ロミーVer.1:第1部-藤原Sisters   作:松村順

6 / 8
第6話

 4年目の冬,国家試験の模擬試験を受けてみたら,合格ラインに達しているようだった。一安心した。医師免許は取れる。でも,医者としてどんな仕事をするのか,したいのか。ボクには分からなかった。〔ヒカルと一緒に仕事をしたい〕という思いだけで医学部に入り,医者を目指していたから。ただ,医療チームのリーダーとして,ほかのスタッフを指揮して病気に闘いを挑むような「体育会系」の仕事が自分の柄じゃないことは分かっていた。

 たまたま,図書館の本棚で目に留まった遠藤周作の『死海のほとり』。ボクは中学生の頃に読んだことがある。本棚から取り出し,パラパラとページをめくって,借り出して自室で再読した。途中で「ああ・・・・」と感慨がわき起こった。何となく記憶に残っていた印象的な場面を読み返していた時。

 

- ・・・・仲間たちの端で,アルパヨは膝をかかえたまま別のことをぼんやりと考えていた。彼もまた自分がなぜ,あの人のあとをついて歩くようになったかを思い出していた。

あれは一年前のことで,熱病にかかった彼はガリラヤ湖の寂れた岸のちかくの小屋で苦しみながら死を待っていた。彼の寝ている小屋は,昔,癩者が住んでいたもので漁師たちも避けて近寄らぬ湿地帯のそばにあり,周りには葦の葉がおい茂り,その葦のなかで暑くるしい声で蛙が鳴きつづけていた。・・・・

・・・・友人はもちろん肉親さえも彼を看とりには来なかった。住民たちは彼が悪霊に憑かれていると怖れたからである。ガリラヤの人間は悪霊に憑かれた者に近寄ると,自分も同じ運命になると信じていた。一日に一度,小舟にのった彼の兄弟が,小屋から離れた岸に水を入れた小さな壷と食物とをおいて,うしろも見ずに急いで立ち去っていった。這いながらアルパヨはそれを取りにいかねばならなかった。

蛙の声は一日中,絶えなかった。昼も夜もひどく長く苦しかった・・・・

・・・・ある日,何故か小屋の戸が軋んだ音をたてて開いた。突然ほの暗い内側に鉛を溶かしたような陽光がながれこんだ。そしてその一条の光にあの人の影が地面に落ちていた。あの人は一人で小屋にやって来たのである。そしてアルパヨの顔を濡らしている汗を布でふいてくれた。水を飲ませ,少しずつ食べものを口に運んでくれた。薬草をせんじた薬を与え,彼が眠るまで,じっと横に坐っていた。高熱にうなされてアルパヨが悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をあげる時,あの人は小さな声で言った。「そばにいる。あなたは一人ではない」あの人が彼の手を握ってくれると,苦しみはふしぎに少しずつ減っていくような気がした。「そばにいる。あなたは一人ではない」その声は昼も夜もアルパヨの頭のなかで聞えていた。・・・・ -

 

 「あの人」とはイエスのこと。最初に読んだ時も感銘を受けたけど,その時はまさか自分が将来医者になるとは思ってもいなかった。医学を学ぶ身として読み返すと,また別の感慨がわき起こった。

 進行ガンをはじめとして,現代医学で治せない病気がたくさんあることを学んでいた。そんな病気を担わされた患者に寄り添って「そばにいる。あなたは一人ではない」と語りかける仕事・・・・そんな仕事でも,そんな仕事でこそ,ボクが興味のままに身につけたいろんな知識が生かせるかもしれない。・・・・でも,人の心が分からないボクに,空気を読むのが苦手なボクに,できるかな? やってみたいとは思うけど。

 

「ヒカルは,医者になって,どんな仕事をしたいと思ってるの?」

ボクはふとヒカルに尋ねた。

「どんな仕事って・・・・」

ヒカルも,こんな質問をされて戸惑ってるようだったので,ボクは再読した『死海のほとり』の読後感を語った。ヒカルは静かに聴いてくれた。

「そういう仕事もいいと思うけど・・・・」

「けど?」

「別に否定するわけじゃないし,それともつながる話だとは思うけど」

と前置きしてヒカルは語り始めた。

「子供の頃からお父さんの仕事を見ていて,思っていたんだ・・・・」

そこでヒカルはちょっと間を置いた。

「医者は何のために存在しているのか? 医学,医療は何のためにあるのか? と問われたら,どう答える?」

「えっ?・・・・」

ボクは突然そんな根本的な質問をされて,戸惑った。

「まあ,こんな大問題はふだん考えもしないけどね,でも,よくある答えは『人の命を救うため』じゃない?」

「まあ,そうだね」

「でも,よく考えてごらん。医者が,お父さんのような町医者が,実際に人の命を救う場面って,どれくらいある?・・・・逆の立場から考えてもいい。患者は命に係わる病気でなくても医者にかかるのよ。もちろん,それが命に係わる病気かどうかを判定するのが医者の仕事だという主張もあるし,それはもちろん正しいのだけど,初めからほぼ確実に命に係わらないと分かってるケースも多いよね。そういう患者は『医者の担当範囲外だ』と言って追い返すの? 命に別状はなくても,病気で辛い,苦しい思いをしている人の辛さや苦しさを軽くしてあげるのも,医者の仕事じゃない? 大学病院や癌センターみたいな所には毎日のように命に係わる病気の患者さんがやって来るし,そういうところの医者は確かに『人の命を救うのが仕事だ』と言えるかもしれないけど,町医者の場合は,命に係わらなくても辛くて苦しい病気に対応するのが主な仕事じゃない?」

「ヒカルは,そういう町医者になりたいの?」

ヒカルはうなずいた。そして話を続けた。

「ロミーも医学部で4年も勉強してきたから分かっていると思うけど,今の医学は命を救うことに焦点を当てている。ガンや心筋梗塞や脳卒中については,山ほどの研究があって,治療法についても研究が進められていて,それぞれの治療法の有効性についてのエビデンスも蓄積されている。でも,命に係わらない病気は,研究も手薄だし,エビデンスも少ない。たとえば,くも膜下出血や髄膜炎みたいな重病と無縁のただの頭痛とか,生理痛とか,子宮ガンを否定できるただの不正出血とか,アトピーでも乾癬でもないただの湿疹とか。だからといって,そんな病気の患者さんを放っておいていいわけじゃない。Sureな治療法がなければ,Probableな治療を試みるべきだし,Possibleな治療を探ってみるべきじゃない? 医者がそうやってまじめに対応しないと,患者は怪しげな民間療法や健康食品ビジネスやカルト宗教に取り込まれるんじゃない?」

「でも,それって,治療についてのエビデンスのそろった重病に対応するより難しいんじゃない?」

「だから,やりがいがあるんでしょう」

ボクはヒカルを真剣な眼差しで見つめた。ヒカルがこんなふうに医者の仕事,自分の将来の仕事について真剣に考えていたとは,知らなかった。

「そして・・・・」

とヒカルはさらに話を続けた。

「確実な治療法がない時には『そばにいる。あなたは一人ではない』と語りかけるのも医者の大事な仕事だと思うよ。だから,さっきのロミーの話にもつながるの」

ヒカルはボクを見つめる。優しさと真剣さがこもった眼差し。その眼差しにボクは引き込まれる。

「ヒカルはボクのヒーローだね。これまでもそうだったけど,これからもそうだよ」

ヒカルはちょっと笑った。

「やめてよ。なんだか気恥ずかしい」

ボクは首を振った。

「だって,ほんとうなんだもん。近ごろはボクの方が勉強ができるって言われるようになったけど,でも,それでも,ヒカルの方がボクよりえらいと思っているよ。ほんとうだよ。だって,ヒカルは人の心がわかるじゃない。場の雰囲気を読めるじゃない。そうやって,どんな相手にもきちんと対応できるじゃない」

ヒカルはなんだか戸惑うような,複雑な表情をした。ボクはそんな表情をするヒカルの気持ちに立ち入ろうとせず,話を続けた。

「ヒカルは,ボクよりずっと大人だよ」

「そりゃあ,お姉さんだからね」

ヒカルの表情に穏やかな優しさが戻ってきた。

「年の差以上に大人だよ。ボクが幼いのかもしれないけど」

「でも,これから,ロミーも大人になるのよ。大丈夫よ,と言うか,今でも大人よ。自分は空気が読めない,自分は人の心が分からない,それをきちんと認識しているのは,自分にできないことをちゃんと把握しているのは,立派な大人よ」

 ヒカルは優しい眼差しをボクに投げかける。でも,眼差しに寂しさも混じっているような。

 

 5年生になり,本格的にベッドサイドの臨床実習が始まった。この頃はまだ卒後研修は法的な義務ではなかった。体育会系というか軍隊の教練風の卒後研修を2年も受けると,ある人が「心のうぶげ」と呼んだ繊細な感性が跡形もなく刈り取られそうで気が重かったし,ヒカルとも語り合ったような医者を目指すなら,大学病院での専門医志向の強い研修は時間の無駄に思えた。そうであるなら,5年生,6年生の臨床実習を卒後研修なみに真剣に受け,その場で学べるものはすべて学びきって,卒業したらさっさと大学を去ろうと心に決めていた。国家試験のことを心配する必要はないから,実習のベッドサイドに医師国家試験用の参考書や問題集を持ち込んで,患者を診るより本を読むような愚かなことはせずに済む。

 そう思っているボクにとって採血をやらせてもらえないのは残念だった。「侵襲的」な手技なので資格のない者はできないらしい。聴診やエコー検査はやらせてもらえた。そして何より期待したのは,初診の患者さんへの問診。

 患者は,何か困っていること,辛いことがあるから受診する。お腹が痛い,頭が痛い,熱があって体がだるい,などなど・・・・。それに対してまず,「いつから?」,「症状の程度は?」,「症状は同じ程度で続いているか,変化するのか? 変化するとしたらどれくらいの周期で?」,「症状を悪化させる要因が思い浮かぶか?」,「ほかにも困っている症状はないか?」など,定型的な質問をする。さらに,可能な範囲で生活環境,ペット飼育の有無,海外旅行歴なども尋ねる。こうやって,基本的な情報が得られたら,それに基づいてとりあえず,いくつかの病気を仮説的に想定する。その際。それらの病気を確率順と重大度順に並べ,もっとも確率の高いand/or重大度の高い病気をいくつか想定して,それらのうちのどれであるかを絞り込むような問診をする。このプロセスが医者の仕事で一番おもしろそうに思えた。

 だけど・・・・大学病院を受診する患者さんの多くはほかの病院から紹介された患者。そこで一通りの問診は終わっており,一応の診断も下されていることが多い。もちろん,その診断を確認し,時には誤診を見つけることは大事な仕事だけど,それにしても,ほんとうの初診の患者さんになかなか出会えないのは残念だった。たまに,そんな「ほんとうの」初診の患者さんを担当すると,たっぷり時間を使って熱心に問診した。もっとも,指導医からは「実際の臨床の現場では,そんなにのんびり問診してられないぞ」と言われることもあったけど。

 

 この頃,性同一性障害という概念が医療の世界だけでなく世間一般でも注目されるようになった。きっかけはどこかの大学病院で性転換手術が施行されたから。それまでも,性転換手術は行なわれていた。ただし,どちらかというと人目を避けるようにひっそりと,グレーゾーンで行なわれていた。それがこの時は性同一性障害への治療というか正当な対応法として堂々と行なわれ,厚生労働省もそれを正当な治療と認めた。

 ボクは興味をそそられた。自分が「男らしさ」の規範から外れていることを子供の頃から自覚していたから。それで,症例報告や当事者の手記などを意識的に探し出して読んだけど,その結果,ボク自身はどうやら性同一性障害ではないと分かった。そして,当事者の意識がボクの意識とずれていることも。

 ボクには,性同一性障害の当事者たちの性自認(Sexual Identity)へのこだわりがどうしても理解できない。ふだん,自分が女か男かなど意識しないで,気にしないで生きているから。ただ,自分の好みや美意識に正直に生きているだけ。結果として,世間の常識的には女っぽく振る舞うことが多くなるけど,それならそれで構わない。それについていちいち悩むような面倒くさいことはしない。生物学的に,そして法律的に男であるけど,だからといって無理して男らしさの期待に応えるつもりはないし,男らしく振る舞うつもりもない。子供の頃から身についた習慣。そしてボクにとって一番自然な生き方。

 ただ,世間には性自認にこだわる人がいる。自分の性自認,自分が男なのか女なのかということにこだわり,しかも自分の精神的な性自認と生物学的な性別が一致しない時,性同一性障害という状況におちいる,そういう現実があり,それに悩んでいる人がいるということは,理解できた。ただ,ボクはその悩みを共有していない。ボクはそういう人たちに「なんで,自分が男なのか女なのかなんてことで悩むの? そんなこと,どうでもいいじゃない」と語りたい。でも,そう言われる相手にとっては,そんなボクの言葉は「自分の心の痛みを分かっていない」と受け止められるのだろう・・・・。

 この頃,ヒカルは国家試験を間近に控えていたから,あまりよけいなおしゃべりに付き合わせてはいけないと思いつつ,このテーマについては,つい話したくなった。ヒカルは,おざなりではなく真面目に聴いてくれた。

「ロミーは物心ついた頃から,男らしさ,女らしさだけじゃなくて,ほかのいろんなことでも世間の規範から外れているというか『変な子』と呼ばれるのに慣れているから,性別の規範から外れることを怖がらないというか,そんな規範をごく自然に無視できてしまうということね」

「けがの功名ということ?」

「そうかもしれない」

ヒカルは笑った。それから,まじめな顔になって話を続けた。

「わたしも,男か女かなんてことにはこだわらない。ロミーはたまたま男だから最愛の弟だけど,女なら最愛の妹になったはず。ロミーが男であっても女であっても,ロミーがロミーである限り,わたしはこの世の誰よりロミーを愛する,そう言い切る自信があるわ。でもね,こんなふうに考えるのは世の少数派なの。極少数派かもしれない。世間のほとんどの人たちは男か女かということにこだわるの」

ヒカルはここでちょっと間を置いた。

「わたしの同級生にレズビアンの子がいるの」

「ふーん」

「その子から告白されたことがある」

「ああ・・・・それは分かる。ヒカルはそのタイプの子から好かれると思う・・・・まあ,それ以外のタイプの人たちからも好かれるとは思うけど」

「ありがとう」

ヒカルはちょっと笑みを浮かべた。

「わたしはお断りしたの。その子とそんな関係になりたいとは思っていないから。でも,その子は『わたしが女だから?』と問い返した」

「そうじゃないんだよねえ。別に,ヒカルはその子が女だから断ったわけじゃないんだよね」

「そうなんだけどね・・・・」

ボクは,その話を自分に置き換えて考えてみた。

「もしボクが,同級生のホモセクシュアルの人から告白されたら,やっぱりボクもお断りするけど,そしたら『ボクが男だから?』と問い返されるのかなあ」

「その可能性は高いね・・・・それにしても」

ヒカルはちょっといたずらっぽい表情になった。

「お断りするって決めつけてるけど,その告白を受入れるという選択肢はあり得ないの? その人が超絶的に素敵な男性であっても」

「あり得ないよ」

「どうして?」

「だって・・・・」

ボクはここでちょっと言い淀んだ。でも,言い切った。

「ヒカル以外の人を愛するなんて,考えられないから」

「ありがとう」

ヒカルはボクを見て優しく微笑む。だけど,その微笑みに少しずつ寂しさが混じっていくようだった。なぜ? なぜ,ヒカルはここでそんな寂しそうな顔をするの? 心の中のつぶやきを思い切って言葉にしようと思った時,ヒカルは

「この話はここまでにしよう」

と言って国家試験の勉強を再開した。

 

 ヒカルの国家試験が終わった。自己採点によれば間違いなく合格している。

「マークシートのミスさえなければ,来月から晴れてお医者様になるわけね。まだ実感が湧かないけど」

ヒカルはそれだけ言って黙っている。しばらく,二人とも黙っていた。そして,ボクの方から話を切り出した。

「・・・・それで,ヒカルはこれからどうするの?」

「どうするって?」

「・・・・つまり,ヒカルは大学病院で研修するつもりはないんでしょう? ヒカルがいつか話してくれたような医者を目指しているのなら・・・・どこか,それにふさわしい研修先とか仕事場を見つけているの?」

ヒカルはボクを静かに見つめる。そしてフーッと息を吐いた。

「実家で研修するの」

「実家?」

「そう,わたしの指向に一番あってるでしょう」

「でも,それなら実家でなくても,ふつうの開業医のところなら」

「ぽっと出の,臨床研修も終えていないタケノコ医者を雇ってくれるクリニックがあると思う? 実家で修行するのが一番簡単じゃないの」

「ヒカルは,あの街で暮らせるの? ボクは無理だよ。あんな窮屈な街。ボクは戻りたくないよ」

「ロミーは戻らなくていいのよ。誰も,ロミーに実家に戻れなんて,そんなこと言ってないわ」

その言葉は,ボクにとってショックだった。

「ボクは,ヒカルと一緒にいたいんだよ。ヒカルと一緒に暮らして,一緒に仕事したいんだよ。ボクが何のために医者を目指したか,分かっているでしょう? ずっとヒカルと一緒にいたいからなんだよ」

ボクはヒカルを見つめる。ヒカルもボクを見つめる。ヒカルは大きく息を吐いた。

「わたしはね・・・・わたしは,ロミーから離れたいのよ」

「どうして?」

ボクは,思わず声が大きくなった。ヒカルは寂しそうな笑みを浮かべ,そして両手でボクの頬を挟んでくれた。

「ロミーが優秀すぎるから」

「どういうこと?」

ヒカルはボクの頬を挟んだままじっと見つめる。ちょっと寂しそうな,悲しそうな表情で。

「ロミーは,これまで5年間,わたしと同じ学部で,1年違いで,同じ科目を学び,同じ実習をこなしてきた。同じ先生たちのもとで。ロミーはきっとわたしと比較されたでしょう。わたしも比較されたわ。ロミーの講義を担当している教授が1年上のわたしの実習を指導することもあるし,ロミーに臨床科目を講義している教授が1年上でわたしの臨床実習を指導することもある。そうでなくても,狭い学部なんだから教授たちとはしょっちゅう顔を合わせる。そしていつも言われたの『君もなかなか優秀だけど,弟はそれに輪をかけて優秀だね』って。言ってる本人は,悪気はないのよね。わたしだって,弟が褒められればうれしいわ。ほんとうに,自慢の弟よ。どこに出しても恥ずかしくない。でもね,1度や2度じゃない,5年間そう言われ続けたわたしの気持ちは,それだけでは済まないの。子供の頃から信じていたロミーの天才が思っていたとおりに,思っていた以上に花開き,高く評価されるのを見るのはうれしいわ。でもそんな天才と比較され続けるただの秀才の気持ちは・・・・」

 ボクは,呆然とヒカルの顔を見ている。まさか,そんなこと・・・・ヒカルがそんなことを思っていたなんて・・・・ヒカルがそんな思いを秘めてボクと一緒に暮らしていたなんて・・・・。いや,意外じゃない。ボクも薄々気づいていた。気づいていて,見ないようにしていた。お互い,この話題は避けるようにしていた・・・・。

「心が狭い,と思う?」

ボクは首を振った。ヒカルは微笑みを見せた。

「ほんとうに,ロミーは優しい子ね・・・・でも,そうであっても,今は一緒にいたくないの。今は離れたいの」

「ヒカル・・・・」

ボクは未練がましく反論した。

「学生の時と医者になってからでは,違うよ。医者になったら,ヒカルの方が優秀と思われるかも・・・・」

ヒカルは寂しい笑みを浮かべたまま首を振る。

「医者になってこそ,ロミーは輝きを増すよ。誰が見てもロミーの方が優れているよ。知識の量も,推論・思考能力も,手技さえも・・・・ロミー,自分の能力をちゃんと認識しなさい。ロミーはもうわたしの羽の下に守られる小鳥じゃないの。自分の翼で空を飛ぶ白鳥に成長したのよ。あなたの翼は自分で思っているよりずっと大きいの」

 ボクはうなだれた。涙が落ちそうになった。それをヒカルはタオルで拭いてくれた。拭いても拭いても溢れてくるボクの涙を,ヒカルはいつまでも拭いてくれた。どれくらい,そうしていたのだろう。やっと涙も止まった。

「ヒカル,いつか研修が終わったら,ヒカルが『もう研修は十分にやった』と思えるようになったら,また戻ってきてくれる? 一緒に仕事をしなくてもいい。仕事は別々でもいい。そうすれば,比較されることもないんだから。それで,また一緒に暮らしてくれる?」

 ヒカルはうつむいたボクの顎に手を当て,顔を引き上げ,ボクを見つめる。

「そうね。いつの日か,また一緒に暮らせるようになるといいね。ロミーが嫌いなわけじゃない,憎いわけじゃないんだから・・・・ほかの誰より好きな,最愛の弟・・・・」

 

 ヒカルが医学部に入学した時と同じように,服を二人で分けた。ボクはあのキュロット・半袖ジャケットのスーツをヒカルの荷物に入れた。

「夏,実家に帰省するよ。その時,夜一緒に出歩く機会があれば,着たいから」

ボクはうつむき加減で話した。ヒカルはボクの髪を優しくなでてくれる。

「じゃあ,待ってるわ。夏なんて,あとほんの3ヶ月くらい先のことね」

それから1週間後,ヒカルは実家に戻った。

 二段ベッドに一人で寝る。ヒカルがいる時はボクは上段に寝ていた。一人になって,下段に寝るようにした。その方が重心が下になって力学的に安定するということよりも,ヒカルが寝ていたベッドで寝るのが,ボクの気持ちを落ち着けたから。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。