……」
モニターから突如、銃声が三発響く。慌ててコナーが画面に顔を向けると、アースロプレウラが上体を起こして触角を振り回し、金切り声を上げていた。嘆きの天使の嗤い声を一オクターブ高めたような声に一同が驚かされる。その直後、画面に白い光が走る。時空の亀裂だ。猛追を振り切れないと考えたヘレンが銃撃し、生じた隙をついて亀裂を開いたのだ。
「ドクター亀裂だ!」
「ああ分かってる、でも一応ありがとう!」
ドクターがターディスに更なる加速をかけると同時に、アビーが叫ぶ。
「ドクター!このままじゃアースロプレウラが別の時代に侵入するわ!止めないと!」
「……簡単に言ってくれるなあッ!」
ガコン、とドクターがレバーを引くと、ターディスはアースロプレウラの横に回り込んだ。アースロプレウラがそれに気付くと同時に、ターディスはアースロプレウラを側面から弾き飛ばして亀裂の中へ突入する。巨大なムカデは叫び声を上げながらそのまま押し倒され、すぐに亀裂でその姿は見えなくなった。
「やったわ!ありがとうドクター!」
アビーが歓喜する。亀裂を抜け出したターディスはそのまま上昇を続けていた。ドクターが素早く右手でキーをタイプして亀裂を閉じる。
「何。」ドクターが人差し指を立てる。「可哀そうだけど、あんな生物がよその時代に入れば歴史の崩壊を加速させるだけだ。さて、ヘレンを捜すぞ。ここはいつだ?」
「あ~……」
コナーが画面を見る。下には打って変わって広大な雪原が広がり、亀裂があった向こう側には雪に覆われた岩山がそびえている。雪原の遠くには針葉樹林が広がり、重厚で毛皮に覆われた四足歩行の動物の群れが、質量を感じさせる走りでそばを進んでいた。さらにその奥では、マンモスが群れを成して歩いていた。
「第四紀の氷河期。最終氷期だね。ホモ・サピエンスは既に出現してる……ヘレンにとっては狙い目なのかな」
「それは違うんじゃないか?」ダニーが割り込む。「俺の勘だが、氷河期って言やあ槍とか持ってマンモスを人間が襲ってた時代だろ。いくらヘレンでも、武装した人間を相手にするのは得策じゃない」
「ダニーの言う通りだ。あくまで祖先種を消して人類抹殺を狙うなら、この時代は向いてない。もっと別の時代を、彼女は狙ってるんだ」
一方で、ヘレンはターディスの存在に気付いていた。大きな岩の塊の裏に身を隠し、靴に入り込んだ雪を掻き出す。ズボンの裾にこびりついた雪は一度体温で融けてまた凍結し、氷となってひっついていた。岩に顔を近づけ、ターディスの気配を感じとる。
──石炭紀まで付いてきていたのね。間が悪い。アースロプレウラでさえ想定外だったのに、そこにあなたたちまで来たら面倒極まりないじゃないの。本来はこの時代に来る予定ではなかった。石炭紀から直に亀裂を開いて行くはずだったのに、銃弾は浪費した上にあなたたちにも遭遇してしまった。全く──
やり場のない怒りに、ヘレンの眼輪筋が小刻みに震える。最大限に強い摩擦の弓をバイオリンの弦に擦りつけるような音で歯が軋む。周りの雪を掴み、冷たさが神経を登ってくるのを気にも留めず、圧縮されて小さな半透明の塊と化した雪を放り投げた。氷と言っても差し支えのない塊は、やや下ったところの雪の上に沈んだ。その軌道を目で追ううちに雪面の異様な情景が目に入った。雪が荒れている。野生動物の足跡が残っている。その足跡を目線で辿っていくと、岩肌の一部が黒ずんでいることにヘレンは気付いた。よく目を凝らしてみると、黒ずみは岩の色ではなく、光の届かない空洞であることが分かった。
ヘレンはポケットからデバイスを取り出して見つめると、顔を上げて再び空洞に目をやった。ヘレンは唾を飲んだ。
「何かが動いてる!」
コナーが叫ぶ。他の調査チームのメンバーも画面を覗き込み、急いでドクターも制御盤を回り込んで駆け込む。映し出された岩山で、ベージュ色の何かが動いている。動く物体に照準を合わせ、映像が拡大される。
「ヘレンだ」
ダニーが呟くと同時に、ドクターがターディスの舵をとった。ターディスが大きく傾き、岩山に向かって一直線に突き進む。ヘレンはターディスの接近に気付いていた。むしろ、ターディスを近づかせるために岩の影から飛び出し、空洞へ向かって駆け出していたのだ。
──靴や裾に入り込む雪の感覚など、気にしてはいられない。これは”賭け“。私がこの時代で凍え死ぬことなく、そしてヤツらに止められることなく、時空の亀裂を超えて世界を正すための、唯一の”賭け”。こうするほかにない──
ターディスは正確にヘレンをロックオンしていた。
「少々乱暴だが、このままターディスでヘレンを撥ね飛ばす!加減はするさ、ムチ打ちで済ませる!」
その時、ヘレンが跳び上がった。ほんの数センチの跳躍。しかし、下に向かって勾配の付いた斜面では決定的な有効打だった。雪に面したヘレンの体は、雪がクッションとなって速度が減衰する。しかし、それは一瞬だった。着地のエネルギーに雪の結晶の摩擦が敗れ、ヘレンは雪の下に潜む氷の上を滑り降り始めた。重力加速度に比例して、ヘレンの体が次第次第に加速していく。
「何だと!?」
ターディスは完全に目測を誤っていた。目標地点から、ヘレンの体が遠ざかっていく。ドクターは制御盤相手に奮闘するが、既に遅かった。ターディスは岩肌に叩き付けられ、岩にビリビリと振動が走る。
ヘレンが闇に包まれた空洞を通り過ぎた、その時だった。岩に弾かれたままヘレンに向けて直進せんとするターディスの前に、巨熊が唸り声を上げて突如飛び出してきた。とっさに回避するターディスに向けて、禍々しいまでの爪を備えた丸太のような腕が振り下ろされる。ターディスの扉に直撃し、すさまじい音を立てて腕と箱は互いに弾き飛ばされた。
「何ッだぁあ!?クマか!」
立て続けに妨害を受けて半ば苛立ったかのように、ダニーが驚きの声を上げる。ターディスの中は揺れに襲われ、皆が内装のどこかにしがみついていた。
「ホラアナグマだ!普段は雑食の大人しい動物のはずだけど……何で襲って来たんだ!」
「原因はたぶんだけど、僕らとヘレンだ」ドクターが体を支えながら、声を荒立てるコナーに説明を加える。「やられたよ。ヘレンが雪の上を滑ったのは、僕らから逃れるためだけじゃない。コイツを起こすためさ!崩れる雪の音と、そして岩盤とターディスの激突で生じた振動!あのクマを刺激するのには十分だ」
「でも自分も襲われるかもしれないのに!」
「そうだアビー。ヘレンも躍起になってるんだ。もしかするとクマはいないかもしれない。もしかすると、自分が襲われて死ぬかもしれない。そんな危険を冒してでも、僕らをここで食い止めたかったんだろう──つまり」
ドクターは一呼吸置いた。
「ここで何としてでも僕らを止めたいんだ。おそらく次の亀裂で、彼女は目的地に辿り着く」
全員が硬直する。ここまで時空間を駆けてきたヘレンの、最終的な目的に到達する。ディーンの森から始まった物語が、ついに終局を迎えようとしている。コナーとアビーの心理に圧倒的な何かが迫る。ダニーも只ならぬ重圧をひしひしと感じていた。ジェスも同じだった。アビーとコナーの不在を埋めて新たな亀裂調査センターで経験した全ての事が、今ここに帰結しようとしているのを実感した。
沈黙が舞い降りたターディスに、再び衝撃が走る。想像以上に強固なターディスにホラアナグマは戸惑っていたが、ここで攻撃を再開したのだ。全員が現実に引き戻された。ホラアナグマは幾度も幾度も、執拗にターディスを殴り続ける。
「くッ、君の家を荒らしたことは謝る。邪魔をしないでくれ!」
ドクターがターディスを巧みに操り、ホラアナグマの爪牙をかわす。しかし、なおもホラアナグマは身をよじってターディスを狙い、殴打を続行する。爪が底に引っ掛かり、ターディスが捕らえられた。そしてモニターには、亀裂の出現を示す記号が表示されていた。
「おい嘘だろ!」
「まずいぞ。このままだと亀裂をくぐれない!」
「そんな!ここまできてヘレンを逃がすなんて!」
制御盤を囲んで、男たちがパニックを起こす。ジェスもどうすればよいか分からず、右往左往するのが精一杯だった。その様子を静かに眺めていたアビーが、口を開いた。
「ドクター。ターディスのドアを開けて」
数秒の間コンソールは騒然としていたが、すぐに静まり返った。アビーの発言に、全員が戸惑っていた。アビーの目には炎が宿っていた。
「……何を言ってるんだ?」
理解できない様子でドクターが尋ねる。明らかに焦りの表情が浮かんでいた。
「ドアを開けてって言ったの。」アビーは平然と返事をする。「ターディスを岩山から離して、ドアを開けるの。下には雪が積もってる。私がクマを蹴り落しても、クッションになって死にはしない。ちょうどクマはドアがある面に顔を向けてしがみついてる」
「でも──」
「ああ名案だアビー」
コナーの発言を遮ったのはダニーだった。「だがもっと名案がある。クマを落とした後だ。ドクター!」ドクターの方を向き、ダニーが持論を展開する。「ヘレンは既に亀裂を開いた。ターディスをそこまで近づけて、俺とアビーとコナーを落とすんだ!もういよいよ後がない。二手に分かれて、次の時代でヘレンを仕留める!」
「だが!」
「やって!」ドクターの叫びにコナーが即座に返す。「やるしかないんだ」
「私はやるよ」
既にアビーはドアの傍に立っていた。ドアの方を見たドクターは無言で、歯を剥き出しにして息を吐いた。
「……ああ、仕方ないな!」
ドクターが右手を持ち上げる。アビーを見つめる。
「……頼むぞ」
「任せて」
信念と覚悟の中に微笑みを見せるアビーを、ドクターは信じた。この娘ならやれると。フィンガースナップが鳴ってドアが勢いよく外側へ開く。突如鼻先に衝撃を受けたホラアナグマは一瞬たじろぐが、即座に太い腕をドア枠の中へ突っ込んできた。だが達人の世界での一瞬の隙は、それだけで十分な時間を与えてくれる。
「イヤァッ!!!」
長く伸びたクマの吻部に、アビーの回し蹴りが炸裂する。血管が音を立てて破裂し、鼻孔から音を立てて血の飛沫が飛び散った。腕の力が抜けたところに、アビーの追撃が鼻に入る。ガコン、と音を立ててクマの腕がターディスを離れ、巨体は雪の中へ落ちていった。
「よし!よくやったアビー!」
ドクターがレバーを思い切り引き、ターディスは大きくカーブを描いて亀裂へと飛んでいく。亀裂はまだ閉じていなかったが、ベージュ色の服が近づいていくのが見えた。ヘレン・カッターが最後の亀裂を越えようとしている。ターディスが全力で加速する。コナーとダニーがターディスのドアへ急ぐ。その時、モニターの解析画面がドクターの目に入った。決着に向かう亀裂の、最後の行き先が表示されていた。
「よし、亀裂の向こう側が分かった。デボン紀だ!あの亀裂はデボン紀の河川に繋がっている!」
「河川だって!?」
コナーが叫び返す。
「ああ河だ、間違いない!いいか、亀裂に最大限接近する。タイミングを見計らって飛び込め。チャンスは一度だ。絶対に逃がすんじゃないぞ!」
ターディスの中には突風が吹き込んでいた。服と髪をはためかせながら、三人が無言で頷く。亀裂がいよいよ迫ってきた。ヘレンの姿はもうそこにない。三人の表情は既に覚悟を決めた表情になっていた。
「行くぞ。三、二、一!」
ダニーの合図に従い、三人は減速したターディスから亀裂の中へ飛び込んだ。三人を過去へ送ったターディスはそのまま加速して大空へ飛び立ち、タイムヴォルテックスの中へ姿を消していった。
TUTUです。
プライミーバルに登場していない生物としてホラアナグマを導入してみましたが、なんだか『プレヒストリック・パーク』と被ってしまった気がするなあ……。プレヒスも面白いので良いんですけど。プライミーバルの前にインポッシブル・ピクチャーズが制作した番組ですね。NHKに再放送依頼が提出されているので、皆さんもよければ投票をお願いします。
https://www.nhk.or.jp/onegai/detail/84591.html
石炭紀の描写も似てしまった感があります。まあいっかあ。