「お疲れ様です、相沢さん!」
その日、山上さんの付き添いで向かったレッスンルームの一角で、夕美ちゃんはいつものように俺に明るく声を掛けてきた。
「お疲れ夕美ちゃん。暑いから水分補給はこまめにね」
「はい、ありがとうございます!」
普段から夕美ちゃんが愛用している花柄の黄色いスポーツタオルで汗を拭う彼女のそんな仕草を遠巻きに見ながら、俺は山上さんの様子をそっと伺う。
悩んでいるような、それとも何やら企んでいるかのような……。ここ最近の山上さんの姿を思い浮かべながらその表情の裏を読み取ろうとするものの、その答えは至ってシンプルで、俺には分かりそうにない。その一言に尽きるのだった。
「それじゃあ、行ってきますね!」
「ああ、頑張れよ、夕美」
笑顔で夕美ちゃんを送り出す山上さん。明るいその声に見送られながらトレーナーさんの元へと向かう彼女の姿が少しぼやけて見えたのは、きっとレッスンの熱気で温まったこの部屋が見せた蜃気楼かなんかなんだろう。その時の俺はそうぼんやりと考えていたのであった。
「あ、こんなところでお会いするなんて、なんだか新鮮ですね!」
夕美ちゃんのレッスンを見学してから数日が経った日の午後、俺は346プロ内の食堂でとある少女に声を掛けられていた。
「慶ちゃん、お疲れ様。お昼休み?」
「はい、そうです!午前中にLIPPSの皆さんのレッスンに同行して、そして午後からは今度はニュージェネのレッスンに付き合います!」
「な、なかなかハードだね……」
この暑い中に良くそんな頑張るもんだ……。日替わり定食を持つ彼女のお盆の上にこれでもかというほど白米が盛られているのも納得のスケジュールである。
「相沢さんはこの後は?」
「俺?俺はこの後は5時間ほどひたすらに映像を見るだけの作業だよ」
「映像を見るだけ……想像するだけで背筋がゾッとしますっ」
「何、じっとしてるのは性に合わない?」
「はい、全くもってその通りですっ!」
そこで偉そうにされても。
「突っ立ってるのもあれだろ、空いてるから座りなよ」
「それじゃあお供させていただきますね」
「ああ、生憎と一人なものでね」
「……職場で一人で食事をするって、考えると結構ヤバいですよね」
「……気にしてることをそう直接言わないでくれ」
「あっ、これはすみません」
そう言いながら彼女は微塵にも罪悪感を感じさせない笑みを浮かべながら俺の前に座ってくる。
「ほら、美少女と二人で食事出来るんですからいいじゃないですか!」
「自分で言うかねそれ」
「……言った私も恥ずかしくなってきたので何とかしてください」
「それは俺の仕事じゃないだろう」
少し顔を赤く染めた彼女は照れ隠し故か顔程もある大きなエビフライに被り付いていた。なんか、美味しそうにご飯を食べる女性ってクるものがあるな。
「そういえば」
俺が新しい自分の世界への扉をノックしかけていたところに先ほど口いっぱいに食事を頬張っていたことが嘘だったかのように自然と慶ちゃんがこちらに話しかけてくる。
「どした?」
「先ほどの映像っていうのは、この前の奴ですか?」
「そうそう。この前鷺沢さんが出てた特番の奴ね。山上さんが最近忙しいからってんで俺に仕事を押し付けてきたのよ」
「あー、あれに出られたってことは文香ちゃんもそっち路線になっていくんですかねぇ」
「鷺沢さんに限ってそれはないだろう」
「でも、天下のマッスルキャッスルですよ!?」
「どういう心配だよ……」
まぁ、慶ちゃんの心配はあながち間違いではなかったりするのかもしれない……。俺は先週放送分の内容を思い返しながら鷺沢さんの今後を憂う。
それにしても前回は酷かったなぁ……。渋谷凛ちゃんのあんなに焦ってる声、初めて聞いたな。
「で、それ見て何するんですか?」
「ああ、鷺沢さんが喋ってるところのタイムコードだけ書き出して欲しいって」
「あぁ……ってことはまだ編集始まってすらいないんですね」
「そうなんだよね、本放送あと10日もないのに」
こういう会話をしていると最近業界に自分が少しずつ染まってきたなって感じさせられる。普段見ているテレビがこんなにかつかつのスケジュールで作られているなんて知らなかったしな。
「で、そのコードを見ながら改めて山上さんが確認すると……」
「そういうこと」
実際に編集するのはテレビ局の人だからこればっかりはこっちの都合のいいようにはならないんだろうけど、事務所的にNGなところはきっちり事前に伝えておこうということらしい。
それでも使っちゃう局もあるっちゃあるんだろうけど天下の346プロだからなぁ。テレビ局も安易に敵には回したくないだろう。
「そういえば、夕美ちゃんの件聞きました?」
「夕美ちゃんの件?」
慶ちゃんから出た名前で俺はふと先日のレッスン見学の件を思い出す。
「ええ、今度セカンドライブに出演するらしいじゃないですか」
「あー、らしいね」
菜々さんに聞いた情報だと、既に夕美ちゃんはデビューライブを終えているらしい。入所時期が近しい子数人とともに小さな小劇場に立ったらしい。
俺が初めて会ったときにあんなに緊張していたのはどうやら一人でステージに立つのが初めてだったからということだったみたいだ。
「それで、私も姉のサポートでレッスンに付くことになったんです」
「あれ、でももう準備とかは始まってるんじゃないの?」
俺がこの話を山上さんから聞いたのはもう10日以上前のことだ。曲の準備とかは既に終わっているもんじゃないのだろうか。今更新しくサポートに付くって付く方も大変なのでは……?
「今回はセトリが慌ただしいので私は主に出演アイドルの補助という形で舞台裏で支えることになるらしいです。レッスンに同行するのは姉が勉強のためにって私に気を遣ってくれたというか……」
「期待されてるんだな」
「そうだといいんですけどねぇ……」
「で、何か上手く行ってないことでもあったりすんの?」
こういう時何もできない自分が出来るのはせめて頑張っている人の愚痴を聞いてあげることぐらいだろう。
「いえ、別に困っていることは……。いや、あったりなかったりするかもしれません」
「随分歯切れが悪いね」
「すみません。何と言うか、姉から言われたことが分からなくて……」
「姉って言うと、麗さん?」
思い返すのはこの前初めて会った慶ちゃんの一番上のお姉さん。ストイックの具現化みたいなお姉さんだったけれど一体何を言われたんだろうか。
「いえ、麗お姉ちゃんは今回は他の仕事で忙しいみたいで、今回のライブのトレーナー主任は2番目のお姉ちゃんの聖お姉ちゃんです」
「あー、4姉妹みんなトレーナーとして346にいるんだっけ」
「はい、それで聖お姉ちゃんが……」
そう言って姉の名を口にする慶ちゃんの表情には困惑とも焦りとも何とも言えない表情が浮かんでいる。
「アイドルと向き合うなよって」
「アイドルと向き合うな……?」
一体どういうことなんだろうか。サポートとかってその人に向き合ってみて相手を理解することで成立するものじゃないのか?
「一体どういう意味なんだろうって分からないんです……」
これは慶ちゃんの表情も納得だ。正直全然ピンとこない。
「ごめん、それは俺も力にはなれそうにないなぁ。でも、その聖さんはベテランのトレーナーなんだろう?」
「はい、聖お姉ちゃんも麗お姉ちゃん程ではないですけど、346で長いことトレーナーをしてますので……」
「だったらきっとその言葉には意味があるはずなんだよ」
「ですかねぇ……」
こうしてお昼時の雑踏の中、俺と慶ちゃんは二人悶々と頭を悩ませることになるのだった。
「お疲れ様。山上君居るかい?」
慶ちゃんとの昼食を終えた後の午後、宣言通りPCに映し出される動画とひたすらににらめっこをしていた俺の元に、部屋の入り口から呑気な声が聞こえてきた。
「お疲れ様です。うちの山上なら今日はちょっと出ておりましてって……」
「あれ、この前のバイト君!えっと名前が確か……」
大きなカバンを小分けに背負い、その男性はうんうん小さく唸りながらこちらへと歩いてきた。
「相田君!」
「相沢です。お疲れ様です、吉田さん。熱海以来ですね」
「ああ、相沢君か。そうだね。熱海以来だ」
「山上さんはいないですけどせっかくなのでお茶ぐらい飲んでいってください」
「あーじゃあそうさせてもらおうかなぁ」
そう言いながら俺が吉田さんと呼んだ男性は部屋の一角にあるソファに腰を掛けた。
「山上さんに緊急の用事ですか?でしたら連絡入れますけど……」
「いや、急ぎって訳じゃないんだ。この前の写真が出来たからデータでも渡そうかと思ってね」
そう言って吉田さんは一本のUSBメモリを手元でプラプラと扱って見せた。
「あー、あの時の写真ですか」
そう、吉田さんは346プロ御用達のカメラマンだ。うちの事務所では写真集等を出版する機会が多く、その度にカメラマンを雇うのも予算の都合や手間がかかる等の理由でこうして贔屓のカメラマンが何人もいる。
吉田さんは山上さんがプロデューサーを始めてからすぐの知り合いらしく、所謂3課お抱えのカメラマンということらしい。
「もしかして仕事中だった?悪いね」
「いえ、ちょうど休憩でも入れようかと思っていたところなので」
俺は給湯室から2人分の麦茶を取り出すと一つを吉田さんの前に差し出す。
「もしあれでしたらUSBメモリ、俺から山上さんに渡しときましょうか?」
「あーそうしてくれると嬉しいな。明日から北海道なんだよね」
「また346の仕事ですか?」
「んーん。次は東郷寺」
「吉田さんも大概忙しい人ですね」
「腕がいいからね」
そう言ってニカッと笑う吉田さん。ちょっと軽そうだけど親しみやすい雰囲気に彼の人柄を感じる。年齢は40中盤だとこの前会ったときに言っていたけれど、俺もこういう歳の取り方をしていきたいものだ。
「じゃあ先に渡しとこうかな」
吉田さんから俺の手元に渡されたのは1本のUSBと複数枚の写真だった。
「データだけじゃないんですか?」
「ああ、相田君は知らないんだっけ。これが俺のやり方ってかこだわりなんだよね」
「相沢です。こだわり?」
「そそ。写真集ってさ、実際はデータじゃなくて一冊の本になるわけじゃない。そうなると実際に買ってくれた人は手に持って写真を眺める訳よ。そこに俺はディスプレイ越しに眺めるだけじゃ伝わらない何かがあるような気がしてさ」
「……なるほど。ん、この写真……」
そんな吉田さんから渡されたこだわりの写真を何の気なしにぺらぺらとめくっていると、雰囲気満載の高垣楓の間に一枚の写真が紛れていることに気づいた。
「これは……」
「いい写真だろう?まぁ、俺の気まぐれで適当にシャッターを切った奴なんだけどさ。せっかくだと思って」
そこに映っていたのは、白い砂浜で笑顔を浮かべる夕美ちゃんとそれを暖かく見守る菜々さんの写真だった。
「レンズを向けられているときのアイドルの表情も好きだけどさ、そういう素の表情も嫌いじゃないんだよね、俺」
「太陽、みたいですね」
「太陽かぁ……いい表現だな。相葉ちゃんだっけか。初めて撮ったけど確かに太陽みたいな子だったなぁ……彼女は立派なアイドルになるよ。俺の写真がそう言ってる」
流石プロのカメラマン。言うことがかっこいい。
「それで相田君、向日葵の花言葉って知ってるかい?」
「相沢です。確か、貴方だけを見つめる。でしたっけ?」
「それともう一つ。憧れ」
「……憧れ、ですか?」
「ああ、憧れだ。太陽と一緒に動く様はそれに憧れて終始追いかけているように見えるだろう?」
「言われてみればそうですね」
「花が好きな相葉ちゃんが、いつしか花が憧れる存在になる。そう俺は願っているよ」
「太陽のように、ですか」
なるほど、夕美ちゃんがステージの上、沢山のファンに囲まれて光り輝いている様はきっと花畑の上でキラキラと煌めく太陽のようなんだろうな。
「それじゃあ俺はそろそろお暇するよ」
「わかりました、確かにUSBメモリと写真は山上さんの方に渡しておきます」
「ああ、頼んだよ」
吉田さんが立ち上がると同時に俺も彼を見送るために席を立つ、その時だった。
重なった写真がばらけその中からまた一枚の写真が俺の目に留まる。
「これは……」
「ああ、その写真か……。名づけるなら、『偶像の囚われ人』」
「菜々さんの……写真ですか?」
そこに映るのは夕日の浜辺、どこまでも寂しそうな顔で沈みゆく夕日を眺める菜々さんだった。
「覚えておいてくれ、相沢君」
「だから相沢です、ってごめんなさい、合ってました。それで覚えるって……?」
吉田さんは小脇に抱えていた鞄を改めて背負いなおすと去り際にポツリと呟いた。
「憧れは、呪いに等しい。だから君がその呪いを解いてくれることを願っているよ」
吉田さんが部屋の扉の向こうへと姿を消した後も、俺はその場に立ち尽くしていた。
『呪い』。その言葉がどこまでも冷たく俺の心の中に沈み込んできたからだ。
「……もうちょっとさぁ」
どうして俺の周りの大人は、こうも回りくどい言い方を好むのだろうか。もっと分かりやすく言葉にしてくれてもいいのになぁ……。
俺の渾身の心の嘆きは、俺しかいない部屋に小さく響き渡ったのだった。
ということでお読みいただきありがとうございました。
今回も誤字脱字等気を付けてはおりますがもし見かけた方がいらっしゃいましたらご指摘いただけると幸いです。
それと、ご感想や評価等頂けると泣いて喜びますのでそちらも良かったらお願いいたします。
不定期更新ですが引き続きよろしくお願いいたします
アイドルは添えるだけ