2年目から本格的に医学関係の講義が亥鼻の校舎で始まった。基礎医学の授業はほとんどボクにとっては復習のようなものだった。
組織学の授業の時。下垂体について説明していた教師は,ふと思いついたように「(下垂体は)どこにある?」と学生たちに問うた。誰も答える人がいないから,ボクが「トルコ鞍(あん)」と答えた。教師はボクの方を微笑んで,「骨の名前は?」と問うた。ボクは,「蝶形骨」と答えた。教師は,ちょっと興味深げに,「学名は,ラテン語では何という?」と問いを重ねた。ボクは“Sphenoidale”と答えた。教師は一瞬だけ驚きの表情を見せ,そしてニコッと微笑んだ。
生化学の授業で,たまたまちょっと早めにきりの良いところで話が終わったので,教授がボクたちに質問した。
「人間の体は原子レベルで言えば,炭素,水素,酸素,窒素およびその他の微量元素で構成されている。それらをひっくるめて,人体にはおよそ何個の原子が存在するか,概算してごらん。概算でいい。桁を間違えなければ,つまり10億と100億のような違いでなければ,上下2倍くらいの誤差範囲は許容する。およその目安として人体の総原子数を見積もる方法を考えてごらん」
と問いかけた。
ボクは考えた。〔炭水化物にしてもタンパク質にしても脂質にしても,原子数で言えばほぼ半分が水素原子,それに炭素原子や酸素原子が4分の1,いや5分の1ずつくらいかな。次に窒素,それよりずっと少なく鉄とかカルシウムとかリンといった原子が含まれている。水素の原子量は1,その他の原子は炭素が12,酸素が16,窒素が14,鉄やカルシウムやリンはもっと大きい。としたら,人体を構成する原子の加重平均の原子量はおおざっぱに10と見積もってもいい。人体10グラムにアヴォガドロ数,6x10の23乗の原子が存在している。体重50キロなら,その5000倍,60キロなら6000倍の原子が存在している〕ボクは挙手して自分の計算方法を説明した。教授はうなずきながら聞いている。
「高校の理科の知識だけで計算できる,うまい方法だな・・・・ほかに思いついた人はいないか?」
しばらくして,女子が
「人体の原子のモル比の正確な数値は分からないのでしょうか?」
と質問した。
「もちろん,それくらいのデータはある」
「それなら,そのモル比を使えば,もっと正確な加重平均が計算できると思います」
「もちろんそうだが,計算が複雑になるな。それに,水素の原子量のように誰もが知っている範囲を超えたデータも必要になる」
それからちょっと間を置いて教授は話を続けた。
「臨床の現場では,正確な数値は分からなくていい,1.12か1.13かは問題じゃない。1なのか,10なのか,100なのか,大ざっぱに見積もれればいい。大ざっぱな数値を見積もって,それに応じた処置を迅速に行なわないといけないような場面も多い。だから,誰もが知っている基礎的な知識やデータを活用して大ざっぱな見積もりをする能力も重要なのだよ」
3年生になり,生理学や生化学,組織学や解剖学の実習が始まると,「手際が良いね」と褒められるようになった。ボクは中学の化学部を思い出した。この頃から時おり,
「お姉さんもなかなか優秀だけど,君はそれに輪をかけて優秀だね」
と教師から言われるようになった。なんだか,くすぐったいような,奇妙な感覚だった。小学校から高校まで,逆のことを言われてきたから。「君もそこそこにできるけど,お姉さんはぶっちぎりの秀才だね」,そしてそれに続けて「君もやればできるはずだ,頑張りなさい」・・・・ひょっとして,今はヒカルがこんなことを言われているのかな。ボクは,ヒカルに訊いた。ヒカルは笑った。
「そんなこと気にしてるの?」
ボクはその笑顔を見て安心した。
「まあ,わたしの周りがちょっとばかり騒がしいのは事実よ」
「騒がしい?」
「うん。『姉弟,二人揃って才色兼備』って」
今度は,ヒカルは声を出して笑った。
「今のところ同級生からロミー宛のラブレターを預けられたことはないけど・・・・ロミーこそ,同級生の女の子,ひょっとしたら男の子からも,告白されたことはないの?」
「ないよ!」
ボクはあわてて否定した。ヒカルはそんなボクの髪をクシャクシャかき混ぜた。
「そのあわて方が怪しい。ロミー,お姉さんには正直に何でも話なさい」
「ほんとうだよ。そんなこと,一度もないよ」
「おやおや,それは何とも・・・・同じクラスのこんな美形を放っておくなんて。上級生や下級生にさらわれても知らないぞ」
ヒカルは相変わらず冗談めかした口調。そしてついでのように,
「ロミー,先生たちから褒められるって,うれしいでしょう?」
と問いかけた。ボクはハッとしてヒカルを見つめる。ヒカルもボクを見つめる。そうしているうちに,ヒカルの表情から笑みが消えた。
それっきり,二度とこの話題に触れることはなかった。ボクもヒカルも。
同級生の女子学生からクラスの飲み会に誘われた。ボクも飲酒してよい年齢は過ぎていたけど,断った。
「大人数で飲んで騒ぐのは,趣味じゃないんです」
その子は,
「それは残念」
と言って,一呼吸おいて言葉を継いだ。
「じゃあ,一人か二人で静かに飲むのは趣味なの?」
「それも趣味じゃない」
「ああ,それはまたまた残念」
その日の夕方,ボクはこの話をヒカルにした。ヒカルは一瞬ためらうような表情を見せてから
「実は,今週の金曜日,クラスの飲み会に出るから,帰りが遅くなるわ。夕食は一人で済ませて」
医学部に入学して4年目,初めてのことだった。ボクはびっくりした〔ヒカルがクラスの飲み会に参加する?〕。思わず,
「ボクといるより,飲み会の方が楽しい?」
と聞き返してしまった。ヒカルはフッと笑った。
「バカなこと言わないで。わたしはロミーと違って,人付き合いや常識もそれなりに尊重しているということ。それだけよ」
ボクはちょっと寂しそうな顔をした。〔常識とボクと,どっちが大事なの?〕と問い詰めるべきでないことは,ボクにも分かる。ボクはヒカルにもたれかかり,額をヒカルの肩に付けた。ヒカルは,頬がボクの髪に触れるようそっと首を傾け,髪を指でくしけずるように撫でてくれた。その感触が心地よい。その感触をしばらく味わって,ボクは頭を上げた。
「何時頃帰ってくるの?」
「たぶん,10時くらい」
翌日,医学部の建物の入口で,前日ボクを飲み会に誘った人とばったり顔を合わせた。行き先は同じ教室だから並んで歩く。歩きながら,ボクは彼女に話しかけた。
「昨日,飲み会に誘ってくれた人ですよね」
「そうよ」
「お名前は?」
「宮坂・・・・まだ名前を覚えていなかったの?」
いささか詰問口調だった。機嫌を損ねたのかな。
「あっ,いえ,あなただけ名前を覚えていないのではありません」
彼女はあきれたように笑った。
「同級生の名前なんか興味がないってことね」
ボクは,何も答えられない。そんなボクの様子を彼女は半ばあきれ,半ば興味深げに眺めて,苦笑いした。
「こういう時,何か場を取り繕う言葉が思いつかないの?」
「申し訳ありません」
「別に,謝ってくれなくてもいいけど」
彼女はまた苦笑いする。
「あの,宮坂さん・・・・一人か二人で静かにお酒を飲むのは趣味ですか?」
この言葉を聞いて,彼女はにこやかな表情になった。
「うん。それも好きよ」
「それなら,今度ボクをそういう場所に連れて行ってくれませんか? ボクは行ったことがないので」
「それは,お安いご用よ。いつがいい?」
彼女は明るい口調で尋ねる。
「もし可能なら,今週の金曜日」
「OK!」
彼女はほがらかに答えた。
「ところで,わたしは昨日藤原くんを飲み会に誘った人だけど,2年前,生化学の授業で藤原くんの次に人体に含まれる原子数の計算法について発言した人でもあるんだよ。覚えていないみたいだけど」
「ああ,あのエピソードは覚えています」
「でも,人物までは覚えていなかった」
宮坂さんは,ちょっと皮肉っぽく笑った。
その週の金曜日,実習が長引いて6時半頃に終わった。日の暮れるのが遅い初夏でも,夕日が沈みかけていた。宮坂さんはボクを連れて医学部を出た。
「どのへんにあるの?」
「亥鼻公園を突っ切って,丘を下ったところ」
1ヶ月ほど前は花見客で賑わい,今はすっかり葉桜になった桜の木立の間を抜け,丘を下った。ひょっとして,ヒカル以外の人と二人だけで外を歩くのは,これが生まれて初めてかも・・・・。
小さく“Dimple”という表札の付いてるドアを彼女は開けた。
「ママ,もういい?」
「ああ,まだ開店準備中なんだけど,それでよければしばらく座って待ってて」
「うん。それでかまわないよ」
彼女は慣れた場所のように中に入り,カウンターに座った。ボクも隣に座る。
「バーというから薄暗い所かと思ってたけど,ずいぶん明るいんですね」
とボクが問いかけると,彼女とママさんが同時に笑った。
「開店準備中だから照明を明るくしてるのよ。営業が始まればもっと暗くなるわ」
15分ほどして,開店準備が終わったらしく,照明が絞られた。
「じゃあ,営業開始。マリさんはいつものマーテニーでいいの?」
「うん」
「お連れ様は?」
ボクは,何も分からない。遠い記憶をたどると,子供の頃,甘いワインをちょっとだけ飲んだことがあるような・・・・。
「ワインをお願いします。なるべく度の低いもの・・・・初めてなんです」
「こういう場所は初めて?」
「はい。というか,そもそもお酒を飲むのが初めて」
隣で彼女が笑っている。
「それじゃ,口当たりの良いサングリアを出しましょう」
「サングリア?」
「ワインにフルーツを漬け込んで甘みを付けたもの。飲みやすいわよ」
と彼女が説明してくれた。
「じゃあ,それをお願いします」
赤い,まさにワインレッドの液体が注がれたワイングラスがボクの前に出された。手にとって口に近づけると,甘いフルーツの香りがする。一口含むと,確かに甘くて飲みやすい。ボクはグラスをカウンターに置き,うなずいた。
「飲みやすいでしょう?」
「はい」
それから,彼女の前にマーテニーという名前のカクテルの入ったカクテルグラスが置かれた。
「乾杯。藤原くんのバー初体験を祝して」
と言って彼女はグラスを手に取った。ボクはあわててグラスを手に取り,
「乾杯」
とだけ言った。そして忘れないうちに言い添えた。
「9時くらいには出たいんです」
「誰か,待ってる人がいるの?」
ボクは返事に困った。彼女は笑い出した。
「みんな知ってるわよ。美しくて優しいお姉様が待ってるのよね」
その夜,ボクはサングリアの次に,そのお店で一番度数の低い赤ワインを1杯飲んで,帰った。まだヒカルは戻っていなかった。〔よかった〕と心の中でつぶやいた。万一,ヒカルの方が先に帰宅していたら,気まずい思いをしそうだったから。30分ほどして,ヒカルが帰ってきた。
「ヒカル,お帰りなさい」
ボクはうれしくて,明るい声で迎えた。
「ただいま」
と言って部屋に入ると,ヒカルはボクの顔を見て,
「ロミー,顔が赤いわ。どうしたの?」
酔えば顔が赤くなる,そんな当たり前のことに気が回らなかった。何と答えればいいんだろう・・・・ウソはつけないけど,ありのままを語るのも気が引けたから,ちょっとだけ脚色した。
「ボクがバーとかそういう場所に行ったことがないって同級生に話したら,連れて行ってくれたんです」
「そう,それはいい体験をしたね」
ヒカルはボクの説明を信じてくれた,ように見えた。そして,赤みの差したボクの頬をなで,言葉を掛けてくれた。
「ほろ酔いの顔もきれいね。ロミー」
翌週の月曜日,宮坂さんがボクに話しかけた。
「ディンプルは,気に入ってくれた?」
「はい」
「じゃあ,またいつか,一緒に行く?」
ボクは返事に困った。そして,思いついた答えを口にした。
「一人の方が落ち着くかな・・・」
彼女はキッとした表情でボクを一瞬見つめ,それからくるりと背を向けて立ち去った。
それから3~4ヶ月くらいして,ヒカルがまたクラスの飲み会に付き合うことになった。ボクは一人で軽く夕食を済ませて,外出した。のんびり歩いて,ディンプルに行くつもりだったけど,考え直した。〔宮坂さんに会うと,気まずいな〕。それで,同じビルの1つ下の階を歩いた。1つの階に4~5軒のお店が入っている。そのうちの1軒のドアに“Romy”というプレートが貼ってある。ボクは思わず微笑んだ。そして,そのドアを開いた。
中は,ディンプルと同じくらいの広さ。10人くらい座れるカウンターをママさん一人で切り回している。奥に2人連れが座っている。ママさんとお客がボクの方を見ている。
「よろしいですか」
と声を掛けたら,
「ええ,どうぞ」
と答えてくれたので,ボクは2人のお客の反対側,一番手前の椅子に腰掛けた。
「お一人?」
「はい」
ボクは赤ワインを頼んだ。
「一番アルコール度の低いものをお願いします」
ママさんは差し障りのない話をしながらワインを出してくれた。それから,奥のお客のところに戻っていった。しばらくして,新たに2人連れが入ってきたけど,奥のお客の顔見知りのようで,互いに声をかけあって,隣に座っていた。
ママさんはそちらの相手をして,ボクは放っておかれるけど,それがボクには心地よかった。意地悪されて冷たく仲間はずれにされるのではなくて,それなりの心遣いをされながら一人でそっとしておかれるのが,心地よい。ほかのお客さんどうしの会話が聞くともなしに聞こえてくる。仕事の愚痴や自慢話,あるいは他愛もない日常茶飯事を語る会話。〔ふつうの人たちは,こんなことを語って喜んだり怒ったりしながら生きてるんだなあ〕と思って聞いている。それも楽しかった。毎日なら音を上げるだろうけど,たまになら。
ママさんは時おりボクの前に来て一言二言声を掛けてくれる。気を遣ってくれているのかな。
「お構いなく。一人でそれなりに楽しんでいますから」
「それはどうも,ありがとう。それにしても,日本語がお上手ですね」
ボクは一瞬,戸惑ったけど,彼女がボクを外人と思っているのだと分かった。敢えて,否定しなくてもいい。
「はい,日本で生まれ育ったんです」
「ああ,道理で・・・・お名前を聞いてもいいかしら」
「ロミーです」
予想どおり,彼女は笑った。
「それで,このお店に入ってくれたのね」
「はい」
「ロミーさん。それとも,ミス・ロミーと呼ぶ方がいい?」
「ロミーさんでいいですよ。でも,『さん』も『ミス』付けずにロミーと呼ばれる方が慣れています」
彼女はボクを女と思っているらしい。それもまた,敢えて否定しなくてもいい。いちいち「ボクは日本人です。ボクは男です」と説明する方が面倒くさいし,そう説明された時の相手の反応もわずらわしい。女の外人と思われているのなら,ボクはこの“Romy”では女の外人でいよう。その方が楽。そして,自分のことを語る時は「ボク」ではなくて「わたし」を使うようにした。男の子用の「ボク」を使った時の相手の反応が面倒だから,男女両用の「わたし」を使うことにした。そしてこの習慣は“Romy”だけでなく,ほかの場所にも広がり,いつの間にかヒカルと話す時以外は「わたし」を一人称の代名詞として使うようになった。
それからもたまに,3~4ヶ月に1回くらい,ヒカルがクラスの飲み会に付き合って帰りが遅くなる夜に,ボクは“Romy”に出かけた。そして,一人でワインを飲みながら,ほかのお客たちの会話を聞くともなしに聞く,そんな気楽な時間を過ごした。ロミーという名の女の外人を演じながら・・・・いや,演じていたわけではない。そんな意識的なふるまいではない。ごく自然に,ボクは“Romy”でロミーという名の女の外人になっていた。
“Romy”はボクの心の中の小さな世界。ボクの中に初めて生まれたヒカルが知らない世界。それを隠し立てするのは気が咎めたから,気楽な口調でヒカルに話した。
「そうね。いちいち自分の正体を説明するのも面倒くさいよね」
ヒカルも気楽な口調で答えた,ように思えた。
「いつも,一人で行ってるの?」
「うん」
「一緒にそういうところに行くような友達はいないの?」
「うん。一人の方が気楽」
「まあ,そうかもしれないけど・・・・」
ヒカルは,そう言って伏し目がちになり,小さな声で
「わたしのため?」
とつぶやいた。ボクは聞こえないふりをした。
“Romy”に2度目か3度目に行った時のエピソード。居合わせた男客がボクにしつこく言い寄ったから,「わたしは,男には興味ないんです」ときっぱり断った。そしたら相手は,「なんだ,レズかよ・・・・ママがお目当てか」と吐き捨てるように言った。その侮辱的な言い方に怒ってもよかったのだけど,ボクは怒るより相手の愚かさにあきれてしまった。「男に興味がない」からといって「女に興味がある」とは限らないのに,そして「女に興味がある」としても,相手は誰でもいいわけではないし,色恋抜きでこの店の雰囲気が好きで来ているかもしれないのに,そんなことに思い及ばない思慮の浅さにあきれてしまった。ともあれ,その日はそれで帰ることにした。
「ごめんね,ロミーさん。気を悪くしたでしょう」
「まあ,いいけど・・・・ママこそ,わたしがいるのが迷惑なら,もう来ないけど」
「そんなことないわよ。いつでも待ってます。めったに来ないけどね」
と言って笑って送り出してくれた。確かに3~4ヶ月に1回しか来ないから上客ではないなあと思って店を出た。でも,そんな気さくな語り口のママがボクは気に入っていた。
一度だけ,宮坂さんと顔を合わせたことがある。ボクが階段を降りてビルの出口に向かっている時,エレベーターから降りてきた彼女と鉢合わせになった。
「あら,お姉様をほったらかして飲み歩いているの?」
「ヒカルは・・・・姉はクラスの飲み会です」
「そうなんだ。お姉様に振られたんだ」
彼女は笑った。ボクはちょっとムッとした。
「そんな顔して,せっかくの美貌が台無しよ・・・・あら,赤くなってる」
「ワインのせいです」
そう答えて足早に立ち去るボクの後から彼女の笑い声が聞こえた。