ブラック・ジャックをよろしく   作:ぱちぱち

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始まりと終わりに関しては、もしもこの世界が50年位持ったら、という仮定での話になります。

くっそ長くなって難航してたんですが、朝方「ちょっと更新が空いてるし貯まったオマケを投稿すっか」と安易に判断して投稿したら低評価付きで「オマケが読みたいんじゃないんだよ! 最新話で出したら勘違いするだろ!(勝手な意訳:お前の新作が見たいんだよ!)」とボロカスに怒られたので奮起してやった。

ちょっと反省している(睡眠時間的な意味で)

誤字修正。Kimko様、ハクオロ様、名無しの通りすがり様、佐藤東沙様、オカムー様、仔犬様ありがとうございました!


ifストーリー 鴨川源二(オマケも統合)

「……目をつむれば」

 

 チャンピオンベルトを写真立ての隣に置き、呟くように鴨川は言葉を紡いだ。

 

「目をつむれば鮮明に思い出せる……敗戦のショックと貧困。世界統合による混乱。日本人(わしら)はそれでも立ち上がらなければならなかった。復興に向けて活気を取り戻さねばならなかった。熱い……時代じゃった」

 

 固唾を飲んでこちらを見る教え子たちとかつての宿敵。降りしきる吹雪の中、鴨川は古い写真に目を向ける。

 若かりし頃の自身と宿敵がにらみ合い、その二人の間で困ったように笑う女性。そして……右端で、我関せずといった顔をする異貌の男。

 目をつむれば鮮明に思い出せる。あの日、あの時。あの時代。ワシ等は……俺達は、確かに出会った。

 

 

 

 だんっ、と音を立てて出された銀シャリを受け取り、浜団吉は掻き込むように米粒を口の中に押し込んだ。数日前の拳闘で稼いだ金は後わずか。白米を食べるのもこれが最後になるだろう。名残を惜しむように飯茶碗から口を離し汁物をすする。そして出された沢庵を数切れ口の中で咀嚼し、飯茶碗に口を寄せた時にどすん、と音を立てて両隣に誰かが座った。

 

「奢れ団吉」

「貴様だけ銀シャリさ食べるなんざ許されんダニ」

 

 鴨川源二と猫田銀八。団吉と同じ拳闘屋だ。

 

「ふざけるな! この間の拳闘で死に物狂いで稼いだんだ! ヌシ等も拳闘屋なら拳で稼げ!」

 

 団吉の言葉に二人の顔が歪む。先週この二人が行った試合はドロドロの引き分けにもつれ込んだ。勝ち負けをきっちりさせないと試合が組みにくいこの時代では、ドロドロの泥仕合は敬遠される。そのため、二人は試合を組まれる事が無くなったのだ。

 

「あれは俺の勝ちだった!」

「貴様へろへろだったのに偉そうダニな!」

 

 席から立ち上がり互いの胸倉を掴む二人に団吉は呆れた様な顔を向ける。

 

「やめろやめろ。互角でいいじゃねぇか」

「貴様こそ弱いクセになんだ?」

「銀シャリとは生意気ダニよ」

「因縁つけてんじゃねーぞ……」

 

 飯を食べ終わった団吉が立ち上がり二人に向かってメンチを切る。やるのか、とばかりに鴨川と猫田が視線を向け、その彼らをパンパン、と手を叩いて彼らの注意を引き付ける男が居た。赤色の随分とハイカラなスーツを着て眼鏡をかけた男だ。

 

 アメリカ兵か? いや、連中にしてはやけに身綺麗だ。目線で鴨川と猫田、浜は目を合わせ頷き合う。この闇市でも異人は極力邪魔をしないというルールがある。それを守らなければ排除されてしまいかねない。三人はすっと道を開け、それに満足したようにスーツを着た男は頷いた。

 

「サトル様、先生。こちらが空きました」

「すまないなデミウルゴス。いやぁ、一度こういう場で食べてみたかったんですよねぇ」

「ご相伴に預からせて頂きましょう」

 

 スーツの男は先程まで団吉が座っていた場所にハンカチを広げると、すっと背後に立っていた男二人に頭を下げる。片方は日本人のようだが随分と血色がいい、どこぞのお坊ちゃんだろうか。そしてもう一人は……日本人、なのだろうか。顔の三分の一程の色が黒い、不思議な肌色をした男だった。

 

 男たちは鴨川達を一瞥した後に興味を無くしたように飯屋の椅子に座る。「これはどういうメニューなんですかね先生」「ああ、それは」等というやり取りをしながら彼等は飯処に意識を集中させた。

 

 やる気を削がれた鴨川達はため息をついてその場を立ち去る。金もないのにこんな場所に居ても腹が減るだけだ。明日も試合があると言う団吉を激励がてらからかいながら歩き去っていく。

 

 そんな彼等の背中を、先生と呼ばれた男はじっと眺めていた。何かを思い出すように。

 

 

 

 団吉が試合に負けた。それも圧倒的な力の差で。相手は米兵の元ボクサーで、技術も体格も何もかもが圧倒的に上の相手だった。彼は適度に手を抜かれて負けたらしい。まるで相手にされていなかった。

 

 金髪の米兵はニヤニヤと、悔しそうに震える団吉と鴨川達を見下した。彼は下から睨め上げる鴨川達の視線を心地よさそうに受けて、脇に立つ部下に合図を送る。

 

 彼等は配給用の物資を詰めた段ボールを持ち、リングの上から民衆に向かって中身を投げ始めた。地面に落ちた服やチョコ、ガムやパンを拾い集める民衆を眺める為に。

 

「女子供が優先ダ!」

 

 日本語を話す米軍人の言葉を聞き、群がる様に集まる群衆達。それらを見下ろしてニヤニヤと笑う米兵達。猫田が「止めろ」と叫んだ。奴らはただ日本人を見下す為にリングの上から笑っているのだと。

 

「たった今、日本人さ殴られて、それなのに……こんな……っ!」

 

 アリのように物資を拾い集める群衆に、猫田の声は届かない。戦場で出会っていれば間違いなくハチの巣にしていた。悔しさを堪える様に猫田は歯ぎしりをした。

 

「こらえろ、猫田。時代なんだ……そういう時代なんだよ」

「だからといって……地面さ投げつけられたもんを……」

 

 そんな猫田を、鴨川は止めた。彼とて怒りで頭が真っ白になりそうだった。だが、彼等も必死なのだ。必死に、誇りを捨ててでも生きようとしているのだ。だが、この胸に来るやるせなさを誤魔化す事はできない。失意の中リングを降りる二人の足元をチョコの包みが転がっていく。

 

 踏みつぶしてやろうか。頭の中に思い浮かんだ八つ当たりに鴨川は頭を振った。そこまで落ちぶれるつもりはなかったからだ。つい目でチョコの行方を追う。すると、街路樹にもたれかかった女性の足元でチョコの包みは止まった。

 

 その女性は足元のチョコに見向きもせずにじっと木に寄りかかっていた。今の時代、先程の憤りは兎も角として食べる物にすら事欠く有様だ。軽い親切心のつもりで猫田は女性に声をかけた。

 

「君は、拾わないダニか? 早くしねとなくなるダニよ」

「とりあえず貴重品だぜ」

 

 そんな二人の言葉に、彼女は小さく首を横に振った。

 

「一つ拾えば……一つ捨てなきゃならないもの」

 

 街路樹から背を離し、女性は強い意志を持った瞳で二人を見る。

 

「日本人の誇りを」

 

 その視線に、鴨川と猫田は射竦められる様に動けなくなった。か弱い女性から放たれた言葉の、その中に詰め込まれた意志の強さを感じたからだ。

 

「ユキくん」

「先生」

 

 そんな一種のにらみ合いのような時間はそれほど長くはなかった。彼女を呼び止める人物が声をかけてきたからだ。

 その人物は異貌の男だった。顔の一部が黒く変色しており、それ以外の部分はアジア系の顔立ちをしている。最近どこかで見かけた様な気がする、と鴨川は感じたが、霞がかかったように思い出せなかった。女性はにこやかな笑みを浮かべてその人物に向き直り、鴨川達にぺこり、と頭を下げると異貌の男と共に歩き去っていった。

 

 まるで狐につままれたような心地でその場に立ち尽くした二人は、よろけるように歩く団吉の姿を見つけて慌ててそちらに駆け寄る。すでに手当を受けているようだが、足に来ている。家まで送ってやろうと彼に二人は肩を貸した。

 

 

 

「団吉の奴、大したこと無くて良かったな」

「一発で倒されたのが良かったんダニ。こう、交差した瞬間にバタリと倒れて」

「クロスカウンターって奴か!?」

 

 団吉の家からの帰り道。二人は下駄の音をカランコロンと鳴らしながら今日の事を話し合っていた。試合の事、技術の事。そして、拳闘とボクシングとの差。10年程度の遅れではないだろう。団吉は少なくとも彼ら二人以外に負けることはほぼあり得ない男だった。そんな団吉を一撃で倒した男。体格差もあった。恐らく4~5階級上の相手だ。だが、それでも一撃で倒されたのは技術の差だ。

 

「俺はよ、猫田。もっと強くなれるなら、それらを学んでみたいんだ。お国は負けたがよ、個人は別さ。拳一つでどこまで行けるのか。俺はそのためだったら何でも身に着けるさ」

「けっ。米国かぶれめ。俺はとことん拳闘でやってやるダニ」

「おい、猫田」

「わかってるダニ。今日は頭冷やすダニよ……希望も見たダニからな」

 

 猫田の脳裏に、拳闘場で見かけた女性の言葉がよぎる。良い言葉だった。あんなイキな台詞を言える女性がこの世の中にまだ居たなんて、と猫田は上機嫌に話す。美人に弱い猫田の言葉だが、鴨川も彼女の美しさを認めて頷いた。

 

 そんな二人の前に、異貌の男が姿を現した。

 

「……あんた」

「君たちは……確か昼間の」

 

 歩く二人の前。黒いコートを羽織った男……昼間は気づかなかったが、頭の半分を白髪に染めた男は鴨川の声につい今気づいたという風に二人を見た。この暑い中コートを羽織っているのもそうだが、その下も黒いスーツ。季節感を感じさせない服装だった。

 

「……思い出した。あんた、確か」

「きゃああああぁ!」

 

 鴨川が既視感の正体に気付いた時、彼らの背後から女性の悲鳴が響き渡る。振り返った二人を車のライトが包み、猫田の胸に悲鳴の主が飛び込んでくる。驚く猫田。ライトで眩む視界を手で押さえて確保しながら鴨川は悲鳴の主を見た。

 

「君は、昼間の」

「ユキくん」

「間先生! ああ、よかった!」

 

 鴨川が彼女の正体に気付いたと同時に、先ほどまで彼らの後ろにいた黒いコートの男が彼女の側に来る。男の存在に気付いたユキと呼ばれた彼女は猫田から離れ、黒いコートの男に縋りつく。少し残念そうな顔をした猫田の頭を小突いて、鴨川は車を見やる。

 

『その娘を離せ。日本人(ジャップ)

 

 米軍のジープから身を乗り出すように立ち上がった男が、ガムを噛みながら彼らに語り掛ける。昼間に団吉を倒した男だ。

 

『もう一度言う。その娘を離せ、日本人(ジャップ)

『断る。彼女は俺の患者だ』

『……貴様、英語が出来るのか』

 

 黒いコートの男が英語で返答を返すと、意外な物を見た様な顔で米兵が声を上げた。男は胸元から小さな紙を取り出すと、それを広げて米兵に見せる。怪訝そうな顔でそれを見た米兵は、『Mr.B!?』と叫ぶと次の瞬間に慌てたように車から降りて敬礼を彼に捧げた。

 

『彼女は私の患者で協力者でもある。連れて行くが構わんね?』

『は、はい! 申し訳ありません』

『では、消えてくれ。私は今気が立っているんだ』

 

 苛立ちを露にする男に米兵たちは口々に謝罪の言葉を紡ぎ、慌ててジープに乗って彼らの前から去っていった。静けさを取り戻した町の中で、男は「さて」と呟き、鴨川と猫田を見る。

 

「すまんがこの近くに食事処は無いかな。彼女を探して何も食べていないんだ」

 

 腹をさする男の様子につい鴨川達は吹き出した。

 

 

 

「お医者様ダニかぁ。そいつはすげーダニ」

 

 間という男の話を聞いて、猫田はがつがつと飯を掻き込みながらそう言った。隣でもぐもぐと米粒を掻き込む鴨川もうんうんと頷いて間の話を聞く。

 

「払いは道案内代として俺が持つ、と言ったが。お前ら遠慮しないで食べるなぁ」

「本当ですね」

「君もだよユキくん」

 

 彼らは闇市で夜の仕事をしている者向けの食堂に来ていた。昼に開いている飯屋よりも少し値段は高いがその分味は良いし、何より払いは他人持ちだ。欠食児童のように掻き込む拳闘家二人に、自分と似たような食事をとっているはずの女性。明らかに自分の倍は食べている三名に間は苦笑を浮かべる。

 

「二人は拳闘家なんだな。俺も少し心得があるが」

「先生、デカイからな。あのクソッタレ米兵より少しデカイ位じゃねぇか?」

「俺に先生くらいのデカさがあったら、あいつあの場でボコボコにしてやったダニ」

「あほ。あっさりカウンター貰うのがオチだろうが」

 

 ギュッと拳を握る猫田に鴨川が苦い顔で苦言をもらす。そんな二人の様子をけらけらとユキが笑ってみる。その様子を、間は微笑ましそうに見ている。

 

「そういえば先生。あの米兵共、先生にヘーコラしてたけど何があるんだ?」

「ああ。ちょっと医学実験で米軍に協力していてな。米兵からは優遇されてるんだよ」

「おお! 米兵が先生に頭下げるなんてすごいダニよ! 久しぶりに胸のすく話ダニ!」

 

 誰もが米兵を見れば下を向く今の日本で、逆に頭を下げさせる日本人が居る。それが痛快だったのか、猫田は頻りに凄い凄いと子供のようにはしゃぎ回った。そんな様子を鴨川が迷惑そうに見るも、否定する気も起きないのか黙り込む。

 

「暫くはあそこの病院に居る。もし何かあれば訪ねてくるといい」

「そいつはありがたいダニ。拳闘家さやってると怪我とは友達ダニ」

「お前、最近パンチに当たってばっかりだからな。猪突が過ぎるんだよ」

 

 二人のやり取りを笑って間は立ち上がり、二人にピッと名刺を渡した。難しい漢字が並んだその名刺に二人が委縮するように端っこを持つのを見て間は笑い、店の払いを済ませてユキと共に店を出る。

 ユキは店を出る前に、二人に小さくぺこりと頭を下げて戸を閉じた。その様子に猫田は顔をニマつかせて鴨川の肩を掴む。

 

「ユキさん……良い名前ダニ。拳闘さ好き言うてたからまた会えるダニかねぇ」

「……お前な。あの娘は」

「わかっとるダニ。お邪魔虫はしないダニよ……でも、可愛かったダニィ」

「……はぁ」

 

 上機嫌にユキの事を話す猫田に鴨川はため息をつき、ふっと笑みをこぼす。団吉の試合では日本と米国との差を思い知らされた気持ちだった。だが、同じ日本人にも米国に頭を下げさせる男が居る。その事が鴨川の心に燃料を齎す。

 いつか彼に会った時は、もっと別の舞台で。もっとデカく、強くなって会う。そんな小さな決意を胸に、鴨川は猫田と共に店を出た。

 

 

 その後は、町で異貌の男と出会うことはなかった。何度か拳闘を見に来ていたユキに話を聞くと、偉そうなスーツを着た男といつも飛び回るように動いているのだとか。彼女は彼の患者としてとある病気の治療を受けており、現在はその治療も終えて経過観察のような段階なのだという。広島出身だという彼女の病というのは例のピカの後遺症なのだろう。それを治療できるのが日本人、しかも同年代であるという事に鴨川も猫田も燃えた。

 

「何でも、コスモクリーナーって機械なんだそうです」

「へぇ、宇宙清掃機か。面白い名前だな」

「鴨川、英語さできるダニか?」

「勉強中なんだ。あの米兵の試合を見た。奴は嫌いだがやはり技術は凄い。一度米国に渡って俺はあの技術をモノにしてみせる」

「けっ。俺も見たダニがあんなのただのデクの坊ダニ。あんな大振り俺には当たらんダニよ」

 

 ユキの前だからか何時もよりも見栄が多いが、確かに猫田の速さならばあの米兵にも対抗できるかもしれない。と言っても奴と戦う理由はない。階級の違う相手に勝って悦に浸っている奴なんざ無視して良いのだ。それよりも自身を更に高める為に、鴨川は訓練を自らに課していく。そんな鴨川を「修行僧ダニ……」と猫田は渋い顔で言って、ユキにひそひそと何事かをささやいた。どうせろくでもないことだろう。

 

 あの黒いコートの男は新聞にも顔を見せているらしい。広島での実験によって広島で広まっていた病害をかなりの率で治すことに成功したとの事で、日本人の誉であると書かれていた。例の異貌についても触れられているが、これは人の皮膚を移植した後遺症であると書かれていて、どうにも信ぴょう性のない話だがやけに納得できる理由だ。

 新聞を猫田に見せると、猫田はまるで国が勝ったかのように喜び騒いでいた。騒ぎすぎて奴の住居の橋の下から立ち退きを求められたと荷物を抱えてやってきた。その時はたたき出してやろうかと思ったが、気持ちはわかる為仕方なく住んでいたバスの片方を提供した。

 

「なぁ、猫田」

「おう。俺達もやるダニ。同じ日本人にこんな人がいるダニ。腐ってる場合ではないダニよ」

 

 猫田は拳闘以外にも輪タクを始めたらしい。生活費だと幾ばくかの金を持ってきた彼に鴨川は追い出す理由がまた減ったと嘆くが、身近に練習相手がいる環境をひそかに喜んで二人は互いに競い合った。一歩走れば世界が前に広がっている。そしてそこにたどり着いた時、今度こそあの男に胸を張って会うのだ。そんな大それた夢を持って二人は坂の上を走る。競い合うように。

 

 

 

 だが、再会は彼等が思い描いていたよりも早く。そして彼等が思い描いていたよりも深刻で、救いのない状況で訪れた。

 件の米兵と猫田の試合が組まれたのだ。

 

 猫田はこれを快諾。持ち前のスピードを用いてあと一歩の所まで米兵、ラルフ・アンダーソンを追い詰めるが、後頭部を揺らされる反則の一撃を受けて昏倒。そのまま昏睡状態になった。医者からの診断は、このまま死亡する可能性すらある。仮に治っても間違いなく後遺症を覚悟してほしいという物だった。

 

 そして、今。鴨川は、間の前に猫田を抱えて立っている。猫田の症状を他の医師に聞かされ、そして鴨川の頭に過ったのはあの異貌の医師の姿だった。病院まで猫田の輪タクを使って彼を運び、駆け込む。たまたま受付にいたユキさんの姿に助かったと鴨川は駆け寄り、間先生に取り次いでほしいと頼み込んだ。

 

 間先生の元へはすぐに通された。ちょうど人と会っていた所らしく、彼の部屋には以前見かけた派手なスーツを着た男と上品な服を着た男、そして間先生が椅子に腰かけていた。客が居ようが鴨川には関係なかった。猫田を背負ったままその場に土下座し、頭を地面に打ち付ける様に下げる。

 

「先生、急な来訪、申し訳ねぇ」

「……用件を聞く前に、彼をこちらに寝かせなさい」

 

 土下座、と驚く上品そうな男の言葉に目もくれず、鴨川は目の前に座る間黒夫に頭を下げたまま語り掛ける。それを咎める事もせず、間先生はひとまず猫田の容態を気にした。再度地面に頭を打ち付けて感謝を示し、先生の部屋……おそらくここは診察室を兼ねているのだろう……にあるベッドに猫田を寝かせる。先生がいくつかの指示をユキさんに出し、そして彼女は頷いて場を離れた。

 

「それで、用件とは?」

「あんたに、頼みがある。猫田を、治してくれ」

「今の外傷程度なら直に治る。症状は?」

「……パンチドランカー」

 

 一瞬言葉を飲み込み、鴨川は病名を口にした。脳の障害。明らかな不治の病だ。だが、もしかしたら、という一縷の望みをかけて彼はここに来た。自身が知る最も優れた医者だと思う人物にかけたかった。

 

「……あの、先生、パンチドランカーとはどんな病なんですか?」

 

 ソファに座ったままの上品そうな男がそう間先生に尋ねる。男と男の話を邪魔されて不快に思ったが、彼らの邪魔をしたのは自身だと思いなおす。今、この場に入れてもらえただけでも僥倖。自身は頼みごとをしに来たのだから。

 

「慢性外傷性脳症。脳を揺らされた事による脳内の傷が元で起こる障害です」

「なるほど。この世界ではまだ治療法が確立できていないのですね」

「ええ。まぁ……脳の分野は長らく進歩が遅かったので」

 

 初めて聞く病名と原因に鴨川は歯噛みする思いだった。やはり自分か。猫田を壊したのは。そんな体でリングに上がっていたのか、猫田は。握りしめた拳の爪が皮膚を貫き破る。口惜しさと情けなさで胸が一杯だった。そんな状態であれ程の拳闘を繰り広げた男に対して、鴨川は心の底から尊敬の念を抱いていた。

 

「先生……何でもします、俺にできる事なら何でもやります。だから、頼む……お願いします。猫田を治して下さい」

 

 再度地面に膝を突き、今度は勢いではなくぴたりと額をこすりつけた。先程打ち付けた額から血が流れるのを感じるが構わない。ただ、この時命を捨てる事になったって構わない。あの偉大なボクサーに少しでも報いる事が出来るのならが、惜しくはない。

 

 そんな鴨川の様子を興味深そうにスーツの男が見やり、そして、間黒夫に視線を向ける。彼の主はすでにこの男に興味を持っている。君がやらないのならば私が動く、とばかりの視線だ。その視線を受けた間は小さくため息をついて、鴨川の後頭部を叩いた。

 

「いっでぇっ」

「男の何でもするなんて聞いても嬉しくもなんともないぞ」

「えぇ~、そういう話ですか先生」

 

 上品そうな男の口ぶりに間は苦笑を返した。

 

「私の手術は高額だ。お前さんに払いきれるか?」

「必ず。必ず! お支払いします!」

「良いだろう。なら彼を再びリングに立たせられるように治してみせる」

 

 鴨川の返答に満足そうに笑って、間黒夫は顔を上げた彼の手を取った。

 

「だからお前さんは、世界チャンピオンになってまた私に会いに来い」

 

 

 

 随分と高い手術代だったと、鴨川は苦笑する。その後、鴨川は猫田の仇を討つ為に米兵・ラルフ・アンダーソンと対戦。その試合を見に来た彼の側にいたスーツ姿の男、デミウルゴスからマネジメントの価値がある、と補助を得てアメリカに留学してボクシングを学び、世界に挑戦。復帰した猫田と共に日本人初の世界王者として君臨する事になった。その試合をわざわざ見に来た間黒夫に熨斗を付けて手術代を返済した、と伝えると、彼は「私の手術代を完済したのはお前さんが初めてだよ」と笑っていた。

 

 次元統合という事態が明るみになり、混乱する世界の中。デミウルゴスとの関係で他所よりも多少恵まれていた鴨川は鴨川の引退を機に拳闘家から足を洗った猫田と共にジムを起こし、そしてそれから数十年。彼の教え子から、ついに世界王者が誕生した。

 

「師弟での世界王者か……改めて聞くと凄いですよね」

「と言ってもわし等の頃は人間しかボクシングに参加しておらんかったからな。現状とは大分ルールもスタイルも変わるが」

「いやいや。それでもですよ。僕、感動しました」

 

 自身の愛弟子とも呼べる若い青年の言葉に鴨川は笑みを浮かべる。口では皮肉気に言うが、かつて世界に挑戦し頂点に立ったという自負がやはり彼にもある。

 

「しっかし、会長があのブラック・ジャックと知り合いなんてなぁ」

「先生さ大変な人だったダニ。今でもあの人の医術は再現できないダニよ」

 

 何せ未だに魔法を使わなければ治せないと言われているパンチドランカーを、戦後の医療施設で、しかも外科手術で治してしまったのは後にも先にもこの一件だけだと言われているほどだ。彼の話で盛り上がる盟友と教え子たちに鴨川は目を細めて笑みを浮かべる。あの日、あの食堂で自身と猫田が語り合った姿を幻視したためだ。

 

「さて、そろそろ飯にするか」

 

 照れ隠しにこほん、と咳を一つつき、鴨川は声をあげる。

 

「おぉいユキちゃん。飯にしよう」

「はぁい」

 

 長年連れ添った妻の屈託もない声に頬を緩ませて、鴨川は席を立った。その様子に猫田が苦々し気に「鴨川さやっぱり性根の腐ったスケベダニ」と呟くが負け犬の遠吠えだろう。先生がこの世界を去った時、悲しそうにしていた彼女を慰めたのは決して助平根性ではなかった。その時点でヘタレた猫田が悪いのだ。

 愛妻の作る料理は何でも好きだが、今日は、そう。あの日食べた銀シャリと漬物の味が恋しくなったな。そう考えながら鴨川は会長室を後にした。

 

 

 

side.K あるいは蛇足

 

 思い出した。ここはじめの一歩だ。そう言えば近場の食堂でボンカレーを待っている間に読んだ事のある顔だった。戦前戦後の話はあんまり見たことがないから最初はピンと来なかったんだよな。いやー、どっかで見たことがあるなぁと思ってたんだ。その様子に気付いたデミウルゴスさんが調べてくれてようやく発覚したんだが、作品に入る前の世界ってのもあるんだな。

 

「興味深い話だね。作中時間の約4~50年前。これは人間の時間で見れば決して短い期間ではないよ」

「似たような事で見逃している世界も意外とあるかもしれませんねぇ」

 

 ずずっとお茶を飲みながら鈴木サトル……人化したモモンガさんの呟きに、デミウルゴスさんが「慧眼、恐れ入ります」と頭を下げようとしているので止める。ついやっちゃうのは分かるけど、モモンガさん今はプライベートでそういうのは苦手だって言ってただろうに。

 

 俺の様子にはっとその事に思い至り、「も、もうしわ、ごめ、もうし」とどう言えばいいのかがパッと出てこないデミウルゴスさんの姿にモモンガさんが苦笑を浮かべて手をひらひらと泳がせる。構わないでくれって事だな。

 

「まぁ、彼らの事も気になりますがやはりコスモクリーナーの実証実験が出来たのは嬉しいですね」

「まさか戦後すぐなんて状態の世界なんて都合の良い場所があるとは思わなかったからな。やはり他世界については一刻も早く調べる必要がありそうだ」

「はい。超高高度から見た世界の現状を見るに、この周辺はかなり密集した世界群があると見受けられます。我々に等しい存在も出てくる可能性がある以上油断できませんが」

「うむ。危険なら危険で早く確認するべきだろうな」

 

 ちょっと魔王風のロールにモモンガさんが戻すと安心したようにデミウルゴスさんがいつもの論調に戻る。この二人、何かと気を抜きたがるモモンガさんと何かと気を引き締める傾向のあるデミウルゴスさんという妙にかみ合わない組み合わせのはずなんだが、結局うまい事回るという不思議な人たちなんだよなぁ。

 

 前回接触を持ったヤマト世界でも彼らの微妙なかみ合わなさが功を奏して協力関係を築けたし、これが彼らなりの処世術って奴なんだろう。

 あ、待てよ。ここ戦後間もなくの世界なんだよな。もしかしてワンチャンブラックジャック先生生まれてるんじゃないか? 

 ちょっとデミえもんさん、相談があるんですが。そうそう、もしかしたらの実証でですね。はい同じ人物が複数人居る可能性も含めて。そうです、ブラック・ジャックをよろしく!

 

 

 

 

鴨川のオマケ

 

「バカな練習はやめろ!」

「猫田のパンチで顔を歪めてた。奴は腹が弱ぇんだ」

「骨が折れちまう! 拳を壊せば試合どころじゃねぇぞ!」

「そうなったらそれまでの拳だったって事さ。俺には、猫田みたいな反射神経も勘もない」

 

 河川敷。土手に突き入れられた丸太を、鴨川はテーピングを巻いた拳で打ち付ける。

 

「図体のデカい奴とパンチ交換すればこっちが先に参っちまう。ならば」

 

 ぎゅぅ、と右手を握りしめて。鴨川は叫んだ。

 

「一撃だ! 一撃必殺の拳を作るしかねぇんだ!」

 

 ドスン、と右こぶしを丸太に打ち付け、そして左拳を打ち付ける。早さも何もかもを捨てた一発。ただ一度相手の腹に決まればそれで倒す。それが出来なければ鴨川に勝機はない。

 

 なんて無茶な、と団吉は思う反面、鴨川の武器であるこの意志の固さにごくりと唾を飲み込んだ。鴨川は技巧派のボクサーだと周囲の人間は思っているが、実際に戦った事の有る団吉や猫田から言わせれば違う。この男の最大の武器は、この鉄のように固い意志の力で支えられた粘り強さにある。

 

「だが、こんな無茶な特訓……幾ら意志が固くたって」

「ふっ…ふっ…」

 

 黙々と拳を丸太に打ち込む鴨川は、すでに団吉の事など頭から消し去ったかのように没頭している。その姿に期待を持つ反面、拳友の身が持たないのではないかと心配した団吉は、かつて猫田が自慢していたある医者の事を思い出した。おしゃべりなあの男が真面目な顔で凄い人だと語る人物。猫田の入院にも力を貸してくれたというし、何か力になってくれるやもしれないと、団吉はその場を離れて猫田への見舞がてら、彼が入院している病院へと足を向けた。

 

 

 

 テーピングした拳が血で染まる。鴨川は痛みに顔をしかめながら、拳を丸太に打ち付ける事だけは止めなかった。倒れた友は命の危険の中で日々を過ごしていた。自身がどうなっているのか、どうなっていくのか。不安だったろう、心細かっただろう。そして、憎かっただろう。そんな激情をにこやかな顔の下に隠して、ずっと一人で戦っていたのだ。

 

 なんて凄い男なんだろう。尊敬するよ。自分は命がかかったわけでもないのに、こんなに拳が痛いと逃げ出しそうになっているのに。あいつは逃げ出しもせずにあのリングに立ったのだ。

 

 置いて行かれたなぁ、と思い、鴨川は右ストレートを丸太に叩きつける。

 

「そろそろ休憩にした方がいい」

 

 背後からかけられた声に鴨川はビクン、と肩を揺らす。ゆっくりと振り返ると、その場にはあの異貌の男、間とユキが立っていた。心配そうに鴨川に駆け寄るユキに鴨川は小さく首を振って、両拳に走る痛みに顔を歪める。皮膚が裂けているか。

 

「何だい先生、今練習中なんだ……あんたの支払いの」

「猫田の手術が成功した」

 

 練習を中断させられた事に苛立ち紛れの言葉を言いかけ、鴨川は止まる。彼の言い放った言葉が信じられず、飲み込むのに少し時間がかかった。何度か瞬きをして、傍らに立つユキに目を向ける。彼女は笑顔を浮かべて強く頷いた。

 

 その姿に、言葉の意味を飲み込むことがようやくできた鴨川は、一粒の涙を流した。

 

「今は術後の経過観察の途中だが、ほどなく目を覚ますだろう」

「ほ、ホントにか、本当に、猫田は」

「言ったろう。治してみせる、とな」

 

 にやり、と笑う間先生の手を取り鴨川は深く頭を下げた。そんな鴨川に間黒夫は微笑みを浮かべて。その両手の傷に眉をしかめる。

 

「随分と無茶をしてるじゃないか鴨川」

「あ、その……こいつは、あの男に勝つために必要な事なんです」

 

 間の苦笑を見て自身の馬鹿げた練習を笑われたのかと考えた鴨川は、怒りよりも恥ずかしさを覚えて頬を掻く。彼のような人間からすれば自分がやっていることは馬鹿げているだろう。それは鴨川にだって理解できている。

 

 だが、そんな鴨川の言葉に、間は真面目な表情のまま首を横に振った。

 

「構わんさ。君が世界王者になる為に必要な事なら手助けするのが債権者の義務だろう……ユキくん」

「はい♪」

 

 間がユキに声をかけると、ユキはにこりと笑って肩にかけたバッグから緑色の包帯のようなものを取り出した。手を見せろ、間に言われた為、鴨川は土手に腰を降ろして彼に両手を見せる。

 

 テーピングの下の拳は皮膚が裂けて筋肉が露出し、酷い有様になっていた。息を呑んだユキに鴨川は苦笑する。女子供に見せる代物ではなかったか、と。

 

「……よし。鴨川さん、先に右手を見せてください」

「おいおい、無理しなくても」

「無理をしてるのは、鴨川さんじゃないですか!」

 

 ぎゅっと口を噛み締めて彼の右手に手を添えるユキ。鴨川はその姿に思わず声をかけたが、ユキは首を横に振って彼の右手の手当を始めた。

 

「猫田さんの試合、浜さんに聞きました。あの米兵がもう何人も日本人を倒していて、だから皆に勇気を分けたくてやったんだって」

「……団吉の奴、そんな事を」

「そして鴨川さんは、そんな猫田さんの仇を討とうと頑張って、こんな無茶をして」

 

 表情を歪めながら、ユキは緑色の包帯を鴨川の両手に巻きつける。ひんやりとした感覚が心地よく、あれ程迄に両手を苛んでいた痛みが消えていくような不思議な感触だった。

 

「カッコいいじゃないですか。応援、したくなるじゃないですか。私だって、日本人なんだから」

「……ありがとう、ユキさん」

 

 包帯を巻き終えたユキの手が鴨川の両の拳を包む。その両拳から、鴨川の体に熱い意志のような物が乗り移ったように感じる。

 

「さて、手当に関してはこれで良いとして。後の問題は君自身だな」

 

 ユキと鴨川のやり取りを微笑まし気に眺めていた間は、顔を引き締めると鴨川の体を見る。右腕を触り、肩や腹と言った筋肉の付き具合を見て、「ふむ」と一言漏らした後に眉を寄せる。

 

「今の君の体では、おそらく想定した一撃を放てば拳が壊れてしまうだろう。体が脆すぎる」

「……覚悟の上、です」

「それではいかんだろう。君には世界王者になってもらわないといけない。私も暇ではない以上、毎回当てにされても困るんだ」

 

 鴨川の言葉に間は首を横に振った。鴨川の言葉のどこかに、恐らく自身の存在を頭に置いているのを感じた為だ。確かに拳を壊したとしても間が居れば何とかなるだろうが、それは間が居ればの話。サポートはしてもかまわないが、世界王者になるのはあくまでも鴨川自身の力によるものでないといけないと間は語った。

 

 心のどこかで間の存在を頼っていた、という指摘に鴨川が首をたれる。確かに、どこかで助けてもらえるのではないかという考えを思い浮かべていたかもしれない。こんな様では猫田になんと言われるか分からない。

 

「鴨川君。一度病院に来てほしい。猫田君もそうだが、君のこれからの方針について少し話がしたい」

「方針、ですか。猫田の件については是非もありません。すぐに駆け付けるつもりですから構いません」

「そうか。その君の両手を覆っている包帯、これは前に君も会った鈴木さんの会社の発明なんだが、そこにな……」

 

 並んで歩きながら間は今後の事を語り始めた。その言葉を真剣な様子で聞きながら時々質問をする鴨川と、そんな二人の後をにこにこと笑いながら追いかけるユキ。3名の姿は雑踏の中に消えていった。

 

 

 

鉄拳

 

「拳に魂を込める、というのは言葉にすると簡単ですが実際は非常に難しい物です」

 

 パァン、と老人の左手が空を叩く。その音に鴨川は戦慄を覚えた。何かを叩いて音を出しているのならば簡単だ。だが、老人の拳は何も無い空間を叩いて音を出している。鞭がそんな現象を起こすのは見た事があるが、人間が拳でそれを起こした事が鴨川には信じられなかった。

 

 これ等は全身の筋肉や関節を用いて拳速を加速させる事により出来る様になる絶技だという。勿論習得するには多大な時間を修練に充てる必要がある。それだけの時間、この目の前の老人は武道に向き合って来たのだろう。

 

 彼の名はセバス・チャン。間の知り合いで、先日顔を合わせた派手なスーツの男の同僚だという。スーツの上からでも分かるほどに立派な体格を持つ初老の男性だ。

 

 先日、猫田の手術が成功した折に病院を訪れた際、間から彼と引き合わされた鴨川は、現在彼の指導を受けて肉体改造に励んでいる。鴨川が今までキチンとした指導者の元で学んで来なかった事による弊害、全体的な鍛え方の偏りを間が指摘した為だ。

 

 そして実際に彼から話を聞けば、これが確かに理に適っている事を鴨川は感じた。例えばコマを例にしてみても、片方に比重が傾いていればそのコマは直ぐに失速してバランスが崩れてしまう。人間の体も同じで、一つの部分だけを鍛えてもそれはそこが肥大化するだけで本当に力をつける事にはならないのだ。

 

「パンチを打つ時にどの筋肉がどのように動くかを意識した事はあるか? それ等の筋肉の効率的な鍛え方は?」

「……わかり、ません」

 

 セバスと鴨川のやり取りを聞いていた間の質問に、鴨川は答える事が出来なかった。だが、間は失望する様子もなく当然だと頷き、それが日本と世界との差でもあると語った。優秀な指導者と理論に則った体作り。基本のようだが、基本だからこそこの二つを疎かにすれば結果(選手の質)に明らかな差が出る。

 

 ならば、どうするか。それに対する間の答えがこのセバス・チャンという人物の紹介だった。鴨川は彼が勤めるAOG商会の現地雇用員として雇われ、午前は配送の運搬要員として、午後はセバスの指導を受けて肉体改造に。夜は只管に丸太に拳を打ち付けるという地獄の様な日々を過ごした。

 

 普通の人間ならば途中で折れるか体を壊してしまっただろう。だが、鴨川の鋼の様な意思はその地獄に耐え切り、間による適切な治療や食事全般のメニューの見直し、ユキの衣食住での細やかなサポート、そしてセバスによる技術指導が、鴨川の肉体の限界値を引き上げる。

 一月もしない内に、結果は現れた。

 

 

 

ドゴンッ!

 

 ハンマーで殴りつけた様な衝撃音が河原に響く。ユキが腰掛けた丸太が地面越しにその衝撃を彼女に伝えてくる。音と衝撃が止んだという事は、どうやら今日のノルマが終わったらしい。カバンを肩にかけて立ち上がり、荒い息を吐く鴨川へと歩み寄る。

 

「鴨川さん。お疲れ様でした」

「ああ、ふぅ、ありがとうユキさん」

 

 汗まみれになった鴨川にタオル(AOG商会の支給品らしい)を渡す。鴨川は体が冷えないように顔と上半身の汗を拭き取り、タオルを肩にかける。さて、ケアの開始だ。

 

 ユキは彼の両手のバンテージを外す。このバンテージは彼の勤める商会の商品で、通常の物よりかなり頑丈な布地で作られているらしい。鴨川の荒行は、普通のバンテージではたった数十分で擦り切れてしまうのだ。バンテージを外すと、浅黒く変色した彼の両拳が姿を表す。

 

「随分と色が変わりましたね」

「ああ。だが、まだまだだ。試合までに本物の鋼のように鍛え上げなきゃ、この拳も意味はねぇ」

 

 セバスに師事をしてから、必ず欠かさずにやっている事。それは拳の強度を上げる事だ。骨の強化の為、毎日の食事と会社から支給される健康食品で栄養を取り、拳を砂利を敷き詰めた箱に突き入れをしたりして皮膚を強くする。勿論終わった後は傷だらけになっている。

 

 こんな無茶がまかり通るのも、今ユキが自身の手に巻いてくれている緑色の包帯のお陰だろう。この包帯は凄まじい効果を持っている。販売元は鴨川も勤めているAOG商会なのだが、セバスによればこの包帯の常に湿った部分が傷を刺激し、人間の再生能力を限界以上に引き出してくれるのだそうだ。たったの一晩でこれ程の荒行の傷が消えるのだから、人間の持つ本来の力という物は大したものだ。

 

「さ、帰りましょう。セバスさんも出張から帰って来られるんですよね?」

「ああ。言われた本数を何とかギリギリ達成したが、やっぱあの人はすげぇや。俺の限界を見極めてたんだろうな」

 

 鴨川はポン、と自身が土手に埋め込んだ丸太に手をかける。鴨川の拳を打ち付け続けた丸太には、彼の拳の形に穿たれた痕がくっきりと残っている。もしも事情を知らない人間が見れば、歪な形のハンマーで殴りつけたと思うことだろう。

 

 完成した。彼は包帯に包まれた己の両手を見やり深く頷いた。体格差と技術力の差を覆す一撃必殺の拳、鉄拳が。後はこの一撃に耐えられる拳を己が作り上げるだけだ。

 

 勿論、相手を舐めるなんて心境はこれっぽっちもない。そもそも5階級は上の相手。リーチも技術もパワーも相手が圧倒的に上なのだ。相手を戦艦に例えるなら、自分はさながら戦艦にむけて両翼の爆弾を抱えて特攻する複葉機のような物だろう。あっという間にハチの巣にされても可笑しくはない。

 

 だが、そんなリスクはすでに覚悟の上だった。準備はした。心構えも。戦う理由だってある。

 

 ならば、戦るしかない。

 

 

 己が土手に打ち込んだ20本近い丸太を眺めながら、鴨川は戦意を高めた。既に自身が人類の限界に到達している事に彼はこの時まだ気付いては居なかった。




鴨川源二:出典・はじめの一歩
 本編時間軸では現在30歳位。デミえもんの「原作とは違う道筋を歩いた原作キャラのその後」という実験のために補佐を行われ、現在留学中。IF時空はそこから4~50年後でその間に世界チャンピオンになっている。

猫田銀八:出典・はじめの一歩
 鴨川のライバル。クロオの手術を受けて脳のダメージを抜き、悲劇からの劇的な復活というストーリー付きで現役復帰。世界的な人気ボクサーになる。鴨川とは数度世界タイトルをかけて争っており、彼らが現役の時代バンタム級は「日本人の庭」と呼ばれていた。

ユキさん:出典・はじめの一歩
 共同生活を送る代わりに病院で原爆症の治療を行っていた。コスモクリーナーによる放射能の除去とクロオによる変異した細胞の修復を行い、原作よりも長生きしたようだ。
なお鴨川の嫁に収まっており猫田は。

鈴木サトル、またの名をモモンガ:出典・オーバーロード?
 人間の姿で登場。次元統合という未曽有の危機に対して自身陣頭に立って立ち向かっている。骨の姿にもなれるらしいがご飯を食べる際に支障をきたすので人化姿が普段着代わりになっているらしい。

デミウルゴス、またの名をデミえもん:出典・オーバーロード
 モモンガが例えどのような姿でどのような思想を持っていても彼に対する忠誠は嘘偽りなくデミウルゴスの心に宿っている。クロオや鴨川に対するスタンスは興味深い駒。



オマケの感想

???「現地民に対する教導で新しいスキルやジョブが覚えられるかの実験。更に商会でしか作れない商品の宣伝と、現地民の英雄の囲い込みまで行える。一石何鳥なのかもわからない。流石はアイ、サトル様(びくんびくん)」

???「そういう意図じゃないとあれほど」
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