亀裂から放り出された三人は、岩盤に強烈に叩き付けられた。減速していたとはいえ乗用車に匹敵する速度は出ていた上、人間の背丈ほどではないにせよそこそこの高さからの飛び降りだったからだ。受け身を取ったとはいえ衝撃は大きく、三人は呻きながら岩場の上を転がった。波の音に気付いて痛みをこらえながら周囲を見回すと、数メートルほど離れた場所に水面が広がっていた。幅の広い河の上に、鳥はおろか翼竜も飛んでいなかった。恐竜もまだ出現していない時代なのだから、当然である。空を飛ぶ生物といえば、かろうじて昆虫の類が出現していた程度である。ただしそれでも現代の昆虫には遠く及ばない飛行能力であり、石炭紀で見かけたメガネウラにも劣るほどの太古の世界であった。
「コナー。ターディスを飛び降りる前に言ったよな?『河川だって』……ってな。どうして川に反応した?」
ダニーがゆっくりと立ち上がりながら質問を投げかける。三人の足元の岩盤は水で湿り、植物も近くに繁茂していた。
「ヘレンの目的がアウストラロピテクスと同じ人類の祖先を殺すことなら、川から陸上に進出した生物を狙うと思ったからさ。ユーステノプテロン、パンデリクチス、ティクターリク、アカンソステガ、イクチオステガ。ヒネルペトンや石炭紀のペデルペスでもいいかもしれない。全ての陸上脊椎動物の祖先とされている生物たちさ」
「どんなやつらなんだ?」
「両生類とか、ヒレが発達して脚みたいになった魚類とか。そいつらを消せば、今地球にいる哺乳類も、鳥類も、何もかも滅ぼせるんだ。そうなったら地球は昆虫たちの王国だよ」
「なるほど……もってこいの時代と場所ってことか」
「その通りよダニー」
後方からの声に突如会話が遮られた。三人が振り向くと、ヘレンが銃を構えて立っていた。三人の額から汗が噴き出す。彼らがこの世界で経験したどんな悪人をも超越した存在が、平然と背後を取っていた。悪辣な空気がその場を包む。しかし、既に覚悟を決めてこの時代の地面を踏みしめて立っている彼らが、ここに来て折れることはなかった。
「ここは将来ヨーロッパのどこかの地になるわ。だいたい三億六千万年後ってところかしら。ローマ帝国、黒死病、二度の世界大戦……様々な惨禍がもたらされる地だけど、まあどうでもいいわね。ヒトどころじゃない、全生物の歴史が書き換わるのだから」
「最古の人類の次は、最古の両生類を殺そうってのか。飽き足りないなお前も」
「両生類かどうかには議論の余地があるわね」
「そんなことはどうでもいい!俺たちはお前を止めるためにここへ来たんだ、絶対にそんなことはさせない」
「分かってるわよ。あなたたちが私を応援しにはるばる時空を越えて来たとでも?」ヘレンは笑ってみせ、少し俯いてから再び向き直った。「でも威勢のいいことを言うわね。銃を持っているのは私。どうやって止めてみせるの?」
調査チームとヘレンの距離は五メートル程度空いていた。この状況において、全てはヘレンの掌の上にあった。一丁の銃があればそれだけで場の流れを決定できる。百兆年に及ぶ宇宙の歴史を大きく変えることができるのは、ヘレン・カッターただ一人。
「ハハッ」
ダニーが笑う。ヘレンは眉をひそめた。
「……どうしたのダニー」
「その銃を持っていたのは誰だよ?」
ヘレンが喋るのをやめ、ダニーの提起した疑問の答えを探る。答えはダニーだ。ダニー・クインの持っていた拳銃を、ヘレンが第三紀で奪い取ったのだ。
「……あなたね」
「そう俺だ。つまりその銃の残弾数を把握しているのも俺ってわけだ」
ヘレンが無言になる。ダニーは意地の悪い笑みを浮かべ、話を続ける。
「お前相手に俺が構えたとき、銃弾の数は少なめにしておいたんだ。また奪われたら困るからな。お前はジェスの頭を撃ち抜こうとして、俺から未来で奪った銃……つまりクリスティンを拉致したときの銃の残弾を全て使い切った。そして俺が第三紀で奪った銃だけを持って、お前は亀裂を旅していたわけだ。お前は結構節約していたが、石炭紀で使わざるを得なかったな。アースロプレウラだ。亀裂を開く時間を稼ぐために何発アレに撃ち込んだんだ?二発か?三発か?今弾倉に何発残ってる?」
ダニーの言葉に不安を持ち、ヘレンが銃に視線を移す。その隙をダニーは見逃さなかった。ダニーが岩盤を踏みしめ、一気にヘレンの方へ駆け出す。瞬時にヘレンは向かってくるダニーに視線を戻し、即座に引き金を引いた。銃声が響き、ダニーの肩を弾丸が貫く。よろめくダニー。しかし第二第三の銃声は続かなかった。引き金を引くだけの虚しい音がかすかにヘレンの右手から発されていた。
この隙にコナーとアビーが銃を抜いた。ヘレンが目を見張る。逃亡の動きを見せるヘレンの脚に二人が正確に射撃すると、銃弾はヘレンの右足を貫き、ズボンが紅に染まった。ヘレンは苦悶の表情を浮かべ、脚に万力のような力を込めて踏ん張った。息も絶え絶えに、ヘレンが呟く。
「……まさか、あなたたちひよっこが私を撃てるなんてね……成長したのね」
「これでも亀裂調査センターで働いてるんでね。ラプトルを撃ったことだってある」
「私たちが銃の担当をベッカーとダニーに任せっきりにしてると思った?カッターとスティーブンがシルル紀から戻らなかったとき、調査チームを任されたのは私たちよ」
「それは他に候補者がいなかったからじゃ」
「黙ってコナー」
アビーに小突かれ、コナーは軽いうめき声を上げて引き下がった。その間も、アビーとダニーはヘレンに警戒を向けていた。
「未来でも第三紀でも私に銃を見せず、牙を隠し続けていたというわけね」
「あの二回はダニーが先陣を切ったからよ。それに……こういう状況の事も、考えていなかったわけじゃない」
「第三紀で私に撃たれるとは思わなかったわけ?あそこで銃撃戦をやって私を仕留めた方があなたたちには得だったでしょうに」
「あんたが銃弾を使いたがらないのは予想がついてた。だって、野生動物の蔓延る世界で生きていくのに、早々に弾を使い切るのは懸命じゃないもの」
「なるほどね──」
ヘレンが右足を引きずって動き始めた。即座に銃を構え直すアビーとコナーだが、ダニーが手を伸ばして静止した。
「ヤツの銃にもう弾はない。ワイヤーも射程距離外にいれば問題はない。様子を見るんだ。だがいつでも撃てるようにはしておくんだ」
二人は銃を下ろし、ヘレンが歩く方向を見た。両生類らしき生物の姿はそこになかった。それでもヘレンは、岸に向かってゆっくりと進んでいた。その時後ろから突然の風が吹き、ターディスが三人の背後に出現した。馴染みのある音を立てて出現が止まった後、ドアを開けてドクターが姿を現した。
「ヘレン・カッター」
波打ち際まで進んだヘレンが、歩を止めた。
「もう終わったようだな」
「……ええドクター。あなたが出る幕じゃあなかったわね。亀裂調査センターも成長したということかしら」
「ついて来てもらおう。今度こそ、あのポリスボックスが役目を果たす時が来た」
「私が犯罪をしたとでも?」
「生まれるべき人間を、生物を、未然に殺してるんだ。犯罪じゃないわけがない」
「人類が自然を破壊するのは犯罪じゃないと言うの?」ヘレンはさらに話し続ける。「人類は地球のシミのようなもの。人類が消滅すれば地球は生物の楽園になるのよ。想像できる?ドクター。邪悪な人類と未来生物の一切が消え去った、美しい地球を」
「……確かに自然は美しい。だが人類がいてこその地球という面もある」
「どこまでも人間を贔屓するのね。あなた、本当に人間なのかしら?ドクター誰?」
ヘレンの口からもそのフレーズを聞き、ドクターの口元が少し緩んだ。
「ただのドクターだ」
「地球の病状から目を背け、人類だけを気に掛ける。本当、人間に偏ったただのドクターね」
「目を背けているわけじゃないさ。確かに人類は環境を破壊してるし、遺伝子工学や核開発みたいなグレーな技術にも手を出した。だが反省すべきところがあっても、人類は素晴らしい存在なんだ。人類はその飽くなき探求心から、やがてはブラックホールまで足を延ばした。ファンタスティックな種族なんだ。人類は必ず進化を遂げる。進歩もする。これだけは止められない」
「進化ね……」
進化は君の意志と無関係に起きる、とは誰が言った台詞だったか。既に朦朧としかけたヘレンの頭でも、それだけは明瞭に浮かび上がってくる。ニック・カッター。かつて惹かれ合った夫の言葉が、ヘレンの頭にこだましていた。ヘレンは無言で空を見つめる。そして──ぽつり、と呟く。
「──どうして、こうなってしまったの」
「……何?」
ドクターが聞き返すと同時に、ヘレンの体が後ろに傾く。傷ついた脚で、ヘレンは背中から水面へ飛び込んでいった。
「なッ……」
「何をする気!?」
更なる邪悪な計画があるのでは、と焦る調査チームをよそに、ドクターは別のベクトルで焦っていた。ドクターは急いでターディスに向かって駆け戻る。
「まずい、自殺する気だ!」
「自殺!?どうして!?」
「さあ、僕に人間の気持ちは分からない!だが僕らが関与したことは確かだ!僕らが彼女の計画を挫いたから、彼女はおそらく絶望のあまり死を選ぼうとしてる!」
ドアを開け、ドクターは制御盤に向かって走っていく。その後ろ姿に向かってアビーが叫ぶ。
「ヘレンを助けるっていうの!?仮に私たちが自殺しかけても、彼女は助けには来ない!」
ドクターは制御盤の前で立ち止まり、数舜無言になった。わずかの間に、ドクターの信念とも言うべき考えが彼の脳内で弾き出される。
「……僕なら助けに行くさ」
ドクターが優しく微笑みかけると同時にドアが閉じる。ターディスが浮き上がり、あっけにとられるアビーたちの真上を通って水の中へ飛び込んでいく。入り江には、銃声を聞きつけたのか既に捕食動物が迫っていた。全長四メートルほどに達する巨大な影、ハイネリアだ。当時の淡水世界に君臨する頂点捕食者。その姿をモニター越しに睨むドクターに、ジェスが話しかける。
「ドクター、モニターで見ていたわ。ヘレンを助けるのね?」
「その通りさ。反対はしないのか、ジェス?」
「しないわ。どんな人でも見殺しにするより、助ける方が後味が良いもの」
ドクターは歯を見せて笑った。
「よしジェス。僕はこれからあの大きな魚と対決する。ちょっと揺れるけど、見届けてくれよな」
「ええ!」
朗らかな答えに満足した表情で、ドクターがレバーを下げる。ターディスは急降下して着水し、水の中に潜った。ヘレンの脚から流れる血の匂いを嗅ぎつけ、ハイネリアはヘレンの方に引き寄せられていた。
「よし、掴まってろよ!」
ターディスが水中で急発進する。水の抵抗で大きく速度は遅くなっているが、それでもハイネリアの巨体を大きく揺らすには十分だった。しかしその程度で退散するハイネリアではなく、むしろ摂食の妨害をされたことで意識を強めてしまったらしい。尾ビレで執拗にターディスの側面を叩き、ジェスとドクターは大きく揺さぶられた。呻きながらも、ドクターはターディスでの体当たりを続行する。しかし、二、三度繰り返すうちに魚はターディスの動きを見切り、回避するようになった。
「まずいな。こいつ、僕の操縦を覚えたぞ!」
ターディスの動きが、次々と空振りに終わっていく。やがてハイネリアは、ヘレンをその巨大な口に咥え込んだ。
「ああ、しまった!くそ、こうなったら僕一人で行く!」
ドクターが焦る。ポケットからフラーレンの模型や双眼鏡といったガラクタを次々に取り出し、丸いボタンのついた六角形の装置を手に取ると、息を飲んでガッツポーズをした。
「それは何なの!?」
「テレポート装置だ。ここからは僕が一人でヘレンを助け出す。ごめんよ、ターディスは浮上させる」
ドクターは六角形の装置を左手でいじりながら、右手でターディスのキーをタイプした。ターディスが浮上を開始すると同時にドクターの姿が消える。ターディスは大きな音を立てて海面から飛び出し、水しぶきを上げて岩場に着陸した。調査チームは驚いた表情でその光景を見ていた。ドアが開いてジェスが外へ姿を現すと、アビーとコナーがすぐに駆け寄ってきた。
「ジェス!何があったの!?」
「ドクターがヘレンを助けようとしたの。大きな魚がヘレンを襲ってて……でもターディスの動きを読まれて、ドクターは一人で──」
「じゃあ、今ドクターは一人で川に潜ってるっていうのか!?」
三人は、水面を覗き込んだ。
ハイネリアは既に上流への遡上を開始し、ドクターはその鰓の側面にしがみついていた。水着もボンベも用意せずにテレポートしたため、ドクターに残されたタイムリミットは持って一分だった。しかしハイネリアの鱗を前にして素手のドクターは苦戦していた。
──吸盤か滑り止めかを用意するんだった!でもそんなものを用意していたら助かるものも助からない!ええい仕方ない。このままソニックドライバーで勝負するしかない!
口に咥えられたヘレンからはドス黒い血が流れ続けていた。ドクターはポケットからソニックドライバーを取り出すと、それをハイネリアの口元に近づける。魚は大きく体を左右に振るう。摩擦のない鱗で滑りそうになるのを必死に耐えながら、彼はソニックドライバーを作動させた。緑色の光が、濁った水をぼうっと照らす。一秒、二秒とドライバーを作動させ続ける。腕の力に限界が来るのが早いか、ソニックの効き目が出るのが早いか。ドクターは後者を祈った。
そのうち、ハイネリアの口が微妙に振動を始めた。その振動は次第にはっきり見て取れるようになり、明白な痙攣が始まった。ハイネリアは突然口を大きく開いてヘレンを吐き出し、尾を大きく一振りして素早くその場を去っていった。ドクターは体のうねりに振り落とされたが、ヘレンが解放された以上もう問題ではない。あとは早く水面から顔を出し、陸にヘレンを引き上げることだった。苦しみを通り越して最早痛みに変わった酸欠状態と戦う。口を開け、肺に空気を取り込みたくなる。喉を掻き切って気道へ空気を詰めたくなる。胸を開いて直に空気を肺へ押し込みたくなる。そんな衝動をこらえ、ドクターは必死の思いで水面から顔を出し、ヘレンを岸に持ち上げた。すぐに調査チームのメンバーが駆けつけ、ヘレンの全身を引き上げた。ドクターは息を切らせていた。
「ドクター、何をしたんだ!?」
「ダニー、神経の刺激さ。ここは淡水だけど、だからと言って水中の溶存イオンが存在しないわけじゃない。ソニックでイオンを励起して適切な電流を流してやれば、ハイネリアの神経を刺激して、顎を開閉させられる。それでヘレンを、助けたわけだけど──」
突然、ヘレンが大量の水を吐き出した。意識を取り戻したのだ。
「……手遅れよ、ドクター」
ドクター以上に息切れしながらヘレンが言う。血は止まっていなかった。刃渡り五センチ、幅六センチに及ぶ刃物──すなわち、歯のことである──が複数彼女の腹と背に突き刺さっていたのだ。ヘレンの体力は限界に達していた。
「ああ、そんな……」
ドクターが顔に皺を寄せてヘレンの顔を覗き込む。散々苦しめられてきた調査チームのメンバーもこの場でヘレンを貶めるようなことは言わず、静かに物悲しげな表情でヘレンを見つめていた。もはやヘレンに息切れは見られなかった。呼吸そのものが止まろうとしているのだ。
「スティーブン…………ニッ……ク……………………」
これを最後に、ヘレンが動くことはなかった。
TUTUです。
いかがでしたでしょうか。今回が一応の最終回ということで、次回はエピローグですね。
どうしようもない悪人として本編で描かれたヘレンですが、最初は非凡な科学者だったんですよね。白亜紀で教授がヘレンと共に歩む道を選んでいたら(あり得ませんが)、何か変わっていたんでしょうか。
今回登場した生物はハイネリア。『ウォーキングwithモンスター』で陸上に一時的に上がってヒネルペトンを捕食していたのが印象深いです。