「それじゃあこれが社員証ね。バイトって言ってるけど一応は契約社員って形で働いてもらうから。で、出勤したらまずは受付のこの機械でカードを通して。これで建物全体の人の出入りを管理してるから。その他にも従業員のタイムカードも一律でこの機械で管理してるから退社するときは必ず通すことを忘れないこと。お給料はきっちりこっちで管理してるから心配しないで。社内に居る時間と、俺についている時間はしっかり出るから。まぁ、例外はあるかもしれないけれどその時はその都度対応するね。うちの事務員さんたちみんな優秀だから多少のイレギュラーはしっかり対応してくれるさ
「は、はぁ……」
「ま、分かんないことがあったら何でも聞いてくれて構わないよ」
半ば成り行きで346プロでアルバイトをすることになって初めての出勤日を迎えた。服装が分からなかったため就活用のスーツを着込んできたら山上さんが苦笑いをしていたのを俺は忘れない。
そして今はこうして案内図がないと迷子になるレベルでデカいこの346プロダクションの建物の一階で俺は山上さんからの諸々の説明を受けているのだった。
「まぁ、言っても俺の雑用みたいなもんだからあんまり気負わないでくれ」
そう言って軽やかな笑顔を浮かべる山上さんなのだが、さっきからこの場を行き交う様々な人物から声を掛けられている辺り社内ではかなり名の知れた人なのではないだろうか。
「それで、今日は何をすればいいんでしょうか……」
「そうだなぁ……」
そう言って考え込む山上さん。いや、何も考えてなかったんかい。
「あら、おはようございます山上さん」
そんな時だった。喧騒の中でも透き通るような綺麗な声が山上さんの名前を呼んだ。
「お、楓ちゃん。おはよう。今日はレッスン?」
「いえ、今日はこの後は雑誌の撮影がありまして。時間までこちらのカフェでお茶でもと思った次第です」
そこに居たのはまるで絵画の世界から飛び出してきたかのような美麗。大人の色香漂うその姿は、芸能ミーハーな俺でもご存じの今を時めく人気アイドル、高垣楓その人だった。
「うお、高垣楓だ」
「楓さん、な。相沢君」
「す、すいません。高垣さん」
予想だにしない人物の登場で思わず素が出てしまう俺。これは山上さんにしっかりと咎められてしまった。以後気をつけねば。
「それで山上さん、こちらの方は?」
彼女が言葉を発するたびに耳がマイナスイオンを浴びているかのような錯覚に陥る。これがトップアイドルの魔力かっ!
「彼は相沢君だよ。今日から俺のサポートとしていろいろやってもらう。ほら」
山上さんが喋り終わると同時に俺の背中に彼の手がポンと当たる。
「相沢祐介です。きょ、今日からこちらでお世話になります。よろしくお願いします!」
恥ずかしい。こんな美人と話すのなんて人生でも片方の指でも足りるくらいしかないから思わずどもってしまった。
「高垣楓です。よろしくお願いしますね」
お、おお……。よろしくされてしまった。
「まぁ、楓ちゃんとは部署が違うしあんまり絡みはないかもしれないけれど俺の可愛い後輩だからよろしく頼むよ」
「はい、かしこまりました」
そしてかしこまられてしまった。それにしても山上さんとは部署が違うのかぁ……。運がいいのか悪いのか。どちらかというと残念な気持ちの方が大きい。
「それでは私はこれで失礼いたしますね」
「ああ、撮影だっけか。上手くいくことを願っているよ」
「当然、上手く行かせますよ。撮影だけにすカット行きますように。なんて」
この人の親父ギャグ好きはテレビ用のキャラ付けじゃなく普段からなのか……。
「それでは」
「ああ」
「お、お疲れ様ですっ!」
過ぎ去っていく彼女に向けて俺は慌てて言葉をかけた。
「……相沢君、そんなんだと今から疲れるぞ」
「と言いますと?」
高垣さんが去った後、未だに夢か現実か定かでない俺に山上さんが何かを察したかのような声を掛ける。
「確かに楓ちゃんは346でもトップクラスの売れっ子アイドルだが、彼女ぐらいの美貌の持ち主はこの事務所には事欠かないからな。そんなんでいちいちドギマギしてたら持たないぞ」
「うぐっ」
なるほど、確かに痛いところをつかれた。
「でも、日常生活であんな美人と面と向かって話すことなんてありませんでしたし……。そこは大目に見てもらえるとありがたいです」
「ま、俺も最初は似たようなもんだったから気持ちは分からなくはないけれどね。追々慣れていってくれとしか言いようがないな」
残念ながらこの件についての先達から有力なアドバイスは聞けそうになさそうだ。
「それでここが会議室な。全部で20か所あるから会議室で何かある時は場所を間違わないように気を付けてくれ」
その後、俺は山上さんに建物内の主要な施設を案内してもらいつつ山上さんが普段働いているオフィスを目指すこととなった。
「20って……そんなにあるんですか」
「まぁな。で、ここが俺の普段働いているオフィスだ」
気づけば歩いてきた建物内も上へ奥へと進んでおり、いつの間にか俺たちの目の前には何やら広々とした部屋に続く扉が現れている。
「やっと到着だ。ここが346プロダクションアイドル部門第3営業課。第3とか、3課って言われたときは基本的にここのことを指すから気を付けてくれ。それじゃあ中へどうぞ」
ガチャリ、とこ気味のいい音が響き扉が開くと共に俺の目の前にはよくある学校の教室二つ分をくっつけたぐらいのスペースの部屋が現れた。所狭しと並べられた机の数々と乱雑に本やファイルなどが立てられている大型の本棚、そして傍らにはソファーと机、正面にテレビという簡素な休憩スペースが作られている。ん、奥の方にあるのはあれは給湯室か?
「ようこそ。ここが今日からの君の職場だ。出勤したらまず特に指示がなければここに来てくれ」
「は、はぁ……。それにしても何と言うか……」
「うん、君の言いたいことは非常にわかる」
そうなのだ、何と言うかこの部屋……全体的に雑然としている。いや、あの机の上に置かれたタレント名鑑のアンバランスさよ。あと、散らかってる書類そのままなのはどうかと……。
「ということで君に最初にやってもらう今日の仕事はこれだ」
「これってまさか……」
「ああ、この部屋を整理してもらう」
「……さいですか」
改めて辺りを見回すが何と言うか、素人目に扱ってもいい物かどうかためらってしまうような書類も見受けられるのですが……。
「いやぁ助かるよ。廊下やロビーなんかの共用スペースは清掃の業者さんが居るんだけどねぇ。こういう重要書類があるような場所は業者さん入れてないのよ。だから非常に助かる」
「これ、一人でやれということですか?」
何度辺りを見回しても部屋の広さが小さくなるというサイキックな現象が起こる訳もなく、この先の出来事が容易に想像できて気が沈んで行きそうになる。
「あーそうだね。ファイルや本なんかは一応棚に何が仕舞ってあるかの付箋が貼られてるからそれを基準に入れていってくれるとありがたい。書類なんかは右上の日付基準で今日より1か月前のものはシュレッダーにかけちゃって。それ以外で判断に困るものは……あ、そうだ。困ったら菜々ちゃんに聞いちゃって」
「な、ナナちゃん……?」
「菜々ちゃんー!」
山上さんが大声で名前を呼ぶと同時に先ほど目に付いた恐らく給湯室だろうスペースから何やら謎の二本の耳が飛び出してきた。
「うおっ、宇宙人!?」
「はいはいー山上さんお呼びですかー菜々ですよー」
そして姿を現したのは頭に2本のウサミミを生やした謎のメイド服の美少女。
「何でしょう。山上さん」
「っと、その前に紹介しよう。こちら、今日からここで俺のサポートについてくれる大学生の相沢君。相沢君、こっちが菜々ちゃん。3課のヌシだから困ったことがあったら何でも菜々ちゃんに聞いちゃって」
「は、初めまして、相沢です」
「いや、ヌシって!んんっ、初めまして!ウサミン星からやってきたウサミミメイドのウサミンこと安部菜々です!」
「よ、よろしくお願いいたします……」
また随分濃いのが……。
「んもう、堅苦しいですよ。菜々の方が年下なんだからもっと砕けちゃってください」
ま、まじか……この人年下なのか?何やら得体のしれない母性を感じたからてっきり年上なのかと……。
「因みに菜々ちゃんは永遠の17歳だ」
「んもうっ!なんで余計なこと言うんですか山上さん」
……なるほど、そういうキャラだった訳ですかぇ。
「それじゃあ俺は行くから」
そう言って恐らく自分のデスクであろう机からいくつかの書類をカバンへと詰め込む山上さん。
「あれ、山上さんはどっか行くんですか?」
「ああ、相沢君には言ってなかったか。ごめんな、この後夕美のレッスンと撮影が入ってるんだ。それの付き添いに行かなきゃいけないから」
「夕美ちゃんのですか?」
「ああ、夕美、屋外での撮影は初めてだろうから付き添ってあげなきゃかわいそうだろ」
「なるほど……」
「じゃあ行ってくるな」
「はい、お気をつけて」
部屋を出ていく山上さんを見送るとその場に残されるのはしがない学生バイトと謎のウサミン星人。
「あ、あの……。俺、この部屋の掃除を任された訳なんですけど……」
とりあえずこの場を何とかしようとウサミン星人こと安部さんへと声を掛ける。うん、絶対にこの人年下じゃねぇ。
「はい、相沢さんだけじゃ大変だろうからナナもお部屋の掃除手伝いますよ!そのうちやろうと思っていたのでちょうどよかったです!」
「それじゃあ捨てちゃいけない書類だけ教えてもらってもいいですか?」
「ナナで分かる範囲でよければ。分からないものは……山上さんのデスクに放り出しちゃいましょう!」
そう言って悪戯っぽく笑う菜々さんの笑顔に思わずドギマギしてしまう俺。朝の高垣さんの件と言い役得なのか厄日なのか分かりにくい一日だ。
それにしても俺は一つだけどうしても安部さんに聞いておきたいことがあった。
「あの、安部さん……」
そう言って机の上の書類を一枚一枚丁寧に確認している安部さんへと声を掛ける。
「菜々でいいですよ。みんなそう呼んでくれるので。それに、相沢さんにはこれからお世話になりますからね!」
「じゃ、じゃあ菜々さん」
「さん付けはやめてはくれないんですね……」
菜々さんは悟ったような視線を窓の外へと振っている。今まで似たようなことがたくさんあったんだろうなぁ……。
「俺も相沢君でも相沢でも好きなように呼んでください」
「じゃあ祐介君」
「えっ」
突然下の名前で呼ばれる俺。女性にそんな風に呼ばれる事って最近あったっけな……。止めよう、思い出してて悲しくなる。
「祐介君がさん付けを止めないならナナもそう呼んじゃいます」
年上に対して失礼を働くことは俺のプライドが許さないというか人としてどうかと思うのでその要望だけは受けられない。大人しくここは下の名前で呼ばれることにするとしよう。
「それで、なんか聞きたいことがあったんですよね、なんなんですか?」
そういえばさっきの下りのせいで忘れかけていた。
「えっと、菜々さんはその……346のアイドルなんですか?」
これだけ可愛いしキャラも濃いんだから今更な質問だっただろうか。
「あー」
俺の質問を聞いたナナさんは一瞬だけ視線をまたどこかへと飛ばしている。なんか不味いことでも聞いちゃったか?
「バレちゃいました!?何を隠そうこの私は歌って踊れる声優アイドル、ウサミン星から来たウサミン星人、ウサミンこと安部菜々なのです痛いっ!」
バシッとキメポーズを決めようとして右手を大きく机にぶつけるウサミン。
「こ、この部屋の狭さを忘れてました……。いててぇ……」
「だ、大丈夫ですか?」
「こんなの慣れっこなので」
バラドルかなんかなんですかね。この前この事務所の輿水ちゃんがスカイダイビングしてたのはテレビで見たけど……。
「それよりも、時間もあれなので部屋の掃除続けちゃいますか!私が手をぶつけたのだって元はと言えばこの部屋が狭いのが悪いんです!」
「そ、そうですね」
その後俺は菜々さんと協力して一日中部屋の掃除に勤しむのだった。それよりも菜々さん仕事とか大丈夫なんだろうか……。
午前10時過ぎから始まった第3営業課の部屋の掃除は途中簡単なお昼休憩を挟んで結局夕方までかかった。
4時過ぎに戻ってきた山上さんの一言で今日はここまでということになり、今はこうして346プロ内の休憩スペースで缶ジュース片手に労働後の自分へのご褒美タイムを味わっているという訳だ。
「あ、相沢さん!」
そんな俺の元に声を掛けてきたのはTシャツ姿の黒髪美少女。
「あ、慶ちゃん。お疲れさま」
「け、慶ちゃん……」
彼女は青木慶ちゃん。この346でアイドルのトレーナー見習いとしてお姉さんの元で勉強をしているらしい。思えば彼女の一言があったおかげで今俺はこうしてここに居るのかもしれない。
「レッスン終わり?」
「はい!今日はニュージェネの3人と一緒だったんです」
ニュージェネレーション。ここ1年ぐらいで一気に知名度が上がった高校生ユニットだな。アイドルに詳しくない俺ですらテレビで何度も彼女たちのパフォーマンスを目にしている。
「すごいな。有名人と一緒じゃん」
「何を今更なこと言ってるんですか」
「確かにそりゃそうか」
俺の発言に苦笑いを浮かべながらさりげなく隣に腰かけてくる彼女。レッスン終わりのケアだろうか。仄かに香る制汗剤の匂いが何と言うか、心臓の鼓動を若干早めてくるから俺の精神衛生上によろしくない。
「頑張ってるんだな」
「まぁ、夢ですから」
こうして彼女と面と向かってしっかり話すのは初めてだな。この前の夕美ちゃんの時はしっかり言葉を交わすなんてなかったし。
「夢……かぁ」
最近いろんなところで聞くことが増えたし、それについて考える機会も増えた気がするなぁ。
「おっ、こんなところに居たのか」
俺が彼女の言葉に想いを馳せようとしていたところにふと聞き慣れた声が聞こえてくる。
「あ、山上さんお疲れ様です!」
「お疲れ相沢君。っと、慶ちゃんも居たのね」
「あ、はい!お疲れ様です。姉にこの前の話をしたら後で言いたいことがあるって言ってましたけど……」
「げ、麗ちゃん?」
「はい、麗お姉ちゃんです」
「勘弁してくれ……」
おお……なんだかんだ俺の中で評価が高い山上さんの意外な弱点だ。覚えておこう。
「それで、山上さんはどうしてここに?」
「ああ、忘れるところだった。相沢君はもう夏休みだろ?」
「ええ、そうですけど……」
「私もそれ聞いた方が良いです?」
俺と山上さんのやり取りの横で何やら慶ちゃんが不安そうな表情を浮かべている。
「もちろん、慶ちゃんについては聖ちゃんに確認取ってるよ」
「うげ……。で私は何をすれば」
慶ちゃんの言葉に山上さんは満足そうに頷くと懐から2枚の紙を取り出した。
「よし、それじゃあ三日分の泊りの準備をして二人とも明日同じ時間に3課の部屋に集合だ」
「「は?」」
俺と慶ちゃんの声が重なる。当然だ。事情が全く呑み込めない。
「熱海に行くぞ」
「「ええっ!?」」
こうして俺と慶ちゃんの波乱の熱海編が始まるのだった……。いや、本当にどういうこと。
ということでお読みいただきありがとうございました。
今回も誤字脱字等気を付けてはおりますがもし見かけた方がいらっしゃいましたらご指摘いただけると幸いです。
それと、ご感想や評価等頂けると泣いて喜びますのでそちらも良かったらお願いいたします。
不定期更新ですが引き続きよろしくお願いいたします。