「ただいま」
何枚かの壁の向こうから、聞き慣れた彼女の声が聞こえる。仕事で疲れているのか、その声色はどこか低めだ。
ぱたぱたとスリッパで幾分か分かり易くなった足音が、段々とこちらに近付いてくる。そして、足音がドアの前で止まる。深呼吸でもしているのか、数秒程辺りが静かになってから──
「ただいまぁぁ!寂しかったよぉぉぉぉぉ」
勢い良く踏み出した一歩目でスリッパを後方に飛ばしながら、踏み込みの度に桃色の髪を揺らしながら、彼女は俺の身体に抱き付いてきたのだった。
彼女の名は、
スンスンと首筋やら胸板の匂いを嗅がれる。抵抗の意思は無く、彼女が満足するまでされるがままだ。
「ああ、やっぱり本当の君じゃないと落ち着けないよ!」
彼女は上着のポケットから俺の匂い付きシャツの一片が入ったジップロックを投げ捨て、俺の背中に両腕を回して一層強く抱き締める。嬉しいような嫌なような、複雑な感情が俺の中で芽生えては消えていく。
完全にホールドされた身体。
溜め息。それから、考えるのをやめた。
薄暗い部屋。
四肢は動かせず、為すがままに彼女からの愛を受け止める。
これは訳有って、そんなアイドルから好かれてしまった男の物語である。
「……時は遡り、数ヶ月前。ってか」
都合良く回想シーンに行くなんて事は現実では有り得ないので、記憶を頼りに彩と初めて会った時の事を思い返してみる。
ほわん。
ほわんほわん。
ほわんほわんほわん。
*
腹が減っていた。
俺はどうしようも無く、腹が減っていた。
この数日間何も食べていない。何故俺はこうなるまで食事を摂っていなかったのか、それさえもロクに思い出せないくらい、俺は腹が減っていた。空腹は思考、果ては歩行にまで影響し、人目の付かない路地を見付けた途端、意思に構わず足がそこへと吸い込まれ、辿り着いた瞬間に両膝が折れてしまった。壁に背中を付け、切れた息を整える。最早俺に立ち上がる力は残されていない。
「どうしましょ」
空腹に嘆く腹をさすりながら、当ての無いこれからの事を呟いてみる。呟いたら物事が何かしらの形で進むと思ったからだ。
しかし、現実は無情。大通りからは目の付き難いこの路地は、ビルに挟まれている事によって日中でも濃い影が生じ、往来する人々にとっては俺ではなく路地しか見えていないのだろう。
腹が減った。
上体を壁に預けるのも辛くなり、ズルズルと壁伝いに倒れていく。空腹が原因で病院に搬送されたら何だか情けないなと、ここまで来ても自分のプライドが気になってしまう。
そんな、ギリギリもギリギリ。意識の狭間で。
頭上から、声が聞こえた。
「だ、大丈夫ですか……?」
目だけを動かし、声を掛けてきた人物を確認。女の子だった。自分と同年代くらいの女の子が、俺に声を掛けていた。しゃがんで俺を見下ろしているので、俺の眼前には彼女の脛。その脛と脛の間には魅惑の青白ストライプが見えた。どうやら、この子は一つ何か大変な事が起きると、他の事に対して無頓着になってしまうような──そういう、場面によっては美点にも欠点にも成り得る性格を持ち合わせているらしい。
って、そんな場合じゃない。大丈夫か聞かれているのだから、それに対して答えなければ。
「……腹が、減った」
腹が減った。
正解ではあるが、適切ではない。事実だけを述べて、そこに至るまでの説明がまるで足りないソレ。1秒とかからない発言を終え、遂には目を開けるのさえも億劫になってくる。
「え、お腹が減ったんですか?何かあるかなぁ」
ガサゴソと、彼女は肩に掛けていたバッグの中から急いで食べ物を探してくれる。
あ!
困り顔から一転、笑顔。
「これ、良かったら食べて下さい。帰ったら食べようと思って一つ買ってたんです」
これ。
即ち、ハンバーガー。
「私、ファーストフード店で働いているんです!」
良かったらどうぞ、と俺に渡そうとハンバーガーを差し出す彼女。目の前に出された、喉から手が出る程欲しかった食料の登場に、心の底から力が湧いてくる。腕を震わせながらも動かし、ハンバーガーを貰う。ゆったりとした動作で包装紙を剥がし、一口。
美味い。
もう一口。
また美味い。
もう一口。
やっぱり美味い。
いつの間にか、寝転がった姿勢から、壁を背もたれに座れるようになっていた。
涙が出そうな程に美味しいハンバーガーを大口で頬張っていると、彼女がクスリと笑った。視線を向ける。
「あ、ごめんなさい!食べてる姿が、何だか可愛かったので」
可愛い?言われ慣れない単語に、首を傾げるが、彼女は言ってしまえば命の恩人。そうでなくても、窮地を救ってくれた存在なのだから、ここで否定的な何かを言うつもりは毛頭無い。
「聞いても良い?」
頷く。
「何で、そんなになっちゃうまでお腹が減ってたの?」
質問。丁度食べ終わったので、包装紙をクシャクシャに丸めてから彼女の目を見る。それから、事の発端。現在に至るまでの経緯を話し始めた。
「親とハチャメチャに喧嘩してしまってな」
「……うん」
「あまりに許せなかったんで、|5日くらい前から家出をしているんだ。逃げては休んで、休んでは逃げてを繰り返して、結構長い距離を走ってきた。んで、汗を落とす為に銭湯に行ったまでは良かったんだが……」
「だが?」
「風呂に入っている間に財布を盗まれた。もともと少なかった所持金がゼロになってしまったのが一昨日の夕方。それから、何も食べてないって訳。しかも移動はしなくちゃいけないから、カロリーばっか消費するしで」
一つ口を開いたら止まらない。見ず知らずの彼女に愚痴を聞いてもらっている今の状況に気付いた途端に恥ずかしくなり、咳払いで場の空気を取り替える事にした。胡座から正座に姿勢を移す。
「ありがとう」
頭を下げる。それから、
「もう大丈夫だ。お腹いっぱいになった。本当に、ありがとう」
感謝。それから、これ以上迷惑は掛けられまいと、虚言を吐いてこの場から立ち去ろうとする。じゃないと、また彼女の優しさに甘えてしまいそうだから。
食べ物の力というのはやっぱり偉大で、まだまだ必要な栄養素は補えていないし空腹なのは変わらない筈なのに、ハンバーガーを味わってから、どこからか力が湧いてくるのだ。
頭を上げる。目の前の彼女は目をパチクリと
「?」
「何か、聴こえるね」
「??」
耳を澄ませてみる。すると、地響きの如く重低音が聴こえてきた。
というか、俺の腹の音だった。
「……」
「……」
恥ずかし過ぎる失態。どんなに言っても身体は正直なのだ。
しかし、こうなってくると俺はもう目を逸らす事しか出来ない訳で。
「……ふふっ」
笑われてしまった。
とても恥ずかしい。
「良かったらさ、私の家おいでよ。お風呂も入りたいだろうし、簡単な物なら何か作れるよ」
夢のような──というか、夢じゃないかと疑ってしまうくらいの提案。思わず、よろしくお願いしますと頭を下げてしまいそうになるが、歯を食い縛って耐える。耐えてから、発言。
「い、いやいや、悪いって」
大丈夫です。とか、結構です。とか、明確な拒否の言葉は探せばすぐに出る筈なのに、心のどこかで彼女の厚意に甘えてしまいたくなっている自分がいて。それは多分、この数日間において、人間としての最低限の生活も出来ていない事から来る疲弊、ストレス、睡眠不足等が大いに影響しているのだろう。
「悪いことなんて無いよ。ほら、早く早くっ」
お世辞にも良い匂いとは言えない俺に嫌な顔一つせず、俺の手を取って立ち上がらせる彼女。立ち上がった際に彼女の顔が、大通りからの日差しに照らされ、笑顔と桃色の髪がとても輝いて見えた。
*
「最初は……良かったんだ」
その後、彩はお風呂に入ってくると俺に言い残して風呂場へと行ってしまった。一人残された俺は、こうして彩との出会いの場面に思いを馳せていたのだ。
「彩からの厚意に甘えて、風呂を借りたり、食事を作って貰ったり。それから段々と仲良くなっていって、彼女がアイドルだという事を知って。そこまでは、まだ良かったんだ」
しかし、彩の厚意が好意に変わった時、俺と彩の関係はズブズブと深く堕ちていってしまったのだ。
今までは夜中はとある筋の店で働かせてもらっていたのだが、段々と行かなくなってしまった。
否、行けなくなってしまったのだ。
出勤前に行ってほしくないとか泣きそうな顔で懇願された日もあった。
生活費は私が何とかするから、ずっと一緒にいようと提案された日もあった。
もう家の外には出ないでと彩らしからぬ声量で怒られた日もあった。
彩がオフの時は一日中ベタベタと接触された日もあった。
溜め息。
それから、溜め息。
繰り返し過ぎて、最早深呼吸なのではないかと疑ってしまうくらい深く吸って吐いてを繰り返してから、もう考えるのをやめた。どうせ過去の話だし、今更持ち出したってどうにもならない。
幼少期から交流のある幼馴染がいた気がした。
他校ながらも仲の良かった友達がいた気がした。
妹同然の関係だった近隣住民がいた気がした。
しかし、
視線を虚空から他所へと移す。
窓はカーテンで閉じられており、俺はそこまで手が届かないのでカーテンを開けて外の様子を見る事は出来ない。
彩が先程入ってきたドアも同然で、俺は1日の殆どの今居るこの部屋で過ごしている。寝る時は彩が隣に居て、絶対に逃がさないと言わんばかりに俺の腕をきつく抱き締める。
そんな、現在の生活。
俺は、これからどうなるのだろうか。
溜め息。
やがて、足音。どうやら、彩が風呂から上がって戻って来たらしい。
思考を中断し、彩を待つ。
枷と鎖によって完全にホールドされた身体。
薄暗い部屋。
鎖で縛られて固定された四肢は動かせず、為すがままに彩からの愛を受け止める。
トイレには行けず、彩が笑顔で俺のオムツを替える。
どこにも行けず、この部屋で完結する世界。
俺と彩しか存在しない閉じ切った世界。
これは訳有って、そんな彼女から愛されてしまった男の物語である。
続けたいです。