春よりも、秋のほうがあたしは眠い。
掃除終わりの、ほこりの匂いの混じる教室。 秋の教室は眠気をいざなう。箒が一本、しまわれないまま壁に立てかけられていた。黒板のわずかな汚れ。白墨のしみ。机の落書きに、揃いきらない机の並び。あたしたちはここで夢をみる。下校時間。現実と幻をいったりきたりしながら、あたしたちはこの空間で出会った。
逆光の中で、衛宮士郎はつかまっていた。
座っているのか、立っているのか。中間の、不自然な姿勢だった。一人ずつ減っていく教室の中で、衛宮士郎は残ることも去ることも選ばない。
「あれ、なにしてんのさ」
白昼夢めいている。あたしまでつかまってしまわないうちに、声をかけた。美術室の塑像のようだ、と思った。衛宮はもう動くことはないのかもしれない。そんな想像が、なにか言い知れぬ現実感で迫ってきて、何か言葉を発せずにはいられなかった。
「帰んないの?」
言葉が匂いにかき消されていく。衛宮は身じろぎもしなかった。答えるまでの間が、なぜか耐え難かった。あたしは框の上で立ち尽くしたまま、呼吸さえ忘れてしまったようにあえいだ。
「ん。ああ、美綴か」
何事もなかったように答えたのが小憎らしくて、あたしの緊張もようやく解けた。
「帰んないの、って聞くのは二回目だけどね」
「帰るけど」
「石みたいになってた」
「石?」
「石」
「いや、なんか動けなくなって」
「ふーん。で、封印を解いてくれる、魔法使いでも待ってた?」
自分の顔を指差す。衛宮はくつくつと笑った。あながち間違ってないかもな。いいながら、斜陽に背を向けた。眉根によったしわの深さに、小さくない驚きを感じた。
隣に並んで廊下へと出た。色の移り変わりは曖昧だった。
「心配事でもあるの? って聞いてほしそうな顔してる」
「してるか? いや、待て。不安なんて今はないぞ」
「なんだ。もっと惑いなよ、青年」
「美綴は順調か? 部活、やめたんじゃなかったか?」
あたしは袴を着たままだった。
「ああ、アンタを探してたのさ。弓。ちょっと、見て欲しくてね。今日は用事ないんでしょ?」
「まあ」
「ここに来たのも、あんたがまだ残ってるってさっき下で聞いてね」
衛宮が頷いた。逆光で表情はよくわからなかった。
ここは眩しかった。学校の廊下には光を集める機能がある。
足音を響かせるのは、今はあたしたちしかいない。オレンジが、集まってくる。窓枠や柱を通っても、どこからか光は注がれる。あたしたちは赤く水彩されていた。
これはきっと想い出になるだろう。ほこりっぽい廊下の匂いと共に、いつかきっと、あたしは隣で歩く衛宮との息苦しさを思い出す。
階段を下りていく。上履きの悲鳴が大きくなる。それが、あたしをどうしようもなく不安にさせた。足音に紛れ込ませるように、あたしは聞いた。
「ねえ、あんた、本当に衛宮?」
衛宮は答えなかった。聞こえなかったのかもしれない。聞こえなかったふりをしているだけなのかもしれない。あたしにはわからない。もう一度聞く気にはならなかった。
靴をはきかえて校庭へとでた。校庭にはまだ部活を続けている生徒がいる。横目でみながら、手をポケットにつっこんだ。居心地の悪さを肌寒さにすりかえる。
息苦しい。それも夕日のせいにした。
「今年の紅葉は、どうだろうね」
今度ははっきりと聞こえただろう。
「ていうかなんで赤くなんだろね。衛宮、しってる?」
「いや、全然」
「温度差で決まるとかなんとか。どっかで聞いた気がするけど」
「あ、それ。俺も聞いたことあるな」
「夏、暑くて、秋にぐっと冷えれば、真っ赤になるんだっけ?」
「ああ。真っ赤、か」
「燃えるがごとく、ってやつかな」
「美綴、赤い色は好きか?」
「あんまり」
校庭から裏への細い道を歩き、林を背負った道場にたどりつく。戸をくぐった。ガラガラという戸の音を、がらんどうの広さがふくらませた。
今日、弓道部の活動はない。今学期から定期的な活動が一日減り、自由活動という名目になったのである。ほとんど誰も出てこない日が大概だったし、あたしもなんとなく避ける日が多かった。
あたしたちはいつかの部活上がりのように、あの床の上に座り込んだ。
「めっきり、寂しくなったろ?」
射場は屋根に囲われていて、音がこもる。ケヤキの枝がしなっていた。葉がこすりあって波を打っていた。赤色が、ざわめきながら揺れ動く。心までざわついてきそうだった。 「あんなことがあって、部員も減ったからね。桜もやめたし。あたしももう引退しないといけないしさ」
衛宮は黙っていた。
「慎二はあんなんだったけど、それでもいるだけで賑やかだったからね。めっきり寂しいさ。そういえば色々あったな、と落ち着いてみれば何か出てくるよ」
喪失をタブーにしたくはなかった。腫れ物のように扱うなんて、絶対に出来ない。少なくない思い出が、自分でも驚くほどに溢れてきた。死んでしまった後で初めて絆を覚えるのは、気付いてなかったからなのか、単にあたしの浅はかさなのか。
衛宮は黙って聞いていた。あたし一人が話しているので、なぜか責めているような気分になってくる。
「ちょっと、黙らないでよ。なんか悪いことしてるみたいだろ」
「慎二が死んだのは」
「ああ、誰のせいでもない。事故に巻き込まれたってんだからやるせない」
どんな死に方でも、やるせないには違いないけれど。
また会話が途切れそうな予感がして、あたしは立ち上がると弓を持った。
「見ててよ」
形や言葉になる前の未熟な感情がどこからか溢れてきた。矢に気持ちを乗せることに意味はあるのだろうか。射法八節は今この瞬間に全て忘れた。元々覚えてなどいない。体にしみこませている、それだけだった。
的はいつものように遠かった。だが本当に、いつもと同じなのだろうか。なにより、矢を放つことはここまで辛さを強いるものだったか。
糸が緊張する。外れるだろう、と思った。下にそれていくのが、目に見えるようだった。空気の壁が軋みを上げる。
緊張を発した。射場に乾いた音が響いて、それがすっかり吸い取られるまで立ちつくしていた。
残心を解く。まだ少しの震えの残る弦を指で押さえる。震えを殺すことに、いつも小さな快感を覚える。
「ま、こんなとこかな」
見ないまま声をかけた。矢は的をかすめることもなく、下のほうに突き刺さっていた。あたしは苦笑して、衛宮は小さく頷く。
「美綴。前より上手くなったんじゃないか? 弦音がすごい綺麗だった」
「しゃあしゃあというねえ。それ、アンタが言うと厭味にしか聞こえないんだけ」
「なんでさ」
あんたの矢の音が、一番綺麗だからだろ、阿呆。
口にしかけた言葉を飲み込んだ。自分で考えなよ、と言葉を濁した。
たとえ的中していたとしても、外れたと思った瞬間に、もうその射は外れたのと同じなのだ。あたしは戦う前から、負けていた。
振り向いて、私が笑うと、衛宮は難しそうな顔をしてうなった。
「あんたと見てもらわなきゃ、って急に。なんでだろ」
不意に、感傷が押し寄せてきた。秋め、と思う。
「いつ何が起きるともわからない。なんてさ、ただの脅し文句だと思ってたけどそうじゃない。人間ってぽっくり死ねるもんなんだって、わかったからね」
「ああ」
「衛宮は特に薄幸そうだから」
笑おうとしたけれど、口にした冗談は下手くそすぎてくすりとも出来なかった。目の前の男は、けれど達観したように笑顔をこさえている。こいつは、こういう風に笑うやつだっただろうか。
「変わったね、あんた」
「そうかな」
「何か心境の変化でも?」
いつの間にやら乾いていた唇を、カラカラとひび割れる前に舐めとった。
「変わらなくていいと思ってた。けど俺は非力だったから、変わらなきゃいけないと思ってたんだ」
「そして変われた?」
「変化はあったと思う。それでも、どうしようもないことは沢山あったよ。違うな、どうしようもないことしかないんだ、ってことがわかった」
「それで?」
「もっともっと、俺は変わらなければいけないんだって」
「剣呑だねそりゃ」
「何にも出来ないのは、こりごりなんだ」
「射。見せてよ」
「俺は」
「グダグダ言うなよな。あたしが見せろって言ったんだから、あんたは見せたらいいんだよ」
「強引だな」
「ま、あたしが強引にさせた、って言い訳にはなるでしょ。二度といわないから、見納めってことで。元部活仲間の特権さ、アンタの最後いただき。心配しなくても、遠坂には黙っといてあげるよ」
「な、なんであいつが出てくるんだよ」
「ほらほら、顔赤くしてる暇があったら、着替えてきなって」
渋々といった感じで、衛宮は更衣室の方に歩いていった。更衣室には、袖を通されないまま畳まれている胴着が二着ある。衛宮士郎の紋いり袴と、慎二のそれだ。明日になれば、いつも綺麗に畳まれているだけだったはずの胴着が乱れているのを部員の誰かが見つけて、そっと小さな騒ぎになるだろう。想像すると、くすりとなった。慎二の胴着は二度と着られることもなく、これからもずっと置いたままになるのだろうけど、だからこそ部員の皆に少しは活気が戻るだろう。
居住まいを正している間に、奥から衛宮が出てきた。弓も矢もその手に握っていた。流石に堂に入ってた。
そのまま射に向かう。縫いつけたような緊張感が、あたしの呼気を奪った。
静かだった。静謐の中で滑りゆく。一切の矛盾のなさが、あたしに矛盾を問いかけた。
きっとあたしはこの男を理解できないだろうと知る。例えこんなに静かで、その心拍すら耳にできたとしても。
引き絞られる。きっとこれは触れてはならないものだ。衛宮はもう遠い。霞の中にいるように、その姿がどこかぼやけて見えた。
いつ指を離したのかわからなかった。
皆中。
残心は、やけに長く感じられた。
着替えから戻ってきた衛宮に、あたしは道具をしまいながら聞いた。
「衛宮は進路どうするんだっけ」
そういえば、こいつとそんな話をしたことはなかったな、と今さらながら気付いた。衛宮はうん、と頷いてから答える。
「迷ってた」
「過去形な」
「ああ」
「聞いてもいい?」
「夢を、追うよ」
至極当然の答えが返ってきた、という気になった。
ケヤキがケヤキであるように、衛宮は衛宮になろうとしている。
「変わることは、見失うことじゃないよ。だからあんたはあんたのままでいな」
そんな言葉が口から出た。
あたしは屋根の向こうをみた。枝がしなっていた。彩りは、まだ鮮明とはいえない。
いつもなら、季節のままに冷えたらいいと思ったかもしれない。けれど今はあんまり冷えるな、と願ってさえいる。
別に赤く染まらなくたっていいじゃないか、ケヤキ、と。あんたら、そのまんま緑の色で、冬を迎えたっていいじゃないか。雨に濡れ落ちて、人からなんで頑張って染まらなかったんだ。そうやって非難されても、別にいいじゃないか、と。
衛宮を見てるとそう思う。
「わかった、覚えておく。うん、なんかこっちまですっきりした。サンキューな」
笑う衛宮は、本当になんて薄っぺらいのだろうか。ふと、こいつを泣かしてやりたくなった。こいつは泣いちまえばいいんだ、と。なんもかんも捨てて、泣いちまえばいい。
けれど、決して涙は流さないだろう。
あんた儚いよ。その言葉を、言おうとしてあたしはついぞ言えなかった。多分それは本人が最も自覚していることだろうから。
用事があるといって、衛宮は礼をしてから出て行った。私は一人になった。道具を片付けて、掃除を始める。雑巾をしぼった。それで床を拭いていく。 汗をかいてきた。秋らしい風が吹いてきて、涼しかった。
秋が、人を狂わせる。どこかで聞いたことがある。
冬を前にして、不安定になる。自己を見失わせる。夕日と寒さで赤く染色する。けど染めてはならないものも、確かにある。
変わることは見失うことじゃない。
風に涼むと、あてもなく自分の言葉が甦ってきた。
それについで、なら、もはや変われなくなったしまったら、人はどうなってしまうのだろう、と思った。
衛宮は、真っ赤に染まっていくのだろうか。あたしは考えを振り払う。掃除に没頭した。壁のほこりを拭っているときに、はらりと一枚葉っぱが舞い落ちた。赤と黄色が交互にいれかわる。二色の狭間の色だった。あたしは制服に着替えた後で、幾枚か拾うと、まとめて外の木の下に置いた。相応しい居場所にもどしてやった、という気になった。
校庭には、もう帰宅を急ぐ生徒は他にはいなかった。部活の真っ只中の時間帯なのだから、むべなるかな。あたしは取り残されたような、気持ちのいい孤独感に酔いそうになる。
三年生の姿はほとんど見えない。
「もうすぐ卒業だな」
そんな言葉を呟くと、実感がしみじみとわいてきた。けれど聞いてくれるやつは、もう坂の向こうに去ってしまっていた。