ロミーVer.1:第1部-藤原Sisters   作:松村順

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第4話

 医学部の1年目。バリバリ理系の同級生たちは教養科目の文科系の科目に苦労していたけど,ボクにとっては何でもないことだった。

 

 夏休みは実家に帰らなかった。

「夏は千葉というか関東地方の方が過ごしやすいよ」

と前年の経験のあるヒカルが言う。ボクも去年2週間くらい過ごして,そう思っていた。全体として湿度が低いし,東風が吹くと千島海流で冷やされた空気が入り込むから気温も下がる。でも,それだけが夏休みも千葉に留まった理由ではない。Early Exposure(早期実体験)として,1年生の希望者は基礎医学の研究室に入れてもらい,できる範囲の実習をさせてもらえた。ボクは病理学を希望した。

 1年目の授業は西千葉のキャンパスで行なわれるから,この時が亥鼻(いのはな)の医学部校舎に出かけた最初だった。部屋から医学部に歩く道はほとんど建物や木立の日陰を通る。一緒に歩いているヒカルに話しかけた。

「ひょっとして,ボクのことを考えて,日に当たらずに通学できる場所に部屋を探しておいてくれたの?」

「それもある。それだけで決めたわけじゃないけどね」

ボクはヒカルの心遣いがうれしかった。

 

 初日,教授にあいさつした時,

「できれば病理解剖からやらせてほしい」

と言ったら,

「優しい顔してずいぶん度胸があるな」

と言われた。それで,

「病理解剖をするのに度胸は要らないと思いますが」

と答えたら,教授は笑った。そして別の質問を振ってきた。

「なんで病理学なんて地味なところを選んだんだ? 分子生物学とか遺伝学とか免疫学とか,最新流行の分野でなくて?」

「川喜田愛郎(かわきた・よしお)という人の『近代医学の史的基盤』という本があるのですが・・・・」

「おや,川喜田先生を知っているのか?」

「いえ,面識はありません」

「もちろん,そういう意味ではない。つまり,名前を知っていて著書を読んだことがあるということだ」

「はい。そういう意味でなら,知ってます・・・・先生こそ,川喜田愛郎を知っておられるのですか?」

「昔の千葉大の学長だよ」

「そうなんですか」

「別に,川喜田先生の遺徳を慕って千葉大に入学したわけではないようだな」

「ええ。たった今,先生に言われるまで知りませんでした」

「まあ,それはいい。ともかく,あの本を読んだんだな」

「はい。とても感銘を受けたのですが,あの叙述を読む限りでは,病理学こそは近代医学の基盤というか土台というか・・・・」

「うれしいこと言ってくれる・・・・それにしてもあの分厚い本を受験勉強の合間に読んだとは・・・・」

「いえ,中学生の頃に読んだんです」

「中学生の頃?!」

教授はびっくりしたような顔でボクを見る。

「藤原ヒロミ君だね・・・・卒業したら病理学に来ないかね? まあ,新入生に『卒業したら』なんてことを言うのは,鬼が笑うどころか,鬼が気絶する類いのことだけどな」

ボクは,卒業後のことなど何と答えていいか分からずに黙っているので,教授は話題を変えた。

「君にとっては歴史上の人物かもしれないが,まだ生きておられる。ただ,もうかなり衰弱されて,めったに人にお会いにならない。それでも,千葉大医学部の学生なら,会ってくれるかもしれない。会いたいのなら,ウイルス学研究室の教授に頼んでみるといい。川喜田先生の愛弟子だから」

ボクはちょっと考えて,

「いえ,ご遠慮いたします」

と答えた。そして,しんみりした空気を変えるためと,説明を補うために,

「病理学を選んだのは,死体を病理解剖し,摘出した臓器や組織を固定,包埋し,切片を作り,染色し,顕微鏡で観察するという手作業がおもしろそうだからでもあります」

と付け加えた。

「ああ,おもしろいぞ。おおいに期待してなさい」

 

 ボクの希望したとおり病理解剖から立ち会えた。患者さんの死因は前立腺ガン。前立腺ガンは甲状腺ガンや直腸ガンと並んで予後の良いガンとして知られているけど,それでも不幸な偶然がいくつか重なると死に至ることがある。

 教授も立ち会うけど,主たる執刀者は卒後5年目の医師。博士論文を作成するため病理学教室に在籍している。ボクもメスとピンセットを持って手伝った。食道に白っぽい斑点がいくつか見える。

「カンジダ?」

教授はボクのつぶやきを聞き逃さなかった。

「おお,そう思うか。じゃあ,そこの切片を作成しておきなさい」

 食道を含め,肉眼観察で病理変化が想定される部位から標本を採取する。解剖の後,それらを固定し包埋し,切片を作って染色する。同じ部位から3つの切片を作っておき,1つは標準的なHE(ヘマトキシリン・エオジン)染色を施す。残りはHE染色標本を見た上でさらに特殊染色が必要と判断した時のために保存しておく。

 ボクは食道の切片を顕微鏡で観察した。残念ながらカンジダはいないようだ。教授にそう報告すると,

「そうか」

と言って教授も顕微鏡を覗いた。そして,

「これと同じ切片をPAS染色してみろ」

PAS染色は真菌を観察するのに用いられる染色法。

「えっ,カンジダがいるんですか?」

「まあ,PAS染色して顕微鏡で観察してみろ」

教授は笑って指示を繰り返した。

PAS染色して観察すると,紛れようもなくカンジダがいる。

「先生,HE染色標本をさっと見ただけで,カンジダが分かったんですか?」

教授は愉快そうに笑った。

「まあ,無駄に年は取っておらん」

その後でHE染色標本を見直すと,確かにカンジダが目に留まる。

 前立腺ガンの骨転移では,溶骨性変化ではなく造骨性変化が生じることは,本の知識として知っていた。でも,造骨性変化とはどのようなものか,目で見たことはなかった。骨の病理組織標本を顕微鏡で見ながら,ボクはそばにいた助手さんに質問した。

「これって,造骨性変化なんですか?」

助手さんは

「ああ,そうだね。確かに造骨性変化を示している」

と答え,標本室から別の標本を出してきてくれた。

「こっちが溶骨性変化だよ」

見比べると,明らかに違う。

 こんなふうに,病理学のEealy Exposureは楽しくて充実した2週間だった。最終日,金曜日の夕方,病理解剖と病理組織観察のレポートを提出した。教授はざっと目を通して,

「新入生にしては上出来だ」

と褒めてくれた。

「病理学教室の連中がEealy Exposureの打ち上げの飲み会を計画しているんだが」

「えっ,ボクはまだ未成年です」

と答えたら,

「意外と堅物だな。そう言われると誘うわけにもいかんな・・・・まあ要するに,連中が君をダシにしてみんなで酒を飲もうと企んでいただけだがな。ああ,それと,卒業したら病理学教室に入るよう勧誘する計画もあった」

「先生,鬼が気絶しますよ」

と言うと,先生はちょっと苦笑いした。

 小説や映画の『白い巨塔』はフィクションだと思いながらも,それにしても医学部教授というのはどんな人だろうと,ちょっとばかり不安を抱いていたけれど,病理学の教授は気さくな人だった。

 

 この2週間のほかは,日中はほとんど部屋で本を読んで過ごし,夕方になると散歩に出かけた。週1回くらいは,夕暮れ時に西千葉キャンパスの図書館に借りた本を返し,新たに本を借り,そしてランゲージラボでフランス語のカセットテープを聴いたりした。

 夏休みが終わり,秋になると,スーパーの食品売り場にリンゴが並んだ。子供の頃,大好きだった。今も好き。買って帰り,1個洗って丸かじり。2口~3口食べて,ヒカルに差し出した。ヒカルは笑って受け取って2口~3口食べて,ボクに返す。ボクはまた丸かじりして・・・・こうやって,1個を二人で食べ終えた。

「子供の頃,いつもこうやって食べてたね」

「そうね」

「ボクは今でもリンゴが好きだけど,ヒカルも?」

「うん。そうよ」

「じゃあ,明日もね」

 ボクは翌日もリンゴを買ってきた。それから数日後,今度はヒカルがプチフール,小さなケーキの詰め合わせを買ってきた。二人それぞれ自分の好きなものを選び,ボクは手でつまんで食べた。食べ終えて,生クリームの付いた指を舐めようとすると,ヒカルがぼくの手首をつかんで引き寄せ,自分の舌でボクの指に付いた生クリームを舐め取った。そして,いたずらっぽく笑った。ヒカルは行儀良くフォークで食べていたから,指は汚れていない。

「ヒカル,ずるい。自分の指は汚していないのに」

このボクの言葉を聞いて,ヒカルはまたいたずらっぽく笑った。こんなささやかなことが,ほかの何にもまして,ヒカルと一緒に暮らしていることを実感させてくれる。

 

 西千葉キャンパスの秋学期は事もなく過ぎていく。12月,事務室の脇の掲示板に「元千葉大学学長 川喜田愛郎氏 死去」という告知が貼られていた。

 

 冬休み。夏だけでなく冬も関東地方の方が過ごしやすいかもしれない。季節風が吹き寄せると曇り空から冷たい雨や時には雪も降る北九州と違い,千葉の,南関東の冬は晴れの日が続く。むしろ暖かいくらいに感じた。ただ,ボクはその晴れた空がなんとなく物足りなかった。

 ふるさとの街の冬の雨の日,日中でも日差しがないから,傘をさし,防水靴を履いて,散歩した。こんな奇妙な散歩にもヒカルは付き合ってくれた。二人は海岸に向かって歩き,傘をさして海岸にたたずむ。海と言っても白砂青松の浜辺ではなく,ところどころに廃油やゴミが浮かぶ船着き場の埠頭,岸壁。狭い湾の海面に雨が無数の波紋を作る。すぐ向こうにある半島が煙っている。こんな景色も好きだった。

 南関東の晴れ渡った冬空を見ながら,ボクはそんな場面を思い出す。そして,北九州の冬空が恋しくなった。父から,せめて正月くらいは帰ってこいという催促もあり,年が明けてから帰省することにした。4~5日の間に,みぞれ交じりの冷たい雨が1回降った。

 そんな4~5日のうちの1日,ボクたちは実家に置きっ放しになっていたダンス衣装をもって,あのダンス教室に出かけた。あの年の秋から冬にかけてサンバ風・サルサ風のペアダンスとジルバを習った後,ヒカルが3年生になり受験が迫ってきて,レッスンを中止していた。それっきり。

 教室の前に来たけど,看板が出ていない。建物はここで間違いないはず。ヒカルの記憶とも一致している。何度かインタホンを押すと,返事がして,ドアが開いた。

「あら,お懐かしい。藤原シスターズ!」

「覚えていてくれたんですね」

「忘れないわよ。さあ,お入りなさい」

先生は,中に入れてくれた。

「去年いっぱいで教室はたたんだの。生徒が来なくなったから。今のご時世,ジャズダンスやフィットネスばかり。昔風の社交ダンスを習おうって人はいなくなったのね」

そんなしんみりした口調だったけど,ボクたちがダンス衣装をもっているのに気づくと,明るい口調になった。

「あら,踊るつもりで来たの?」

「ええ,でも・・・・」

「じゃあ,ぜひ見せてちょうだい・・・・ああ,今暖房を入れますね」

「あっ,いや・・・・いいんです」

「遠慮しないで。わたしも見たいんだから」

部屋が暖まって,ボクたちは着替えて,先生の前で踊った。ペアダンス。そして,二人ともドレス姿だけど,互いにリード役を演じながらジルバも。先生は楽しそうに眺めている。

「今でもお美しい。いや,今の方がもっと美しい。妹さんもすっかり大人になられて・・・・」

 

 この年から後,お正月には数日だけでも帰省することが父との暗黙の了解になった。そして,そのたびに,ボクたちはこの元ダンス教室を訪れ,先生の前でダンスを披露するようになった。

 

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