話を終えると私は立ち上がった。
眼鏡をかけ直し部屋を出る。私を見送るために凛も部屋を出てきて言った。
「さよならライダー」
「さよなら、凛」
彼女は何事もなかったように部屋へと戻り、私もまた何事もなかったようにきびすを返した。
渡り廊下を抜け、夕焼けのさす縁側をゆく。
だいぶこの国での暮らしにも慣れた。この縁側、そして軒下も今では私のお気に入りの場所であった。ガラス戸を貫いてくる西日、床の照り返しすらそこにあって当たり前のものになった。
庭には桃色が満ちていた。今は春。けむらんばかりの花びらが降り注いでいる。あと数日もたたずに、大方散り終えてしまうだろう。そして葉桜になる。
これは最後の舞だ。だから美しい。私は見とれた。
終焉は、私の心を甘く溶かしてしまう。
同じように見とれているのか、大河が庭の真ん中で空を見上げていた。私は一度玄関へとまわり、自分の履物に足を通してから庭へと戻った。大河はやはり、空にじっと見入っていた。
「何をしているんですか」
私は彼女の隣に並んで、桜の花びらに目をやりながら聞いた。
「んん? ちょっとね、空を。天気が気になるから」
「あなたが占星術を習得していたとは知らなかった」
「あはは、そんな立派なものじゃないけど。ただなんとなく」
「空に、答えがありますか」
「どうかな。自信はないけど」
「あなたの予見では、どうでましたか」
「豪雨」
寂しげに言った。私も釣られるようにさらに上を向いた。西日は没していこうとしている。東の空ではもう、紫と群青が色濃く溶けあいはじめていた。
「自信を持っていい。おそらく当たるでしょう」
私も占星術など知らない。
けれど雨だと思った。きっと、雨だろう。
「この花びらも、全部散っちゃうね」
「散ってしまいますね」
「今夜は、ここでずっと見ておこうかな」
「雨が降るというのに?」
「傘をさせば大丈夫」
ふと落ちる陽に目をむける。数羽のカラスが、空を横切っていく。メガネがずれてしまわないように、しっかりと手でおさえながらその行く末を見守った。
カラスは柳洞寺のほうにむかって飛んでいった。きっと今から眠るのだ。カラスの生態に詳しいわけではないけれど、あんなにも連れ添って飛ぶのだからきっと親子だろう。大河も私と同じ方向に目を向けていた。
「不思議だね、ライダーさん。みんな血は繋がっていないけど、私たちは家族だったね」
「そうですね」
「そしてね、みんな幸せだったんだから」
過ごした歳月の分だけ、幸せの重みは増していくのだろう。いまここに、胸に広がるぬくもりがある。別れがたさも、離れがたさも容易く堰を切ろうとする。けれど私は己の弱さをさらすべきではないと判断した。
「そろそろ行きます」
「うん、桜ちゃんによろしく」
しばらく進んで、振り向いても藤村大河はまだ空を見上げていた。探しても決して見つからないものを、探しているのかもしれない。思い出そうとしているのかもしれない。それとも、忘れようとしているのか。彼女の気持ちを深く推し測ることは出来ないが、私はあの笑顔を忘れはしないだろう。
庭をつっきって、蔵の方にむかった。外で立ったまましばらく待っていたが、私は結局扉をくぐった。桜は土蔵の一角、冷たい石畳の上で座り込んでいた。
「冷たくないですか」
桜はガラクタの一つを手にとって、ほこりを手で撫で払っていた。
「そうね、ちょっと冷たいかな」
「椅子に座ったらどうですか。折角あるのだから」
「それが結構気持ちいいの。ライダーも座ってみる?」
「遠慮します」
桜は、いくつかの用途もよくわからない機械や部品の類を眺めては、あまり積もってもいないほこりを払って丁寧に戻していく。そのたびに小さな背中は震えているように、私の瞳にはうつった。
「凛とは何を話しましたか?」
「たくさん、かしら。うん、たくさん話して、たくさん笑って、怒られたし、昔話は中々終わらないんだなあ、って二人してまた笑ったわ。最後はほんの少し泣いちゃったけれど」
凛との会話を思い出す。やはり昔話が多かったような気がする。私といるとき彼女は最後まで反対していたけれど、桜には言わなかったらしい。
私はそんな二人を、改めてらしいと思った。
言葉にならない気持ちをわかちあう、そんな姉妹の絆は私にはありえなかったものだ。彼女たちのそれを私は素晴らしいものだと思うし、かすかな羨望の眼差しすら向けてしまう。
彼女はいとおしそうに、品の整理を続けている。もう残りわずかしかなかった。
「ここ入るの懐かしくて。最近はあんまり来れなかったから」
「大体の掃除は私がしておきました」
先月くらいからは、ほぼ毎日掃除を怠ることはなかった。したくても出来ない桜の代わりだった。
「それも、何か悔しいかな。先輩を取られたみたい」
「いただきました」
「その言い方はやめてよ」
「だって桜、貴方はここしばらく具合が悪かったんですから」
「うん。でもいまの言い方は嫌。訂正して」
「いただきました」
「もう」
下らない冗談にくすくすと笑い合って、私たちはまた思い出に耽る。最近は、いや最近ではない。数年前からもうずっと、私たちは思い出の中に埋没していた。過去へ溺れていくスイッチが非常にゆるくなっていて、何かがあると彼を思わずにはいられない。
それはきっと歪なことなのだと、私たちはとてもしっかりと理解していた。そして耐えられなくなりつつあることを、やはり自覚している。
耐えられなくなることと、耐えることすら失ってしまうことの二つを天秤にかけて、桜と私は今日のことを決めた。この決断に、後悔の入りこむ余地などない。時間も心もつくして、私たちはいくつもの夜を語り合った。
その白い手が最後の機械を棚に戻すのを待って、私たちは手を取り合った。
立ち上がる。彼女を正面から抱きしめた。彼女も私を抱きしめてくれた。
言葉という言葉が意味をなさない。私たち二人、よりそいあった人生をあらわすこと、それはこの抱擁さえあれば後は他に何もいらなかった。
「じゃあそろそろ、士郎に会いに行きましょう」
「うん」
呪文を描いた。蔵の門は開いたままだった。私たちはほとんど、あらゆる別れの儀式を済ませてここにいるから、もういつだって出立していい。すっかり軽い桜を抱き上げて、紋章を解き放った。現れ出でる強靭な馬体にまたがった。強い光があたりを一面の純白に塗り替えて、私と桜は空へと弾けとんだ。
「ああ」
桜。
私たちは空を踊る。街が遠くなっていく。上昇気流そのものになった。地平線。海岸線。水平線。高い空。
桜、世界は大きいでしょう。
昇っていく。けれどここはなんて暗いんだろう。だから昇った。山裾に消えたはずの太陽を求めた。
さらに高みを目指した。風も、雲も切る。私たちは鈍色に染まっていく。光のカーテンをくぐった。
洪水にのみこまれたようだった。心臓がしめつけられた。雲海が輝いている。まるで光の眷属にでもなったようだ。
「ライダー、眩しいね」
「つらいですか?」
「ううん、気持ちいい」
「それはよかった」
「ねえ、見て。山が桃色」
自分の名と同じ花が山をうっすらと色づけていることに、彼女は白い髪をなびかせながらはしゃいだ。私も翼の隙間から眼下に視線を投げた。衛宮の屋敷を求める。彼女には見えはしないだろうが、私の目には、こちらを見上げている凛と大河の姿がはっきりと見て取ることが出来た。
「姉さんたちがいる」
流れる髪を梳き上げながら、桜が呟く。
私はいつでも浅はかである。家族の力というものを、いまだ理解しきってはいなかった。私に見えて桜に見えないはずがない。人と人は光と音だけで繋がっているわけではないのだから。
悲しい気持ちが彼女をおおってしまう前に、私はスピードを上げた。高度を維持しながら町を旋回する。遠くの景色と合わさってしまうと、冬木はとても小さく見えた。新都と深山が未遠川を挟んで向かい合っている。深山の方は私が現界した当初とほとんど変わらないといってもよかった。いくつかの家が入れ替わったり、少しだけ森が開けたりしている。逆に新都はたくさん変わった。その変化の眩さには目を見張るばかりだけれど、 どこを見ても、過去がすぐさま迫ってくる。過去は容易く甦る。どこもかしこも、思い出と私たちの偶像が染みついている。旋回する。再び衛宮の屋敷がみえた。思い出も偶像も、いま、それら全てとの訣別が迫っていた。
天馬も、何かを悟ったように丁寧に飛ぶ。
黙りこんだ桜に、今度は私から話しかけた。
「私は今から、本音で話します」
「なに?」
かかった吐息がこそばゆかった。
「率直に行って私は貴方より見目綺麗です」
「ライダー」
「客観的な評価として、私のほうが貴方より美しかった」
こみあげる笑いを押し殺しながら、桜は小さく呟いた。
「まあ」
「黙っていたけれど、ずっと思ってました。私は優しいから、今まであなたには言わずにいたけれど」
「ずるいわ、私を見下してたんだ」
「思いっきり、見下してました」
「ライダー、ひどすぎる」
二人して笑った。
天馬が空を軽やかに進む。静かに空を泳いだ。光が扇形に広がっている。ここは、金色の野だった。私たちは輝きの中にいた。さらなる光を求めて、天馬の足はきざはしを駆け上がっていく。
見下ろせば冬木の町。私と、彼女と、彼が住んだ町。とある家族が生きた町。もう私の目にも見えないくらいに小さくなっている。それでもまだ、山の形や、川の形が見て取れる。その全てを思い出の中に焼きつけていれば、きっと私たちは再会できるだろう。
「桜、もう一度笑ってください」
「ええ?」
彼女の微笑が咲いた。私は振り返らなくても、それを知ることが出来た。
「綺麗です」
「けど、見下すんでしょう?」
「いいえ」
こみ上げてきた。何がこみ上げてきたのかは、考えなかった。ただそれは熱かった。どうしようもないくらいに私を揺り動かした。
「貴方は、いまこの世で最も美しい」
疑いようもなかった。
桜の腕が、私のお腹に回った。あまりにも軽い、彼女の重みがもたれてくる。彼女の想い出が、隅々まで私に伝わってくる。彼女に眠りが訪れるのと同じくして、私のまぶたも徐々に落ちていく。気付かない内に、終わりはもうすぐ目の前まで迫っていた。私は自分のあり方を失ってしまう前に、魔力を練り上げた。
桜、私にとって貴方は全てでした。貴方といられるだけで、不満なんて何一つなかった。あなたは私の主だった。すぐに友となった。同時に妹だった。やがて気付けば、私の姉だった。今はもう、貴方から母の温もりさえ感じる。
「ライダー、今までありがとう」
やがて風がやみ、すべて静かになる。