ここは蝉の声で溢れていた。
「うるせえ」
「ああ、うるさいね」
ぼやきながら、いそいそと日陰の下に逃げ込んだ。拭いても拭いても溢れてくる汗は、日向にいたままだとそれこそ枯れ果てるまで止まらないだろう。
「ちょっと川はいってくるから」
荷物を整理し終えると、士郎はそういって川の飛び込んでいった。こっちはまだ身動きが取れそうにない。汗が徐々に引いていくのは感じるけれど、それはまだもう少し先だろう。
木陰の下、まだらに彩色された岩の上で横になって目を閉じた。すると途端に、音がより鮮明に聞こえだした。蝉と、川と、士郎。
いま鳴いている蝉がどんな種類なのかまではわからなかった。漠然とひぐらしなのではと思ったが、ひぐらしの鳴き声が具体的にどういうものなのか実は知らなかったりする。ひぐらしという名前に、何かしら心に残る響きを感じるからそう思ったにすぎなかった。
川のせせらぎの中で、士郎は飛び跳ねている。楽しそうだった。こういう場所に連れてくるのは、思えば初めてだった。音に揺らされながら、深山と新都の間の川をひたすら遡上した午前を思い出す。家に自転車は一つしかなかったので、士郎を後ろに乗せての二人乗りだった。疲れてくると、士郎が代わってやるよといい、試しに代わってみるとさっきより早くなったりもした。いよいよ山にさしかかり、急な坂道を二人で自転車を押しながら登る。途中二度も荷物をこぼしてしまい、そのどちらも自分のせいで、笑うしかなかった。
いつしかうとうとと眠りに落ちてしまっていた。
「やばいはまった!」
その声に目を覚ました。みれば、士郎が流れの中にしりもちをついていて、それがさも大事件のように楽しそうに笑っていた。
「ずぶぬれ」
「着替えはあるから、いいよ」
「うん。爺さんはもう起きていいのか?」
「大丈夫」
「釣りでもしたら? もってきてただろ」
言われて思い出した。蔵の奥でほこりを被っていた釣りざおを見つけて、念のために荷物の中に放り込んだのだ。隣に転がっているリュックの背中から隠れきれずに竿が見えている。餌は石をひっくり返せばあるだろう。とりあえず荷物の全部ごとかついでから、もっと川面に近く、それでいて木陰の下の岩によじ登った。
次にギシギシと、どこかが錆びてる感のあるロッドを組み立てる。川釣りにリールは必要ないが、あるので一応つけといた。
「じゃあ俺は餌みつける係りな」
勢いよく石をひっくり返しては、時折みつけるミミズに似た生き物を集めだす士郎。ぼんやりとそれを眺めると、
「なに笑ってんのさ」
「ん、なんでもないよ」
「ほら、いっぱい」
たくさんの餌は、そこらで拾ったであろう空き缶の中に入っていた。缶ごと受け取って、無造作に掴んだ一匹を針に刺して川面にほうった。流れの穏やかなところと急なところがあり、ちょうどその間に放りこんだ格好だった。
「釣れるかな」
「どうだろうね」
いつの間に岩をよじ登ってきたのか、隣にペタンと座って士郎がいった。全身が濡れそぼっていて、士郎を中心に岩の肌がじょじょに湿っていった。
そこで不意に思い出して言った。
「帽子かぶりなさい」
帽子もまた、蔵にあるものだった。手編みの麦藁帽子のようで、古いけれどほこりはそれほどかぶってはいなかった。やはり何も考えずに荷物の中に放り込んだのだが、役には立つ。木陰にいても日差しはかなり強かった。
「爺さんかぶったらいいって」
「竿から手を離せないんだ」
「俺、かぶせるから」
頭の上で、帽子が不器用に動いた。そのたびに、麦わらの帽子のへりで、視界が何度かふさがった。あごに引っ掛けるゴムを士郎は勢いよく離し、パチンと派手な音がした。
「痛かった?」
「いや」
「俺は、いいよ。だってもぐったりするし、帽子は邪魔だ」
士郎は逃げるように岩から飛び降りると、釣り針を避けるように下流の穏やかな方へ水しぶきをあげて走っていった。
当てもなく川面を眺めた。釣り針の行方はあまり気にしなかった。釣れてもいいし、釣れなくてもいい。ただの川のほうが興味を引いた。
流れの早いところと、穏やかなところがある。水しぶきがたち、白い泡の出るような急流に、自然と目がいく。
そんなものたちを無為に眺めているとまた眠気が覆ってきて、竿を持ったまましばらくうとうとした。川の流れや、蝉の鳴き声、何かが木霊する音。それらが徐々に収束していくのが心地良かった。
次に目を覚ましたのは、カンカンと変な音を聞いたのがきっかけだった。
腕時計を見る。二時を回ったあたりだった。当然だが、魚はまだ一匹も吊れてはいない。糸を引きあげた。濡れた針の先にエサはもうなかった。流れの中で針から取れたのかもしれない、そう思うと詮無い悔しさはどこぞへとまぎれていく。阿呆な言い訳だった。
士郎は下流の流れが穏やかなところで、石投げをしていた。穏やかな流れの中ほどにこぶし大ほどの突起があって、士郎はそれを標的にして石を投げていた。カン、カンと音がする。石が水の中に飛びこむ音はてんで聞こえてこない。標的に命中することがまるで決まりきったことのように、音は途切れることもなく続く。
カンカンと途切れない音を聞いていると、言い知れぬ重さで竿を持つのが急につらくなってきた。呆然としてしまうほどだった。
竿の先を川面に触れない程度にまで下げて、持つところを石の隙間と足にひっかけ両手を自由にした。ポケットをまさぐって煙草を取り出した。最後の一本だった。口に運び、火をつける。空気がきれい過ぎて、煙も相対的にうまく感じる。あみだに引っかかった帽子をそっと取る。二本目を吸ってもこれほどうまくはないだろうと、揺れ動く浮きに目をやりながら思う。
カンカンという音は終わらない。竿はさらに重たくなっていく。ひぐらしの声さえ霞んでしまう、直截的なリズムだった。その音に、不意に自分でも驚くほどの不快感に襲われた。
「士郎、魚が逃げるよ」
フォームが途中で崩れて、士郎はたたらを踏んだ。石はだらしない弧を描いて、突起の手前にチャポンともぐった。それに少しの安堵を覚えた自分は、器が小さいのかもしれない。
「魚逃げちゃうか」
こちらに振り向いた士郎の顔は、至って普通だった。大記録を崩されたとわめくでもなく、ただ子供らしく笑っている。
何かしらの予感がいったりきたりする。それはさっきの針の餌と、ほとんど何も変らない。
「それに爺さん起こしちゃったし」
「寝てた方が悪いのさ」
ふーんとわかったようなわかってない風な仕草をしながら、士郎ははっと何かに気付いたように川面を指差して叫んだ。
「ていうかそれかかってるんじゃ」
唐突に手にかかる重さが生々しさを持った。浮きはとっぷりと沈んでいて、透明な水の下で魚がもがいている。とっさに竿を引っ立てようとした。
「ああもう爺さん! 逃げるだろ!」
やはり蔵で見つけた、そこらにおきっぱなしにしていたたもを引っつかんで、士郎が川面をジャブジャブと進んだ。赤と白の浮きごとその網でかぶせてしまうと、力任せに引っ張り上げる。網目で細かく切られた水しぶきが散って、魚はその中ではねとぶ。
「釣れた、一匹目だ!」
少年のかちどきが渓流の谷で木霊した。
魚の口に刺さった針を除いてから、竿を横において二本目の煙草に火をつけた。くゆらせる煙は下流へと吹き飛んでいく。
紫煙か、はたまた暑さのせいか、思考はあてもなくうつろう。
この情景は真実なのだろうか。
河原には、石が敷き詰められている。当たり前のことだった。川には水が流れている。それも当たり前のことだった。石に座って、水と戯れている士郎を眺めている。それは、当たり前のことなのだろうか。ただ無為に時を過ごすようになった。それが最近では当たり前になりつつある。
「おーい、あと百匹くらい釣れそうな気がする!」
当たり前かどうか、いいか悪いかもわからないが、死ぬ前にもう一度くらいは来てもいいと思った。