遠野秋葉が過ごしたある一夜の話。
自サイトで掲載していた作品ですが、ジオシティーズのサービス終了にともないこちらに移行させて頂きます。
テーブルのうえのバスケットを指でなぞりながら、やがて辿り着いた林檎をもてあそんだ。
真っ赤な林檎の表面は、あやしい光沢をまとって何か別のもののように見えた。顔を近づけてじっと見つめるが、私を映すにはいたらないようだった。どうやら鏡ではなかったらしい。しばらくいじっていたが、やがて飽きて、私は林檎を手放した。
次に手にしたのはブランデーの注がれたグラスだった。手の平の上でくるりくるりを傾け、内側を琥珀な液体で撫で回す。そしてやがて飲み下す。薫りたつ、アルコール。
悲哀にも似たものを体に巡らしながら、けれども酔いは一向に回らない。ただアルコールが、つんと目に染みた。
「秋葉さま、もうその辺りでおやめになった方が」
脇に控えている翡翠がたしなめるようにいった。
私は無言でグラスをテーブルに置き、洗面所で顔を洗い火照った顔を少しだけ冷やした。
翡翠が差し出した水を喉に流し込み、もう一度イスに深く腰掛けた。時計を見ると、針はさっきから全く動いていないように見える。時はのろのろのろのろと、たゆたって、まとわりついて、不快だ。
不安が、私を押しつぶそうと重くのしかかってくる。
そのせいか、アルコールに毒されているわけではなかったけれど、無性に酔いたいという思いが次から次から湧いてきた。しかし翡翠のいうとおり私は飲みすぎだ。だが何かに溺れるという以外の逃避が、私には残されているのだろうか。
我慢しよう、そう決めて手をテーブルから膝の上に移したが、すぐに時間の重さに耐えられなくなってきた。
自分の意志の弱さに対する憂鬱さと心地よい妥協に流されながら、もう一度ビンを傾けようとしたそのとき、不意に時南朱鷺恵が居間へと戻ってきた。まぶたをふせて挨拶を一つ。いつもは柔和な表情は固く、彼女はソファーに腰を下ろした。私は持っていたビンを多少の未練とともにテーブルに置いた。
「秋葉さん、ちょっと飲みすぎじゃないかしら? 医者として、年上の女性として、深夜の飲酒はあまりお勧めしないけれど」
表情は相変わらず固いが、それでも口調はいつものものに近い。
彼女の、疲労が漂う顔色をあまり視界に入れたくなくて、私はテーブルに目を落とした。
「私も、いま止めようとおもっていたところです」
「うん、まぁ。気持ちはわからないでもない。かな?」
いって、彼女はテーブルのグラスを指さしウィンクをした。
意味を察して、私は翡翠にグラスをもう一つ準備させ、それにブランデーをなみなみと注ぎ込んだ。
「こういうときくらい誰だって酔いたくなるもの」
ストレートをものともせず、朱鷺恵はグラスをさしたる時間もかけずに飲み干していく。彼女はすぐに顔を赤くしたが、すぐにアルコールがそうして顔にでる体質のようでさほど酔ってはいないようだった。
「おいしいなぁ。だからこそ、やっぱり深夜のお酒はダメね」
太っちゃうものね、クスクスと力なく笑う。白い指でグラスをもてあそびながら、やけに鮮明な赤い舌でグラスの縁をペロリと舐めた。
時南朱鷺恵は医者になっていた。もともとなりたいと思っていたかどうかは私には判然としないが、宗玄に勧められたから、というわけではないようだ。彼女は自分の意志で医療に携わることを選び、ここにいる。その意志を固めたものは、なんとなく私にも想像がついた。
ふぅとアルコールが混じった溜め息を吐いて、時南朱鷺恵はソファーに深くもたれて目をつむった。
いつから髪を伸ばし始めたのか、成熟した彼女の造形に隙はなく、憂いをまとって酒をたしなむ様子はどこか妖艶なものを感じる。
「秋葉さん、医者として、あなたに」
「ええ」
朱鷺恵は目をつむったままだ。目を開けてままではいえないということなのか。
「ごめんなさい」
私は両手を組んだ。手が勝手に動いて、酒を注いでしまいそうだったからだ。
この胸に去来するものは何なのか。響き続ける鈍痛を、にじみ続ける鋭利な感覚を私はうまくとらえることができない。冷静に受け止めること。冷静でいること。私は冷静でいるべきだった。そう自分にいい続けた。
朱鷺恵は静かに自嘲する。私はなんとか冷静を取り戻していた。
「ほんのさっき、私の役目は全部終わっちゃった。もうなにもやる事は残っていない。いま私、すごい無力感に包まれているの。全然ちっぽけで、全然役立たずな私。まっすぐこの道を歩いてきたけれど、いまになって少しだけ後悔しているかもしれない。どうして医者になんかなったのかな。こんな気持ちになるために一生懸命になったんじゃないのに。もっと、もっと何かをしたいと思ったからなのに」
静かに目をつむった彼女を私は見ていると、乱れた心が拠り所を見つけた気がした。
頭のどこかで湧きあがってくるかすかな親近感を、私は自己嫌悪とともに抑えこんだ。
酔っちゃったのかな、朱鷺恵は眠たそうにいった。私は翡翠に水を用意させようとしたが朱鷺恵はそれを拒んだ。私は感謝と、いくばくかの同情を含んでいった。
「あなたは最後まで責任を果たしてくれました」
「ううん。今日、この家に来るのどんなに迷ったか、秋葉さんはわかってない。本当に迷ったんだから」
「それでも、来てくれました」
「ねえ、私が渡したお父さんの手紙、なんて書いてあったの?」
彼女がこの家を訪れた時、父親である時南宗玄からの手紙をたずさえていた。
茶封筒の中に封印された手紙には、どんな思いが綴られているかわからない。私が踏み込んでいい領域ではなかった。
「まだ封も開けてません。私が最初に見るべきものじゃないもの」
「そう、なんだかすごい気になって。今日だってきっとお父さんが一番来たかったと思うもの。でも朱鷺恵が行くべきだ、って追い出すように」
「朱鷺恵さん」
なに? と朱鷺恵は眠たそうに薄く目を開けた。私は聞いた。
「朱鷺恵さん、兄さんとなにを話したんですか?」
「なにを、って」
後ろめたい、そんな気持ちを彼女は隠す事が出来ずに顔に浮かべていた。
「いいたくなければそれでいいです」
「ううん、違うの。私、なにもいえなかったから」
溜め息。朱鷺恵は両手で顔を覆って、その姿は懺悔に似ていた。
「志貴くんは私に気を遣って極力いつも通りにしてくれたんだけど、肝心の私が普段どおりにできなくて。泣くのだけはなんとかこらえたんだけど、医者の仕事なんて結局なにもしなかった」
「兄さんらしいわ」
「志貴くん、私にありがとうっていったの。私、感謝なんて聞きたくなかった。ありがとうっていって欲しかったはずなのに。うん、ちゃんと元気になって言って欲しかった」
「私も、あなたに感謝をしています」
「やめて。お酒を飲まずにはいられなくなるから」
力なく笑う。言葉とは裏腹に朱鷺恵は酒を飲みたいという素振りを見せなかった。
そのまましばらくの間、静かに時間が過ぎた。私の向かいで座っている朱鷺恵は、うつむき視線を膝の上へと落としている。私は天井や虚空をながめながら考えをまとめた。寝てしまったように見えたのか、翡翠がどこからか持ってきた毛布を手にして朱鷺恵の体にかけようとした。
「いいのよ翡翠ちゃん、起きてるから。大丈夫、全然酔ってないしふらついてもいない。家までの道も覚えているしちゃんとひとりで歩いて帰れるから」
時南朱鷺恵はいまだ目をつむったままだ。不意に、彼女のまぶたがふるりと震え、抑え切れなかったものが溢れるように涙が頬を伝った。
「ごめんなさい秋葉さん。あなたが一番つらいはずなのに。私が涙をこぼす権利なんてないのに」
「いえ」
「さっきもいったけれど、私の役目は全部終わりました。もうどうにも出来ない所まで来てしまった。詳しい事は全部琥珀ちゃんに伝えてありますから」
全部終わった。どうにも出来ない所。琥珀。朱鷺恵の言葉を頭の中で反芻する。
不意に彼女は立ち上がると、眠りから醒めたばかりのように伸びをした。はぁと気を抜いた吐息はほのかにアルコールが薫る。
「あーあ、なんでお医者なんかになったんだろ」
何かを言いかけて私は口をつぐんだ。お互いかける言葉も、言葉をかけられる必要もない。強さも弱さもいらず、現実を認めることだけにつとめればいい。
「帰ります。お父さんにちゃんと報告しなきゃ」
「では車で送らせましょう」
「いいえ、大丈夫。歩いて帰るから。星を見ながら、行きたいの」
「そうですか」
「さようなら」
その別れの言葉は、私に対してのものではないだろう。誰に向けた言葉か深く考える必要もなかったが、私はその思考を曖昧のままに終わらせた。本人にいわないサヨナラと同じくらい、それに意味はないからだ。
十時をまわった頃、乾有彦とシエルが訪ねてきた。
私は立ち上がりもせず、翡翠に部屋へと案内させた。
二人で来たと翡翠はいうが、理由を私は束の間考えた。大したことではない。道の途中で一緒にでもなったのだろう。もしかしたらシエルの方が一緒に行こうとでも誘ったのかもしれないが、やはり偶然に出会ったという気がした。
シエル。
ひどく脳裏に焼きついた名前だ。私は彼女が嫌いなのだ。偽善者など、焼かれればいい。私はなぜ彼女を、巨大に広がった遠野の力を使ってまで彼女を呼んだのだろうか。なぜなのだろうか。なぜよくおもってないこんな人間に。
酩酊した意識下で、愚問が後から後から尾を引いてくるくる回る。
ひとしきり悩んでいると、乾有彦が居間へと姿を現した。
五分くらいかと思ったが、時計を見ると三十分も過ぎている。やはり、私は酔っている。有彦は学生の頃の赤い髪もそのままに、きっちりとダークスーツに身を包んでいた。
滑稽であるが、だからこそ似合っているとも思った。
「や。秋葉ちゃん久しぶり。つーかもう秋葉ちゃんて変だな。なんていうか、すっげー大人っぽくなっちゃったから、秋葉さんとか、秋葉さまって感じだ」
「お久しぶりです。名前は、お好きなように呼んで頂いてかまいません」
「その固いのは相変わらずか」
カカカと彼は笑った。
乾有彦と最後に会ったのがいつなのか、はっきりとは覚えていないが、特に変わったところはないように見える。
志貴とは親友であったのはよくわかったし、一時ではあれ先輩と後輩にもなったわけだから何度か話したことはある。髪の赤い、志貴の友人というのが第一印象でそれは今でも変わらない。
彼はブランデーのビンを手にとると、テーブルの上に腰掛けて手先で器用にもてあそび始めた。明らかにマナーがなってなかったが私は特に何もいわなかった。
「遠野、痩せたな」
暗い声だった。
「いつごろからあんな風になっちまったんだ?」
「ここ最近になって、急にです。気付くとベッドから立つことも出来なくなっていました」
「ま、人間いつかは死ぬもんだけどさ」
体の不調を訴えたのはおおよそ二ヶ月前だった。その一週間後には8キロも痩せ、二週間後には立てなくなった。
原因は全くの不明で、時南に看せたがどうにもならず、入院以外のあらゆる手段を講じたが回復の兆しすら見えなかった。食事も三日前からほとんど摂れなくなった。
結局、床に伏した原因は最後までわからないままになろうとしている。
だがもはやどうでもよかった。やはり、人間いつかは死ぬ。ただあまりにも急すぎるのだ。
「いまはシエル先輩が話しているよ」
「彼女はなにをいってました?」
「いや知らない。俺が話し終わるまでずっと部屋の外で待ってたんだ。誘ったんだけど二人の邪魔をしたくないって。順番順番、なんて明るく振舞ってたけどさ」
乾有彦はいいながら、片手でぶら下げていたブランデーを、そのまま一気にあおり始めた。
三分の一ほど残っていた中身がみるみる内に彼の喉へと流れ込んでいく。飲み干した後も、彼はしばらく物足りなさそうにビンを見つめていた。
「あいつが、死ぬのか。なんとなく長生きしそうなキャラじゃないっていうのはわかってたけどよ。ちょっといきなりすぎてビックリしたよ」
「乾先輩、兄さんと何を話したんですか?」
「さっきからえらく気にしてるよな、秋葉ちゃん」
乾有彦は怪訝な顔をしたが、すぐに表情を崩した。そして特に大した事でもないというようにいった。
「クソ適当な話だった。昔の笑い話とか、さ。高校のときの話なんかいますると、もう傑作」
「そうですか。お二人はとても親しい友人だったから」
私がそういうと、彼はとても嫌そうに顔をしかめた。
「うげ、親しいなんてもんじゃないって。ただの腐れ縁。おたがいそう思ってるよ。だから別に感動的でも感傷的でもない別れだった」
感動的な別れではない。感傷的でもない。下校するときや、遊び終わった時などの別れと特に変わらない雰囲気で話したのか。そこには温かさも冷たさも希望も絶望もなく、淡々いいたいことをいう、何の疑問も不安もない別れがあったのか。
「腐れ縁、何気なくいえることを私はうらやましいと思う」
「ああ。ま、今生の別れにしちゃあっさりだったけど、それもらしくていいと思った。いまわの際にあんな顔ができるんだ。遠野は幸せに逝けると思う」
「はい」
「わり、ちょっと無神経だった」
「気にしません。今さら事実を否定しても仕方がないことですし」
「秋葉ちゃんを、俺は強いと思うぜ。でも無理はしない方がいいとも思う」
「無理なことも全部受け止めようと、気付いたときから決めてます」
「そっか」
懐から煙草を取り出し、ジッポで火を付けようとしたところで、彼は私に是非を求めるように視線を向けてきた。私は黙って頷いた。
喉にこもる紫煙の匂いが、いつもの居間を見慣れない部屋へと変えた。
「あとさ、弓塚の話もした」
「弓塚さつき」
「ああ。彼女はどっちにいるだろう、彼女のいる方に俺は行きたい、なんてナイーブなこといってたもんだから一発はたいてやった」
弓塚さつきという人物を、私は直接見たことはない。通り魔事件のときの被害者であり、志貴とも何か関係があったらしいのだが詳しいことは何も聞いていない。一度だけ彼女の名前を口にした時の遠野志貴の顔を、私は一生忘れることはないだろう。
どっちにいるのだろう、すでに悟ってしまった兄の気持ちを、私は推し量ることさえ出来ない。
口に咥えた煙草の先端から零れ落ちていく灰を、いつの間にそばにいたのか翡翠が灰皿で受け止めていた。
「あ、わりィね翡翠ちゃん。よいしょと」
半ばまで残っている吸い殻を、受け取った灰皿に押し付けながら彼はいった。
「帰るわ。やっぱどうにも、たまらんらしい」
じゃね秋葉ちゃん。最後はやはり軽薄な雰囲気をまとい、乾有彦は出口へとむかった。
後には煙草の匂いだけがわずかに残った。
彼女が部屋に入ってきたのは乾有彦が立ち去ってから、やはり三十分といったところだった。
赤いスカートが目に映える。シエルの普段着姿を見たのが初めてということに、なぜだか驚きを感じた。
青い髪、以前より伸びているその髪が不死ではないということを象徴していることが私にはわかっていた。不死であることを憎んで死ぬことを望んだ彼女は、まだ生きてここに来た。
眼鏡のレンズの奥には乾いた光がある。
「お久しぶりです秋葉さん。何年ぶりになるんでしょうか」
「さあ。そんなこと、私が覚えているとでも?」
何年経とうとも、シエルに対する棘はなくならないのかもしれない。理由もない私の悪態に、シエルは別に構わないといった風に乾いた微笑を見せた。
「ありがとうをいいたいです。知らせてくれて、本当に」
「あなたと違って私は人間ですから。礼儀も情けも持っているんです」
言いすぎであるという自覚はあるのだが、いまさら口は止まりそうもない。シエルは微笑んでいる。
そのまま何も話さないで帰れ、と思った。
彼女を前にした私の口は悪態を吐くことしか出来なくなる。自分の醜さをさらしている気がして、だから私は貴方が嫌いなのだと内心毒づいた。
私は椅子を勧めた。立ったままでいられるのは落ち着かない、と吐き捨てるようにいいながら。流石に、翡翠がシエルに紅茶を注ごうとするのを邪魔するのだけは耐えた。
注ぎ終えたカップに口をつけ、時間をかけて飲んでいる。
私は、妙に取り乱している自分に戸惑いながら、私ももらえるかしら、と翡翠をうながした。
左手でソーサーを持って右手でカップを持ち、私は紅茶を味わったが美味しさも香りの豊かさもなにもわからなかった。周りが、ひどく静かで落ち着かなかった。時計の針の音が恋しく思えるほど、居間は寂しさに包まれてしまった。
何か話すことはないの、言おうとしたが私は口を閉じた。たった今まで話さないでいてほしいと思っていたのに、なんて身勝手なのだろうか。
ふと正面を見るとシエルの瞳がまっすぐに私に向いていた。その視線も、瞳の色も、考えていることの何もかもが、気に入らない。
私は睨み返した。
シエルは今度は笑わず無表情にただじっと私を見ている。
一種の我慢比べだった。お互いが目をそらすことを耐えた。負けたくなかった。深いブルーを私は一心不乱に見つめ続けた。
先に目をそらしたのは私だった。
紅茶を飲んだ。負けたという自覚は屈辱に近かった。
誤魔化すように再び紅茶に口をつけた私の後に、シエルもダージリンを口にした。負けた。掛け金を払わなければならない。
「あれから何をしていたのです?」
シエルはさらに一口飲んだあとに、溜め息とともに答えた。
「日本と欧州を中心におしごとを。特に大きな怪我もしなかったのは幸いでした」
「行ったり来たりしていたの? この街で貴方の気配を感じたことはなかったはず」
「ええ、ここは避けてましたから」
彼女はこの街、遠野家を避けていたという。私に会いたくなかったのではと思うことは、自惚れもはなはだしい。
シエルもまた、遠野志貴という人間に惹かれた女だった。
「なぜ兄さんを避けていたのです? 嫌われることでもしたのかしら?」
「はい、とってもたくさん」
そう言って微笑む。
いい加減、その乾いた笑い方をやめないと追い出すわよ。喉の辺りで私は台詞を止めた。
「でも違うんですよ。遠野くんに会うことが怖いんじゃないんです。あの人やさしいからなんでも許しちゃうでしょ? 許されるのが怖いんです。安心しちゃう自分が怖かった」
「なぜ?」
「だって私は戦う側だから。安心したらダメなんですよ」
シエルは乾いている。なにもかもが乾いていた。
「人間なんてとっても自分勝手で、たまに嫌になっちゃうこととか、ないですか? 私は不死身の時は死にたいとか言っていたのに、今じゃ死にたくなくて必死に戦ってるんです。はぁ、本当に身勝手でやんなっちゃいます」
「その身勝手を、兄さんに謝ったのね?」
「あれ? よくわかりましたね。ええそしたら遠野くんなんて言ったと思います?」
「怒ったんでしょう?」
「正解」
私とシエル、二人がこうしてクスクスと笑う様子はどこかがおかしくて、どこかが歪だった。
そう感じることができるのは私たちが多少なりとも変わったからかもしれない。
「遠野くんはキレイすぎるんです。自分の汚れを知っている人間にはそれが眩しすぎて隣にいるのは、少しつらい」
シエルの気持ちを私はうまく理解することが出来ない。けれど彼女の感情を私は汚いとも醜いとも思わなかった。
「兄さんは、鈍感だから」
「ほんとにもう、罪深い人ですよねぇ。でも、最後に会うことが出来て本当によかった。もう一度いいます。ありがとうございます。だって遠野志貴の中に私が残っていることを確かめることができたから」
「私の中にだって」
「え?」
「なんでもありません」
シエルの笑い声がしばらくの間ひびきわたった。彼女は本当に嬉しそうに笑い続けた。
逆に私は彼女が笑うたびに恥ずかしく、うつむいてしまう。ただ嫌な気分にだけはならなかった。
シエルは眼鏡を外して、取り出したハンカチで涙を拭った。嫌な気分にならないのは彼女が心のそこから喜んでくれているからだと、私は思った。
そしてまた、二人の間を静けさが漂い始めた。もう見詰め合うことはしなかった。どちらが話の口火を切るかを賭けるなんて間抜けな勝負、しなくても話したければ話す。
けれどそのまま時間は過ぎていった。お互い沈黙を守り、それが破られたのはおもむろにシエルが立ち上がったときだった。
「おいとまします。お元気で、神のご加護を」
ええ、とだけ私は返した。すっかりぬるくなったダージリンの最後の一滴を喉に流し込む間にシエルは消えていた。翡翠が無表情にシエルの使ったカップとソーサーを下げていく。
「あなたも、元気でね」
もはやしがらみは微かなものでしかなかった。
シエル。
私は思っていたよりあなたのことが嫌いではなかったらしい。けれども、それでも私はあなたと馴れ合いはしないだろう。
こうやって人知れず言葉を告げるのが精一杯。この期に及んで自分を変えるなんて、出来そうもない。
志貴を愛した。二人の共通点は、それだけでよかった。
シエルが帰るのを待っていたように、琥珀が居間へと戻ってきた。
私は聞いた。
「容態は?」
「とても、落ち着いてます。静かに静かに、息をしておられます。意識もはっきりしておられます」
「そう」
胸に安堵感と、希望という名の毒がじんわりと拡がっていった。
いけないことだと十分に理解しているというのに。
志貴が倒れてから、いつか快復するだろうという気持ちと、このまま快復はしないだろうという気持ちが、時々私の心の中でせめぎあった。どちらが勝つこともなかった。日だけが過ぎた。そしていつの間にか、せめぎ合うことさえなくなった。苦しいという思いさえ、なくなろうとしている。
気を紛らわそうと視線を巡らすと、うつむいたままの翡翠が目にとまった。
なぜ居間に留まっているのか。
現在の志貴がどういう状況かをよくわかっている上で、なお一人にするとはどういうことなのか。
私は耳を澄まして翡翠の言葉を待ったが、いくら待ってもやはり時計の針の音でさえ聞こえてこない静寂。
もうしばらく待とうという気にはなれなかった。横にいる琥珀は口を挟む気はないようだ。
「翡翠。あなたは何故まだここにいるのかしら?」
わずかな緊張が広がっていった。私は背後に立っている翡翠の方へと首を回し、半ばにらむように見据えた。
翡翠は黙り、うつむき、私と視線を合わせようとはしなかった。
体を動かして完全に向きなおり、しばらく相対したが、彼女の方から口を開く様子はなかったので私はさらに追い討ちをかけるように問い詰めた。
「なぜここに、この居間に留まっているのかと聞いているの」
「私は」
「いいわけは、聞きたくない。あなたは兄さんの使用人です。主人の元へと行きなさい」
翡翠はそれでも動かず、ただ自分の足下だけをじっと見ている。
この態度。私は思わず手を上げてしまいそうになるのを、ぐっとこらえた。静かに息を吸い、吐く。
こんなところで取り乱しても詮無い。翡翠もただ怖いだけで、自分が行かなければいけないということをちゃんとわかっているのだ。
もうしばらく待った。
「朱鷺恵さまの」
聞き逃すほどの小さな呟きで翡翠は答えた。
「ええ、時南朱鷺恵がどうしたの?」
「朱鷺恵さまの話を聞いている内に、怖くなりました」
「怖気づいたの?」
「はい、怖くて」
彼女の目はわずかに充血しているようだ。困惑しているのは間違いがない。
「私は、わかりません。他の皆様のように、志貴さまと話す自信がないです。私は、臆病です」
「なにをとんちきな事をいっているのかしら、あなたは」
「え」
「臆病者と罵って欲しいわけではないでしょう? それとも兄さん会うのを拒んで自分が傷つかない方を選ぶというの?」
黙りこくる翡翠の様子を見て、私は言葉を続けた。
「ねえ。よく聞いてちょうだい。あなたは遠野家の使用人です。けれどいまだけはそれを忘れて欲しい。私も遠野家の当主や立場というものを忘れて、あなたにお願いするから」
自己嫌悪の兆候を感じたが、それを表情に出すことは許されない。続けた。
「兄さんの元へいってちょうだい。これが最後なの。兄さんも、きっとあなたに逢いたいと思ってるに違いない。これは妹としてのお願いなのだけれど」
再び前を向いた彼女の瞳に宿った、しっかりとした意志を感じて私は大丈夫だとわかった。
多分屋敷に戻ってきた志貴と一番長く時間を共にしてきたのは彼女だ。
だからこそ最後の別れを拒むということが、そのまま今まで過ごしてきた日々を否定することだということもわかっているはずだった。
翡翠はいった。
「秋葉さま、私志貴さまのところに」
「止める理由は微塵もありません。あなたは兄さんのメイドなのよ、私には琥珀がいるから」
琥珀と翡翠が視線を交わすのを私は不思議な気持ちで見ていた。双子だからこそ特別に通じるものがあるのだろうか。私も兄さんとこうやって通じ合えたのだろうか。
追憶の日々は、もはやわずかなアルコールの残滓にさえ霞んでぼやけてしまう。
翡翠の暗い瞳の色に琥珀はただ、心配するなとでもいう風に微笑んで見送った。
部屋の外へと消えていく翡翠の背中を見ながら、私は静かに自分を嫌悪した。
「秋葉さま、大人になられましたね」
「琥珀、からかってるのかしら? 私が少し前まで子供だったみたいじゃない」
「ふふ、そうですね」
「ねえ琥珀、あなた兄さんと何を話したの?」
「どうしてそんなことを聞かれるんですか?」
「私、翡翠に何もいえないわ。私だってこんなに怖い。何を話したらいいのかわからないから」
「普通でした。いつも通りの表情で、いつも通りの口調で、ありがとうといってもらって、ありがとうございました、といいました」
そう、と私は返事をしたが、どうしようもないほどそれが嘘であるという事を悟っていた。
なにも根拠はなく理由も説明できないが、それだけではないだろうと思った。きっと二人だけの会話があったのだろう。誰も口を挟むことの出来ないことを話したのだろう。
琥珀の顔はいつもの笑顔を作っている。
では、と言い残して琥珀はどこかへ行った。医療道具の入ったカバンでもしまいに行くのだと思った。
一人になった。一人でも生きていけると思っていたのはいつだったか。呪われた血統に生まれたことを呪い続けた時期だったか。
けれどヒトは一人では生きてはいけない。誰かに支えてもらわなければ、立つことも出来ない時だってある。
一人では生きてはいけない。それを気付かせてくれたのは、他でもなく。
椅子に腰を沈めながら物思いに耽っていると、厨房からなにやらいい匂いがしてきた。琥珀が料理をしているらしかった。
しばらく待つと琥珀はお椀をのせた盆を運んできた。
「秋葉さま、お粥をつくりましたから熱いうちにお食べになってください」
いい匂いがしていた。けれど私は首を振った。
「夜中にはあまり食べたくないの」
「そうですよね。お腹が出たら大変ですものねー」
少しムッとしたが、なにも言い返さなかった。
「ですけど食べていただきますよ」
「琥珀、いまお腹が空かないの」
「いいえ、食べていただきます。昨日も一昨日もそんな風におっしゃられてなにも口にしていらっしゃらないんですから、今日も食べないでお酒ばかりそんなに召し上がったらばたんきゅー間違いないです。どうしても嫌だとおっしゃるなら、お注射ですよ?」
琥珀のなんとも明るい口調に私は苦笑した。
琥珀に、気を使わせた一抹の申し訳なさとありがたさを感じながら、私はテーブルに置かれたレンゲを手に取った。
熱そうに湯気のたっているお粥、卵がとじてあり食欲をそそった。
お腹が空かないなど嘘だった。
私は厨房からおいしそうな匂いがした途端、無性にご飯を食べたいと思っていたのだ。
ふぅと息を吹きかけて口に運ぶ。繊細な味だった。
もう一口食べると、胃を中心にして熱が体内で広がっていった。無言でお粥をレンゲですくいつづけ、食べ終わるのにそれほどの時間はかからなかった。
私は琥珀を呼んだ。まだまだお腹が空いている。まだまだ、温もりが足りない。
「おかわりを、もらえるかしら」
琥珀は本当に嬉しそうに、小走りで厨房へとむかった。
梅のきいた二杯目のお粥を食べ終えて、熱い緑茶で一息入れていた。翡翠はまだ帰ってきていない。
同じように茶を口に運んでいる琥珀に、自然と言葉が出た。
「なにを話しているのかしら」
「なんでしょうね」
琥珀の答えはそっけないが、それがなぜか心地よかった。お腹いっぱいに食べたからかもしれない。
「たくさん話してるのね」
「はい。だって翡翠ちゃんと志貴さんですから」
「それにしても長いわね」
「気になるんですか?」
「気になるってわけじゃないけれど」
「気になるんですね?」
「悪い?」
「いえ、ただ今日の秋葉さまは少し変だなって。仕方ないといえば仕方ありませんけど」
ふ、と自分で自分を笑いながら私は言った。
「まだ、酔ってるのよ」
「ああ、便利ないいわけですね」
「あなたも飲む?」
「私は使用人ですから」
「医者だって、こういう時くらいと誤魔化して飲むというのに?」
「ご遠慮します。私の場合は、こういう時だからこそ、なんです」
「その笑顔も、こういう時のため?」
「秋葉さま、やっぱり酔ってらっしゃいますよ」
苦笑した琥珀に、私は小首を傾げて返した。
「そういえば気になっていたのだけれど」
「なんでしょう」
「今朝から兄さんの部屋にいけてある花はなんという名前だったかしら?」
志貴の部屋で花が絶えない日はなかった。過ぎていく時間の中で、一日で特にキレイに咲く花を、いつも琥珀は飾っていたのだ。
今朝からは窓辺に植木鉢が置いていた。黄色い花が、咲いていた。
「フォルテシモ・ピアニストという、小さな花がたくさんつく、蘭です。昨日からキレイに花がついて。丁寧に育てた甲斐がありました」
「その、フォルテシモ・ピアニスト。花言葉は何かしら」
「あら? 秋葉さまが花言葉を気になさるなんて」
「特に理由はないのよ。少し気になっただけ」
「はい、私も失念してしまいましたから、調べておきますね」
「お願いね」
小さな花びらを頭の中に思い浮かべる。暗い部屋を明るくしようという、健気さがにじんでくるような可愛らしい花だった。
私と琥珀、お互いとりとめのないことを話しながらしばらく過ごしていると、滅多にしない深い溜め息を琥珀がこぼした。私はなにも言わなかった。琥珀は私がさっきしていたように、卓上の林檎をもてあそびはじめた。
不意に琥珀が私に問うた。
「秋葉さまは私のことをどう思ってますか?」
物憂げな様子で林檎に触れ彼女に私は首をかしげる。
「なによいまさら」
「あは。それが、私も酔ってしまったみたいなんですよ、どうやら」
「香りだけで?」
「うふふ。ええ」
「好きよ」
別に恥ずかしくもなんともない。酔ってるのだから。
「私は善く思っていない人と何年も暮らせるほど、おとなしい人間じゃないのはわかってるでしょ?」
「ありがとうございます」
「あなたはどうなの?」
琥珀は少し考える素振りを見せて、答えた。
「そうですね、私は秋葉さまと違って選択肢がありませんでしたから。遠野のお屋敷以外に生きる場所がありませんでしたから」
そしてもう一度考える素振りを見せる。
琥珀は今から本心を語る。酔っているから。
「やっぱり、私、秋葉さまのこと大好きです」
琥珀はふと私を見て、本当ですよ。と笑った。
「でもね、とても憎いんです」
これも本当です。とまた笑う。
「はあ、なんででしょうね? 好きの反対は嫌いで、憎いの反対は愛なんでしょうか? そんな問題じゃないとも思うんですけど、とりあえず私は答えが出せません。秋葉さまにもこの気持ちはおわかりいただけると思いますが」
「そうね、わからないわけじゃないかもしれない」
「さて、同時に私は志貴さんも、好きで憎いんです」
私は笑った。
「それについてはひどく同意を示すわ、琥珀。兄さんほど、憎い人間はいないんじゃないかしら」
「ふふ、そうかもしれませんね」
異質な微笑み。
「志貴さんは私に仮面を外せとおっしゃいましたけど、出来ることならそうしていますし、出来ないからといって困っているわけでないのに。もう一度いいますけど、私は秋葉さまが憎いです。けど好きなんです。この状況を嫌悪しているわけじゃないのに志貴さんは仮面を外せという。嘘さえついていればずっと仲良く出来るのに」
「そう」
「ずっと仲良く出来たのに」
琥珀は着物の袖からナイフを取り出した。
「志貴さんが来なければ、こんなにたくさん悩むこともありませんでした」
「そうね、でも兄さんがこの家にやってきて、あなたはとても自然に笑えるようになったわ、琥珀」
「秋葉さまもですよ」
「それが、憎いの?」
「本当は、そんなことを想う自分が、憎いのかもしれません」
食べますか? 琥珀が問い私は頷いた。
林檎を手に取りナイフで皮をむきだす。
切れ味の良さそうな果物ナイフは、林檎の表面を滑らかになぞって実を裸にしていく。琥珀はさらにナイフを器用に使って食べやすい大きさに切っていき、すぐに林檎は八つになった。
ひときれ手にとり齧った。果汁がわずかに飛び、甘酸っぱさが口の中に満ちた。
おいしいと感じ、口元をほころばせようとしたが上手くいかなかった。
「おいしいですね、林檎」
琥珀も林檎を口にしている。おいしいおいしいといってはいるが、表情はどこか胡乱としている。
お互い黙って林檎を食べ続けたがやがて全て食べてしまうと、ゴミを捨ててきますといって、琥珀が皮や芯を手にして台所へと消えていった。
壁の向こうから、琥珀の嗚咽を聞こえたような気がした。
琥珀。あなたは私を殺せなかったのね。その理由が、私を好きだからなのか、兄さんを好いているからなのか。
やはり二人の間で会話があったのだろう。だから琥珀は私を殺せなかった。
何もきかないでおこう、と思った。それでも私を生かしたのは彼女の意志なのだから。
昔のアルバムをめくるような気持ちで琥珀との思い出を振り返っていると、静かな足取りで翡翠が戻ってきた。
なにも変わったことはなかったという風に、私の背後に立って命を待つメイド。私は聞いた。
「翡翠、あなたは兄さんと何を話したの?」
「何も話しませんでした」
「そう」
「ただ手を握らせてもらいました。それだけでした」
そして別れを告げた。
翡翠。
私は切なくなった。
「秋葉さま、少しの間だけ自室で休んでもいいでしょうか?」
少し疲れてしまった、という風に彼女は言った。私は答えた。
「ええ、いいわ。寝てらっしゃい」
頭を下げて翡翠が出て行く。廊下には柔らかい絨毯を敷いているのに足音が聞こえるから、走っているのだとわかった。
やがて琥珀が戻ってきた。そして何事もなかったかのように言った。
「洗い物ついでにフォルテシモ・ピアニストの花言葉を調べてきました」
ええとですねー、と続けようとする琥珀の口を、私は手で制した。
「よろしいんですか?」
天井を見上げて私は頷いた。なぜか、知りたいという意欲は失せていた。きっと、何度も吐いた溜め息とともに虚空へと溶けてしまったのだ。花言葉、聞いてどうなるというものでもない。今の私は幻想や希望に浸る資格はなく、ただありのままの姿を受け入れるしかない。花はキレイであればいい。意味などなくてもいい。刹那な慰めになればそれでよかった。
気付くと、琥珀はまたどこかへと消えていた。暖炉にくべた薪のはじける音に耳をすましながら、私は彼女たちの顔を思い浮かべる。
皆、別れを告げた。怯えも、躊躇いもあったろう。震えていたのかもしれない。
けれど、逃げずに立ち向かったのだ。会い、話し、心の中のなにかに決着をつけてきた。
なぜ、私一人逃げることができよう。
椅子から立ち上がる覚悟を噛み締めた。私は遠野秋葉。志貴の妹なのだ。家族なのだ。
立ち上がった。また薪のはじける音がする。自分の息遣いは、どこか遠い。
部屋に入るとはじめに目に入ったのは、白いベッドの上に座り込んでいる黒猫の姿であった。隣では目を閉じた兄さんがわずかに胸を上下させている。
「レン、兄さんは寝ているの?」
黒猫は私の方へとかえりみて、首を傾げるだけだった。私はレンの横に静かに腰を下ろした。
ゆっくりと時間が流れている。窓辺には黄色い花弁をつけたフォルテシモ・ピアニスト。兄さんの寝息は聞こえない。
寝顔をみていると、私はまぶたの奥の青い瞳をみたくなる。敵を震え上がらせる死神の眼は、日常は穏やかな水面に似ている。顔にかかっている前髪をおそるおそる払い、その頬をゆっくりと撫でた。するとまるで、子供のような寝言をいうから、ふふっと笑いがこぼれてしまった。そんな様子を見てもレンは不思議そうに首を傾げるだけだ。私はひとしきり笑いを押し殺し続け、レンに問い掛けた。
「あなたはいま、悲しい? それとも哀しい?」
レンに触れようと手をのばす。いつもならにべもなく避けられるが、今だけは頭を撫でさせてくれた。繊細な柔毛、温もりが心地よく、私は不意に涙が出そうになった。
「おいで。私の膝の上にいらっしゃい」
黒い猫は首を振り、私の膝の上へと飛び乗り丸くなった。首筋から背中にかけての毛並みを流す。そのたびにしっぽがゆらゆらと動いた。
そうしながら、私は部屋を見回してみた。片付いているというよりは物がない。屋敷にきたときから私物は特に増えていないようだ。あまりにも質素で、やはり窓辺の花がいやでも目立つ。ベッドの脇の台には眼鏡と短刀が並んで置かれている。遠野志貴を日常と非日常に縛り付けた魔眼殺しと七夜。兄さんの匂い。温もりの染み付いた部屋で私は目を閉じた。
耳を澄ましても吐息は聞こえない。兄さんの呼吸は止まってしまったのではないかと思えるほどに、か細くひび割れていて、よほど耳を近づけない限り聞こえはしない。
なにを思って寝ているのか。
誰を想って夢見ているのか。
「レン、あなたのご主人は、夢の中で誰と逢瀬をしているの?」
答えはないが、きっと純白の姫の夢をみているのだろう。遠野志貴をどこまでも無邪気に愛したアルクェイド・ブリュンスタッドの再会の夢を。
レンが見せる美しい別れの夢は甘く切なく、しかしそれは確かにお互いをつないでいる。
人の血を吸わない純粋な吸血鬼は、彼とどんな別れの挨拶を交わすのだろう。きっと、人間には出来ないような、無垢なものに違いない。
「ねえ。あなたの前のご主人は、なんていうのかしら」
無邪気に笑ってバイバイと告げている光景を、なんとなく私は想像してしまった。
指で背中を撫でてやる。彼女は、なにを想うのか。
「あなたはきっと朝には消えていなくなっているでしょう。どこか一人で、遠くて、淋しい場所で、兄さんのあとを追うのね」
黒猫は差し出した私の指を、爪のない手でそろりと撫でただけだった。
そしてそのまま私の膝の上から音もなく絨毯の上に着地すると、そのまま今度は窓辺へと飛び乗った。しばらくじっとしている様子が、月を眺めている、そう思わせた。
「挨拶も、ないの?」
黒猫は振り向いたのみだった。ただしっぽを揺らめかせてやはり音もなく月影に消えた。
たった一つしかないイスに腰を下ろして、私は兄さんの手を握っていた。翡翠もこうしていたのかしらと、どこかで思うが頭の中は漠然としすぎている。
ぴくりと、握った手が動くのを感じた。やがてまぶたも震わせて、兄さんが目をあけた。
「やぁ、秋葉」
かすれた声だった。私は笑った。
「おはようございます、よく寝れました?」
「夢をみたよ、レンは?」
「多分、散歩」
「そっか」
ゴホと咳き込みながら兄さんが笑った。私は大切な物を逃がさないようにと、兄さんの手を強く自分の手に絡めた。
狭い部屋。だからどうにか、かすれるている兄さんの声も耳に届く。
「最近寝たきりだなぁ。この前秋葉と外に遊びに行ったのいつだったかな?」
「秋に、山まで紅葉を見に行ったじゃないですか」
「ああ、あれはキレイだった。そっか、あれが最後になるのか」
「兄さん」
「俺は謝らない。謝ったらお前怒るしな」
「もう」
悪い悪いといって兄さんがまた笑う。私は作り笑いの下手な自分を呪った。
いろいろあった、兄さんがとつとつと語る。いろいろありすぎて、このまま全部消えてなくなるのがもったいない。とつとつと語る。
「私は忘れません」
「そうだな、秋葉がいる。それに翡翠も琥珀もいるし」
「ええ、だから兄さんがいなくなったら誰が私たちを守るの?」
「その言い方、なんかずるくないか?」
納め時だからなのか、兄さんはいつにもまして、笑う。
そして二人、何気ないことを話した。どうしようもないことばかりが言葉と鳴る。
一言一言で想い出が心を駆け巡り、二度とは戻らない日々のせつなさに胸が締め付けられた。
追憶はやはり悲哀しか運んでこない。私は、作り笑いが下手だ。
しばらくそうして話していたが、やがて兄さんが疲れてしまったようにもう一度目を閉じた。
「兄さん?」
「ん、秋葉」
不意に私も睡魔に襲われた。目を閉じる瞬間にはもう意識はなかった。
夢を見る。レンの見せてくれる夢は、淡く、やはりどこか矛盾のあるものだったが、私も夢の中の兄さんも特に気にしてはいなかった。草原のまっただなか、お互いが口ずさむ音色をバックミュージックに二人して稚拙なステップを踏む。やがてどこからか、壮大で優しい旋律が奏でられた。
私は想う。
調べよ、もっと高々と鳴ってくれない? 兄さんとダンスだなんて滅多にないんだから。
目が覚めると兄さんは死んでいた。
いつもの寝顔とさして変わらない表情をしている。私はベッドのシーツを整えて、兄さんの手を組ませたあとに布団をかけて部屋をでた。居間にいた琥珀に伝え、あらかじめ打ち合わせしたとおりに一族に伝えるように念を押したあと、私は一人で森へと向かった。
陽はまだ出ていない。六時前くらいだろうか。東の空をじっと見つめながら私は時を過ごした。
すずめの鳴き声が頭の上から聞こえる。普段どおりの朝にもう兄さんはいない。
こみ上げてきたものを、私はなんとか抑えた。衝動的に溢れそうになる涙をこらえる。私は、涙をこらえることだけは上手い。
「志貴、死んじゃったのね」
私は振り返らなかった。呼んだわけではないのだから、顔を見る必要もなかった。
「ええ、ついさっき」
「鳥が鳴いているわね」
森からは確かに鳥の鳴き声が聞こえてくる。もしかしたら風の音かもしれなかった。ただ耳を澄ます。感傷があるのかないのかわからない。
疑問を思いつき、私は聞いた。
「あなたは兄さんに会わなくてよかったの?」
「少し前にね、逢ったから別にいいわ。しょっちゅう顔を見てたらありがたみがないじゃない?」
たとえ最後だったとしても、そう付け加えて魔法使いはひととき笑った。
私はそうとだけ答えて、再び鳥の鳴き声に耳を澄ました。悲鳴に似た声が私の中を悲しみで支配しようとすることに抗いながら、逃げることを拒むように聞き続けた。
やがて飛び立つ音とともに鳥の鳴き声は消えた。
魔法使いは、まだいるのだろうか。
「もしもし」
「ん」
彼女がまだいたということに私はなぜか安心感をおぼえた。ふふふ、と愉快気な笑い声がする。
「どうしたのかしら? 言いたいことがあるのなら言ったらいいわ。懺悔の真似事でも、今なら聞いてあげられる」
懺悔。懺悔なのかもしれなかったが、どうにもよくわからなかった。今日の私は、ひどく、判断力が鈍い。
「兄さんの」
「ええ」
「兄さんの」
しばし躊躇した。
「兄さんの亡骸は、私と琥珀と翡翠の三人で七夜の里に埋めに行こうと思います。七夜の里の、原っぱのどこかに埋葬しようかと」
これが懺悔だというなら、人間は一体どれだけの罪を誤魔化してきたのだろうと思った。懺悔は誤魔化しだ。誤魔化しきれていなから、今のは懺悔でもなく、だから罪を背負ったままということになるのだろうか。
私は内心胸を撫で下ろした。忘れるということが、最大の罪であるということを今になって思い出した。
「お墓、つくらないのね」
「ええ。墓標は、心の中にだけあれば、それでいいから」
そう、とだけ言い残して、魔法使いは姿を消した。魔法使いは約束を守った。彼女は確かに、聞いてくれた。
そして私は一人森の前で佇む。夜が終わり、朝の時間になろうとしてきた。明るくなってきた地平。風が吹く。やはりさっきの鳴き声は風ではなかったのかと束の間おもう。
さて、と私は少しだけすっきりした気持ちで呟いた。
これからの人生をどう過ごそう。遠野志貴がいなくなったというだけで、私のうちの広い場所がぽっかりと空白になってしまった。これでは何をする気にもなれない。まったく、いつまでも私を困らせる兄さんだ。
とりあえず、今までに溜めた涙を一滴残さず流してしまうというのはどうか。決して悪い気はしなかった。なにをするにしてもそれから考えればいい。
私は泣こうとした。けれど涙はすぐには出てこなかった。やがて思い出したように熱いものが目尻に溜まっていった。
ひどく、灼い涙。私は朝焼けの眩しさに目をつむり、涙を頬へと押し流した。そして、さよなら兄さん、とおもう。
墓標を心の中にたてよう。けれど花だけは添えよう。私と一緒に兄さんの最後を見届けた、小さな花びらのついた植木鉢。
2004年?頃に開催された月姫SSコンペに投稿した作品です。2位を頂いてとても喜んだことを覚えています。
初めてちゃんと書ききったな、と思う一作です。読み返してみるとやはり月姫が自分の原点だなと思いました。